沖縄「十・十空襲」の悲劇

記者:矢野宏

「10・10空襲」をご存知だろうか。終戦前年の1944年10月10日、沖縄全域に米軍が行った無

▲なぐやけ碑の前で行われた空襲慰霊祭

差別空爆で、民間人を含む600人以上が亡くなった。沖縄戦の序章とも言われ、空襲は那覇市の9割を焼失し、奄美大島以南の南西諸島にまで及んだ。

67回目の慰霊の日を私は沖縄で迎えた。この日、どしゃぶりの雨の中、那覇市若狭海浜公園内のなぐやけ慰霊碑の前で行われた慰霊祭には遺族ら200人が参列し、犠牲者の死を悼むとともに平和の誓いを新たにした。

夜には那覇市の喫茶室アルテ崎山で「10・10空襲を風化させない市民の集い」があり、那覇市の儀間節子さん(74)の体験談に耳を傾けた。

儀間さんは当時7歳で、国民学校1年生。母はすでに病死、県職員だった父も満州へ出征しており、気象台に勤めていた叔父と叔母が儀間さんと三つ下の妹の面倒を見ていた。自宅は久茂地川を隔てた電気会社の門の真向かいにあった。

その日の朝はさわやかな秋晴れだった。儀間さんが自転車で訪ねてきた祖父と立ち話をしていると、戦闘機の大編隊が上空を覆った。

「きょうの友軍(日本軍)の演習はすごいなあ」。次の瞬間、パラパラ、ドカーンと空爆が始まった。

よく遊びに来ていた長谷川さんという日本兵が軍馬に乗ってやって来た。

「この辺りは県庁や市役所、電気会社がある中心街だから、次はここかもしれない。危ないから識名方面へ逃げなさい」

長谷川さんはそう言い残して大急ぎで戻って行った。それが、長谷川さんを見た最後となった。

米海軍の艦載機は飛行場や那覇港などに次々に爆弾を投下。民間施設にも焼夷弾を落としていき、那覇市は焼け野原と化した。さらに、米軍機は逃げ惑う住民に容赦なく機銃掃射を浴びせていく。

儀間さんら姉妹は祖父に連れられ、識名を目指した。逃げ惑う人たちとぶつかりながら、無我夢中に歩き回った。小高い丘の上にたどり着き、後ろを振り返ったら「那覇の街は一面火の海でした」。

近くに爆弾が落ち、儀間さんはその爆風に吹き飛ばされ、墓の石に頭を打ちつけて脳震盪を起こした。

ようやくたどり着いた識名で日本兵から硬い馬肉の汁をもらったのを、儀間さんは今も覚えている。

▲当時の県知事から出征する父に贈られた日の丸

空襲警報が解除され、家に戻ったが跡形もなく焼け落ちていた。街はあちこちで火がくすぶっており、久茂地川の橋の下で一夜を明かした。

「各家庭が防空壕に隠していたのでしょう。コメが焼け焦げた臭いがしましてね。その臭いをかぐと、当時を思い出すので今でも苦手なんですよ」

翌45年4月に入って戦争が激しくなり、儀間さん姉妹は祖父母と一緒に北へ向かった。道には死体が累々と続いていた。赤子を背負ったまま息絶えた母親、幼い子ども、内臓が飛び出した日本兵……。うめき声に後ろ髪を引かれたが、逃げるしかなかった。

石川で捕虜になるのだが、それまで見てきたこと、体験したことは今でも頭の中で整理がつかないという。

戦後、儀間さん姉妹を育ててくれた祖父母は、この沖縄戦で8人の子どものうち、次女と六男を亡くしている。

戦時中、儀間さんの父親である長男をはじめ、6人の息子たちを戦場に送り、<誉れ輝く軍国の家 手柄競ふ兄弟>という見出しとともに「誉れの一家」として新聞にも紹介されたことがある。

儀間さんの父親は満州で終戦を迎えながら、抑留されたシベリアで死亡。戦死公報が届いたのは儀間さんが小学6年生のときだった。

「みんな同じように子どもを亡くしているのだから」と慰められた祖母は、そこにあった布団を頭からかぶり、「自分はあきらめ切れない」と言って狂ったように部屋の中をぐるぐる回ったという。

祖母が85歳で亡くなったとき、祖父から聞いた話だ。

孫の前では取り乱した様子など見せなかった祖母だっただけに、「私も3人の子どもの母親になり、そのときの祖母の気持ちがわかります」。

祖父母が戦争について語ろうとしなかったこともあり、儀間さんも封印してきた。だが、10年前のこと。「10・10空襲を風化させない市民の会」が空襲体験の手記を募集している新聞記事を読んだ儀間さんは、「空襲があった1日なら書ける」と初めて体験を綴り、市民の会代表の霜鳥美也子さんに送った。

「辺野古の海、嘉手納基地を見ると、また戦争になりそうで怖い。風化させてはいけない。語り継がねばならない。それが戦争体験者の役割だと思うようになったのです」

この日、儀間さんは父親の形見を持参していた。出征する父へ、当時の県知事が贈った日の丸で、「武運長久」と書かれている。

「父や祖父母の無念さを思うと、二度と繰り返さないようにしなければ」と儀間さんは自身に言い聞かせるように呟いた。

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