黒田さんに叱られたB

黒田清さんが亡くなったのは2000年の7月23日でした。

大阪市北区の太融寺で営まれた葬儀には、猛暑の中、1300人が参列し、黒田さんとの別れを惜しみました。

黒田さんは、1976年から読売新聞大阪本社の社会部長として、大型企画を連載するなど思い切った社会面を作る一方で、事件などにも強く、次々に特ダネを放ちました。

社会面の片隅に連載コラム「窓」をスタートさせたのは80年1月のこと。
交通事故で息子を亡くした母親の寄せた便せん6枚に及ぶ手紙は「大きい車どけてちょうだい」のタイトルで全文掲載され、大きな反響を呼びました。

そのほかにも、結婚を前提に付き合っていた恋人から被差別部落の出身であることを突きつけられて破局、自殺未遂を図ったという28歳の女性の手紙を掲載したことにより、同じように部落差別や民族差別で苦しむ人々の心の叫びが寄せられる場にもなったのです。
いつのころからか東京のジャーナリズムは、黒田さん率いる大阪読売社会部をそれまでの常識を破る「新しい新聞記者」集団として「黒田軍団」と名付け、もてはやすようになっていました。

黒田さんが新しい新聞作りを目指し、大阪独自の紙面を作っていくことは東京本社製の記事をボツにしたり、小さく扱ったりすること。しかも、同じ読売新聞でも保守系政権寄りの東京本社からすれば、反戦・反差別を自由に標榜し、政府を叩き、警察を叩く大阪読売社会部は目の上のたんこぶでした。84年に社会部長を解かれ、「窓」以外の仕事を取り上げられてしまうのです。

黒田さんが退社したのは87年1月10日、“えべっさん”の本戎の日でした。
「えべっさんの日だったら、ニコニコ笑って辞められるから」と。

その1ヵ月後、読売新聞大阪本社から200㍍ほど西に離れた太融寺の裏に「黒田ジャーナル」を設立。「窓友会」という会をつくり、月刊のミニコミ誌『窓友新聞』を発行したのです。マスコミの中でのミニコミ活動であった「窓」を念頭に置いてのことでした。

当時、愛媛県で地方紙記者だった私は、読売新聞を手に取ると、真っ先に「窓」から読むほどのファンでした。大手新聞社への転職が決まっていましたが、黒田さんが退社後、月刊『文藝春秋』に連載した「新聞が衰退するとき」(後に文藝春秋社から単行本化)にあった「読者の顔が見える新聞を作りたい」という一文に引かれ、文字通り、海を渡って設立したばかりの黒田ジャーナルの門をたたいたのです。

「新聞が衰退するとき」には、黒田さんが目指すジャーナリズムについて書かれていました。例えば――。

<いまの世の中には、弱者がいっぱいいる。病気の老人、子どもを亡くして悲嘆に暮れている母親、障害を持っている人たち、いわれのない差別を受けている人たち、人にだまされて倒産してしまった人、いじめを受けて毎日真っ暗な心で暮らしている子ども……。

もっとも、世の中には弱者ばかりがいるのではない。また弱者といわれる人たちの中でも、幸せな毎日を送っている人と、そうでない人たちがいる。

そんな人たちをみんなひっくるめて、幸せな人には少しでも長く幸せが続くように、不幸せな人には少しでも幸せに近づけるようにしてあげたい。そして、人を幸せに近づけようと努力することが自分の幸せにつながるということが実感できるような生き方をしてほしい。

そのためのジャーナリズム活動をしたいというのが私の考えである。だから、人間から、家族から幸せを奪うものとは闘わなければならない。その最も大きいものは戦争と差別だと思うから、戦争反対と差別反対を二本の柱としていきたい、というのが、私の気持ちである>
当時、ジャーナリストは報道すればいいという考え方が支配的で、「一人ひとりの生活を救済したり、それに関わっていったりすることではない」という反論もありました。でも、黒田さんは「そう思わない」ときっぱり否定しています。

<私は、ジャーナリストがいろいろなことを書いたり話したりするのは、あくまでもよい社会を作るためであり、幸せな日常生活を守るためであり、その目的の範囲内で、さまざまな表現が許されるのだと思っている。それに、いまのマスコミの多くの記事がそうであるように、誰に向かって何のために書いているのかわからない“建前記事”を書いているようでは、それこそジャーナリストなどとはおこがましい>

そして、黒田さんが考えるジャーナリスト像についてこう記していました。

<人に訴える力を持っているのがジャーナリストなのだと思う。訴えるためには相手の顔が見えなければできない。相手の息遣いが感じられなければできない>

 

初めて太融寺近くの事務所で黒田さんに会ったとき、その眼光の鋭さに一瞬たじろぎましたが、「もう一度、黒田さんのもとで新聞記者をやりたい」と訴え、「給料はいりませんから」とまで言っていたのです。

以来、黒田さんが亡くなるまでの13年半、『窓友新聞』のデスクとして取材や編集作業を行ってきました。しかし、その新聞も黒田さんの死後、廃刊となってしまいました。
『窓友新聞』の復刊を求める「窓友会」の会員さんに背中を押される形で、『新聞うずみ火』を創刊したのは、郵政選挙で自民党が圧勝した2005年9月のこと。

購読を呼びかける準備号の1面に、私はこんな一文を寄せました。

<この「9・11」もまた、忌まわしい記念日として後世に記憶されるのだろうか。戦後60年の節目の年に、いつか来た道を再び辿る愚かな選択をした日として。

「逆コース」という言葉が言われて久しいが、「9・11総選挙」は、ついに改憲へ道を開く、衆議院で3分の2以上の議席を持つ自公政権を生んだ。11月には、自民党が結党50周年記念大会で憲法改正草案を公表する。「自衛軍」の保持を明記し、集団的自衛権についても容認する内容だという。
ますます加速する改憲への流れの中で、無力感にさいなまれることもある。
だが、そんなとき、私は、恩師である亡き黒田清さんの言葉を思い浮かべる。
「戦争の対極にあるもの、それは人権社会である。この社会を人権社会に近づけることが戦争を遠ざける道なのだ」

一人ひとりの命が尊ばれ、お互いがその違いを認め合って共に生きる社会――。そんな人権社会を願う仲間たちで、「うずみ火」と名づけた小さな新聞を発行することにした。

うずみ火――。「埋み火」、「埋火」とも書く。広辞苑には「灰に埋もれた炭火のこと」とある。その昔、火の神を祭る「いろり」の火は、絶やしてはならぬとされてきた。そのため、寝る前に火種をいろりの灰の中に埋め、埋み火にして翌朝まで火種を守ったという。

決して消えることのない「埋み火」に、私たちはそれぞれの胸の奥にともる「反戦」「反差別」の思いを託した。時代は全くその逆方向へと突き進んでいる。一人ひとりの力は小さいが、それぞれの火種をあわせて、反撃の「狼煙」を上げたい>

『新聞うずみ火』には、黒田さんがジャーナリスト活動を繰り広げる上で2つの柱である「反戦・反差別」という遺志を受け継ぎ、そして消すことなく次の世代へバトンタッチしたいという思いが込められています。

黒田さんが亡くなってことしで11年。時代はますます右傾化し、格差や貧困の広がりが社会的な停滞を生んでいます。出口の見えない閉塞感から、車で言えば“ハンドルの遊び”のない世の中になりつつあるのです。

そんな時代だからこそ、黒田さんが『窓友新聞』の中に残した「遺言」の一つひとつに耳を傾けていただきたい。きっと、私たちがこれからどう生きていくべきなのか、一つの指針を与えてくれると思います。

2000年7月に黒田さんが亡くなったことで、『窓友新聞』も休刊となりました。『新聞うずみ火』を創刊するのは、それから5年後のことですが、紆余曲折がありました。

IT化の時代に逆行して活字の新聞を出しても大丈夫なのか。印刷費や発送代を考えれば赤字も覚悟しなければならない。ましてや、ミニコミとはいえ、片手間ではできない。取材から執筆、編集と全力で打ち込まなければ読者は離れてしまう。

二の足を踏む私の背中を押してくれたのは、「窓友会」会員さんの一言です。

「黒田さんが亡くなって、私たちの思いをどこへ届けたらいいのかわからないのです」

日常生活を送る中で、どうすることもできないけれど、誰かに聞いてほしいことがある。『窓友新聞』があったときは、黒田さんに手紙を書けばその思いを受け止めてくれた。『窓友新聞』で紹介されることで、ささやかながらも世の中にも問題提起できた。さらに、それを読んだ人からの手紙がまた掲載されることで、共感の輪が広がった――というのです。

「もう『窓友新聞』の復刊は無理なのでしょうか……」
戦前生まれのその会員さんは、当時、小泉内閣がイラクへ自衛隊を派遣したことに対して、再び戦争に巻き込まれるのではないかという不安を抱えていたのです。

そんな時代だからこそ、戦争の対極にある社会――誰もが生まれてきてよかったと思える人権社会を実現するために発信していこう。

私は、「黒田ジャーナル」の後輩だった栗原佳子記者をはじめ、『窓友新聞』などを通して黒田さんから教えを受けた友人たちに声をかけ、大阪市北区に事務所を設立。自民党が300議席を獲得した郵政選挙から1ヵ月後の2005年10月、『新聞うずみ火』を創刊したのです。

世の中はネット時代だけど、戦争を知っている世代の中にはそこに乗り切れない世代がいる。ネットをしていても、紙のよさを知っている人もいる。かつての『窓友新聞』の読者をはじめ、口コミで知った人たちが次々と購読を申し込んでくれ、連日、手紙が事務所に届くようになりました。

 

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