断ち切られた当たり前の日常生活

戦争の断片 

 記者名 : 矢野 宏

先月末、東京地裁が中国残留孤児に言い渡した判決は、空恐ろしいものだった。彼らを〝棄民〟した国の責任について、「孤児の受けた損害は戦争損害で、国に早期帰国実現の義務はない」と、孤児側の訴えを退けたのだ。戦争だから犠牲が出るのは仕方ない。国が勝手に戦争を始めても、その被害は国民が等しく受けなければならないというのである。国民の「命」が軽んじられていることに、一つの思いが胸をよぎる。「この国はまた戦争をする」――。  空襲被害に遭った民間人の傷害者、遺族を対象とした援護法の制定を求めて活動している「大阪戦災傷害者・遺族の会」。27年間に渡って会長を務めている伊賀孝子さん(75)が、空襲を体験した時と同じ年頃の中学生に講演すると聞き、矢野は大阪市中央区の大阪女学院を訪ねた。
 この学院のシンボル「ヘールチャペル」。毎朝、ミサが行われるという礼拝堂で始まった講演会で、伊賀さんは中学2年の女子生徒240人に向かってこう切り出した。
 「みなさんは、戦争と聞いて何をイメージしますか」
 「武器」「殺し合い」などの声が上がる。伊賀さんは、その一つひとつを頷きつつも、「当たり前にあった日常生活が断ち切られること、それが戦争なのです」と述べ、自らの空襲体験を語り始めた。
 「昭和19年になって警戒警報が朝から鳴るようになりました。でも、空襲の本当の怖さを知らなかった。私は当時、13歳。女学校の1年生で、ちょうど皆さんと同じぐらいの年頃でした。数学が嫌いで、朝から警報がなれば授業を受けなくてもいいのになどと、のんきなことを言っていました。それが……」
 1945(昭和20)年3月13日未明、大阪で最初の大空襲に見舞われる。
大阪を襲った空襲は50回以上。うち100機以上のB29が飛来したケースを大空襲といい、8回を数える。
 この日は274機ものB29が飛来し、3時間ほどの爆撃で投下した焼夷弾は6万5000発あまり。大阪市の浪速区や西区、港区などを中心に甚大な被害を出した。
 当時、伊賀さんは浪速区の芦原橋近くで靴屋を営む父と母、7歳の弟と4人で暮らしていた。2人の兄は出征しており、妹は疎開中だった。

▼講演する伊賀さん

 「裁縫の宿題をしていると、母から『はよう寝なはれ』とせかされ、弟と二人、いつものように床下に掘った防空壕に入り、そこに布団を敷いて寝ていましたが、『警戒警報発令』という声で目が覚めたのです。警戒警報は空襲警報に変わり、血相を変えて入ってきた父親が『いつもと様子が違う。4人そろって逃げよう』と。身支度をして外をのぞくと、西の空は夕焼けのように焼け、飛行機の音だけが聞こえていました。家族と一緒に家を出た時でした、焼夷弾の直撃を受けて吹き飛ばされたのは……」

■死んだと思った

 その瞬間、死んだと思ったという。だが、思うぐらいなら生きているのではないかと立ち上がったら右足が熱い。足の甲にボールのような火のかたまりが付いていた。
 焼けたのは足だけではなかった。顔や腕、身体のあちこちにやけどを負っていた。
 伊賀さんが自宅の向かいにある防火用水に飛び込むと、弟が先に入っていた。
「弟は人間がやけどして次に焦げる寸前の状態で、顔は膨れ上がり、丸い目がすっと糸を引いたような細い目になっていました」
 次々に落ちる焼夷弾。自宅は炎に包まれ、近所の母子が火だるまになった。
 「お母ちゃんがいない」と叫ぶ父。伊賀さんは吹き飛ばされる直前、荷物を片づける母の姿を見ていた。「きっとまだ家の中だ」と思ったが、口をつぐんだ。言えば、父が炎上している家に飛び込むだろう。そうなれば、私と弟はどうなるのか――。
 その時から伊賀さんは「母を見殺しにした」という自責の念に苛まれることになる。
 瀕死の弟を背負い、父は学校に向かって走った。はぐれないように伊賀さんも父親の服の裾を必死で握りしめ、追いかけた。近くの国民学校にたどり着き、簡単な治療をしてもらった後、叔父の家に身を寄せた。
 自宅の焼け跡から母親の遺体が見つかったのは、翌14日の朝のことだった。
「捜してくれた姉婿から後で聞かされたのですが、母は胸に2本の焼夷弾を受けて防空壕へ落ちていたそうです。黒焦げで、背中の部分だけが亀の甲羅のように生焼けの状態で残り、肌着の断片などで母だとわかったそうです」
 その二日後には、寝たきりだった弟が息を引き取る。
 「のどが渇いても、私が大きな声が出せなかったので、そばで寝ていた弟に『誰かに頼んで』と頼むと、私に代わって『おっちゃん』と大声を出してくれたのです。それを聞いて私は水を飲むことができたのですが、弟は亡くなっていました。私に水を飲ますため、最期の言葉を出して……」
 ほんの数日前まで一緒に暮らしていた家族4人のうち、2人が亡くなった。だが、悲しみに暮れる間はなかった。それから5カ月もの間、大阪の上空にB29が飛来するたびに逃げ回る生活が続いたのである。
 空襲による死者は1万2620人、行方不明2173人と言われているが、今も犠牲者の名前の全容は判明していない。
 静まり返る礼拝堂。メモを取っていた少女たちの手が何度も止まる。
 伊賀さんは「命は一回しか与えられていないのだから大切にして下さい。生きたくても生きることができなかった人もいるのだから。どんなに苦しいことでも乗り越えてね。きっと楽しいことがあるから」と女子生徒たちに語りかけ、講演を締めくくった。

■戦後が苦しかった

 講演の後、同じ中央区の「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)を訪ねるという伊賀さんに、矢野は同行した。
 伊賀さんは、ここに来ると決まって中庭に建てられた大阪大空襲のモニュメントに手を合わせる。高さ3メートルのコンクリート壁で三方が囲まれたドームで、内側の壁に張り巡らされた12枚の銅版には、名前が判明している8800人あまりの空襲犠牲者の名前が刻銘されている。
 あの時、炎に包まれた母や弟、近所の人たちのことが思い出された。消えた命を名簿に残さなければと、伊賀さんら「大阪戦災傷害者・遺族の会」が調査を始めたのは24年前のこと。埋葬記録が残る大阪市環境事業局や寺などを回って集めた6000人分の名簿を8年前にピースおおさかへ寄託したことで、モニュメント建設につながった。
 「当たり前に生活し、生きていたのに、空襲で断ち切られた人たちです。何人亡くなったという数字で済ませてほしくなかった。その人にも人生があったのですから、生きていた証として名前を残したかったのです」
 そう言いながら、伊賀さんは持参した刷毛で銅版に刻まれた名前の上の埃を払い落としていく。いとおしげに。
 その右手首には、今でも腕輪をはめたようにやけどの跡がくっきりと残っている。空襲に遭った時、軍手とオーバーの袖口との間に、少しだけ露出していた地肌が焼夷弾の炎で焼けたのだ。
 「顔も左側を下にして倒れたのでしょう、右側のやけどがひどくて、左右で色が違うのですよ。空襲で生き残ったけれど、私にとって本当に苦しかったのは戦後でした」

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