あれから10年…

記者:栗原佳子

2000年10月5日のこと。
すぐ目の前で別のスタッフが電話の応対をしている。
「はい、O事務所です」。本当に黒田ジャーナルは無くなったんだなぁと、ふと淋しさを覚えた。

事務所の所在地も電話番号も変わらない。
しかし「黒田ジャーナル」「窓友会」の看板は撤去され、スタッフの陣容も幾分の変化があった。つい数日前まで、生前のままだった黒田さんの机も整理され、フロアを飾っていた白ゆりや菊の花も事務所開設の祝花にとって代わった。

黒田さんの不在を現実として受け止められない私は、目まぐるしい変化に、気持ちを追いつかせることができなかったのを覚えている。

一時的な感傷に過ぎないのかもしれない。
業務に忙殺され、いずれ日常に埋没してゆくのだろうとも思う。ただ、変わりゆくものと変わらないものがあり、陳腐な表現ではあるが、黒田さんの思いを不変のものとして、その一端でも引き継いでいけたら、と思うのだった。

私が初めて黒田さんに会ったのは、「コミコミくらぶ」の席上だった。

1992年11月26日。正確にいえば「東京コミコミくらぶ」、その初回の日である。ちなみに私は当時、北関東にある、地元紙に勤めていた。

大阪「コミコミ」に遅れること二カ月余の発足。東京の「窓友新聞」読者からの強い要請に応えたらしい。私も「窓友新聞」で大阪「コミコミ」の記事を読み、さすがに大阪まで通えぬ我が身を嘆いていたので、東京「コミコミ」の発足は、渡りに船であった。
その日、仕事を早めに切り上げ、都内の会場に駆けつけたときには、すでに会合は終了間際だった。

いきなり「自己紹介を」を演壇に促された。訳のわからぬまま、仕事の疑問などを申し述べたと思うが、詳しくは覚えていない。

記憶に鮮明なのは、途中、左斜め前に陣取っていた黒田さんと目があったこと。その眼光の鋭さに、固まってしまったことだ。

ところが、である。会合の後、流れた新宿のスナック。私が座った目の前に偶然、黒田さんが座った。

「おう、○○新聞!」とこちらを指さしたその笑顔の無邪気なこと。思わず、映画「大魔人」の変身を思い浮かべた。

ちなみに「○○」は当時の私の会社名だが、五十人近い参加者がいたから覚えているとは思ってもいなかった。

単純な私はそれだけで舞い上がり、酔った勢いで口走った。「私、ホントは、黒田ジャーナルで働きたいんです」。

本来「初めまして」と名刺を出す場面であろう。

今にして思えば、黒田さんに直訴する「志願者」など珍しくもなかったのだが、さすがの黒田さんも一瞬、呆気にとられていた。

私はといえば、前後の見境なく口走ったとはいえ、本心から出た言葉ではあった。

仕事の悩みが膨らむなかで、黒田さんや大谷さんの書いた本や、毎月届く「窓友新聞」での矢野さんらの記事に救いを求めていた頃だった。

結果的に、私は94年1月から黒田ジャーナルに転職したが、それまでの約二年の間、私を支えていた一つは東京「コミコミ」だったと今更ながら思う。

黒田さんと話す機会は余りなかったが、それより何より当時の黒田ジャーナル東京事務所の飯坂あけみさんや他の参加者に会いたくて出掛けていた。

朝まで飲んで、新幹線で朝帰り。仕事に直行というパターン。

東京で働く同業者たちとの出会いは地方で鬱屈していた私には刺激的だった。黒田ジャーナルの公募があったとき、応募を躊躇する弱気な私を励ましてくれたのも、仲間たちだった。

当時の私は「大阪ジャーナリズム」云々といった黒田さんの理想とはかけ離れたところで「コミコミ」という場を「利用」させてもらったに過ぎない。

でも、難しい「論」より何より人と人とが確かにつながれる場として「コミコミ」があってほしいと思うのも事実だ。

東京、大阪両方で出会いに恵まれた私は黒田さんに感謝してもしきれない。

「恩返し」はこれから。

まずはぼちぼち続けていこう。

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