黒田さんに叱られたG

6434人の命を奪った阪神・淡路大震災から今年の1月17日で16年になります。かつての倒壊とガレキの街は、高層ビル群やモダンな新築住宅などが建ち並び、整然とした街によみがえっています。まるで何事もなかったかのように。

そんな中で「震災障害者」にお会いし、『新聞うずみ火』(2008年1月号)で紹介しました。あの日から“置き去りにされた人たち”です。

神戸市東灘区の大川恵梨さんは、生後2カ月で震災に遭いました。両親と3つ上の姉の一家4人が垂水区から引っ越してきて1週間後のことでした。

父親の和彦さんは、震災に遭ったときの様子をこう振り返ってくれました。

「大きな地震の揺れで恵梨を寝かせていたベビーベッドにタンスが倒れてきたのです。外傷もなく、近くの病院でも『泣いているので大丈夫』と言われたのですが、引き付けを起こしたのです。渋滞の中、車を東へ走らせ、最初に目にした県立西宮病院へ飛び込むと、ケガ人であふれ返っていました。看護師さんに事情を話すと、目の色が変わって恵梨を抱きかかえて上へ上って行ったのです」
レントゲン検査の結果は頭蓋骨骨折と脳内出血。恵梨さんの右の脳が潰れていたのです。

大阪の病院に連絡を取ってくれましたが、医師から「着く前に死ぬかもしれない。手術が成功しても植物人間になる可能性もある」と告げられました。

その場に崩れ落ちそうになるのをこらえ、和彦さんはこう答えたそうです。

「1%でも助かる見込みがあるのなら、助けて下さい」

恵梨さんは流産しかけて、ようやく授かった娘でした。「頑張れ、恵梨。死んだらアカン」。和彦さんの祈りが通じたのか、いくつもの奇跡が重なりました。

この渋滞では到着するまで5時間はかかると思われた救急搬送が1時間ほどで到着。しかも、脳外科医が3人もそろっていました。難しい手術も無事成功し、10日後、恵梨さんは意識を取り戻したのです。

しかし、身体の左側にマヒが残りました。退院してからもハイハイができない。同じ年頃の子どもよりも成長が遅い。頭の中で言葉を組み立てるのも難しく、短い言葉でしか話せない。中学生になっても小学1年生程度の知能しかなかったそうです。

娘が障害者になったという現実を、和彦さんはなかなか受け入れることができませんでした。

「障害がある恵梨は本当の恵梨ではないと思い、震災直前に戻る夢ばかり見ていました。地震の3秒前に戻れるものなら戻り、守ってやりたかった……」と。

ところが、いつしか恵梨さんの笑顔に癒されている自分に気づくようになったそうです。

「左手でチョキができないので、自分でセロハンテープを巻いてやり遂げるなど、一生懸命に頑張ろうとするのです。僕が仕事で疲れた時でも、『頑張ってね』と励ましてくれる。そんな優しい恵梨を見ていると、『本当の恵梨は今の恵梨かな』と思えるようになりました。今では、生きてくれてありがとうという気持ちでいっぱいです」

恵梨さんが姉のように慕う神戸市北区の城戸洋子さんは地震で倒れてきたピアノの下敷きになりました。その当時、中学3年生でした。近所の人たちの力を借りて助け出された時、意識はなかったそうです。

運ばれた病院で「12時間の命」と告げられ、「助かっても植物人間か、一生、寝たきり状態が続く」とも言われました。

母親の美智子さんは、「その当時は、まったく実感がわかず、違う世界の話やと思っていた」と振り返ります。

「奇跡的に命を取り止め、魚の腐ったような目をしていたのが、何日かたってくるといつもの目に戻ってきました。『大きな地震が来て大変やったのよ』と話しかけると、その目から涙がぼろぼろ出まして、『あ、この子、わかっているわ』と思いました」

意識も戻り、このまま順調に回復していくものと家族の誰もがそう思った矢先、洋子さんは普通に生きていくための記憶や注意力、集中力などの機能を失っていたのです。
「娘は震災前と180度変わってしまいました。『え、何でそんなことをするの』とか、『何でそれができないの』と。一見、障害があるとは思えないだけに、ついつい元気な時の娘と比べてしまい、落ち込んでしまいました」

「外傷性脳損傷による高次脳機能障害」と診断されたのは、震災から6年後のことでした。

「病名がわかってからも誰かに相談しようにも行政には窓口すらなく、支援もしてもらえませんでした」と美智子さん。せめて、娘が震災前に望んでいた「高校進学」をかなえてやろうと思い立ちました。内申書で合格していた全日制では勉強について行けず、1年しか持ちませんでした。定時制高校へ通わせると、自分が乗る電車を覚えられず“行方不明”になったこともありましたが、洋子さんは遅くても着実に成長していったのです。

しかし、卒業してから行き場がありませんでした。洋子さんはいま神戸市北区の障害者通所施設に通っています。

震災から10年が過ぎたころ、美智子さんは、兵庫県の知事宛に便箋8枚もの手紙を出しました。
<亡くなった方々を忘れてはいけないけれど、私たちのような元気な身体を失った人たちにも「頑張って」とエールを送ってください。これまでに一度も聞くことはありませんでした>
それに対する知事からの返事は通り一遍の内容でした。
恵梨さんと洋子さんは神戸市のボランティア団体「よろず相談室」で出会いました。主宰者の牧秀一さんは定時制高校の教師。生徒の洋子さんと関わるなかで震災障害者の置かれた現状に目を向けるようになったそうです。
「震災障害者のうち、行政が把握しているのは両手両腕が失われるなどして障害者手帳を申請した一部のケース。それ以外は人数すらわからない。家族はこれまでどこにも相談することもできず、孤立無援のなかで懸命に生きてきたのです」
この記事を出した翌年の2009年11月、神戸市は震災障害者の実態調査に乗り出し、少なくとも183人いることを確認しました。市は「分析して、障害者施策に反映していきたい」としていました。

 

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