社会から忘れられた戦災傷害者

「大阪戦災傷害者・遺族の会」代表の伊賀孝子さん(75)は、1945年3月13日深夜から翌14日未明にかけて大阪を襲った大空襲で母と当時7歳だった弟を亡くし、自身も顔や手足に大やけどを負った。親戚の家を転々とし、空襲の中をさまよいながらも生き延び、そして終戦。「国が勝っても負けてもどうでもいい。これでゆっくり寝られる」という安堵感も束の間、伊賀さんら戦災傷害者にとって、本当に苦しかったのは戦後だった。

●顔はずんべらぼう

 顔を覗き込むと、これまで見たことのない異様な顔が映っていた。眉がない、顔の皮膚もない「ずんべらぼうでした」。
 薄い表皮ができてからも、13歳の少女の顔は以前のようには戻らなかった。
 「やけどのひどいところと軽いところの境目が線を引いたようになり、冬になると紫に変色し、夏場は真っ赤になるのです。あごや唇の上はケロイド状になり、かさぶたができると、かゆくなりましてね。はがすと傷が残るのです」
 やけどは顔だけではない。左足の大腿部や右足の甲にも。特に右手はグローブのように腫れ上がり、何かをつかもうとするかのように指が曲がり、手首も固まっていたという。
 「洗濯機もない時代、たらいで洗った洗濯物を絞らなければならないのですが、できないのです。力を入れると、やけどの傷跡にできた薄皮がつっぱって裂け、血が噴き出すのです。コップを握ることができるようになるまで10年かかりました」
 戦争が終わってしばらくは、空襲で顔や手足にやけどを負った戦災傷害者を街の中でもよく見かけたという。
 「電車の中などでも『どこで空襲におうたの。かわいそうに』と、よく声をかけてくれました。でも、2、3年と経つと、見てはいけないものを見たと言う感じで、スーッと避けられるようになる。時代が変わってきたなあ、と思い知らされたものです。人間って悲しいですよ、すぐ忘れるのです。まあ、忘れるから生きていけるのかもしれませんが……」

▲講演する伊賀孝子さん

 世間の冷たい視線に耐え切れず、家に引きこもってしまった戦災傷害者も少なくない。「大阪戦災傷害者の会」で、伊賀さんの前の会長だった片山靖子さんもその一人だった。
 「私よりちょうど10歳年下でしたから、大阪で空襲に遭ったのは3、4歳の頃だったと思います。避難していた扇町の防空壕に焼夷弾が落ち、家族で片山さんだけが大やけどを負ったのです。初めてお会いした時は終戦から30年近くたっていましたが、両手とも曲がったままで、なくなった指もありました。顔から体中にケロイドを残していたのです。ご家族に家を建ててもらい何不自由なく暮らしていたのですが、本人としては結婚して、子どもを産みたかったのです。自分のきれいだった姿を、子どもを通して見たかったのだろうと思います」
 その片山さんが自殺したのは79年のこと。39歳だったという。

●援護法から排除

 戦後、伊賀さん一家の苦難は続いた。父親も大やけどを負ったため、満足に働けず、その日その日を食べていくのが精一杯の状態だったという。
 「歯ブラシ一本でも配給に頼らねばならず、それも欠配や遅配続き。着るものも親戚から少しずつ分けてもらって着たきり雀でした。お金があれば闇市で買うことができるのですが、それもない。着物でも残っていれば食べ物と交換できたのですが、焼け出されたので、何も残っていませんでしたから」
 終戦から7年後の52年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が施行され、軍人軍属の遺族や傷害を負った人に年金が支給されるようになると、伊賀さんの父親は喜んだという。
 「兵隊さんの方ができたのだから、いずれ待っておれば、お上が我々の方にもしてくれるだろう」と。
 しかし、そのお上は「国と雇用関係がなかった」という理由で、一般戦災者を援護法から排除し続けている。
 戦時中は「戦時災害保護法」があり、家や財産をなくした人、または亡くなった人、傷ついた人について国が補償することになっていた。ところが46年に生活保護法が成立するとともに、戦時災害保護法がなくなってしまったのである。
 「当時は、日本そのものが貧しい時代ですから補償どころではなくなったのと違いますか。民間人の空襲による傷害者も福祉の中で補えばいいという考えなのでしょうが、戦争の犠牲者に対する補償は国の責任です。国民の命を大事にしない国はまた戦争を起こしますよ」
 そう言って、伊賀さんは嘆息を一つこぼした。

●生まれた日に空襲

 大阪市東住吉区の藤原まり子さん(62)は、62年前に発行された2枚の診断書を今も大事に保管している。
 「母がいずれ役に立つ時が来るかもしれないから、と手渡してくれたものなのです」
 病名の欄には「左下腿火傷」と記され、「去ル三月十三日、焼夷弾ニヨリ第三度火傷ニシテ加療セシコトヲ証ス」と万年筆で書かれている。日付は昭和20年11月23日。もう一枚も同じ病名で、日付は同じ年の12月3日。2枚とも茶色に変色し、持ち上げると折り目から千切れてしまいそうに古びている。
 国が起こした戦争で何の罪もないわが子が左足に大やけどを負った。いつの日か、きっと補償してくれるはず――。そんな母親の願いは今もかなえられていない。
 藤原さんが大阪市阿倍野区昭和町の自宅で生まれたのは45年3月13日の夜のこと。
 「ちょうど祖父が病死したばかりで、家族はおじいちゃんの生まれ代わりや、と言って大喜びしたそうです」

▲空襲で左足に大やけどを負った藤原さん。左足は義足

 その2時間後の11時50分。空襲警報が鳴り響き、生まれたばかりの藤原さんは、母とともに布団ごと防空壕へ運び込まれたというが、もちろん、藤原さんにその記憶はない。
 この日、大阪の夜空にB29爆撃機が次々に飛来し、大量の焼夷弾をばら撒いた。ザアーっという落下音とともに火の豪雨が降り注ぎ、母子が逃げ込んだ防空壕を焼夷弾が直撃した。布団に火がつき、産着にも燃え移った。「赤ちゃんがいる。私の赤ちゃんを助けて」と叫ぶ母。偶然、通りかかった男の人が毛布をかぶって防空壕に入り、助け出してくれた。
 一命は取り留めたものの、藤原さんは左足に大やけどを負った。病院へ行っても十分な薬もなく、傷口に赤チンを塗るだけ。しかも、そのたびに藤原さんの足の指がポロポロと落ちたという。
 左足はケロイド状態となり、指のない足先は変形し、ひざの関節は曲がったまま。成長とともに左右の足の長さに違いが出てきたため、小学校への入学とともに左足に補助具をつけ、それを隠すために太目のズボンをはいて通学した。
 「私の足がみんなと違う」と意識したのも、そのころ。母に尋ねると、「戦争でケガしたんや」と教えてくれた。辛そうな母の表情を見て、あまり聴いてはいけないことなのかもしれないと、それ以上は、尋ねることができなかったという。
 成長するにつれ、人の目が気になってくる。
 当時、自宅に風呂がなかったため、銭湯へ通っていた。誰もいない時間を見計らい、行くのは営業が始まる午後3時か、終わる間際の深夜12時。装具を外し、母や姉に手を引いてもらい、右足だけでけんけんをするようにして湯船に向かうのである。
 ある日のこと。小さな男の子が藤原さんの足をじろじろ見て「変な足」と、指をさして笑った。それをたしなめるでもなく、男の子の母親はこう言ってさらに追い討ちをかけた。「あんたも悪いことをしたら、あんな足になるんやで」と。
 その時、藤原さんの喉まででかかった「私が悪いんじゃない、戦争が悪いんや」という言葉は、悔しさのあまり声にならなかった。(続く)

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