黒田さんに叱られたJ

黒田さんが読売新聞社会部長時代に始めた「窓」。被差別部落出身者からの投書が掲載されたのは1980年12月16日のことだった。

<大学の時、結婚したい人がいました。あまりといえば突然に破れました。愛する人の口から、私が“村の子”だということをつきつけられたのです。愛しい人に教えられたのです。そして自殺未遂。貧困や差別に憤っていた私が差別の中にいたのです。それ以来28歳になる今まで、結婚していません。
学生時代の傷がいえたこのごろ縁談があり、事前に私の生まれを言ってもらうと、会う前にお断りの返事。写真を渡した時は会ってみたいという話でしたが……。差別する人も、悪いと思いつつ差別する側に立ってしまうのですね>

匿名の手紙は、こんな言葉で結ばれていました。

<もう結婚に夢を持つことはないが、子どもはほしい。でも将来私の子どもが、私と同じように“村の子”と言われるとしたら、つらくて、あわれです>

この手紙を読んだときのことを、黒田さんは「自分が恥ずかしかった」と振り返った。

「それまで、自分の周辺でこのような人がいることを知らなかった。被差別部落というものは知ってはいたが、その人たちの苦しさ、悩みといったことについては感じないままに素通りしていた。年頃になって結婚をあきらめ、子どもを産むことをあきらめている人がいるのに、読者の顔が見える記事が書けると言っていた自分が情けない」
その時のことを、黒田さんは『開け心が窓ならば』(解放出版社)の中で、こう書いている。

<この女性の手紙を「窓」で紹介したところ、同じ苦しみをぶつけきた。それまで「そんなことを言っても何にもならない」と思っていた人たちが、新聞が書いてくれる、「窓」が取り上げてくれるという気持ちで、自分の心を開け始めてくれたのだ。それは嬉しいと同時に、苦しいことだった。これほどにも多くの人が差別に苦しんでいることを、それははっきりと語っていた。

部落問題なんて、もう何でもないのだから、取り上げないでいい、というような声が、それまで私の周辺にもあった。しかし、現実は“何でもない”どころではないことを、私は「窓」を開いていたおけげで知ることができたのだった。こうなると、私にできることは、機会があるごとにそういう手紙を「窓」欄で取り上げることだった。

この「窓」での差別問題の取り組みは、新聞からテレビに、そして本にと、舞台を広げていくことになる>

差別と戦争について、黒田さんが語った講演録が「窓友新聞」に掲載されています。1997年8月、黒田さんがすい臓がんで入院する前のこと、群馬県で講演したものです。演題は「卑怯はアカン」――。

<私が中3のとき戦争が終わりました。そこまでは人は等しくないことを国が認め、それで国を発展させていく社会でした。戦争中『進め一億火の玉だ』というスローガンがありました。私たちは鉄砲玉でした。火の玉になって死んでいけと。誰から死んでいくのかということになると下のものからで、一番偉い人は一番後ろです。天皇に近い順にタテに並んでいました。下のほうの人間は身体を鍛えて働き、国を大きくするために生きているという考え方やから、男は女より国のためになるからエラい、男でも健康な人のほうがエラいと。エライ・アカンが最初から決められ、その秩序を守る、差別は国が作り、それによって国が発展していくというかたちでした。

だから下のものが文句をいわずに国に尽くすようにと極端なことをします。一つが朝鮮人、もう一つは被差別部落の人たちの扱いです。「あれに比べたらマシやろ」と。

植民地政策というのは、土地も財産も収奪します。いま「従軍慰安婦」は強制やなかったという人たちがいますが冗談やない。全て、植民地という根っこがあるのです。

被差別部落への差別は、いまも根強いのが現実です。
私の体験ですが、終戦の年、貯水池掘りをしました。空襲で延焼を防ぐ池ですが、そのために何軒かを強制疎開させるというひどいことがあったんです。ある日、先生がいいました。「きょう行くのは部落やから終わったらすぐ帰れ。怖い目にあうぞ」と。

ところが、昼休み。被差別部落のおばさんたちが、雑炊を振る舞ってくれたんです。でも、恥かしいけど私は、おばさんたちが普通の人間の笑顔だったのにビックリしました。特別な顔をしているというイメージ、そういう差別を大人たちは、子どもたちにハッキリ植えつけてたんです。

当時私たちはニワトリを飼っていました。でも自分では殺せない。それをしてくれるおじさんがいました。そのとき僕等は卑怯やと思いました。自分ではようせん。誰かしてくれる。感謝があって当然なのに逆に同じ人間が軽蔑する。こんなズルイことがあるか。私の差別に対する感情の始まりです。卑怯なことはせえへんというのがまず大事です。差別、人権とかいう以前に、卑怯な人間になったらアカンのです。

戦争が終わり、民主主義社会になりタテはヨコに並べ換えられましたが、私たちの意識は五十年たったいまも直っていません。やはりヨコだと端っこもある。だからマル社会をというのが私の考えです。

 

群馬も大阪もいろんな点が違うけれど、マルなら群馬も大阪も東京も沖縄も中心から等距離です。日米安保の問題にしても国だってタテはアカンのです。国も個人の行き方もマルにならないと駄目です。和也君のあさガオのように、会ったことのない少年の命を重いと思えるかどうかです。

どの国の人間も互いに認めあう。戦争を起こすとかのモトは、一人ひとりの生き方で変えていけると思います。

みんな自分の問題なんです。あの人が可愛そうやとかではなく、その人たちがよくならないと自分もよくならない。要するにみな円周上にあるのだから、みな大きくならないとマルは大きくならない。イビツになってしまいます。

淳君事件をはじめ、関西で殺人事件が多発しています。私が感じるのは命がもの凄く軽いということです。自殺も低年齢化してます。人と自分の命を断つのは違いますが共通するのは子供が命を軽く思うようになっていることです。

理由は科学の発達にあると思います。科学の発達は素晴らしいけれど両論あり、クローン人間とか人間の命を作れるというところまできている。生きているものをモノに近づけている。子供たちは私たちが差別が当たり前だったように命の軽さを受け止めて大きくなるのではないでしょうか。
私はいまの学校教育のシステムの根本の考え方を変えないとアカンと思う。それは人権の考え方と同じで、我々人間が等しく生きる権利を持つということです。試験の点を全ての基準にするような学校教育は教育ではない。百点とる子も六十点とる子も同等です。六十点だからと教育を受ける権利がなくなり端っこに追いやられて戻れない、それを国の政策とするのは大きな間違いです。

憲法ではあらゆる人間が能力に応じて教育を受ける権利を定めています。九条だけでなく憲法の条文を見ると私たちは生きる権利を大変保障されています。ただ私たち自身がそれに準じるような生き方をしていない。憲法を変えろではなく、変えなアカンのは私たちの生き方です。

「慰安婦」の問題も「商売だったろ」とかいって誤魔化す。そして自分が安全なところにいる。それではアカンのです。差別反対というとき、卑怯はアカンということだけでなく、人間は優しくなければ駄目です

人のことを自分と同じように考えられるかです。いつも後ろにちょっと下がり考える。自分の行き方が卑怯でないか、優しいか。一人ひとりに出来る現実的な方法だと思います。

私たちの生き方が人権社会を実現できるかのカギを握っているのです>

 

兵庫県姫路市の教員、鈴木祐太さんからお手紙をいただきました。鈴木さんは仕事を終えたあと、ボランティアで被差別部落の子どもたちに勉強を教えています。

<今、ある高校1年生がとても悩んでいます。解放学級でもどんなに周りがうるさくても一生懸命勉強していました。僕がほかの子どもたちの相手で手がいっぱいの時には、居残りをして質問をしたり、メールで質問をしたり、と自分なりに精一杯勉強をするとても努力家です。解放学級を卒業したにもかかわらず、今も毎週のようにやってきて質問をしています。

そんな子が進路についてもとても悩んでいます。取りたい資格、なりたい職業があるのですが、専門学校、短大、私立大学、どの選択肢もかなりお金がかかってしまいます。奨学金なども奨めたりしていますが、その子の置かれている状況や昨今の社会状況を考えると返せるのかどうか分かりません。
最終決定はしていないので今後も悩むと思いますが、どうか自分の夢に向かって進んでくれることを祈っています。全ての子が家庭状況や経済状況を考えずに進路決定をすることができることが平等な社会の一つのかたちだと思いますが、現実にはそんな理想からはどんどん遠ざかっているように感じます。僕が解放学級で教えている子どものほとんどが、経済的な問題を抱えていて塾に行くことが出来なかったり、家庭に問題を抱えたりしています。

中卒、高校中退の子はもっと厳しい状況に置かれています。勉強は得意じゃなくても、ちょっと突っ張っていても、一人ひとりとじっくりと話すととても素直で可愛い子たちです。「再チャレンジ」どころか「チャレンジ」すらできない子どもがどんどん出てきている現状に対して、どうやって声をあげるべきか、考える毎日です。>

自分の力ではどうしようもないことで、同じスタートラインにも立てない子どもたちが増えています。家庭の経済格差が子どもたちの学力格差を生み、社会の「負」の部分を背負わされる。私たちは何ができるのか、何をしなければならないのか、真剣に考えるときが来ています。

 

Comments Closed