誕生日あれこれ

黒田清さんの誕生日は2月15日。1931(昭和6)年生まれだから、生きていれば81歳になっていたはずである。

その年は、満州事変が勃発した年でもある。
9月18日午後10時20分ころ、中国遼寧省の奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍は、これを中国軍の仕業として戦争を拡大していく。
敗戦の45年まで続いた「15年戦争」の始まりでもあった。

黒田さんが自分の誕生日にどのような思いを持っていたのか、著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』の中の「誕生日あれこれ」にこう書いている。
<旧の暦では、2月、如月は、もう春である。2月4日が立春。季題でも、「2月」は春に入る。
花札では、梅に鶯。寒い冬を越して来て、ああ、これからは春よ春よという感覚があったのだろう。しかし、2月の梅に鶯は、3月の桜に幔幕、8月の坊主に満月のように20点札ではなく、10点札であるのは、何か2月が主人公ではなく、春への引き立て役という役柄を示しているように思う>
その月を花札で表現するのは、黒田さんらしい。読売時代は博打、といってもおいちょかぶに強かったというから。
それはともかく、「誕生日あれこれ」のエッセイの中で黒田さんはこう続けている。

<しかし、寒がりの私には、2月と言えば、まだ朝も暗くて起きにくい「厳寒」というイメージが強い。貧しい街の上空を通り過ぎていく寒月、凍てついた夜の闇、そんな心凍るような風景が浮かんでくる。
それに、カイロで冷え切った足を温めながら、布団の中でラジオに耳を傾けていた小学生時代の自分の姿がダブってくる。
実は私の誕生日は、2月15日なのだ。
よくも、一番寒い嫌な季節に生まれたものだと、何回も思ったことがある。
しかし、その年、1941(昭和17)年の誕生日は違った>

さて、黒田さんが10歳のときの誕生日がいつも違っていたのは何だったのだろうか。

黒田さんは1931年2月15日、大阪市天満で生まれた。

著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』(マガジンハウス)の「誕生日あれこれ」の中で、<1942(昭和17)年の誕生日は違った>と書いている。どう違っていたのだろうか。

その年に何があったのかを知るために、歴史書を紐解くと…。

1月2日、日本軍がフィリピンのマニラを占領している。当時、フィリピンはアメリカ領で、35年以降、あのダグラス・マッカーサーがフィリピン軍顧問という肩書きで在駐していた。41年12月開戦。日本軍がマニラに迫ったためマッカーサーは潜水艦を乗り継いでオーストラリアへ逃亡し、残留したアメリカ陸軍部隊は日本軍に降伏した。

いうまでもなく、その前年、41(昭和16)年の12月に太平洋戦争が勃発していた。黒田さんはこう振り返っている。
<真珠湾奇襲作戦にはじまる戦争で、日本の陸海空軍は連戦連勝、国じゅうが興奮の渦の中にあった。

そんな中で、2月に入るとシンガポール攻撃のニュースが大きい話題であった。街でも学校でも、その話題で持ちきりだったように思う。10日も過ぎると、その陥落は今日か明日かと、秒読みの感覚で伝えられた。その期待が頂点に達したのが2月15日なのだった。

繰り返しておくが、国じゅうが戦争の、特に勝報の興奮の中にあった時だ。いまなら噴飯ものだが、もし、自分の誕生日にシンガポールが陥落すれば、まるで、それが自分の名誉のように思えたのである。
現に、3月10日の陸軍記念日、5月27日の海軍記念日に生まれた友達は、それが勲章のように見られていて、本人もそれを誇りにしているようなところがあったのだ。

私は、布団の中で、自分に勲章ができればいいと思っていた。いや、祈っていたと言ってもいい。そして、その夜のラジオは、私の期待を裏切らず「シンガポール陥落」を伝えてくれたのだった>
1941年12月にマレー半島に上陸した旧日本軍は、難攻不落といわれた英国植民地だったシンガポールを占領する。42年2月15日、黒田少年の11歳の誕生日だった。

黒田さんは、著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』(マガジンハウス)の中で、こう振り返っている。

<こうして、小学5年生の誕生日に、私は大変なプレゼントを貰ってしまったのだ。そのころ、教室には、中国(支那と呼んだが)から東南アジアにかけての大きい地図があり、日本が占領すれば、その地図の上に画用紙で作った小さな日の丸の旗を立てた。

東南アジアの地図は何回も描かされていたから、ボルネオでもセレベスでも、目をつぶっただけで形が浮かんできた。いま流に言えば、右にドッグレッグした形のマレー半島もその一つで、その先っちょにあるシンガポールなど、お茶の子サイサイなのだ。
特にシンガポールは、香港などとともに、当時の軍国少年が憧れた山中峯太郎の少年小説の舞台になっていたからか、魅力ある街のイメージが強くあった>

山中峯太郎(1885~1966)は大阪出身。陸軍士官学校を出ながら(同期には「一死を持って大罪を謝す」という遺言を残して割腹自殺した敗戦時の陸軍大臣、阿南惟幾がいる)、エリート軍人への道を棄てて新聞記者に転じ、中国に赴任して孫文の中国革命完成のために奔走。帰国後は、『少年倶楽部』の王者として戦前の子どもたちを魅了した人気作家となる。

当時の黒田少年も憧れたのだろう。

大戦中の1942年2月15日――。小学5年生だった黒田さんの誕生日に、当時英国の植民地だったシンガポールを旧日本軍が占領した。その日のことを、黒田少年は「大変なプレゼントをもらってしまった」気分だったようだ。
シンガポールは昭南島と呼ばれ、太平洋戦争が終結する45年8月まで日本軍の統治下に置かれる。

黒田さんは、著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』(マガジンハウス)の中で、こう記している。
<戦争が、どんなに悲惨なものか、そして、そこでは住民たちがどんなに戦慄するような形で殺されていくものなのか、そんなことは全く知らないことだった。ただ、頭の中にあるのは、日本の皇軍(天皇の兵隊)が、軍靴の音も高く、アジアの国々を占領していく、その“すばらしい”姿なのだった>

さらに、こう続けている。

<50年あまり経って、私はいまこの恥ずかしい体験を思い出して書いている。もちろん、それは苦い思い出である。
だから、私にとっての2月は、砂糖の入っていないチョコレートの色をしている。ブラック・コーヒーの色をしている>

黒田さんが生きていれば今年81歳になっていたはず…。

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