もっと厳しく叱られたかった…

記者:高橋宏

告別式の日、太融寺の本堂入り口には、2枚の黒田さんの写真が掲げられていた。1枚は、私たちが見慣れた人なつっこい、はちきれんばかりの笑顔の黒田さん。そしてもう1枚は、見る者に鋭い視線を送っている厳しい表情の黒田さんだった。

2枚の写真を前にして、「あぁ、そういえば自分は一度も黒田さんから厳しく叱られたことがなかったなぁ。こんな怖い顔の黒田さんを、見たことがなかったんだ…」と思った瞬間、涙が溢れてきてしまった。

私が初めて黒田さんとお会いしたのは、東京の「コミコミくらぶ」に講師として招いていただいた時だった。

青森県・六ヶ所村の核燃料サイクル基地の取材をきっかけに、共同通信社の記者を辞めて間もない頃の私を、黒田さんは原子力問題を専門とした「ジャーナリスト」として、敬意をもって迎えてくださった。私の拙い話を熱心に聞いて、温かい励ましの言葉をかけてくださった黒田さん。本来であれば、大先輩として、取材等について若い私にもっともっと厳しい注文をつけたかったのではないだろうか。

しかし、最後まで黒田さんは、私を講師として尊重し、にこやかに対しておられたのだ。

これを機に、黒田ジャーナルとのご縁が始まり、『窓友新聞』に連載記事などを書かせていただくことも。
名もなく、実績もないフリージャーナリストにとって、「書く場」を与えていただくことが、どれほど励みになったことか…。

結婚をして関西に居を移してから、今度は大阪の「コミコミくらぶ」に講師として招いていただいた。多くの講師がいらっしゃる中で、東京と大阪の両方で話をすることができたのは私だけだったかも知れない。

その後もメンバーとして、ほぼ毎月の例会に出席することになるのだが、そこにはいつも黒田さんの「笑顔」のみがあった。
『窓友新聞』に原稿を書かせていただいた時も、厳しい問い合わせで冷や汗をかくようなことは、ただの一度もなかった…。
改めて思い返してみると、私は黒田さんの「笑顔」にとことん甘えてしまっていたようだ。

実のところ、私から黒田さんにお聞きしたいことが山ほどあった。原子力草創期の取材、原子力政策に対する黒田さんの考え方の変遷等々…。

黒田さんとお知り合いになれて十年近くの間に、じっくりお話を伺えるチャンスは何度もあったはずだ。しかし、いつも「また今度改めて…」と先送りにしていた。

もちろん、他のメンバーの方に対する遠慮、お忙しい黒田さんに対する遠慮もあったのだが、何よりも別れ際の「ほな、また今度」とおっしゃる黒田さんの笑顔に、安心し切っている自分がいた。

黒田さんと最後にお会いしたのは、膵臓ガンの手術で入院された病院に夫婦でお見舞いに行った時だったが、まさか二度とお話を伺うことができなくなるとは、夢にも思っていなかった。

また「コミコミくらぶ」でお会いできると、信じて疑わなかったのである。そして突然の訃報。最後の最後に「ガツーン」ときついお叱りを受けたような感じだった。

亡くなられて初めて、黒田さんの笑顔が、どれほど自分の支えになってきたのかが実感できた。勝手な思い込みとはいえ、黒田さんが私を一人のジャーナリストとして尊重してくださったことが、どれだけ自分の自信になっていたのかがわかった。そして何よりも、黒田さんに叱っていただけるまでに至っていなかった、未熟な自分を思い知らされたのである。

私にとってはまさに痛恨の極みであった。だが、ふと考えた。「やり残したこと」に対する痛恨さでいえば、黒田さんの想いは私の比ではなかったはずだ、と。

黒田さんが私たちに残してくださったものは、誰にも真似のできないぐらい大きなもので、これから先ずっと語り継がれていくであろうが、ご本人にとっては「志なかばで倒れる」という無念さがあったに違いない。

そして今、『窓友新聞』が休刊になり、「黒田ジャーナル」が解散…。黒田さんが命がけで私たちのために引いてくださったレールが、一本、また一本と消えていく。

黒田さんの魂は、どのような想いでこの現実を見ておられるのだろうか。そう考えると、胸をしめつけられるような思いがする。だからこそ、残された貴重なレールの一つである「コミコミくらぶ」だけは、何としても私たちの手で、守り通さなければならないだろう。それが黒田さんの想いに触れた者の責任であり、最大の供養であり、非力な私たちにできるささやかなご恩返しであると思うのだ。

黒田さん。もしも「コミコミくらぶ」の存続が窮地に陥るようなことがあったら、その時は今度こそ私にも「大カミナリ」を落としてください!

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