黒田さんに叱られたD

戦争体験語り継ぐ義務が私にはある   京都府木津川市 石井久仁子

私の故郷・徳島市は、阿波踊りがとても有名で、平和な住みよい町でした。
ところが、昭和20年7月4日の未明。突然、空襲警報が鳴り響き、100機以上のB29爆撃機の空襲を受け、わずか2時間あまりの間に焼け野原になってしまったのです。

当時、私は17歳。眉山の麓の大工町に住んでおりましたが、警報と同時にどこをどうして逃げたのか、今も思い出せません。B29の爆音と激しい爆発の音、鳴り響くサイレン、人々の叫び声の中を怖くて恐ろしくて無我夢中で走りました。いつ、上から焼夷弾が落ちてきて死ぬかも知れないのですから。

一緒に逃げていた大勢の人たちも、いつの間にか散り散りになり、気がついたとき、友達3人と橋の下におりました。町の中心を流れている新町川にかかる新町橋は、鉄筋コンクリートでしたので、「ここなら大丈夫」と、咄嗟に思ったのでしょう。

橋の下も大勢の人が腰まで水に浸かって、みんな真っ青な顔でした。ところどころに小さな岩があり、そこにしがみついている女の人が赤ちゃんを背負っておりましたが、お母さんの顔は水に浸かり、すでに死んでいました。赤ちゃんは蚊が鳴くような声で泣いていて、その左手首からは血が流れておりました。

私も含め、周囲の人は誰も助けようとしませんでした。人は皆、狂人のようになり、人のことどころではなかったのです。空襲を思い出すたび、「あの時、どうして助けてあげなかったのか」と、今でも自分自身を責めております。
飛行機の爆音が聞こえなくなり、辺りが明るくなりますと、そこはもう「この世の地獄」でした。道路は黒焦げの遺体が折り重なり、防火水槽や水の中でも何人も死んでおりました。街路樹も家も燃え上がり、吹く風も熱風でした。私たちは泣きながら手をつないで避難所になっている新町小学校へ走りました。校庭は、火傷やケガをした人、泣いている迷子、抱き合って泣いている老人などでひしめいていました。

家も何もかもすべて丸焼けになりましたが、幸いにも家族3人は無事でした。でも、知人や友人が何人も亡くなってしまいました。戦争さえしなければ、死ぬこともなかったのに……。
太平洋戦争は日本全国で数知れない多くの人を殺しました。生き残った私たちは、この悔しさ、悲しみ、忘れることのできないこの怒りを、どこへぶつければいいのでしょうか。年を重ねるたび、戦争に対する怒りは募るばかりです。

(石井さんのお手紙の最後にはこう綴られていました。<戦争を知らない若い人たちに戦争の恐ろしさ、愚かさを知ってもらうことこそ、あの戦争地獄を体験してきた私たちの「義務」だと思いました>。石井さん、つらいことでしょうが、これからも伝えてくださいね)

静岡で焼け出された叔母の精一杯の抗議   京都市上京区 臼井昭子

父が徴用され、母と舞鶴へ疎開していたときのことです。
ある夜、父の妹にあたる叔母が静岡から訪ねてきました。「空襲で家が燃えちゃった」と。幼い私でも目をむくような黄緑色の金紗の着物を身に着けておりました。叔母の夫は3度も出征し、最後は戦死公報と石ころの入った骨箱が届いたそうです。

住む所のなくなった叔母は、それから20年間も私たちと一緒に住んでいましたというのも、他の兄の家では奥さんの性格がきつく、温和だった私の母が貧乏くじを引いてしまったようです。

私が大人になってからのこと。小布を探して箱を引っかき回していましたら、あの時の着物の切れ端が出て来ました。叔母に尋ねました。

「これ、舞鶴へ来た時に着ていた着物と違う?」

「そうや、よう憶えているなあ」

「こんなきれいな色の着物、初めて見たもん。あのころはみんなもっと地味な

色や柄、着たはったやろ」と聞きましたら、「空襲で全部焼けてしもて、普段着一枚も残ってなかったもん。疎開させていたのはよそ行きばっかりで」と言ったのを覚えています。

静岡から舞鶴まで黄緑色の金紗の着物を着て来たのは、そのときの叔母の精一杯の抗議だったのかと、今ごろ思うようになりました。

(戦争さえなければ、叔母さんも静岡で幸せに暮らしていたでしょうに。夫を奪われ、家や財産まで奪われ、さぞかし悔しい思いをされたのでしょうね)

 

■戦争を語り始めた従姉   鹿児島県姶良市 吉田正子

「戦争の話を聞かせて」と言っても、かたくなに拒み続けていた従姉が「新聞うずみ火」を見るうちに、少しずつ語ってくれるようになりました。

従姉は『鹿児島おはら節』にも歌われている、タバコで有名な国分市の出身ですが、昭和20年4月17日の午後、鹿児島を襲った空襲で母親を亡くしました。防空壕に逃げ込む間もなく、家族の中で母親だけが犠牲になったそうです。従姉は仮死状態の体から血の気が引いていくのを目の当たりにしており、「障子紙のような色だった」と……。

家は全焼し、馬小屋では馬が血まみれになってうめき声を上げながら倒れていたが、どうすることもできなかったとのこと。母親の遺体を入れる棺もなく、衣装箱のような物に収めて埋葬したことなど、当時4年生だった従姉がとても苦しそうでしたが、過ぎ去った遠い日の記憶をたぐり寄せながら話してくれました。

焼け出されたその日以来、無気力の日々が続いているとき、学校の先生がクレヨン1箱を手渡してくれたときのことは今でも鮮明に覚えているそうです。今でもクレヨンを見ると、当時のことが思い出されて涙が出るのだと言います。

うれしくもあり、あまりにも辛く悲しい過去なのだと思います。最愛の母親の命を一瞬にして奪った戦争への怒りと憎しみは一生消えることはないでしょう。だけど、生き証人がだんだん亡くなっている今、無念の死を遂げられた母のためにも、一人でも多くの人に悲惨な体験を語り継いでほしいと思います。
というのも、私が大阪で勤めていた会社でマレーシアを訪ねたとき、現地の男性ガイドさんが美しい海が見える場所で説明しながらこう語りかけました。
「こうして現在は平和の中で日本からも自由に観光へ来られていますが、戦時中激戦の過去があったことを忘れないでほしい」と。

その言葉が今でも耳の奥にこびりついて離れません。

(戦後60年以上が過ぎ、戦争を知らない世代が国民の4分の3を超えました。「新聞うずみ火」でも、戦争体験者の「記憶」を「記録」として残していきたいと考えています。辛いでしょうが、語っていただきたい。それが再び迫りつつある戦争を、少しでも遠ざける道だと確信しています)

敗戦の日の1945年8月15日にも空襲があったのをご存知でしょうか。埼玉県熊谷市もその一つでした。

■終戦の日に熊谷を襲った空爆で死者266人   埼玉県狭山市 根橋敬子

1945年8月14日深夜から15日未明にかけて、埼玉県熊谷市は空襲を受けました。日本が終戦を迎えた日に、です。「最後の空襲」と言われましたが、群馬県高崎市や熊谷市が襲われ、そのあと、残った焼夷弾を小田原市へ落としたのではないかとも言われています。どこが最後にしても、15日に空襲を受けたという事実は残ります。

なぜ、この時期に空襲が行われたのか。

その後の調査ではとどめの一撃、県庁所在地として誤解、米軍が上陸した場合、熊谷を関東以北の軍事拠点と想定し、徹底的にたたいておく必要があったのでは、などと言われていますが、はっきりした理由はわかっていません。しかし、当時のニューヨークタイムズ紙では「日本に対する偉大な攻撃」と書かれています。

熊谷市では中心地の3分の2が焼け、266人が亡くなりました。毎年8月16日には、この空襲で亡くなった方々を悼み、灯篭流しが行われます。「戦災者慰霊の女神」の前に設けられた祭壇で慰霊祭が行われ、その後、空襲が一番ひどく、多くの人々が飛び込み、亡くなった星川に灯篭が流されます。幅員が狭く、当時は蛇行していたそうです。

家屋が覆いかぶさるように密集し、人々の上に家屋の焼失物が落下。煙の通り道になったため、窒息死がほとんどだったと言われています。
慰霊祭に来た人に話を聞いてみました。

「親戚がこの近くにいた。当時としては珍しい鉄筋の家だったから、大丈夫だろうと思っていたら、全員が家の中で亡くなっていた。あとで一酸化炭素中毒だったのではないかと聞いた」(当時9歳の女性)

「自分は戦地へ行っていたのでわからないが、「花の熊谷忘れはせぬが、お茶の静岡先にやる」というビラが米軍機からばら撒かれたらしい。すぐに回収されたと聞いたので、それを覚えている人はあまりいないようだ。焼夷弾と一緒に油も蒔いたのではないかという話も聞いた。川に飛び込んでもその川が熱かったとも……」(当時23歳の男性)

「私の家は離れていたので大丈夫だったが、街が真っ赤に燃えているのが見えた。父は兵隊に行っていて、母と私を頭に4人の子どもがいた。隣に疎開してきていた人たちが逃げようと言ったが、母は「小さな子どもたちを連れては逃げられない」と断ったという。父は戦死したが、母は気丈だった。この近くの方が布団を川に投げ込み、その下にもぐって助かった人がいる」(当時10歳の女性)

(根橋さんも戦争を知らない世代ですが、敗戦の日には毎年、熊谷市を訪れ、体験者の話を聞取っています。それにしても、理不尽な空襲で亡くなった人たちがいたことを思うと、やり切れない気持ちになります。体験者一人ひとりの言葉がどれも重いものか。今さらながら突きつけられています)

大阪も50回を超える空襲に見舞われています。うち100機以上のB29爆撃機による攻撃を「大空襲」といい、8回を数えました。大阪府警備局によると、空襲による死者の総数は1万2620人、重軽傷者3万1088人、行方不明者2173人と言われています。

昨年の春、「うずみ火編集部」では、大阪府からの委託を受けて、大阪大空襲の体験者34人にインタビューし、DVD「大阪大空襲」全5巻を制作しました。

体験を聞かせていただいたうちの一人、大阪府監査委員の京極俊明さんから手紙をいただきました。

<今の子どもたちは、戦争そのものがどんなものなのか説明しても理解はできませんでしょうし、第一に、戦争は何故起きるのかも歴史で正しく教えていませんから納得しにくいのは当たり前だと思います。

しかし単純に言って、戦争は国と国との争い、〝喧嘩〟であるということで、争いごとや喧嘩は一方的に起きるものではなく、双方の言い分が異なり、そこに損得勘定が働いて起こるもので、必ず原因があるということです。

そして、今しっかりと頭の中に叩き込んでおかなければならないことは、日本人として現在の平和な状況を当たり前と思わずに、もっと目を、関心を、広い世界に向けよということです。

①世界中どこかでいろんな戦争が起こっている。
②その戦争に巻き込まれて大勢の子どもが殺され死んでいる。
③その日その日の食べ物に事欠いている国も数多くある。
④現実に食べるものが無く、たくさんの子どもが飢え死にしている(飢え死にがどんなに辛く苦しいか想像するだけでも悲しく可哀そうなことです)。
⑤勉強したくても学校にも行けない。ノートも紙も鉛筆もない。学校すらない国もある。
こうした世界の悲惨な状況をよく考え、「日本に生まれてきて良かった」ということを、まず喜び、お父さんやお母さん、家族の皆さん、学校の先生はじめ周囲の人々に感謝することを再認識し、他人を思いやる心を持ってもらいたいものです。

昨今の「自分さえ良ければ人はどうでもよい」といった無責任思想が横行し、親の言うこと、学校の先生の教えを素直に聞かない、人のものを平気で盗む、万引きがはびこるような世相にも無関心で、ましてや、簡単に人を殺す、親が子を殺す、子が親を殺すといった嘆かわしい事案が続発するなど、だんだん国が滅びる方向へ進みつつある危険信号にみんなして気がつき、何としてもそれをせき止めるという気概を持ってほしい、ということを念ずるのみです>

(自民党大阪府会議員を10期務められた京極さんは、毎年8月14日にJR京橋駅前で行われている「京橋駅空襲被災者慰霊祭」の世話人会の会長さん。京橋駅が米軍の1㌧爆弾の直撃を受け、500人以上もの人々が命を奪われたのは65年前の終戦前日のこと。当時、旧制中学2年生だった京極さんは、その惨状の現場に居合わせた「生き証人」です。取材のあと、お礼状と「新聞うずみ火」をお送りしたところ、早速購読者に。「戦争体験者が次々と亡くなってゆく今、戦争体験を若い世代に語り継ぎ、あの悲惨な歴史の事実を絶対に風化させてはならない」という京極さん。その熱い思いを受け継ぎたいと思います)

大阪生まれの黒田さんも激しい空襲にたびたび見舞われています。「マガジンハウス」から出版された『わが青春のクリスマス』という随筆集の中に、こんな一説があります。

<あの年には、何回もの空襲を体験していた。3月13日深夜からの大阪大空襲の日には、梅田の小さな外科病院の2階、20号室のベッドで身動きもできずに、日に囲まれた。焼夷弾の雨が降った深夜の街で、木造の病院は炎に包まれ、火がメラメラと板塀を焼き始めたのがわかった。腹膜炎の手術から1ヵ月、開腹したまま横向けになることさえ禁じられていたが、焦げ死にするのを待っていることはできない。ふらつく足で起き上がろうとしたところへ、父が差し向けてくれた大八車で、店の若い衆が助けに来てくれた。

6月には大きい空襲が3回あった。1回は、学校の校庭の隅の防空壕にもぐっていた。1トン爆弾が6発落ち、一番近くの一発が不発弾だったため助かった。この時が一番、死に近かったように思う。

1回は、国電城東線(いまのJR環状線)玉造駅で軍需品の輸送作業にかり出されていた。飛行場での作業中、P51の機銃掃射を受けたことがある。空襲警報が鳴った時には、もう低空を飛んでくる敵機が見えていた。とっさに滑走路近くの防空用水槽に入り正座する形で身を伏せたが、背中は上から丸見えなのだから、バリバリバリと機銃の音をさせながら何機かが飛び去っていくまで、生きた心地がなかった。ある日には焼け盛る砲兵工場の塀の外に沿って、学校から家まで歩いて帰った。塀の中は阿鼻叫喚、数えられないくらいの死がすぐそこにあった。

8月14日、大阪へ出かけた母が帰ってきた。その直後、母が通ってきた国電の京橋駅に直撃弾が落ち、多くの人が惨死したことがわかった。
死のすぐ横にいる毎日の果てに迎えたのが8月15日だった>

黒田ジャーナル時代、事務所近くの飲み屋で黒田さんが「こうした空襲体験が戦争反対を訴える原点となった」と語ってくれたことがあります。

ことしは戦後65年。戦争を知らない世代は国民の4分の3を占めるようになりました。戦争によって家族を奪われたり、家や財遺産を失ったりした人たちが社会の中心にいた時代は、「反戦」の意志は揺らぐことはなかったのですが、時間が経つにつれて世の中の「記憶」は薄まり、いつしか「戦争ができる国」になっていたのです。

再び近づきつつある戦争の足音を遠ざけるにはどうすればいいのか。
黒田さんは亡くなる1年半前、「遺言」としてこんな文章を『窓友新聞』1999年2月号に寄せています。

<私は満州事変の年に生まれて日中戦争の年に小学生になり、中学3年生の夏に敗戦だった。いわゆる軍国少年で、戦争に勝つことがなにより善とされ、国のために死ぬことを最高の名誉と教えられて育った。

このバカげた考え方は明治近代国家が作り出したもので、そのバカさ加減は、戦後たっぷり知ったのだが、思い直してみれば、それは私たちが身の毛もよだつような差別容認社会を生きてきたことなのだ。日本の中でも、日本の外でも、それをやってきた。

家柄をはじめ、裕福かどうか、健康かどうか、国籍はどうか、男か女か、あらゆることで人間に序列をつけて生きていく。これは間違いなく、戦争社会の後遺症である。だから、戦争社会は差別を前提として発展する。逆に言えば、人権を尊重すれば、戦争は起こらない。こう考えると、平和というのは人が殺し合うことをやめるだけでなく、平等に生きる権利を認め合うために実現すべきなのだ。

だから遺言の第一。戦争に反対しよう。幸いにして、私たちの国はそのことを憲法に明記した。明治時代に作り出した帝国憲法を掲げて戦争を繰り返してきたのにかわって、平和憲法によって生きることを決めた。それからまだ五十数年しかたっていない。それなのに「もうあなたの憲法は古いから変えたほうがいい」というアホどもが増えている。特に最近、日米安保をさらに強い絆にして、戦争好きのアメリカに追従するヤカラが多い。

戦争反対から言えばこんな危険なことはない。考えるまでもないことだが、これだけたくさんの国があるのにアメリカだけが正しいとどうして言えるのか。

悪いことは言わない。とりあえず沖縄をはじめ日本の米軍基地を減らすことからはじめることだ>

 

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