ふるさとはフェンスの中に/復帰40年 大阪の沖縄・読谷出身者

平安名さん

記者:栗原佳子

 住民を巻き込んだ地上戦の後、27年間の米軍統治下に置かれた沖縄は、1972年5月15日、日本に復帰した。それから40年。米軍基地の負担は増し、人々を危険にさらし続ける。大阪で暮らす沖縄出身者はふるさとをどのように見つめるのか。「沖縄の縮図」ともいわれるまち、読谷村に生まれ育った4人に聞いた。

<憲法息づく祖国へ>
大阪市生野区に住む平安名常徳(へんな・じょうとく)さん(69)は関西在住の読谷村出身者でつくる関西読谷地区郷友会の会長。中学時代、教師に渡された『あたらしい憲法のはなし』に強い衝撃を受けた。本土の中学生が使う副読本をガリ版刷りしたもので、憲法の理念や内容が易しく書かれていた。
1952年4月28日、日本は沖縄を米軍の施政権下に置きざりにして独立した。平安名さんが生まれ育った喜名(きな)の集落も米軍基地に囲まれていた。米軍・米兵による理不尽な犯罪や事故は日常茶飯事。年を重ね、祖国復帰運動に参画していく原点に「この憲法が息づいている祖国に帰りたい」という思いが常にあった。
沖縄本島中部に位置する読谷村。苦難の歴史は沖縄の縮図だ。1945年4月1日、米軍は読谷村西海岸から沖縄本島に上陸。「チビチリガマ」に代表される「集団自決」の悲劇が起きた。平安名さんもガマ(自然壕)で泣いていた自分をおぼろげながら記憶している。ガマには軍民が同居。緊張が極限に達する中、幼子の泣き声に苛立ち、「殺せ」と日本兵の怒声が飛んだ。
思いつめた母親の手から、間一髪平安名さんをひったくったのは祖母だった。幼子の泣き声が幸いし、結果、ガマの全員は米軍の捕虜になった。唯一、祖母を除いて。ガマを飛び出した祖母は日本兵に追われ、斬り殺されたという。

<「日本語上手ですね」>
上陸した米軍は読谷村にあった日本軍の飛行場を占領、住民たちは各地の収容所に送られた。占領エリアは拡大し、多くの住民は帰る場所も失った。平安名さんの実家も基地の中に消えた。
出向というかたちで大阪に来たのは21歳のとき。「日本語上手ですね」「箸は使えるの」などと言われたことは一度や二度ではない。
金城洪臣(きんじょう・こうしん)さん(72)=大阪市淀川区=も同様の経験がある。読谷村波平(なみひら)の出身で、関西読谷地区郷友会の初代会長だ。家族の猛反対を押し切って東京で進学。そのまま就職し、転勤で大阪に居を移して現在に至る。
「米軍がどんなにひどい事件を起こしても警察の権限も及ばない。こんなややこしいところに一生住みたくないという思いでしたね」。実家は、道路拡幅という理由で米軍に押し潰された。もちろん何の補償もなかった。
それから半世紀。1995年、沖縄で小学生の少女が3人の米兵に拉致され暴行されるという事件が起きた。「復帰したあとだというのに、こんなことがあるのか。自分たちの時代と代わらないじゃないか」。金城さんは関西の沖縄出身者とともに「平和な島を『関西沖縄の会』」を立ち上げる。拠点は大正区。住民の4人に1人が沖縄にルーツを持つ集住地域だ。

<「いまも戦争難民」>
その大正区の教会に赴任して13年目になる牧師の上地武さん(49)。それまで大正区という地名を意識したことはなかった。ここにきて初めて、文化や名前までも隠さねばならない同胞たちの苦難の時代があったことを思い知った。

上地さん

読谷村楚辺(そべ)出身。物心ついたときから米軍基地は隣り合わせにあり、銃を持った兵士が集落を闊歩していた。
復帰当時は小学校5年生。「親たちは『でーじなとーん、大変なことになる』と言っていました。経済が混乱すると、心配だったのんでしょう。でも僕は、日本になれば雪が降るのかな、とか思ってました。子どもですから」
軍隊=アメリカ。テレビで見る「日本」に基地はうつらない。日本になれば基地もなくなると思っていた。でも何も変わらなかった。「でーじなとーん」の意味が見えてきたのは75年の海洋博の頃だった。「本土の企業が入り沖縄の経済はめちゃくちゃになりました。日本になるのはこういうことなのか、と」。
上地さんの本籍地はトリイ通信基地の中にある。基地に沿うように形成された新しい楚辺の集落。公民館には巨大な地図が掲げられている。戦前の集落の図面だ。「いつか帰るという思いなんですよ。僕が生まれたのはキャンプ村。まだ本籍地に帰れない。戦争難民と同じです。戦後67年経っても。復帰から40年経っても」

<「出身は九州」と>
請われて沖縄の楽器、三線を教えることもある。東大阪市の大矢和枝さんは、しかし、かつて沖縄に背を向けてきた。
戦後3年目に読谷村渡慶次(とけじ)に生まれた。高校卒業後、高石市の紡績工場へ。3年間、昼は働き夜は学校に通い保育士の資格を取得した。「生まれはどこ?と聞かれると『九州のほう』。自分から言わなければ隠し通せると思っていました」と振り返る。
大矢さんの父親は米兵。米軍施設で働く大家さんの母親と愛を育んだ。しかし、軍の任務で帰国を余儀なくされる。妊娠はその後わかった。母親は23歳で病死。大矢さんは祖母と母の妹と弟に育てられた。

大矢さん

「アメリカー」「アカブサー(赤い髪)」。小、中学校、激しいいじめにあった。休み時間のたび家に走って帰ったこともある。家族は「いつか見返しなさい」。高校進学率が6割以下の時代、無理をして高校に行かせてくれた。
沖縄と向き合えるようになったのは40代。「アメリカ人の合理的なところも持っているね」。同じ頃、友人に指摘された。それまで否定してきた父親の血を素直に受け入れられた。そして、ふるさとへの思いもまた深まっている。
「以前は『差別』といわれてもぴんとこなかった。でも、沖縄は差別されていると、いまは思う。この前、海兵隊を一部岩国に移転する案が浮上して、岩国が『嫌』だといったらすぐ消えましたよね。しかも玄葉外相は『安心して下さい』って。沖縄の人がずっと言ってほしかった言葉。どうして岩国には言えて、沖縄には言えないのでしょう?」
(続く)

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