宮城・石巻市と東北朝鮮学校

記者:矢野 宏

海へ鎮魂の合掌
お寺を避難所に

高さんは童話作家、詩人、韓国伝統茶房「タルマジ」代表と多彩な顔を持つ。一行は、高さん

▲石巻市中瀬地区で営まれた鎮魂祭

のほか、在日3世のチャンゴ奏者や小学校教諭ら6人。11月12日午後7時、「高橋」前を出発したバスは北陸道経由で福島県へ入り、さらに東北道を北上して翌朝、石巻市に到着した。

全市町村で最多の5800人の死者・行方不明者を出した石巻市。なかでも被害の大きかった地域のひとつ中瀬地区で、曹洞宗寺院の洞源院による鎮魂祭が行われた。

同市渡波にある洞源院には震災直後、津波で自宅を流された住民たちが避難してきた。そ

▲一行を歓迎する東北朝鮮初中級学校のこどもたち

の数は一時400人を数えた。避難者が水汲みや食料の買い出し、掃除や洗濯など、それぞれ役割分担して支え合った。全国から救援物資が寄せられるようになり、命をつないだという。歌手の新井英一さんも支援者の一人。新井さんが「タルマジ」で毎年、ライブを行っている関係から、高さんも洞源院のことを知り、チャリティーコンサートの支援金を持参した。

住職らの読経が流れる中、参列者が次々に焼香し、海に向かって手を合わせる。その一人、阿部源太郎さん(69)は津波で妻フミ子さん(享年68)を亡くした。
海へ鎮魂の合掌
津波で家ごと

あの日、阿部さん夫妻は海岸に近い伊勢町の自宅で地震に遭った。家財道具が倒れ、外へ

▲更地にたたずむ阿部さん

飛び出した。海岸までは1㌔。目の前には松林も植えられていた。

「津波がここまで来るわけがない。来ても床上ぐらいだろうとたかをくくっていた」と、阿部さんは振り返る。

自宅に戻ると、愛犬が激しく鳴き出した。何かあったのかと思い、もう一度、外へ出たが、変わったこともない。「ゴー」という音を聞いて振り返ったが、見えるのは松林だけ。阿部さんは自宅に入って片づけ始めた時だった。何気なく、後ろを振り返ると、山のような真っ黒な津波が迫っていた。

「おっかあ、柱にしがみつけ」

津波は家ごとそっくり持っていった。フミ子さんも流された。阿部さんも海の中に沈められたが、もがき苦しみながらも顔を出すことができた。流れてきたタンスにしがみつき、回転しながら1㌔ほど流されたが、幸いにもタンスはスーパーの屋上に横付けされ、飛び移ることができた。

「ゴーゴー」という凄まじい音を立てて、濁流は右へ左へと流れている。水位は引きそうもない。ほどなく、雪が降り始めてきた。濡れた身体のままでは凍死する。阿部さんは下へ降りようと、かぶせていたトタンを蹴り破って足を降ろした。ふわふわした感触が延ばした足に伝わってきた。遺体だった。

ようやく水位が引き始め、アルバイトとして勤めていた会社で一夜を過ごしたあと、阿部さんは甥の勧めもあり、高台にある洞源院へ避難した。

その日のうちからフミ子さんの行方を訪ね歩いた。阿部さんの足は避難所から遺体安置所へと向けられる。

遺体が見つかったのは4月20日。「C1336」という札が付いていた。

火葬を頼もうにも市側の施設は満杯だった。市は「いったん土葬にする」という。阿部さんは「おっかあはやっと泥の中から見つけ出されたのに、もう一度、土の中へ入れるのはかわいそうだ」と息子が住む横浜に運び、特例で荼毘に付してもらった。

洞源院では毎朝、境内などに避難している人々が集まり、犠牲者の冥福を祈ってきた。震災から3カ月の節目の6月10日、葬儀をしてもらった。

「寺に避難できてよかった。新井英一さんをはじめ、いろんな人が激励に来てくれ、元気をもらった。生かされている命をみんなのために役立てたいと思うようになった」と振り返る阿部さん。仮設住宅に一人で暮らすようになっても、洞源院の行事に参加している。

とはいえ、結婚41年の妻を亡くした心の傷は今も癒えることはない。

「生きているだけでも良かったんだよと言われても嬉しくはないねえ。失ったものの大きさは計り知れない」

阿部さん自身の69回目の誕生日に納骨するという。

「おっかあをうちに入れてあげようと思って……」

そう言って阿部さんは再び海に目をやった。
「手の温もり」再起誓う
自作の詩朗読
石巻市からバスで1時間。東北朝鮮初中級学校は山道を登った緑豊かな高台にある。

尹鐘哲(ユン・ジョンチョル)校長ら学校関係者、地元の在日の人たちが一行を歓迎してくれ

▲高さん㊨と尹校長

た。収益金を尹校長に手渡した高さんは、今回の震災で被災した児童に向けたメッセージを込めた詩「あなたがはじまり」を朗読した。

故郷は海のほとり
潮風はやさしく 頬をなで
さざなみの音は 幼な子の子守歌
波の間に間に
魚達は泳いでいる

ああ すべてを与えてくれた海、海よ
ああ 3月11日

海はすべてを奪う
目の前に 高く高くそびえ
黒い海 人も 車も 家も 船も
すべてをのみ込んで
すべてを奪った

ああ すべて海の彼方に
父よ母よ妹よ 愛する人よ

すべては海の彼方
暗い闇の中で天地がくずれ
たった一人
誰かが手を
その手の温もりに
はじめて涙があふれ
熱くとどめなく こみあげる

のこされて
生かされて
ああ あなたがはじまり

高さんは日本児童文学協会から被災地の子どもに届けるメッセージを依頼された。だが、なかなか書けない。テレビで見る惨劇に言葉が出ず、「何を書いてもうそになる」と思ったからだ。

暗闇の中で人の手と手にふれたとき、その温もりに思わず、涙があふれ、その温もりがありがたかったという人がいた。高さんは「この子がこの地を愛し、またあの海を愛し、人を愛し始める。人と人の手の温もりがあればはじめられる。この子がはじまりの人になる」と感じたという。
「手の温もり」再起誓う
寮で授業再開
東北朝鮮初中級学校は、大地震で校舎は大規模半壊と診断され、10月末に解体された。全

▲一行を歓迎する東北朝鮮初中級学校のこどもたち

児童・生徒25人は学生寮の部屋を仮教室にして授業を受けている。

「今まで体験したことのない、ひどい揺れと長い時間でした。今も思い出すと恐ろしくて震えがきます」と、尹校長は振り返る。

地震が起きたとき、初級部(小学校)の1、2年生は下校準備をしており、高学年は授業中だった。教師たちは児童たちを机の下に避難させ、揺れが収まるのを待って運動場へ逃げたという。誰一人ケガをしなかったのが不幸中の幸いだった。

ガラス窓が割れ、本棚も倒れた。余震が容赦なく襲う。「泣き出す児童たちを、中級部(中学校)の生徒たちが優しく抱きかかえて励ます姿を今でも忘れられない」と尹校長はいう。

4階建ての校舎は階段を上がるほど大きく傾き、壁の隙間から向こう側の空が見えた。地盤沈下のため、校舎横にも大きな段差ができていた。

学校再開のめども立たない。不安な状況のまま、寮の部屋を解放して自宅を失った在日の避難者たちも受け入れた。

「電気もガスも水道も止まっており、情報不足もあってどんな状況なのかもわからない。寒さと空腹で私たちはいっそう不安にかられました」

地震発生から5日目、支援の声が届くようになる。「子どもたちや先生たちは大丈夫ですか」「何か必要なものがあれば言ってください」「東北のハッキョ(学校)は決して孤立していませんよ」――。

さらに、全国各地から救援物資が次々と届けられるようになった。震災から8カ月の間に訪れた団体や個人は延べ2000人を超えるという。大阪で寿司屋を営む社長は「震災を乗り越えるのに国籍なんて関係あらへん」と、在日や日本人の区別なく、寿司を握ってくれた。
「手の温もり」再起誓う
県からの補助打ち切り
韓国からも初めて支援の手が差し伸べられた。韓国のテレビが震災取材で東北朝鮮学校を取り上げ、その番組を見た仏教団体が義援金を持って訪れた。「初めて行く道は遠いが、一度行ったそれは近い」という言葉とともに。

東北朝鮮初中級学校は1965年4月、東北6県唯一の朝鮮学校として開校した。3万坪の敷

▲校舎は解体したが、再建の道は…

地面積は全国の朝鮮学校の中で最も広い。70年には高級学校(高校)が新設され高校生用の寮も建てられた。

尹校長は東北朝鮮学校のOBでもある。高校時代、小・中・高校と幼稚園を合わせて800人が在籍していたという。しかし80年代ごろから児童・生徒数が減り始め、2009年には高級学校が休校となった。現在、児童・生徒数は25人にまで減少している。

今回の震災で、在日はもとより、日本人や韓国からも東北朝鮮学校にたくさんの激励やカンパなどが寄せられたが、一方で、宮城県からはこれまで保障されていた教育振興補助金の打ち切りを通告された。理由は「昨年のヨンピョン島砲撃事件と県民感情」。

その事件と東北朝鮮学校の子どもたちと何の関係があるのか。県民感情とは誰に聞いたのか――。

さらに、尹校長は「宮城県に住み、税金をわずかながらも納めている者として、学校再建には日本の学校と同じように2分の1の補助金を」と要望しているが、県からの正式な回答はまだないという。震災で得た大規模半壊と診断された校舎は公費で解体されたが、再建への見通しはまだ立っていない。

それでも、尹校長はいう。

「人間苦しいときに出会った人を忘れないと言いますが、まさに私たちにとって忘れることのできない素晴らしい出会いであり、支援であり、絆でもあります」

高さんの詩はこう結ばれる。

あなたのいるところから
あなたにつながる人と人
手のぬくもりが
あなたがまた
あの海を
故郷を
また
人を愛しはじめる
あなたがはじまりになる

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