消えたメーデー

記者:矢野宏

黒田清さんが感じた季節を知りたくて、遺作の一つ、随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』(マガジンハウス刊)を手に取りました。

さて、黒田さんにとっての5月は…。

<「メーデー」という言葉の語感は大好きだ。風薫る5月の初日だから、爽やかなイメージが強い。それに、若い記者時代、毎年メーデーの取材をしていて、清々しい気持ちがした>

5月といえば、メーデーですか。

<メーデーは、5月1日に行われる国際的労働者祭である。いつも赤旗が林立するので、ソ連からはじまったと思いがちだが、そうではなくて、1886年、アメリカの労働者たちが八時間労働を要求したデモがその起源である。1890年から世界各地で挙行されるようになった>

へえ、日本ではどうではいつからなのでしょうか。

<日本では、30年遅れて、1920(大正9)年、東京・上野公園で行われたのがはじまり。この年は、『資本論』の日本語訳が刊行された年で、大杉栄らが社会主義者同盟を結成したが、即日解散。また「クロポトキンの社会思想史研究」で、森戸辰男・東大助教授が起訴されるなど、日本が思想の洗礼を受けつつあった>

なるほど。

<しかし、思想弾圧が次第に強くなる昭和初期を経て、1936(昭和11)年から禁止され、復活したのは敗戦翌年の46(昭和21)年からである。

どちらかと言えば、思想とか、弾圧とか、労働とか、闘争とか、重苦しいイメージと関わっているのに、どうして、私には爽やかなのだろうか>

どうしてなのでしょうか…。

黒田さんにとっての5月といえばメーデー。戦争が終わってから復活したメーデーとは…。

<メーデーがイデオロギーの匂いを強く持っていたのは、昭和20年代までだった。
私が新聞記者になった年、1952(昭和27)年には、いわゆるメーデー事件が起きている>

メーデー事件ですか。

<前年9月に締結された対日講和条約が、4月28日、発効したばかりだった。平和条約が発効し、日本は占領下から独立する。GHQが廃止される。日本人にとって最高のお祭り気分になるはずだが、実際には全く逆の空気が広がっていた。
平和条約には、中国・ソ連が参加しておらず、また平和条約の発効と同時に日米安全保障条約も発効して、米軍が引き続き日本国内に配備されることが、不満の渦となって増幅していたのだ>

なるほど。

<その直後の5月1日、東京のメーデー行事は、神宮外苑を中央会場とし、日比谷公園まで行進して行われる予定だったのだが、平和条約に反対する学生らの参加者が皇居前広場へ進み、警官隊と衝突、催涙弾や投石が飛び交った。いまでは考えられないようなエネルギーが炸裂していた。
この事件で死者2人、負傷者は二千数百人に達した。逮捕されたのはデモ隊員1231人、このうち261人が起訴され、20年後の72年、最高裁で騒乱罪が確定した。
いうまでもないことだが、こんなメーデーが爽やかなわけはない>

では、黒田さんが体験したメーデーとは…。随筆『わが青春のクリスマス 四季の追想』(マガジンハウス刊)の中でこう書いています。

<幸い、私が経験したメーデーは、そんなおどろおどろしいものではなかった。
昭和も30年代に入ると、戦後の暗さが、なんとなく新しい時代の到来を予告するように、ほんのり明るくなってくる。それがあの1956(昭和31)年の経済白書の書き出しになった「もはや戦後ではない」という名コピーだった>

そのころ、黒田さんは読売新聞の記者になっていたのでは?

続きはこのあと…。

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