今、この瞬間も子どもたちは撃たれている

背後から米兵 地面に不発弾

 記者名 : 西谷文和

 イラク戦争が始まって、もう4年。フィロードス広場のフセイン像が倒された時、テレビの実況を見ている多くの人々は「少なくともこれで、無意味な人殺しは収束に向かうだろう」と考えた。しかし本当の地獄は、「戦争後」にやって来た。1日100人。首都バグダッド以下、イラク各地で犠牲になる人の平均の数字。尼崎のJR脱線事故レベルの惨事が毎日連続して起こるイラク。私は4年目の3月20日を迎える前に、イラクに入り、人々の惨状を取材しようと試みた。バグダッド、ファルージャ、サマワはまだまだ危険なので現地入りを見送った。唯一入れそうなのが、北部クルド人地域だった。3月4日、隣国ヨルダンの首都アンマンからスレイマニアへ飛んだ。

 「なぜだ!米兵はこの娘の背後から撃ってきたんだ。この傷を見てくれ。この娘がテロリストだというのか。小学校へ通う子どもじゃないか!」
 父親の怒り。ベッドに横たわるアーヤちゃんが泣き叫んでいる。
 ここはスレイマニア大学病院。スレイマニアは比較的治安がいいので、イラク各地からの戦争被害者が搬送されてくる。最近の内戦激化で患者数は急増、病棟は重症患者であふれている。
 アーヤちゃんの悲劇はバグダッド東方、バクーバという小さな街で起こった。04年秋頃から、ファルージャ、ティクリートと並んで、アメリカと戦闘を繰り返すスンニ派の拠点だ。アーヤちゃんの通う小学校周辺は、時に米兵と武装集団の戦闘の場であった。3カ月前、小学校周辺を米軍戦車が通りかかったときだった。突然路上に仕掛けられた爆弾が爆発、戦車は辛うじて爆弾を回避。米兵たちは危うく難を逃れた。
 このような事件直後、米兵たちは「クレイジー」になる。「周囲にテロリストがいる」「怪しいヤツは片っ端から撃て」。
 その時、アーヤちゃんら3人は通学路を下校中。米兵の凶弾に倒れ1人は即死、アーヤちゃんは両足に重傷を負った。
 向かい側のベッドにはウサマくん(6つ)が横たわっている。全身に黒い斑点。両足には白いギプス。ウサマくんはスレイマニア近郊の村出身。3日前、少年たちは茂みの中に落ちていた「不思議な金属物」で遊んでいた。1990年代、サダムフセインがクルド人掃討作戦の中で、ばら撒いたクラスター爆弾の不発弾だと考えられる。その「不思議な金属物」は少年たちの好奇心をくすぐった。
 やがて……。一緒に遊んでいた2人は即死、ウサマくんだけが生き残った。痛みをこらえるウサマくんの目にうっすらと涙がにじむ。クラスター爆弾の不発弾は別名「チャイルド・キラー」(子ども殺し)と呼ばれる。形状が様々で、子どもの興味を引きやすく、「この金属物に触れてはいけない」という教育を徹底しない限り、犠牲者の数は積みあがっていく。
 隣の病棟に左腕を複雑骨折した女性(45)が。やはりバクーバ出身で、自宅で米軍の爆撃を受けたのだという。隣のベッドには右腕とあごを骨折した女性(22)。この2人は母娘で、娘はあごをやられているためしゃべることができなかった。
 「なぜ米軍は、私の家を爆撃したのか?私たちはテロリストではない。普通に生活していただけなのに……」。しゃべることのできない娘に代わって母がアメリカへの怒りを口にした。
 スレイマニア大学病院から徒歩5分くらいのところに、「ハンディキャップセンター」がある。ここでは地雷やクラスター爆弾、あるいは銃撃戦などで足や腕を失った人々が社会復帰できるように、義足や義手を製作し、リハビリ訓練を行っている。
 ベンチに腰掛けるムハンマドさん(29)に、心配そうに妻が寄り添っている。ムハンマドさんはイラク警察官だった。バグダッドで警備活動中、正体不明のテロリストに襲われた。右手指2本と左足膝上を切断、「ただ警察官である」という理由で彼は襲われ、障害を背負った。
 隣にはイサーミーさん(28)。イラク国防軍に所属し、前線兵士としてティクリート~モスル間を、車で移動中のことだった。武装勢力の襲撃を恐れて、当日は10台の車で車列を組んでいた。突然、道路わきに仕掛けてあった爆弾が爆発。イサーミーさんの車には5人乗車していたが、彼以外は即死、イサーミーさんは左足膝上切断、そして左目を失った。
 いわゆる「公務中」であるが、政府や米軍からの補償はない。親戚一同にお金を借りて、スレイマニア市までやってきて治療を受けたという。
 ムハンマドさんやイサーミーさんは、決してアメリカ軍に協力しようとして警察官や軍人になったわけではない。仕事がないから、家族を養わねばならないから、その職業を選んだだけなのだ。しかしテロリストはそうは思わない。ブッシュに協力するお前たちは敵だ。かくして、アラブ人同士で殺戮が繰り返されるようになった。
 フセインの時代、ここクルドは弾圧の対象だった。多くのクルド人たちがスンニ、シーアを問わずアラブの軍隊に殺されていった。それから10年以上。今、その弾圧の対象であったクルド政府が、スンニ、シーアを問わず、アラブ人を救済している。民族や宗派の違いを超えて「和解」することが大事なのだ。
 スレイマニアの病院では「アラブ、クルドの違いなく」入院患者を受け入れていたが、ここキルクークでは、「アラブとクルドの熱い戦い」が続いている。
  
 
 スレイマニア市から車で約1時間半。激戦地のキルクーク市へ入った。キルクークは油田で有名な町で、フセインがこの町を「アラブ化」するため、もともと住んでいたクルド人を追い出し、南部のシーア派アラブを移住させた。土地家屋を奪われたクルド人たちは長らく難民となったが、03年フセイン政権崩壊とともに、生まれ故郷のキルクークへと帰還してきた。
 しかし、そこにはもう何年もアラブ人たちが住み着いている。かくして「旧住民(クルド)」と「新住民(アラブ)」との間で、土地の取り合いが始まり、この地は内戦状態に陥った。
 キルクークスタジアムへ。ここは長居競技場とまではいかないが、1万人近い観客を収容するサッカー場であった。03年フセイン政権崩壊後、キルクークに戻ってきたクルド人たちが、自分たちの家に戻れず、この競技場で避難民生活を始めた。
 選手のロッカールームが家になり、400メートルトラックの上に共同のかまど。平和であれば、ここでスポーツを楽しんだであろう施設が、生活の場となって早4年。生活廃水、汚水は競技場の外へ垂れ流され、夏は50度になる環境の中、電気がなく、水は3日に1回給水車がやってくるだけ。
 子どもたちが私たちのカメラの前に群がってくる。その笑顔の輝きと、貧困な生活とのギャップ。本来なら世界有数の油田を持つキルクーク市民は、最も裕福な暮らしをしていてもおかしくはない。UAEやクウェート、サウジでは私たちの想像を超えるほどの裕福な暮らしを続ける層がいる。
 ここキルクークは「石油が出たからこそ不幸に」なった。油田の利権に群がる、アメリカ、シーア派、クルド、そしてトルコ系イラク人。これら諸勢力の「政治的な都合」で、一般の人々が振り回されている。
 キルクークは危険なので国連はもちろん、NGOもなかなか手を出せないでいる。今年になってからも銃撃戦やテロが頻発している。犠牲になるのはやはり子どもや女性だ。
 キルクーク油田から5キロ離れた場所から油田を撮影した。同行のボディガードは「これ以上近づけば危険」と注意した。油田に近づく人物は容赦なく射殺される。油田から伸びるパイプラインは特別の警戒態勢で厳重に見張られている。
 結局、「石油」なのだ。大量破壊兵器がある、というウソで始まったこの戦争。本音は「石油利権の確保」と「ドルの防衛」「軍産複合体の利益確保」だろう。PMC(民間警備会社)とイラク新政府が守る油田。本来なら「そこに住む人々」のものであるはずの油田のために、「そこに住む人々」が苦しめられる。遠くから燃え上がる油田と、数本に別れて伸びるパイプラインを見て、この戦争の本質を垣間見た気がする。
 「バグダッドで自爆テロ、50人が死亡」「バスラで銃撃戦、イラク人15人、英軍兵士3人が死亡」……。日本の新聞では、「死者の数だけ」が報道される。当然その犠牲者には家族がいる。その家族の気持ちは? 50人死亡した事件であれば、100人は傷ついているのではないだろうか? 頭から血を流し、足を切断され、「お母さん、足が……」と目に涙をためて亡くなった子どももいるだろう。50人、100人という数字の向こうにある「現実」。
 私はその「現実」のほんの一部だけでも切り取って、日本に持って帰りたかった。そうすることで「アメリカの正義」とは何だったのかを問い直したかったのだ。
 まだまだこの活動は不十分である。現在進行形で急増する被害者を救済し、これ以上の悲劇を生み出さないためには、米軍が一刻も早く撤退することである。 今、航空自衛隊は多国籍軍の一員として、米軍に武器弾薬を運んでいる。イラク特措法はこの7月で期限が切れる。この延長を許さず、「アメリカはイラクから撤退せよ」という大きな世論を形成することが必要だ。早急に治安を回復し、人道援助活動ができる環境を整えなければならない。
 次にイラク入りする日がいつになるかはまだ分からない。しかし、誰かが何らかの形で援助の手を差し伸べなければ、貴重な命が奪われてしまうのが現実だ。みなさんからの温かい支援をお願いしたい。

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