黒田さんに叱られたF

昨年の春から『新聞うずみ火』で新しい連載が始まりました。タイトルは「車いすから思うこと」――。字数にして600字ほどの小さなコラムですが、車いす生活の中で感じた喜怒哀楽がつづられています。

5月号には、「笑顔も消えるマニュアル定員」という題の原稿を寄せてくれました。

<ファストフード店のメニューに「スマイル0」と書いてある。

店内で持ち帰りを頼むと、8割は「お掛けになってお待ちください」と言われる。車いすに座っているのに、である。

ある日、店が空いていたので、試してみた。「すみません。もう座っているのですが」と言ってみると、売りにしている「スマイル0」のハズがみるみると困った顔になっていく。可哀想なので、レジから外れて待っていた。

商品を受け取りに行く時にはカウンターまで戻る。カウンター越しに受け取ろうにも私の腕は力が入らず、上がらない。膝の上に置いてほしいと頼むと、不思議な日本語が返ってきた。
「カウンターからしかお渡しできないのですが」

うーん。困ったことを言う店員さんだ。

マニュアルというものは、これを軸にして共用していかないと、基本が崩れてしまう。

しかし、時として杓子定規と言うことになる。そして、マニュアルだけをより所にしてしまった店員さんの頭の中には、臨機応変という言葉がないのだろう>

筆者のSさんは地方公務員の傍ら、障害者スポーツの選手として活躍、2004年に開催されたアテネパラリンピックでは女子円盤投げで銀メダルを獲得しました。その2年後、Sさんは勤務先の庁舎内でアクシデントに見舞われました。

4階の職場から3階の車いす用トイレへ行くために乗ったエレベーターが3階の床面より11センチ高い位置で止まり、バックで降りようとしたSさんはそれに気づかず、後ろ向きに車いすごと転倒、頸椎(けいつい)損傷の大けがを負ったのです。

職場の説明はこうでした。

「エレベーターの扉に何らかの外圧がかかり、3ミリのすき間が開いたまま降下したため、緊急停止し段差が生じた」

でも、エレベーター内では緊急停止したことさえ気づきませんでした。

問題のエレベーターは1965年ごろ設置され、老朽化したため、リニューアルの予算が組まれていたそうです。

このとき、Sさんは2年後の北京パラリンピックへの出場枠をかけたオランダでの国際大会直前でしたが、この事故で北京大会出場どころか、障害者スポーツの選手生命も絶たれてしまったのです。
生きていく目標を失ったSさんは半ば自暴自棄になりました。退院したあと、職場復帰のための助走期間である“慣らし勤務”でも疎外感を味わうのです。

彼女から送られてきたメールが、今も私の手元に残っています。

「昨日、父親が倒れた。今のところ、大事にはなっていないが、なんでこんなに抱えるものが多くなるのかなぁ。母の脳腫瘍も手術がこれ以上できないし、抱えることは自分の務めだからどうにでも踏ん張れるが、少ししんどいなあ。こんなグチを話せるのは、矢野さんしかおらんので、ゴメン」

「まだまだ、乗り越えて行かないことがあります。職場のことや身体のマヒのこと……。マヒは進行するはずがないのに、いろいろと『出来ないことが増えています』。それが悲しいです」

そして、ついには……。

 

「実は、先月末に自殺を企てました。握力が無くて刃物が深く入らず結局7針縫って10日後に抜糸しました。もう頑張れないよ。陸上も無理、外出もママならずにいます。

慣らし勤務も、仕事もなく『忙しいから、仕事がない』と言われ、居場所がないです。体力的にも回復出来ず、復職の見通しもなく、もうどうにでも……です」

Sさんが少しでも生きる支えとなるようなものは何かないだろうか。そういえば、彼女、書くことが好きだと言っていたなあ。
そうだ、『新聞うずみ火』に日ごろ感じていることを書いてもらおう――ということでSさんに声をかけたのです。

自分が書いた原稿が活字になるのはうれしいもの。できあがった掲載誌を送ったところ、早速、お礼メールが届きました。

「メールで失礼いたします。昨夜、『新聞うずみ火』を拝受いたしました。生きていく力を頂きました。身体も心も傷んでいます。こんなにすごい、プレゼントを受け取った自分は幸せ者です。本当にありがとうございます」

 

Sさんが初めて頚椎を損傷したのは、高校のときでした。

体育館で走ってきた男子生徒とぶつかり、身長150㌢と小柄なSさんは跳ね飛ばされました。床に後頭部を打ちつけて首の骨が欠けてしまったのです。

頭が割るような痛みに襲われ、手足のしびれもどんどんと悪化していくのに、どの病院を訪ねても診断結果は「原因不明」。にもかかわらず手術を重ね、ついには歩くことすらできなくなったのです。

病院への不信感もあり、入院生活は荒れたそうです。ついには「不良患者」というレッテルを張られ、看護師からも冷たい目で見られていました。

そんな病院での息苦しい生活、身体も思うようにならない絶望感もあって、Sさんはそれまで自宅でため込んでいた睡眠薬を大量に飲み、自殺を図りました。発見が早く、命を取りとめた2日後には、隠し持っていたカッターで左の手首を切ったのです。

この頃のSさんは、自分がこの世の中で一番不幸な人間だと思い、一人で“底辺カルタ取り”をしていたそうです。

「い」…いちばん不幸な私
「ろ」…ろくな生活を送れぬ私
「は」…はいいろの人生の私
そんな折、病院のリハビリルームで、「りっちゃん」という患者と知り合います。

彼女の病名は「骨肉腫」。足から肺へ転移したところを手術して車いすに乗っていたのです。

茶髪で色白で、痩せた19歳。二人とも同じ年代で、病院にとっては“問題児”。何かとうまが合い、病院の外で野良猫を飼ったりもしました。

お互いの病気の話になったとき、りっちゃんがつぶやいた言葉が、今もSさんの脳裏に刻まれているそうです。

「私、もっと生きてみたい……」

 

数日後、りっちゃんは息を引き取りました。

その現実を受け入れることができなくてSさんはパニックになったそうです。そんな彼女に付き添ってくれたのが一人の若い看護師でした。

「私は力がなくて何もしてあげられないけれど、Sさんがつらいとき、話を聞くくらいはできるから、なんでも話して」

その言葉がきっかけとなり、Sさんの閉ざされた心が少しずつ開かれていったそうです。

退院したSさんは、車いすを使うようになったが、元来スポーツ好きだったため、「打ち込めるものがほしい」と障害者スポーツを始めました。

1対1で勝負するのが性に合わないSさんは円盤投げなどの投てき競技に取り組み、国内の障害者大会で金メダルを獲得。93年には区役所の試験を受けて合格、介護保険の仕事を担当することになりました。

つえで歩くことも可能でしたが、2003年3月に職場の配線コードに足を引っ掛けて転倒して首の神経を痛め、以来、車いす生活になったのです。
じゃんけんができなくなるほど握力を失いましたが、イメージトレーニングや円盤の回転のつけ方を繰り返し練習することで、パラリンピックへの第一関門である8㍍の標準記録を突破しました。でも、それまで使っていた治療薬がドーピングの検査基準に抵触するとわかり、このまま治療を続けるか、アテネへ行くために治療薬の服用をやめるかという選択を迫られたSさんは、アテネに賭けました。

首から頭にかけて激痛がSさんを襲います。痛みで寝ることもできず、睡眠時間も1日2時間ほど。そんな痛みに耐え、Sさんは「JAPAN」のユニホームを着て世界の舞台に立ったのです。

砲丸投げで4位、円盤投げでは銀メダルを獲得。帰国後、「苦労をかけた両親に1つずつ金メダルをプレゼントしたい」と、4年後の北京大会を目指し、訓練を重ねていた矢先の事故でした。

「役所は障害を持つ人も働き、障害を持つ市民も来る場所。それなのに、なぜ、職場で2度もケガをしなければならないのか」と、Sさんは悔し涙を流しました。

 

身障者スポーツの選手生命を奪った事故から4年。本来なら参加していたであろう北京大会もすでに終わりましたが、Sさんはまだ職場復帰ができていません。

公務災害の認定を受け、2年前の10月から非公式でリハ出勤を始め、週2日間リハビリのために出勤しています。

でも、相変わらず“居場所”がないようです。

上司から「忙しいから、やってもらうことがない」と言われ、周囲の同僚も「今はいいから」と言って残業をする始末。特定の人物からは「まだ、生きていたのですか」 と、バカにされることもあるとか。

何よりも症状は好転せず、肩から上が浮いているような違和感なのだそうです。
そんなSさんから6月号掲載用の原稿「なってみろ!」が届きました。
<車イスの私は、手だけで運転できるように改造し、車いすを積み込むリフトを取り付けた車で職場へ向かう。

職場から帰る午後5時半頃から、駐車場にはホームレスやニート崩れの人々が10人くらい集まり、たむろし始める。彼らの前を車イスで通ると「カタワ」と野次が飛ぶ。車イスを車に積んでいると、「障害者になっちゃえば、金もらえるのかな」とか、「車イスも面白そうだよな」と挑発してくる。ここまでなら、本当に車イス生活者なのだから別に何も思わない。

しかし、最近は悪さがエスカレートしてきた。エンジンをかけた車の前に足を投げ出す。飛び込むフリをする。これは、絶対に許せない。理由や状況はどうあれ、人身(事故)を起こしてしまったら、運転している方が悪い。地方公務員の場合、最悪なら懲戒の可能性もある。それでも、この場で直接言い返せない。車を傷められたら、出勤の「脚」が断たれてしまう。何も言わず耐えるしかないのだ。

しかし、どうしても言いたい。

「馬鹿ヤロー、障害者になりたきゃなってみろ」>

原稿にはこんな言葉が添えられていました。

「復帰訓練は遅々として、進まずですが、絶対に復帰してみます。絶対に自分からギブはしません。掛かり付けの医師も、本当はダメだと思っているようですが、とにかく走り続けます。

陸上競技をやっていた時に覚えた「耐える」が身体に染みついていますから」

 

 

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