終戦翌春のこと

記者:矢野宏

春3月が別れなら、4月は出会いの季節である。

黒田さんは4月についてどんな思いを持っていたのだろうか。随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』の中でこう書いている。

<誰でも、体験があるのではないだろうか。学校で担任の先生が、自分の好きな先生であった場合、学校が楽しくなり、勉強にも身が入る。

だから、4月のはじめ、クラス替えと担任の先生が発表になる始業式の日は、ちょっとした緊張を覚えたものだ>

黒田さんにとって心に残る先生とは…。

<私にとっての最高の先生は、敗戦の年と翌年の中学3、4年生で担任となった沖本義見先生である。

沖本先生は、国語と漢文の担当だった。丸い眼鏡をかけておられて、小柄だった。風采が上がる方ではなかったが、ニコニコ顔の目元がやさしく、おだやかに話された>

その沖本先生はどんなことを教えられたのですか。

<おだやかだが、言われることは刺激的だった。白楽天の詩『長恨歌』では、玄宗皇帝と楊貴妃の愛のくだりを、細かく描写して、敗戦直後のにきび面の中学生を、見事に興奮させて下さった。

「『帝王朝まつりごとせず』というのはやな、皇帝が毎晩、楊貴妃を抱いて、ええことをしまくって、朝になっても離れはれへんのやなぁ。政治なんかどうでもええから、もっと寝てよういうわけや」という調子の授業だから、これは欠席したら損と熱心に聴いた>

<「太宰治」の名を黒板に書いて、小説『斜陽』を読めと言われたので、春休み前に、職員室に行って『斜陽』を貸してほしいとお願いしたら、「いま誰かが持って行っているから、春休みにはこれを読みなさい」と『啄木歌集』を貸してくださった。

なぜか、黄色い紙のノートを買ってきて、その春休みには、毎日、啄木の歌を書き写していた。

『一握の砂』や『悲しき玩具』から、
「東海の小島の磯の白砂に……」
「砂山の砂に腹這い初恋の……」
「今日もまた胸に痛みあり。死ぬならば……」

などという歌を書き写しながら、鉛筆を止め、叙情の世界に陶酔していたのを思い出す>

黒田さんは、随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』の中でこう書いています。

<あのころは机がまだなかったのだろうか。いつも寝床に腹這って書いていた。
敗戦から半年、はじめての春だった。
戦争中、腹膜炎で入院して長期欠席していたこともあって、勉強をおろそかにしていたのに、4年生の春から、あらゆる学課が楽しくなったのは、渇いていた喉に水がおいしかったということもあったが、やはり沖本先生が好きだったからだろう>

黒田さんの恩師である沖本先生。ご自宅にも訪ねたそうですよ。

<先生は、泉州の狐伝説で有名な信太の森の近くに住んでおられた。一度お宅に遊びに行ったことがある。そのころはまだ珍しかったローライコードという上から覗いて撮るカメラを知人から借りて持って行ったが、あいにく曇りで、あんまりよく撮れなかった。それでも、あまり上等ではない和服姿の先生が、近くのお寺に散歩に連れていって下さり、咲き乱れた桜に見とれたのは、すばらしい時間だった。

私は『啄木歌集』だけでは飽きたらず、間もなく、昭和6年改造社発行の、長詩も収められた『石川啄木全集』を買い、この歌人の世界にのめり込んでいった。『太宰治選集』の方は、買ったのが大学に入ってからだったが、あの敗戦のあとの暗くなりがちな時代、私の世界が馥郁としたものになったのは、間違いなく、これらの本、そしてそれを教えて下さった沖本先生のおかげである>

沖本先生は、黒田少年のことをどう思っていたのだろう…。

<先生の方も、私を気に入って下さったのか、こいつは使えると思われたのか、『アラビアンナイト』の校正を頼まれた。恐らく、一枚いくらの内職だったのだろう。こちらは先生に信頼されたという喜びで、精力的に校正をこなして、次の仕事を頂いて帰った。

校正に疲れて、夜更けに窓を開けると、春の温気が入ってきて、なんとも言えない充実感が漲った。もちろん、無料のアルバイトだったが、あの時、校正の仕方を教わったのは、その後、随分役に立っている>

<そのうち、先生は、私のクラスの生徒全員の成績一覧表を渡し、それを通信簿に記入する作業も、依頼された。こんな作業を生徒にさせるのは、もちろん問題だが、これもやはり信頼されているからだという気持ちで、むしろ楽しく手伝った。きっと先生は、その時間に、自分の勉強になる本を読んだりされていたのだろう>

恩師である沖本先生にかわいがられていた黒田さん。やはり、どんな教師に出会うか、生徒や学生たちに与える影響は大きいですね。

黒田さんの随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』の中でこう書いています。

<これは私の空想だが、もし、こういう先生が大学におられたら、私はひょっとしたら、大学でも勉強が好きになり、大学院に残って研究生活に入ったかもしれないと思う>

そこまで、思っていたのですか。そうなったら、新聞記者・黒田清は存在しなかった可能性もあるのですね。

<しかし、実際には、そういう“師弟関係”は4年生で終わってしまい、5年生の4月にはクラス替えで、今度は数学の先生が担任になってしまった。この先生も立派な先生なのだが、数学が嫌いな私にとっては好きな先生になれなかった。正直なもので、私は次第に学校の勉強にも飽きるようになった>

ホッとしました。

1945年8月15日に敗戦を迎えたとき、黒田さんは旧制中学の3年生。そのときに出会った沖本先生のことが忘れられないという。

翌46年の春、黒田さんにとってどんな季節だったのだろうか。随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』にはこう書かれています。

<話は違うが、終戦間もなく『女生徒と教師』という刺激的な映画があった。空襲で一緒に逃げていて、防空壕の中で手を握り合う仲になり、たしか女生徒が妊娠するのではなかったかと思う。実際に、女生徒と男の教師が恋愛感情に陥り、結婚するケースもある>

ほんまに刺激的な映画ですね。
防空壕の中で芽生えた恋…ですか。

<私の場合は、好きな先生が異性ではなく、男同士の変な感情を育んでいたわけでもない。しかし、大抵の上下関係はあまり好きでない私なのに、ああいう師弟の信頼関係というのは悪くないなあと、いまも思う>

なるほど。

<私の中学、高校時代は、戦後間もないということもあったのだろうが、懸命に生きていた感じがする。学校の中に「いじめ」の要素などは全くなかった。いまとどこが違ったのだろうか。

アルバムを見ると、4年生の春には、そのころちょっとお目にかかれなかったカメラ「ライカ」を借りて、級友たちと校庭の木に跨って撮った写真を八つ切りに伸ばしている。六甲山のロックガーデンへハイキングに行った時の写真もある。何人かはもう亡くなっているが、みんなすばらしい無邪気な笑顔だ>

級友たちとハイキングですか。しかも、ライカを持って。

<一つこれが違ったと思うのは、勉強はほどほどだったことだ。私はもちろんだが、周囲にも塾へ行っている友達はまずいなかった。

 受験勉強はしたが、それで友達と競争するという気持ちは全くなかった。親も、私がどの学校を受験するのかさえ知らなかった。だから、春があんなにすばらしかったのだ>

 受験戦争も今ほど厳しいものではなかったのでしょうか。それとも、いろんな選択肢があったからでしょうか。がどの学校を受験するのかさえ知らなかった。だから、春があんなにすばらしかったのだ>

春をすばらしく感じられるのはうらやましい限りです。

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