黒田さんに叱られたC

兵庫県宝塚市の鍵山千代子さんもメールなどとは縁遠い“アナログ人間”の一人です。几帳面な字で書かれた手紙は、多いときには便箋5、6枚にも及びます。

鍵山さんは戦前の生まれ。両親ときょうだい合わせて8人で旧満州(現中国東北部)へ入植したのは、敗戦の前年の12月でした。当時、鍵山さんは18歳、女学校を繰り上げ卒業して渡航したのです。

それから一年も経たずしてソ連が侵攻。国境近い辺境の土地で一家8人はバラバラになり、まためぐり合いながら逃避行を続けました。略奪、収容所生活、その最中に父親が栄養失調で亡くなりました。

鍵山さんが2006年7月に寄せてくれた手紙を「人間が戦争を作り、戦争が狂気を作る」という題をつけて掲載しました。ご一読ください。

<1941年12月8日、太平洋戦争に突入。世の中が戦時一色になり、挺身隊、徴用の名のもとに若者が駆り出されていきました。

当時、滋賀県水口町で暮らしていた私たち一家は、県が募集していた満豪開拓団に父が先遣隊として入植。44年12月には、私たち家族も満州(現・中国東北部)へ渡りました。私は女学校の計らいで半年繰り上げて卒業させてもらって渡航し、開拓団の事務所に勤めました。

しばらくは平穏な日々が続きましたが、45年8月、ソ連の満州への侵攻が始まり、着の身着のまま、行く先の定まらないまま逃避行に出ました。残虐、悲惨、恐怖。私の周りで集団自決こそありませんでしたが、病気や飢えで亡くなる人がたくさん出ました。父もその一人でした。

毎日不安を抱えた生活が一年続き、46年9月ようやく帰国することができました。

こんな哀しい体験をさせられたのは戦争が起こったからです。犠牲になるのは銃を持たない老人や女、子どもです。戦争は、人間が戦争をつくり、戦争が人間の狂気をつくる悪循環がいつまでも繰り返されるのです。私たち国民は戦前、戦中の暗黒政治に戻らないように、正しく聞く耳と正しくものの見える目、そして、しっかりと判断していく人間になるよう心がけたいと思います>
『新聞うずみ火』では、片道通行にならないように読者とキャッチボールをするつもりで、私なりの感想を添えさせていただいています。鍵山さんには、こんな一文を書きました。

(私を含め、戦争を知らない者たちが正しく聞く耳と正しくものの見える目を持つためにも、あの戦争が何をもたらしたのか、人はどう殺されたのかを知ることが大事です。鍵山さん、つらいでしょう、悲しいしょうが、もっと語ってくださいね)

大阪市西区の田上貞子さんも旧満州で終戦を迎え、苦労して帰国してきた引揚者。一歩間違えば中国に残っていたかもしれません。2007年5月号に掲載された手紙です。
私が住んでいた旧満州のハルピンをソ連が空から攻めてきたのは昭和20年8月9日のこと。その1週間後、昭和天皇のラジオ放送で日本の敗戦を知りました。

それから2、3日後だったか、何か音が響いてくるので、そおっと外へ出てみると広い道路いっぱいに戦車隊が轟音を響かせて進んで来ました。まるで戦争映画のようでした。武装解除された日本軍にはもう何の力もありません。肩から銃を掛けたソ連の兵隊たちが家の前で発砲するので、ドアを開けて両手を挙げて降参するしかありませんでした。

彼らは欲しい物を奪っていきました。そのつど、私は石炭小屋に隠れたり、逃げたりして恐ろしい思いで日々を過ごしていました。そのうち、満豪開拓団の人たちが続々と引き揚げて来て、小学校やお寺の収容所で暮し始めました。零下30度の酷寒の地、そこで亡くなられた人たちは凍ったまま丸太のように、「カーンコーン」と荷車の上に積み重ねられ、馬に引かれて行きました。行き先は大きな穴があってそこに放り込まれると聞きました。

家があった私たち家族はまだましな方で、周りの人たちは持っている物を売ったり、白系ロシア人の所で働いたりしながら引き揚げの日を待ちました。1年あまりして引き揚げが始まり、出発から40日ほどかかって、やっと日本に帰ることができたのです。

(田上さん自身、ハルピンを引き揚げる際、一人、取り残されそうになった経験があるそうです。そうなっていたら、中国残留婦人として望郷の思いを抱きつつ、戦後を異国で過ごさねばならなかったことになります。思い出すのも辛いことが多いと思いますが、どうかまた聞かせてくださいね)

 

<毎月届けられる「新聞うずみ火」の中で一番力を入れて読むのは、やはり戦争の時代のことです>という手紙を寄せてくれたのは、大阪市西淀川区の山根和子さんです。

「戦争さえなければが母の口癖」というタイトルで紹介しました。

幸い私は身内を戦火で失うことはありませんでしたが、母と2人、つらい戦中、戦後を送りました。戦争のために幸せを失った人のことを絶対に忘れてはいけないし、語り継ぐべきだと強く思います。

母の遠縁の農家に2人の兄弟がいました。兄が結婚、子どもも2人できましたが、赤紙が来て出征し、アッツ島か、ガダルカナルへ。ほどなく戦死の公報が入りました。親戚が集まって相談の上、弟と兄嫁さんは再婚したのですが、弟も出征し、戦死の公報が入りました。

ところが、戦後半年くらい経ったころでしたか、突然、死んだはずの兄の方が生きて帰ってきたのです。わが家にあいさつに来た時、母も伯母も腰を抜かさんばかりでした。弟は死んだのだからと、兄さんの方と復縁させましたが、私の母は「これで弟も生きて帰って来たらどうなるだろう」とずっと心配していました。

結局、弟さんは帰ってきませんでしたが、親御さんやお嫁さんはどんな気持ちだったでしょうか。つらかっただろうなあと、今考えても胸が痛みます。
「戦争さえなかったら」という母の口ぐせが今も忘れられません。いつまでも平和でありますように、世界中が平和になりますようにと、ひたすら祈っています。

(夫と引き離され、さらには義弟と再婚、そして復縁。さぞかしつらかったでしょうね。足音が近づきつつある戦争を遠ざけるためにも、山根さん、また書いてくださいね)
反戦を訴える声は戦争体験者だけではありません。大阪府寝屋川市の平川主計さんは戦後生まれ。過剰労働を強いられて自宅で倒れ、その後遺症から車いす生活を送っています。

平川家からは、父と父の弟(私の叔父)が出征しました。叔父は硫黄島で戦死して遺骨さえ戻らず、靖国へ祀られております。だから、私は絶対靖国には行きません。叔父は遺骨がなくても長崎の平川家の墓で眠っております。

戦前、教職についていた父は南方戦線から帰国してヤクザになりました。1945年8月15日を境に一夜で「鬼畜米英」から「民主主義」に変貌した日本人(特に知識人)の軽薄さに絶望したのでしょう。そうこうしているうち、私が5歳の時、母は原爆の後遺症で亡くなり、父は私を祖父母にあずけて出奔しました。

2005年1月。福岡の警察から父が死亡したという連絡が入りました。孤独死だから変死扱いです。私はすでに車いす生活だったので、妻が福岡へ向かいました。近所の話では、父は誇大妄想の変人として有名だったようです。
葬儀は妻、長崎の親戚が一人、地区の民生委員だけというわびしいものでした。

さらに、平川さんはこう書いていました。

<戦争は、戦争遂行のため、国家が無理やり国民と雇用関係を結ぶ制度です。全国民と雇用関係を結ぶのです。それに、戦闘地域や非戦闘地域の区別などありません>

太平洋戦争末期、米軍による無差別空爆が連日のように本土を襲い、東京や大阪などの大都市はもちろん、全国の中小都市などで惨劇が繰り広げられました。寄せられる手紙には空襲体験を書いたものも少なくありません。それも全国各地から――。
■横浜、松山と二度の空襲を生き延びて   愛媛県八幡浜市 清家幸子

1945年7月26日、私は横浜に続き、疎開した松山市でも空襲に遭いました。一生の間にあんな恐ろしい体験を二度もして、よく命があったものです。ケガ一つしないで現在に至っている幸せに感謝しています。

横浜大空襲では、逃げ込んだ防空壕に焼夷弾が直撃したものの、不発で助かりました。逃げる途中に出会った近所のおじさんは片方の腕が飛び散り、主人の同僚の妹さんは爆撃で死亡しました。私も家財道具などすべてを無くし、故郷の愛媛県を目指したのです。瀬戸内海を渡り、高松市の駅から汽車に乗り込んだとき、横に座られたご夫婦がおにぎりを下さったときの嬉しさ、未だに思い出しては涙が出ます。

物がないあのころ、人の心はとても優しかった。戦争はしていても、今のような殺伐とはしてなかったような気がします。だから頑張って生きてこられたのだと思います。

今は人の命を何とも思わず、嫌な事件が多いことにはうんざり。戦争や空襲で犠牲になられた方々も泣いておられると思います。
小学校の同窓会(昭和15年卒業なので、「一五会」と名づけています)もあり、30人が集まりました。その席で、横浜から参加された方に「空襲の日に何か行事はありましたか」と尋ねたところ、その男性は当時、海兵で訓練を受けておられて空襲を体験しておらず、「市の方では何かあったでしょうが、私にはわかりません」と言っとられました。だんだんと戦争体験者がいなくなり、語り継いでいくことの大切さを実感しております。

(横浜が500機近いB29に空爆されたのは45年5月29日のこと。当時、清家さんは新婚さん。逃げ込んだ防空壕に落ちた焼夷弾が炸裂していたら、と思うとぞっとします。清家さんも、そのときにお腹にいた息子さんも、お孫さんにひ孫さんもいないわけですから。それにしても、横浜で生き延び、その2ヵ月後には疎開先の松山で空襲に見舞われてよく助かったもの。きっと、生かされたのでしょう。清家さん、これからも空襲のこと、戦争の悲惨さを語ってくださいね)

 

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