民間人への国家補償が戦争抑止に

戦争の断片ー戦災傷害者

記者: 矢野宏

改憲の手続きを定める国民投票法の与党修正案が4月13日、衆議院で可決した。この新聞が届く頃には参議院で審議されているだろうが、月内にも可決、成立する見通しだ。「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権の狙いは戦争放棄を謳った9条の改悪である。「戦争ができる国」への回帰が国民に何をもたらすのか――。大阪市東住吉区の藤原まり子さん(62)は生まれて2時間後に大阪大空襲に遭い、左足に大やけどを負った。空襲の記憶はないが、苦しみは戦後62年たった今も続いている。今回も藤原さんの話に耳を傾けていただきたい。

藤原さんが大阪市阿倍野区昭和町の自宅に近い小学校へ転校したのは小学3年の時。当初、学校側は藤原さんの受け入れを渋った。「うちはちゃんとした設備ができていないから」と説明し、こうも言った。「障害者が通う学校へ行かれた方がいいのでは」。
2つ年上の姉や近所の友達と同じ小学校へ通いたいという娘。その思いを汲み取った母の都喜子さんは、何度も何度も頭を下げ、ようやく転校を認めてもらう。「遠足や学校行事には父兄が付き添うこと」という条件つきで。
「これが須磨へ遠足に行ったときのです」
藤原さん宅からの最寄り駅、JR阪和線「鶴ケ丘駅」近くの喫茶店で、持参してくれたアルバムを見せてもらった。
同窓生たちと整然と並んで撮影された集合写真。そのどれもがセピア色に変色しているが、決まって背広姿でメガネをかけた一人の紳士が写っている。
「これが父です」
学校の遠足の時には、いつも父の鉄夫さんが歯科医の仕事を休んで付き添ってくれた。
ただ1枚、その父の姿がない記念写真がある。
「小学5年の時の六甲山遠足で、父は体調を崩し、どうしても行けなくなったのです。私が楽しみにしていたので、母が自宅近くの大阪市立大学の学生に付き添ってくれないかと依頼してくれたのです」
その当時の模様が朝日新聞で、∧愛の六甲山コース 10年前戦火で浴びた赤ちゃんの足∨という見出しとともに紹介された。
「3人の学生さんが交替で私をおぶって山頂に連れて行ってくれたのです。子ども時代、何とか楽しく過ごせたのは、両親のお陰だと思っています」
彼女が歩んできた「戦後」が凝縮されたアルバム。写真の一枚一枚が両親の深い愛情の顕われでもある。
注文したコーヒーは口をつけないまま、いつしか冷めていた。

■スカートに憧れ

藤原さんの左足はケロイドが残り、足首やひざの関節が曲がらないため、体育の時間や運動会はいつも隅っこで見守るだけ。左足につけた補助具を隠すため、いつも太めのズボンしかはけなかった。

▼空襲で左足に大やけどを負った藤原さん

スカートがはいてみたい……。
藤原さんは中学2年の夏、義足をはめるために左足のひざから10センチ上のところで切断した。
「スカートがはける。足が曲がると嬉しかった」が、義足が傷口と擦れて痛みが襲う。中学3年の修学旅行で四国の金比羅山へ行った時も、激痛のため途中で歩けなくなった。「ここまで来たら満足やから。ここで死んでもいいから、先に行って」という藤原さんを、友だちが支えてくれ、何とか歩いた日のことが今でも忘れられないという。
高校を卒業後、「手に職をつけないと、食べていけなくなる」と洋裁学校へ通わせてくれた母。娘が知らないところで「足をつけれたら、つけてやるのに」「代われるものなら代わってやりたかった」と自分を責め続けていたことを知るのは、25年前に母が亡くなってからだった。。

■祝えぬ誕生日

「私の誕生日は3月13日ですが、子ども時代、一度もその日に祝ってもらったことはないのです。姉の誕生日である4月6日にあわせて、一緒に誕生日を祝ってくれました。3月13日は、私が左足の自由を奪われた日でもあるから、絶対にお祝いしなかったのです」
藤原さんは24歳で結婚し、今では5人の孫にも恵まれた。
やや早口で体験を語る藤原さんは、義足で自転車にも乗って買い物へ出かける、一見、大阪のどこにでもいるおばちゃんである。だが、「戦争さえなかったらという悔しい気持ちが消えたことはない」という。
「戦争さえなければ、自分の足で思いっきり走ることができたのに。いつも履いているペタンコの靴ではなくハイヒールを履けたのに。何より『私なんか、みんなに迷惑をかけるだけ』という無力感を抱えることもなかったのに、と戦争に対する怒りや悔しさが消えることがないのです」
藤原さんは32年前から、ほかの空襲被災者とともに、民間人への国家補償を求める運動に不自由な足で奔走してきた。
「民間人への補償を法制化すれば、戦争で国は莫大な支出が必要になる。そうすれば、国は簡単に戦争を起こさなくなるはずです」と訴える藤原さんはこうも言い添える。
「こんな目に遭うのは自分だけでええわと思うのです」

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