黒田さんに叱られたE

会場は700人を超える参加者で超満員、立ち見が出るほどでした。

この日、参加者の怒りをかきたてたのは、やはり橋下知事の発言でした。

「暴力団が関係している企業は、大阪府は入札排除しているし、関係企業に補助金をうつことはない」と指摘し、橋下知事はこう述べたのです。

「民族差別だとかいろいろ言われることがあるが、大阪府は暴力団関係の所にはいっさいお金は入れないと徹底しているのに、北朝鮮は別だという方が民族差別だ」

学校関係者や保護者はもちろん、朝鮮学校を支援する市民らが次々に抗議の声を上げました。

「差別を扇動するような橋下知事の発言によって、わが子が朝鮮学校から無事帰ってくるのか心配しているオモニやアボジがいることを知ってほしい」

「『子どもたちの笑顔が輝く大阪に』が知事のキャッチフレーズだったはず。朝鮮学校の子どもたちも将来、この社会をともに築いていく人間なのに……」

「拉致問題と朝鮮学校とどんな関係があるというのか。拉致問題未解決を理由に高校無償化の適用除外するのは、いわれなき差別だ」
私は隣に座っていた大阪朝鮮高級学校の生徒に声をかけ、「橋下発言」につい
てどう思うのか聞いてみました。

この春、3年生になるという女子生徒は、「大阪の一番偉い人が軽々しい言動をすることが悲しく、悔しいです。一人の人間として、私たちや学校に向き合ってほしい」と語り、目を伏せたのです。

その姿を見て、私は1990年春に起きたある事件を思い出しました。大阪朝高女子バレー部が高体連主催の公式大会への出場をいったんは認められながら、2次予選へ勝ち進んだところで「高体連の手続きミスだから」と取り消されてしまった「高体連締め出し事件」です。

朝鮮学校は、民族教育をしているという理由から、「学校教育法」第一条で定める学校ではありません。それゆえ、「一条校」であることを加盟条件としている各都道府県の高体連が主催するインターハイはもちろん、公式大会に出場できませんでした。

「日本で生まれ育った同じ高校生やのに、なんで大会に出られないのですか。私たちは悔しい思いをしました。後輩たちに道を開いてやってください」――。

当時の女子バレー部の主将、趙日順(チョウ・イルスン)さんが大阪高体連の幹部に泣きながら訴えた姿が今も忘れられません。

その悔し涙が高体連への加盟を求める運動の発火点となり、大阪をはじめ各朝鮮高級学校が、それぞれの都道府県の高体連へ加盟要望書を提出。日弁連が「朝鮮高級学校の生徒が高体連主催の大会に参加できないのは重大な人権侵害」として、全国高体連に要望、監督官庁である当時の文部省に対して勧告を行いました。

さらに世論の支持という追い風もあり、高体連は、朝鮮高級学校をはじめ、各種学校や専修学校など加盟校以外の同世代に94年からインターハイへの門戸を開放したのです。

私はこうした動きを取材し、『窓友新聞』に掲載するとともに、『在日挑戦――朝鮮高級学校生インターハイへの道』(木馬書館)という1冊にまとめました。

その後、朝鮮学校はインターハイへ毎年のように選手を送り、ついには「日本一」の栄冠を勝ち取ったボクシング部員も輩出しました。この1月には、大阪朝鮮高級学校ラグビー部が全国ラグビー選手権大会に出場し、3位に輝いています。

高体連締め出し事件から20年たったというのに、国交がないことや拉致問題、核問題などに関連させて、朝鮮学校を排除しようとしている。“第二の趙さん”を生み出そうとしているのです。

『新聞うずみ火』に寄せた記事で、私はこんな言葉で締めくくりました。
<それは、何かことがあれば在日朝鮮人を悪者扱いにしてしまう日本社会の差別構造が今も変わっていないことの証でもある。
断じて許してはいけない>

 

民族教育は人間の基本的な人権の一つなのですが、戦後、在日朝鮮人がその権利をつかむまでの歩みは、弾圧と差別との闘いの歴史でした。

1945年8月15日の終戦時、日本には200万人以上の朝鮮人がいましたが、翌年までに140万人あまりが帰国する一方で、やむなく日本に残る人も少なくありませんでした。その多くは在日年数が長く、生活の基盤が日本にできた人たちで、「皇国臣民化教育」によって朝鮮の言葉を話す機会を奪われ、日本語しか話せない子どもを抱えた人たちでした。

奪われた言葉や文化を次の世代に教えようという動きが起こるのは自然の流れであり、全国各地に「国語講習所」が生まれ、朝鮮人の学校へと発展していくのです。

ところが、米国は対日占領政策の目標を「反共の防壁」に変更。朝鮮半島に誕生しつつあった共産主義国家を支持する人たちを弾圧し、その矛先は民族教育にも向けられたのです。

48年1月、GHQ(連合国軍司令部)の占領下にあった日本の文部省は、朝鮮人学校を法的に承認しない方針を打ち出しました。「朝鮮人学校閉鎖令」が通告され、神戸と大阪で戦後最大の弾圧事件「阪神教育闘争」が起きました。
52年のサンフランシスコ講和条約の施行によって、在日朝鮮人は一転、外国人扱いにされ、日本の学校で就学する権利と義務さえもなくなったと判断されたのです。

教育現場をあずかる立場から全国知事会が、「在日の子どもたちの教育を考えてほしい」と、朝鮮学校の設立を含む要望書を決議しました。文部省も無視することはできず、朝鮮学校を「一条校」とは認めず、各種学校の認可にとどめたのです。
朝鮮学校は、55年に発足した「在日本朝鮮人連盟」(朝鮮総連)によって、初級学校から大学までの民族教育体系が整えられました。日本という立地条件に合わせて「6・3・3・4」制を採用し、授業時間も日本の各学校と同じ。カリキュラムも日本の現実を考慮して独自に編成されています。

教科書も日本の学習指導要項を参考にしたもので、それが朝鮮語で書かれているだけ。日本語は外国語として、日本の歴史や地理は、それぞれ世界史、世界地理の中で習っています。違いといえば、国語が朝鮮語で、朝鮮の歴史や地理の科目が余分にあること。それに朝鮮語で授業を受けていることぐらいです。

教育課程が日本の高校と変わらないということは、ほとんどの国公立大学や私立大学が朝鮮学校の生徒に受験を認めていることからも明らかです。

にもかかわらず、朝鮮学校は日本の学校と比べて財政的にも極めて苦しい状況に置かれています。

例えば大阪の場合、朝鮮学校生への補助は「振興補助金」という名目で一人当たり年間6万9300円(府全体で1億3000万円)が支給されているが、その額は日本の私学に対する補助金の4分の1、公立学校の10分の1。橋下知事はその振興補助金までも支給を見合わせています。

そのため、子どもを朝鮮学校に通わせる保護者の負担は肩に重くのしかかっています。毎月の授業料は2万円ほどで、各行事のたびに寄付金を納めなければなりません。給食はなく、毎日弁当持参です。自宅近くに朝鮮学校がない場合だと、バス代や電車代など、毎日の交通費もバカになりません。

確かに、日本の学校へ通わせれば負担は減ります。それでも朝鮮学校へ通わせるのは、言葉を学んでもらいたい、文化を知ってもらいたい。そして、朝鮮人として生まれてきたことを卑下することなく、誇りを持って生きてほしいという願いからです。

親の世代は、日本で生まれ育った3世、4世の代になっています。彼らの生活の基盤はすでに日本にあり、日本の社会でいかに生きていくかを考えるようになって久しいのですが、この社会の中で朝鮮人として生きていく現実の厳しさが今もあるようです。

『新聞うずみ火』に掲載した高校無償化問題の記事を読んだ大阪市東淀川区の李民順(リ・ミンスン)さんから手紙が届きました。

李さんは3人の子どもを朝鮮学校へ通わせています。長男はこの春から大阪朝鮮高級学校1年生。それだけに、高校無償化の問題は切実です。

<昨年、長きに及んだ自民党政権から民主党へと政権がバトンタッチされました。選挙権のない私ですが、民主党に政権が変わったことをとても喜ばしく思いました。民主党の掲げた公約のひとつに高校無償化の政策がありました。

鳩山首相はこうおっしゃいました。「朝鮮学校を含む外国人学校も親が納税の義務を果たしている限り、当然対象とするつもりだ」と。私は首相の言葉を信じて疑いませんでした。私たち在日もきちんと納税の義務を果たしているからです。

風向きが変わってきたのは今年になってからです。中井拉致担当相が北朝鮮の影響下にある朝鮮学校は無償化の対象から除外すべきだ。と異議申立をしたからです。私は耳を疑いました。結局民主党も自民党と何ら変わりはなかったのか、とがっかりしました。私たちが背負ってきた差別や苦しみの負の財産をまた、子どもたちに背負わせるのかと思うと暗澹たる気持になりました。JRの学割の認可問題、高体連の出場の問題、大学の入学資格の問題、私たちは幾度となく街頭に立ち、日本の方々に理解と支援を求めてきました。
自分の子どもたちは差別を受けるのでなく堂々と民族の誇りを持ってこの日本の社会で韓国、朝鮮人として生きていってほしい。その願いさえもこの日本の社会では許されないのでしょうか。時代は変わった、いい時代がきた。そう思っていた私は20年経ったいまも日本の社会に根強く残る差別、排他主義に苦しんでおります。どうか、自分の受けた苦しみ、差別を子どもたちにだけは受け継がせずにすむよう日本の方々の理解と御協力をいただきたいのです。

今回のこの無償化の問題はお金の問題だけではなく朝鮮学校を学校として認めてもらえるかどうかの瀬戸際だと思っております。どうか、私たちにお力を貸してください。私たちの祖父母が残してくれた朝鮮学校を子どもたちの代へ引き継がせてください。

私たちを日本の社会から排除するのでなく、日本の社会を一緒に築き上げていく一人の仲間として、共に手をつなぎ学んでゆく仲間として認めてください。

日本の方々の御理解と御協力なくして、わたしたちは朝鮮学校の存続は出来ないことを重々承知しております。どうか、私たちの学校を日本の方々にもっともっと知ってもらい、御協力を得るべくお力をお貸しください>
高校無償化の実施に伴い、特定扶養控除額が引き下げられます。朝鮮学校だけが無償化実施から除外されると、李さんら保護者は「給付なし・控除なし」の二重の経済負担を強いられることになります。

それもさることながら、朝鮮学校の存在意義を認めてほしい――。それが李さんの切実な願いなのです。

 

在日コリアンへの偏見・差別ということでは、私には忘れられない記憶があるのです。大阪朝鮮高級学校の「高体連締め出し事件」の取材を始めて3年後の1993年1月、大阪府東大阪市で会社員の豊田英植さん(享年34)が隣に住む79歳の石田正夫さん(仮名)に日本刀で刺し殺された事件です。

新聞もテレビも、殺された豊田さんはいつも石田さん宅前に駐車しており、それが原因で以前からトラブルが絶えず、殺されたのだ――という報道でした。

「あの事件の報道があまりにも事実と違うのです。遺族が言うのは加害者宅前には車を止めていなかったそうなのです」

黒田さんが主宰する『窓友新聞』の読者で、大阪市生野区に住む在日韓国人2世の女性からの電話でした。

さらに、その女性はこう言い添えました。

「殺されて仕方なかったという報道内容で悔しかった。豊田さんが在日韓国人だったからでは……」

黒田さんは『窓友新聞』の読者からの電話やお便りを大事にする人でした。このときも、私に取材を命じたのです。
実際に現場を訪ねてみて驚いたのは、加害者宅前の道幅でした。3メートルもなく、車一台通るのがやっと。常識的にも置ける場所ではない。ましてや、被害者宅のガレージは道路から奥に入り込んでおり、車をもう一台置くことができるスペースがある。にもかかわらず、加害者宅前の路上に軽トラックを置くだろうか。

その疑問は、被害者の妻で、目撃者でもある豊田さんの妻、長美さんに話を聞くことで氷解していきました。

事件の概要はこうだったのです。

その日の朝、豊田さん夫妻は外で何かをたたく音を3階の寝室で聞いた。やがてインターホンが鳴り、当時6歳だった長男が出た。

「隣のおっちゃんが車つぶす言うてるで」

豊田さんはあわてて下へ降り、外で加害者と会った。二人が会うのはこれが初めてだった。

豊田さんが戻ってきて、長美さんにこう言った。

「軽トラックが自分の敷地内に入っていると言われたので、近くの神社前に停めてきた」

軽トラックはガレージ前に止めてあったのだが、前部が5センチほど、加害者宅との境界線を超えていたという。

問題の軽トラックは、豊田さんが長男を幼稚園へ送って行き、そのまま出勤するため、長美さんの実家から借りていた。ガレージに入れている自家用車は、長美さんが小学1年生の長女を学校へ送り出してから、通勤に使っていた。

事件が起きた1月20日午前7時半ごろ、豊田さんは長男の手を引いて神社前へ向かい、そこでフロント部分にハンマーでたたかれた跡が4カ所あるのを見つけた。

豊田さんは長男をその軽トラックに乗せて自宅まで戻り、加害者に抗議した。

長美さんも長女と一緒に出てきた。

すると、加害者は「やるんやったらやったるぞ。最後までやったる」という捨て台詞を残して自宅に戻り、刃渡り58センチの日本刀を抜いたまま持ち、金田さんの左脇腹を刺した。

犯行は、長美さん、2人の幼子の前で行われたのだ。

 

もう一つ、疑問が残った。自宅前に停めたはずの軽トラックはなぜ、加害者前に移動していたのか。

新聞報道では、殺された豊田さんが駐車していたのは加害者宅前の路上となっており、その場面を撮影した写真も掲載されていたのです。

<豊田さんが、軽トラックを自宅前から石田容疑者方前の幅3メートル足らずの路上に移動、エンジンをかけたまま止めた>(朝日新聞)

<出勤時にはトラックを路上に出してエンジンをかけたまま一時駐車することがよくあり、石田容疑者は以前から止めないように抗議していた……>(毎日新聞)

<洪さんは3年前に引っ越して来てから、軽トラックをたびたび石田容疑者宅前に止め、トラブル……。石田容疑者は、調べに対し「腹が立ったから刺した」と話し、逮捕された際も「何度も注意したのに」と署員に訴えていたという>(読売新聞)

<石田容疑者方前の市道に止めてアイドリングしていたという。……二人は駐車位置をめぐって、ふだんからトラブルが絶えなかったという>(産経新聞)

なかでも、産経は加害者に同情的で、<石田容疑者は近所でも評判の温和な人柄で、事件を知った近くの人たちは「よっぽど腹が立ったのでしょう」などとささやき合っていた>と記事を締めくくっていた。
これらの記事を読んだ人なら、誰もが加害者の肩を持つだろう。その分、被害者は悪者に仕立て上げられてしまう。

長美さんの話によると、軽トラックの後ろで豊田さんが道をふさぐようにして倒れていたので、通行人の誰かが親切心から移動してくれたのだという。キーはついたままだったのだ。

そのあと、長美さんは夫を乗せた救急車で病院へ向かった。警察がやってきて加害者を逮捕したときには、軽トラックは石田宅前にあった。この移動がその後の誤報を生むことになったのだ。

新聞やテレビでは、軽トラックは石田宅前にあったこととして報道していた。

某テレビ局のワイドショーでは、「加害者はおとなしい人で」という近所の人の話を紹介し、コメンテーターが「3年前から止めていたら誰だって怒るわよ」「図々しい。殺されても仕方ないんじゃないの」と語っていた。

 

事件から20日後、現場中心の取材を終えた私は、遺族から聞いた話を布施警察署に尋ねた。

「豊田さんが加害者宅前に車を止めていたと発表したのか。以前から駐車をめぐってトラブルがあったという発表したのか」

応対してくれた副署長は「そんなことは発表していない」と否定した。

遺族から聞いた話をぶつけると、「その通りです」という。

さらに、現場写真について尋ねると、「差し支えないと思って提供した。あくまでも被疑者の悪性を見せるためで」と。

「あの写真のために、被害者が悪者にされてしまっているのですよ」と抗議すると、「うかつと言われればうかつですが……」と口ごもったのである。

その日の午後1時、布施署は「豊田さんは加害者宅前に軽トラックを止めたことはなかった」と事件経過の訂正発表を行った。
警察が加害者から聞いた話だけで発表を組み立て、マスコミ各社もそれを信じ込み、慎重に取材することなく流していたことが浮き彫りになったのです。
事件を発表する警察側に、それを受けて記事を書く記者たちに、被害者が在日コリアンだから迷惑駐車をしてもおかしくないという予断がなかったと言えるのでしょうか。それらの報道を見た私たちにも、在日コリアンなら……という偏見がなかったと断言できるでしょうか。

警察が異例の訂正を行ったことで事件はひと段落……、でもなかったのです。

事件の後、豊田さん宛てに一通の封書が送られてきました。差出人は、東京都葛飾区亀有 本田熱一朗。消印は「美浜」でした。

<この度は、誠におめでとうございます。このバカ野郎が、人の迷惑も考えず車を置きやがって、殺されて当たり前だ、バカが一匹減ったので、世の中少しは良くなるのでは……>

傷ついた人の心を平気で踏みにじる卑劣な嫌がらせの手紙だ。これも警察発表と、それを鵜呑みにしたマスコミ報道、そしてわれらが内なる差別意識が“書かせた”ものなのです。
取材を終えた私に、黒田さんはこんな話をしてくれました。

「事件が起きた場合、捜査側からある程度の情報が与えられる。その情報をそのまま書いた記事は、間違っていないまでも、事実と微妙に違う場合が少なくない。そしてなにより、自分が意図的に取材したものではないから、訴える力も弱い。そういう与えられた記事を弱い記事という。記者に取材力があれば、そういう情報を基にして取材することによって、事実に迫り、強い記事が書ける」

そして、こう言い添えたのです。

「事件や事故が起きたとき、誰が一番泣いているか、その隣に立って物事を見るとその本質が見えてくる」

それ以来、取材現場で迷ったときなど、黒田さんの言葉を思い浮かべるのです。

その黒田さんが在日コリアンに対する差別問題についてどう考えていたのか。1999年2月に発行した「窓友新聞」の中で、「恥を知れ 歴史を曲げる馬鹿者よ」と題してこんな記事を寄せています。
<私は朝鮮の民謡「アリラン」が好きだ。日本の民謡を聴いて泣くことは滅多にないが、朝鮮半島のあちこちの村に百以上も残っている「アリラン」なら、どれを聴いても涙が出る。私の先祖はきっと朝鮮半島から来たに違いない。
そんなせいか、私は朝鮮・韓国も中国も外国とは思えない。そんな国々と日本が仲良くないのは一生の心残りだ。
小学生の頃、同級生に金大仁がいた。殷玉幣がいた。朴淳仁がいた。6年生になって金山君が入学してきた。軍国少年の私だったが、仲良く遊び、よく喧嘩もした。彼らはみんな勉強が嫌いで成績が悪かった。極端に貧しくて勉強どころではなかったのだ。家に遊びに行くと、大抵は一間だけの家で、母親が内職をしていた。わが子が一緒に遊んでもらえるのが嬉しかったのか、エプロンのポケットから一銭球玉をくれた。私は属国という意味も知らず、創氏改名も知らず、彼らの哀しみも怒りもわからずに遊んでいた……。
私は地中海からバスや車を乗り継いで東南アジアを経由して日本まで旅をしたことがあるが、正直言ってタイまで来たときと、香港に入ったときの二度、ホッとした。自分の仲間の所まで戻ってきたという感覚である。だから民族差別意識をなくするには近隣諸国から次第に遠い国にというのが自然なのだ。韓国・朝鮮、中国、そしてその他のアジアの国々、さらに西アジア、欧米、オーストラリア、アフリカと近い順番に仲良くなっていく。そういう現実感覚も大事なのである。
その近隣諸国と仲良くするのに一番障碍になっているのは、過去にあった歴史を認めないことである。
日本は七世紀の白村江の戦いや豊臣秀吉の“朝鮮征伐”を持ち出すまでもなく、昔から朝鮮半島を大陸侵略の足がかりに狙ってきた。特に明治に入っての日清戦争からはその意図は明確で、それが日韓併合、そして昭和に入ってからの強制的な植民地政策につながった。同時に中国に対する侵略戦争が太平洋戦争にまで拡大したのは明白なことなのに、南京虐殺は虚構であるとか、朝鮮の従軍慰安婦はなかったと言い出す政治家、学者、マスコミ人がなくならない。それどころか連携して、日本の侵略の事実などを認めるのは自虐史観だと言い出す馬鹿者まで跋扈(ばっこ)する始末である。またそれらのことを記述した教科書を改めよという決議をして圧力をかける動きも目立っている。
日本がかつて天皇を神と仰ぐ全体主義国家、軍国主義国家として戦争をつづけたことは恥ずべき歴史だが、そういう事実を認めないで、歴史そのものをごまかしてしまうのはもっと恥ずべきことである。強国の植民地政策や大量虐殺は、これまでの世界史で数多く見られたことであり、なにも日本だけの蛮行、愚行なのではない。戦争になれば人間はいろんな方法で大量殺戮をしてきた。アメリカの原子爆弾だってその一つである。アメリカがそれを反省せずに、正義のためにやったと言えばそれはアメリカの永遠の恥ずべき蛮行なのである。
という当然の理由によって、私の遺言の第二。朝鮮・韓国、中国と仲良くしよう。そのための前提として、過去の歴史を認めよう。それは自虐でもなんでもない>

 

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