教えられたこと

記者:小川秀幸

 「いろんな問題にぶつかると思うけど、しんどくても手を抜かないでやりなさい。それが君の血になるのだから」
三重テレビ放送(本社:津市)への入社が決まったことを黒田清さんに報告した後、頂いたお手紙に、丸っこい字で書かれていた言葉だ。もう17年以上前の話になる。

私が黒田さんと初めてお会いしたのは、大阪市立大学の大学祭(銀杏祭)でのシンポジウム。実行委員をしていた関係で、日本を代表するジャーナリストと接する機会に恵まれた。そのあたたかさと正義感にひかれ「黒田さんのような仕事をしたい」と、この世界を目指すようになった。

1990年に故郷の独立U局、三重テレビ放送に入社した私は、ニュースの取材で県内を駆け回ったほか、中学生の沖縄修学旅行や在日韓国人の戦後補償問題、ハンセン病問題などを扱ったドキュメンタリーを制作した。また、クイズ番組や情報番組の制作にも携わった。
そんな中で、黒田さんと一緒に仕事をする機会に恵まれた。「おもいっきり○(マル)ミエTV」という情報番組だ。この番組では月に一度、社会的な問題を扱う硬派なコーナーがあり、私が担当していたのだが、あるとき出演を予定していた大谷昭宏さんに急用が入った。しかし大きなテーマだったので、ほかにお願いする人も見つからない。思い切って大谷さんの“親分格”の黒田さんにお願いしたら、手術の後であったが快く引き受けてくれた。
その時は四日市市に住む全盲の女性陶芸家、伊藤悦子さんを取り上げた特集を放送し、黒田さんはスタジオでこんなことを話してくれた。
「タテ社会ではあかんし、ヨコ社会でも端っこができてしまう。これからは皆が真ん中から等距離の“マル社会”の時代や。そない思たら、この番組のタイトル、マルが見えてくる、ってえぇなぁ」
スタジオが一瞬のうちにあたたかい雰囲気に包まれた。

黒田さんにはその翌月も出演いただいた。その時のテーマは「青い目の人形」(日米親善の象徴としてアメリカから日本に贈られた人形の多くが、太平洋戦争中「敵国人形」だとして焼かれたり処分された話)だったが、来社した黒田さんは「これ参考になるんと違うか」と、テレビ朝日の番組で同じテーマを取り上げた回のビデオを貸して下さった。
また、帰阪されて数日経った頃には丁寧なお礼のはがきまで頂いた。お礼を言わなければならないのは私の方なのに…。
そして「窓友会」のお花見では「小川君にこの人紹介しとくわ」と、記者の方や落語家さん、市民運動に取り組んでいる人たちを次々に紹介してくれた。その花見は黒田さんにとって最後の「窓友会のお花見」となった。
黒田さんからは「報道の根本」のほかに、そういう細かな心配りが大切なことも学ばせて頂いた。黒田さんにはとても及ばないが、「心」「気持ち」を大切にする取材を心がけている。
黒田さんが亡くなって5年半が経った頃、有須和也氏による伝記「記者魂は死なず」(河出書房新社)が発刊された。それを送って下さったのは、黒田さんの妻、フサエさんだった。その本を繰り返して読むうちに、黒田さんに久々に“会いたい”という思いにかられ、行動に移した。

昨年1月、吹田市にある黒田さんのご自宅を久しぶりに訪ねた。黒田さんがくつろいでいたという居間で、フサエさんは夫のことを思い出しながら、問わず語りに話してくれた。
「主人は最初からあの(・・)黒田清だったんじゃないんです。土曜も日曜も自分の部屋で仕事をし、また勉強もしてました」
「部長時代は毎年元日に大勢の部員が集まってくれました。多い時は百人位…ここでかくし芸大会もしたんですよ」
大変だったけれど楽しかった様子が伝わってきた。そして、黒田さんが記していた日記も見せてもらった。そこには、「あの日」のことも書かれていた。

1998年10月12日。黒田さんに急遽「○ミエTV」への出演をお願いした日だ。
「三重の小川秀幸君に、是非にと頼まれ津へ。きょうのテーマは障害者問題で、話しやすい雰囲気の番組だった。帰りに松阪肉をもらって帰る」と書かれていて少し嬉しかった。実は、体調も万全でない時にこちらの都合で急遽出演をお願いし、失礼ではなかっただろうかと、内心ずっと気にかかっていたのだ。

ご自宅を失礼する前、遺影が飾られた仏壇に手を合わせた。黒田さんは「遠い所、来てくれてありがとうな」と微笑みながらも、私を叱咤激励してくれているようにも感じた。「しんどくても手を抜いたらあかんでぇ」と。

Comments Closed