きょうは、黒田さんの命日

きょう23日は、私の恩師である黒田清さんの12回目の命日。仏式でいう13回忌である。
亡くなったのは2000年の7月23日のこと。
1週間後の大阪市北区の太融寺で営まれた葬儀には、猛暑の中、1300人が参列し、黒田さんとの別れを惜しんだ。
黒田さんは、1976年から読売新聞大阪本社の社会部長として、大型企画を連載するなど思い切った社会面を作る一方で、事件などにも強く、次々に特ダネを放った。
いつのころからか東京のジャーナリズムは、黒田さん率いる大阪読売社会部をそれまでの常識を破る「新しい新聞記者」集団として「黒田軍団」と名付け、もてはやすようになっていた。
だが、私にとっての黒田さんといえば、社会面の片隅に連載したコラム「窓」である。
交通事故で息子を亡くした母親の寄せた便せん6枚に及ぶ手紙は「大きい車どけてちょうだい」のタイトルで全文掲載され、大きな反響を呼んだ。
結婚を前提に付き合っていた恋人から被差別部落の出身であることを突きつけられて破局、自殺未遂を図ったという28歳の女性の手紙を掲載したことにより、同じように部落差別や民族差別で苦しむ人々の心の叫びが寄せられる場にもなった。
だが、黒田さんが新しい新聞作りを目指し、大阪独自の紙面を作っていくことは東京本社製の記事をボツにしたり、小さく扱ったりすること。しかも、同じ読売新聞でも保守系政権寄りの東京本社からすれば、反戦・反差別を自由に標榜し、政府を叩き、警察を叩く大阪読売社会部は目の上のたんこぶ。84年に社会部長を解かれ、「窓」以外の仕事を取り上げられてしまう。
退社したのは、それから3年後の87年1月。さらに1ヵ月後の誕生日に「黒田ジャーナル」を設立。黒田さんが退社後、月刊『文藝春秋』に連載した「新聞が衰退するとき」にあった「読者の顔が見える新聞を作りたい」という一文に引かれ、文字通り、海を渡って設立したばかりの黒田ジャーナルの門をたたいたのだ。
黒田さんが目指すジャーナリズムとは……。
<いまの世の中には、弱者がいっぱいいる。病気の老人、子どもを亡くして悲嘆に暮れている母親、障害を持っている人たち、いわれのない差別を受けている人たち、人にだまされて倒産してしまった人、いじめを受けて毎日真っ暗な心で暮らしている子ども……。
もっとも、世の中には弱者ばかりがいるのではない。また弱者といわれる人たちの中でも、幸せな毎日を送っている人と、そうでない人たちがいる。
そんな人たちをみんなひっくるめて、幸せな人には少しでも長く幸せが続くように、不幸せな人には少しでも幸せに近づけるようにしてあげたい。そして、人を幸せに近づけようと努力することが自分の幸せにつながるということが実感できるような生き方をしてほしい。
そのためのジャーナリズム活動をしたいというのが私の考えである。だから、人間から、家族から幸せを奪うものとは闘わなければならない。その最も大きいものは戦争と差別だと思うから、戦争反対と差別反対を二本の柱としていきたい、というのが、私の気持ちである>
さらに、黒田さんはこうも書いていた。
<私は、ジャーナリストがいろいろなことを書いたり話したりするのは、あくまでもよい社会を作るためであり、幸せな日常生活を守るためであり、その目的の範囲内で、さまざまな表現が許されるのだと思っている。それに、いまのマスコミの多くの記事がそうであるように、誰に向かって何のために書いているのかわからない“建前記事”を書いているようでは、それこそジャーナリストなどとはおこがましい。
人に訴える力を持っているのがジャーナリストなのだと思う。訴えるためには相手の顔が見えなければできない。相手の息遣いが感じられなければできない>
きょう23日は、「新聞うずみ火」7月号の発送日でもある。B5版32ページ、毎月発行で、月300円。
一面は、黒田さんが心を寄せていた沖縄についての特集。橋下改革によって潰されようとしている市民交流センターの識字・日本語学校も取り上げた。「私らの学び舎を奪わんといて」――という声を届けたい、と。
購読希望者は、うずみ火(uzumibi@lake.ocn.ne.jp)まで。(矢野宏)

Comments Closed