酒と対談の日々は遠く

記者:有末和生

私はこれまで十五年ほど編集の仕事をしてきた。これから先はいつまでやるかわからないが、おそらく私の編集人生の中で、一番思い出深い仕事は、黒田さんが亡くなる直前まで六年間一緒になってつくってきた、月刊PLの連載「黒田清のさわやか対談」ということになると思う。

黒田さんとの初めての出会いは、その時から三年ほどさかのぼる。ふとしたきっかけで『黒田軍団かく戦えり』を読んだ私は、黒田清というジャーナリストに強くひかれた。戦争反対や差別反対という主義主張というより、骨太な男としての生き方に強くあこがれたのである。

自分が編集している雑誌に連載を依頼したいと思った。企画は「昭和の偉人伝」といったようなタイトルのものだった。それが黒田さんの一番嫌いな分野とは、当時知らなかった。東峰さんを通して断りの返事がきた。

一年がたち、再び連載を依頼した。今度は、名もなく生きながら、人々に勇気を与え続ける人について書いてほしいとお願いした。タイトルは『にんげん万歳』。今度は快諾の返事だった。

あいさつを兼ねて、窓友会の忘年会に、初めて出席した。それまでは、ファックスと電話だけのやりとり。大谷さんにも初めて会った。連載のことは承知していて、「えっ、まだ黒田さんと会っていなかったの」と驚いていた。こちらとしては、とにかくお会いすることも恐れ多い気持ちだったのである。がんこ寿司の店で、黒田さんの前で緊張しながらビールを飲んだ。

それから、日ごろの原稿のやりとりはファックスだが、おりおりに事務所での打ち合わせの後やコミコミの二次会などに誘っていただき、徐々に普通の話ができるようになっていった。

原稿は、『窓』に登場した人のその後を振り返るものだった。感動的な話が続いた。黒田さんも、かなり力を入れてくれたと思う。連載としては大成功を収めた企画だった。ただ残念だったのは、ぐずぐずしているうちに、単行本が三五館から発行されてしまったことだ。『会えて、よかった』である。うちから出したかったと、今も思う。

連載エッセーが終了して間もなく、今度は対談をお願いしてみた。当時進めていた紙面刷新のポイントになるかもしれないと考えたのである。快諾。それから、ほぼ毎月一回、黒田さんと私とカメラマンが一緒にゲストの自宅を訪ねる対談がスタートした。

対談が終わると、飲みに行くのが常だった。いろいろな店のいろいろな飲み方を教えてもらった。最初に行ったのは、東通りのトリスバー。小汚いカウンターに座る黒田さんの姿がキマッている。ウーム、男のダンディズムとはこれか! と妙に感心したものだ。一番多いのは、矢野さん、栗原さんなども交えて焼き鳥の『秀吉』か『縄寿司』で一次会、続いて新地かミナミのラウンジというパターンだった。一次会をこちらで持つと、それ以降の高い店はだいたい払ってくれたものだ。

とにかく最初からよく食べる人だった。私など、腹が膨れると酒がまずくなると思うのだが、そんなことはおかまいなし。そして徹底的に飲んで歌った。夜中の二時三時はザラで、たいがいこちらの方がギブアップしていた。それでも黒田さんは、家に帰ってから必ず焼酎を飲んで、時には原稿も書いたという。

あるとき、健康診断でガンマGTPが百を超えて医者に厳しく節酒を言われた。(正常値は自分の年齢の数)黒田さんに話したら、「オレはずっと千を超えとったけど大丈夫やった。何を気にしとんねん」と一笑に付されて、そのまま飲みに連れていかれた。

自宅にも何度かお邪魔して酒をごちそうになった。書斎と書庫にも案内してもらったが、有名な露天風呂に招待されなかったのは残念だ。
東京での対談の後は、新宿の『英』。そこで食事と酒と歌である。対談で初対面の島倉千代子さんと黒田さんが意気投合し、島倉さんをメインゲストに、吉永みち子さん、笹野貞子さん、大沢征之さんらを呼んで、『英』でドンチャン騒ぎをしたこともあった。

二年が過ぎるころ、うちの会社から対談集の単行本を出した。窓友新聞に出すための案内原稿を事務所に送った。その中で、「黒田さんからは酒の飲み方と、年増のママの口説き方を学んだ」というくだりの、後半の部分のみが黒田さんによって削除されていた。豪快かつ細心というか、事務所のメンバーと笑ったものだ。

しかし、胃を切ったころから、黒田さんの生活は「普通」に変わり始めた。酒はサラリとたしなむ程度、店を出る時間も早くなった。それは私たちにとっては普通のことなのだが、黒田さんの従来のライフスタイルとは、全く違うものだった。そばで見ていて、やっぱりさみしかった。

最後の仕事は今年四月、大谷晃一さん(大阪学)と梅田での対談だった。対談後は食事もせず別れたのだが、気力は至って充満していた。「あんまり人に言うてへんけど、連休に入院してがんの治療するねん。来月の今頃は元気になってるから、次の段取り考えといて」と言い置いて別れた。本当の最後は、退院のメドがたたなくなった病院のベッド。半身を起こして原稿を書いていた。「何とか血が止まったらなあ」と、ちょっと困ったような表情だった。その時もまだ、黒田さんの命は細々とでも数年は続くと思っていた。次に黒田さんと会ったのは自宅での通夜だった。

百回以上も一緒に時間を過ごしながら、ついにモノ書きとして黒田さんに見参することのなかった自分の怠惰が悔いても余りある。文章のことは、直接何も教えてはもらわなかった。だが、それはそれでいいのかもしれない。黒田さんの残した膨大な著書に、そのことは充分書いてあるし、そのほとんどは読んだと思う。ただひとつだけ、直接聞いて、今も耳に残っているのは、「文章は、息をするように書くもんや」という言葉である。
黒田さんから学んだ一番大きなものは、誰でも受け入れてしまう、あの笑顔だ。いつもニコニコと、楽しそうだった。内心は知らないが、人にはそう見えた。ああいうふうになりたいと、心底思う。

今はまだ、本当の悲しみではないような気がする。何年か後、黒田さんの仕事が理解できる自分になったとき、本当の喪失感が訪れることだろう。

黒田さんの遺志を継いでなどという大それたことは言えない。せめていつか、あんな笑顔を人に見せられるようになりたい、あんな豪快に酒を飲めるようになりたいと思うのみである。

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