運命の出会い

記者:根橋敬子

黒田清さんという存在をいつから知っていたのだろう。関東に住む私に、関西の情報は入りにくい。

『大きい車どけてちょうだい』(角川文庫)が手元にある。何気なく読んだこの本に私は衝撃を受けた。こんな紙面を作っている人がいる! 『走れ村の子負けるなよ』『そんなにかわいく笑わないで』『楽しい話でやめられない』など、感動ではない。やはり衝撃の連続だった。

むさぼるように読んだ。『誘拐報道』『ドキュメント新聞記者』『ある中学生の死』『安宅クルーの再会』『OL殺人事件』『終戦前夜』『戦場になった島』『特攻』……。

そして、黒田さんが読売を辞めたという報道を知った。ウソだろう! と思った。黒田清という人に夢中になっていた最中だった。ウソだろうと思う反面、「シメタ」とも思った。遠い存在だった人に近づけるかもしれない。

そこから先の記憶がはっきりしない。だが、何かで読んだのだ。「黒田ジャーナル」を立ち上げたこと。『窓友新聞』が発行されていること。毎月大阪で集いが行われていること。

窓友新聞1988年4月号が手元にあり、5月号に私の名前が載っている(当時は新人さんの名前が掲載されていた。何と旧姓だ)。会員になったものの、当時の私は最初の結婚に破れ、貧しさのどん底にあった。とても大阪に毎月行くことはできない。だが、投稿した文はほぼ100%掲載していただいた。同時期に『戦争がなくても平和でない』『開け心が窓ならば』を読む。黒田さんに対する思いはこの頃に絶頂期を迎える。

黒田さんに初めてお目にかかったのが、97年8月23日に行われた群馬での集いだ。このとき、不思議なことが続いた。旅館に着き、大勢の女性たちがいる中(もちろん男性もいたが)、矢野さんがまっすぐ私の方に歩いてきて「根橋さん、こんにちは」と言ったのだ。「初対面や!」と内心思っていたが、今度は夕飯の席でまだ皆さんがそれぞれの席に落ち着く前に、黒田さんが「根橋さん、いつも書いてくれておおきに」とおっしゃった。「だから初対面や!」とまたまた思いつつ、勝手に運命的なものを感じてしまった。

黒田さんが入院なさったのはそれから4日後だった。怒涛のごとく、世界は変わっていく。それからの年月はそんな印象だった。

私にはまだ人に言ったことがないコンプレックスがある。若い頃は死にたいとさえ思った。生きていること、生まれてきたことに価値観を見出せなかった。そんな私に黒田さんは「それでも生きててええんや」と言ってくれたように思う。

まだまだ私のコンプレックスは解消されない。だがそんな中、生きていることに何らかの価値を見出したいと、あがき始めた私を感じるようになったのは黒田さんや矢野さん、栗原さんとの出会いであったと思う。あの頃遠かった大阪。憧れだけだった大阪。今はとても身近な場所であり、荒れた心を落ち着かせてくれる場所となった。

世界は、黒田さんが願っていた方向とは逆に動いているように私には思える。どうしたらいいのか。その答えは私たちが出さねばならないのだと思う。

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