最期を看取った、 一番長い夏の日

 記者:矢野宏

「今、黒田が緊急入院しました。今日か、明日がヤマだと言われています……」
携帯電話に録音された、ご家族からのメッセージを聞いたのは、7月22日の午前零時半過ぎだった。淡々とした声がかえって事の重大さを突きつけているように思えた。が、それでも黒田さんが危篤なのだという実感は今一つ沸いてこなかった。
ただ大阪方面へ戻る電車はもうない。取り急ぎ、黒田さんが救急車で運ばれたという大阪・摂津市のS病院までタクシーを飛ばすことにした。
深夜の病院は不気味なほどに静まり返っていた。2階のICU(集中治療室)の前で待っていると、ほどなくご家族の方が出て来られた。容体を尋ねると、昏睡状態が続いているという。
やっぱり、アカンのかノノ。
そう思うと、黒田さんが元気だった頃の思い出が後から後から沸い起こってきた。

私が黒田さんと初めて会ったのは1987年3月4日である。四国は松山から単身、大阪へ乗り込み、その年の2月に発足したばかりの「黒田ジャーナル」の門をたたいた。
当時、私たち若い新聞記者にとって黒田さんは雲の上の人だった。読売新聞大阪本社の「鬼の社会部長」として知られ、民主主義を考える「われわれは一体なにをしておるのか」、愛国心をテーマにした「日本に生まれてよかったか」などの大型連載で思い切った社会面を作る一方、賭博ゲーム機にからむ警官汚職事件をスクープ、三菱銀行人質事件や茂樹ちゃん誘拐事件などでも特ダネを連発するなど、事件にはめっぽう強かった。
また、武器輸出事件のように調査報道によるキャンペーンで国会を動かし、先の三菱銀行事件で自分たちの記者活動を書いた『ドキュメント新聞記者』や『誘拐報道』、『捜索報道』、『武器輸出』、さらには84年度の日本ノンフィクション賞を受賞した『警官汚職』などを出版、新しいノンフィクションの分野を開拓するなど、黒田さん率いる読売新聞大阪本社の社会部は、いつしか「黒田軍団」と呼ばれるようになっていた。
そんな中でも特に印象的だったのは、社会面の片隅に連載していたコラム「窓」である。
28歳の女性が結婚を前提に付き合っていた恋人から被差別部落の出身であることを突きつけられ、破局。自殺未遂を図ったという手紙をはじめ、民族差別で苦しむ人たちなどの心の叫びを一つ一つくみ取り、ともに泣き、怒り、時には一緒に笑いもする記事に心引かれた。
その黒田さんが読売を退社し、「窓」の延長とも言うべきミニコミ紙「窓友新聞」を毎月一回出すということを知る。しかも、一方的な情報を伝えるのではなく、「読者の顔が見える」新聞だという。送った履歴書を追いかけるように、私は海を渡った。
初めて会った黒田さんは怖い目をしていた。後に、「あの頃の黒田さんの目は今よりも角度が3度ぐらい上がっていたでえ」と、よく冗談半分、本気半分で語ったものだ。気の弱い私は内心ビビリながらも、心は熱く燃えていた。
「給料はいりませんから、働かせて下さい」
「じゃあ、どうやって食っていくんや」と尋ねる黒田さんに、こうまで言ってのけたのである。
「月曜日から土曜日まで働かせていただいて、日曜日にアルバイトをして稼ぎます」
長い沈黙が続いたあと、黒田さんの目が少しだけ笑ったのを、今でも覚えている。
その黒田さんがICUの中で生死の境にいる。そう思うと、赤く浮かび上がった「集中治療室」の文字がかすんで見えた。

黒田さんが個室に移されたのは、その日の午後3時ごろだった。

ベッドに横たわった黒田さんの胸は肋骨が浮き上がり、苦しそうな息をするたびにそれらが上下した。土色の顔は頬骨が出て、膝を立てた足もわずかな筋肉が骨にくっついているだけ。絵画で観たことのあるキリストのようだった。
「黒田さん、わかりますか」と、握った左手は既に冷たく、見つめてくれた視線はすぐに宙をさ迷った。
午後5時、主治医から経過が報告された。
「栄養状態が悪く、タンパク質も通常の3分の2しかありません。腎不全のため、尿が体内に溜まっています。肝不全も起こしています」
どんなに夜遅く呑んで帰ってもご飯を食べないと気がすまなかった大食漢の黒田さんが、膵臓ガンで手術室に向かう時にも「おいしいもん一杯食べたしなあ」と妙な納得のさせ方をして手術台に上がった黒田さんが栄養失調とは……。
主治医はこうも言い切った。
「いつ心臓が止まっても不思議ではありません」
それでも、黒田さんは「ここで死んでたまるかいな、まだやらなアカンことがあるねん」とでもいうように、時折ベッドから起きあがろうとした。
「ジャーナリストは戦争へ進もうとする兆候を見つけだし、それを叩きつぶさなあかんねん」と語っていた黒田さんだけに、昨年、戦争への道を開く悪法が次々に国会を通過し、今年に入って「神の国」発言が飛び出すなど、この国の行く末がさぞかし気がかりだったのだろう。
余談ながら、黒田さんが亡くなり、各紙に「反戦・反差別・反権力」という形容詞が並んだ。だが、黒田さんは大上段に構え、それらを声高に訴えてきたのではない。あくまでも、ジャーナリスト活動の原点は、「一つ一つの家庭にある幸せを大事にしようやないか」という思いだった。だからこそ、その幸せを壊す戦争や差別を憎み、闘おうとしたのである。
事件や事故が一般紙の記者の現場なら、私たち黒田ジャーナルの記者にとっての現場は、窓友会の人たちだった。障害児を抱えた人、夫に先立たれた人、リストラされた人、結婚差別を受けた被差別部落の人など、市井の人たちが日々送っている生活の中にもこそ、私たちが訴えていかなければならない大事なものがあった。
そんな黒田さんの教えに気づくのが遅くて、ついに私は卒業証書をもらえなかった。

いつ亡くなっても不思議ではないと言われた黒田さんだが、それから9時間あまりも病と闘い、23日午前2時25分に息を引き取る。
阪大に入院中、医師から帰れないかもしれないと告げられた時、「一日だけ置いてくれ」と言った自宅へ向け、午前4時過ぎにS病院を出た。葬儀業者が用意したワゴン車に乗せられた黒田さんの隣に私が付き添った。時折襲ってくる睡魔を払いのけながら、これからの通夜、密葬、合同葬などを考え、頭をもたげてくる不安に心をつかまれていた矢先、ふと懐かしい声を耳にした。
「これから大変やろうけど、頼むでえ。これが終わったら、また美味しい酒飲ましてやるからな」
窓友新聞や震災などの連載の原稿書きが深夜にまで及ぶと、黒田さんは必ず事務所に電話をしてくれ、「美味しい酒を呑ませてやるから」と励ましてくれたものだった。
「やっぱり、黒田さんは見守ってくれてるんや」
車窓の外に広がる濃密な暗闇の中に徐々にだが、朝の白っぽい日差しが広がり始めていた。

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