怖くて優しい男の顔

記者:山口美年子

  2000年の12月だった。黒田さんに以前から声をかけていただいていた窓友新聞へのエッセイをお受けして最初の原稿を持って行ったのは。
そのとき初めて黒田清としての男の顔を見た。私の原稿を読み進むその眼は鋭く、一言も見のがさない風に一文字に結ばれた口は気合いがあふれており、私の心臓はゴトゴト音を立てる。
怖かったなあ。あんなに気迫を感じたときはなかった。
黒田さんはいつも私にやさしかった。温かだったし色っぽかった。
でも今は、そんな余計な感情はなかった。でもその時思った。
文を書くというのはこんなことなんや。人に伝えること、伝わることにはこんな空気が必要なんや。甘いこと書いてもそこにはこの気迫が流れてんとあかんのや。私の文にはそれがあるんだろうか。

黒田さんの期待に答えることが出来るんやろか。ゴトゴトの心臓の奥で思いつづけていた。 読み終わって私を見た黒田さんの目はすごくおだやかでやさしかった。「これでええわ。これで行こう」熱いお風呂に水が入ってきた気持ちだった。
黒田さんと知り合ったのはずいぶん前。黒田さんがはじめてサツ廻りの記者として配属されたのが、東住吉警察管内(当時は田辺警察)だった。その頃は田んぼが多く、その中を一両だけで走る平野線があり〝チンチン電車〟で切符が買えた時代だった。
事件なんでな~んにもなかった。ひばりばかりが鳴いている様な所だった。

黒田さんは暇な警察を出て、学校廻りを始められた。そして田辺小に通う私達母子を知られたのだ。重度の障害の子を母がついて通学している。そしてその障害児は詩を書いているということを知ることになった。
それからは5月の母の日、子供の日には私達のことを記事にして下さった。誌も載せて下さり、会いにも来られた。
なぜか今もその時の真紅のくつ下をはいたおっちゃんのイメージが残っている。顔は覚えていない。
中学に入るとき、母が手造りの詩集をまとめてくれ、それが小さな本屋から出版された。そのことも大きく取り上げてくださり、それからずっとお付き合いさせてもらっていた。でも私は詩を書くのが苦痛になった。苦痛というより作り方がわかって変にひねくり廻すようになり、そんな自分がいやになった。そして、辛くなって書くことを遠ざけた。しかし、黒田さんは何かにつけ、手紙やはがきを下さり〝向こう三件ヨーロッパ〟の取材中、ポルトガルのナザレからハガキを下さったりした。それ以来、ねんに何通かの文通と年賀状は欠かさなかった。そして黒田さんは社会部長になられた。

ある年、年賀状は来なかった。気になったが、偉くなられたので私のことなど忘れはったんや。でも気になる。思い切って電話してみることにした。「そおかあ。忘れててごめん。僕はいっこも偉くなってないで~。仕事はえらいけどなあ。雅代ちゃん(黒田さんはずーっと私のことをこう呼んだ)とはいつまでも友達や。ちょうど今夕刊の締め切りが終わって一番のんびりしてるときやねん。よかったわ。ありがとう」と電話を切った。

まさか、まさか、その数時間後、三菱銀行立てこもり事件が起きようとは。後でわかったことだが、黒田さんと何十年かぶりで話していたとき、犯人の梅川は散髪をしていた時間だったのだ。

それから、ずいぶん文通をした。私の出した手紙には必ず返事を下さった。その返事は「窓」欄で書いてくれはるようになった。つたない障害者の意見でも大切に読み、きっちり伝えて下さった。この文通のおかげで、私は書く楽しさを取り戻した気がした。

その後、読売新聞を退社、「窓友会」を設立された。そしてエッセイのお話があった。私は嬉しいのが80%、不安20%の気持ちだった。

不安は黒田さんの癌だった。「もう治ったで~。これからやるで~。雅代ちゃんの文章を読みたいしなあ。がんばるわ」と言っておられるのが不安だった。

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