失われた雛祭り

<3月3日は桃の節句。いかにも華やいだ言葉で、文字通り、桃の小枝から甘い香が匂ってくるような語感がある。
その語感は、そのまま50年前、空襲で焼けた家の奥の間に私を誘ってくれる>と、黒田さんは著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』の中で書いている。

戦争が始まる前、どのような雛祭りだったのだろうか。

<3月はじめの1週間だけ、その部屋の床の間には、大きな雛壇が飾られて、男である私もその雛壇の前で遊ぶことが許された。
雛壇は5段か6段もあって、緋もうせんが敷かれていた。
一番上には内裏雛。つぎに3人官女や5人ばやしが並べられていた>

えらいりっぱな雛壇だったのですなあ。さらに、こう続きます。

<その下に人形やら御所車、箪笥や長持、鍋や釜といった台所道具の模型、白酒をのせる蝶足膳など、それにガラクタのようなママゴト道具が並んでいる。

平素は父と母の寝室になっているのだが、その期間は、昼の間だけ出入りができて、末っ子の私は、小学校から帰ると、姉たちと一緒に雛遊びを楽しんだ。

セルロイドや瀬戸物の食器に入れる食べ物は、ガラスでできた丸いおはじき、それに餅米でできた桜の花びらの形のおはじきを使った。時には、長いセロファンの袋に入った米菓子(1袋1銭)を使うこともあった。

赤いもうせんは、子供ごころにもなんとなく艶めいていて「では行って参じます」などと丁寧な言葉をやりとりしながら、小さく興奮していたように思う>

黒田さんは、自らの著書『わが青春のクリスマス 四季の追想』で、雛祭りの思い出についてこう書いている。

<幼稚園のころから女の子と遊ぶことは好きだった。もちろん、男ばかりでする鬼ごっこやかくれんぼも楽しかったが、時折り女の子にまじって遊ぶママゴトは、結構時を忘れさせたものである。

幼稚園は少し遠いので、店のぼんさん(いまで言えば住み込み従業員)の誰かが迎えに来ることになっていたが、まだ3つか4つだったのに、先に帰ってんかと言い、商店街の女の子の家に上がってママゴトをしていたのも覚えている。

そんな時には帰るのが遅くなり、時には日が暮れてしまっているのだが、不思議に母に叱られるということがなかった。大学生になってからも、社会人になってからも、まっすぐ家に帰らない習性は、そのころにいち早くついたらしい>

さすがは黒田さん。後年、黒田ジャーナルを設立したとき、いち早く入社した私は、黒田さんによく飲みに連れて行ってもらった。
まず、教えてもらったのは原稿の書き方ではなく、夜の街での飲み方だったような気がする。

<いま考えてみれば、昭和の10年代前半である。日中戦争だけなわだが、まだ銃後(戦場に対して日本のことをこう呼んでいた)はのんびりしたものだったのだ。

そんなママゴトを楽しめた雰囲気が一変してピリリとしたものになったのは、やはりあの大東亜戦争(いまで言う太平洋戦争)がはじまった1941(昭和16)年12月8日からである>

戦争は子どもたちの楽しみさえも奪ってしまう。

<小学4年の2学期、ママゴト少年は毎日軍歌集で軍歌を覚える軍国少年になる>と振り返る黒田さん。太平洋戦争勃発によって雛祭りやママゴトは…

<もう御所車やセルロイドの茶碗を使ってのママゴトの世界は消え失せて、桃の節句が来ても、奥の間には雛人形が飾られなくなった。同じ部屋で、戦地で戦っている兵隊さんに送る慰問袋を詰める作業がはじまった。

買い物好きだった母は、国防婦人会の熱心な会員となり、名前だけで顔も知らない兵隊さんたちに、慰問袋を送りつづけることが生き甲斐になった。

50個、100個と買い集めてきた物を座敷に並べ、袋に詰めていく作業には、女中さん(いまで言う住み込みのお手伝いさん)や近所のおばさんたちも手伝い、賑やかだった。

人絹でペラペラだが、女の人が描かれた手拭い、いろは歌留多、煙草、折り畳み式の日の丸の旗、相撲力士のブロマイド、「ああ、この人は若いらしいから女優さんの写真もいれといたげよ」。いきいきと作業を続ける母だった。私がママゴトをしている時もそんな顔になっていたのだろう>

そのうち、慰問袋を送ることさえできなくなっていった。

<戦線が中国から南方に移り、転進とか玉砕という言葉が新聞やラジオで広がってくると、もうそれどころではない>と黒田さんは『わが青春のクリスマス 四季の追想』で書いている。

さらに、こう続くのである。

<予想される空襲に備えて、叩き(はたき)とバケツを持っての消化訓練がはじまる。学校へ行くのに、座布団を2つ折りしたような防空頭巾をかぶり、先生を見ると軍人のように挙手の敬礼をする。動作はすべて軍隊なみにキビキビと、そして言葉はハキハキと。もはや「おいしいものを作りましたから、どうぞお一つ」などというママゴトの世界などは霧散してしまっている>

赤いもうせんの世界も消え、ぐるり全部が国防色という濃いベージュ色で統一されてしまった。黒と白と国防色だけの世界では、人間が生きていくための情緒というものは抹殺される。

戦争をするには、そういう情緒の抹殺が必要なのだ。遊びは常に無駄と隣同士だから、目的のはっきりした戦争という行為とは、相いれない。

着道楽で衣装持ちだった母のよそいきの着物が、モンペに裁断されるのも悲しかった。美しい着物もまた、その時代には許されないものだったのだ。

あの奥座敷のお雛さんたちは、戦争が終わるまで生きながらえることができなかった。
当たり前のことかもしれないが、それ以来ママゴト遊びも雛遊びもしたことがない。
それは自分が成長したからなのか、時代が変わったからなのか、わからない。
わかっているのは、あのママゴトの時代がもう帰ってこないということである。
しかし、私はそれによく似た遊びを楽しむことを知っている。
それは、春になると、緋もうせんの上に座って桜の花をめでることである。

私の場合、ちょっとした花見の宴に、緋もうせんは必需品である。それは、奪われた雛遊びの楽しみを取り返すためである。

何も、自分が内裏雛になるのだと言うのではない。なんということのない自堕落な花遊びの世界とでも言おうか。そんな、怠惰な時間が、何ものにも増してすばらしいひとときとなる。

戦争を憎いと思う。しかし、いらだって叫ぶよりも、自分が失ったもの、奪われたものを、平和の世界の中で、凝視して、取り戻したい。今年もそんな花見がしたい。

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