黒田さんの反戦の原点は「空襲体験」

昨日に続いて、黒田さんの思い出にしばし浸かっていたい。
私の手元に「窓友新聞」の追悼号(2000年8月号)がある。黒田さんが亡くなった1ヵ月後に、私たち黒田ジャーナル記者たちが発行した最後の新聞である。
「黒田さんの足跡」の中で、黒田さんが新聞記者を目指した理由について著書『オール3の思想』から抜粋していた。
<再軍備反対の運動がまきおこっていた。それ以外に真剣に考えるものはないと思うくらいに、そのことは私にのしかかっていた。空襲や徴兵の夢をよく見た。しかし、この問題を解決できるのは何だろう。政治なのか、宗教なのか、と考えながら、なぜか私は動かなかった。ただ、この問題をふくめて将来の方針を決定しようと思った。いっけん、唐突のようだが、新聞記者になろうと思ったのはこのごろのことである>
朝鮮戦争最中の1952年2月のこと。
その年の12月、黒田さんは、大阪進出を果たしたばかりの大阪読売に大学新卒の第一期として入社する。
ジャーナリストとして、反戦・反差別を貫いた黒田さんの原点は空襲体験だった。
45年3月13日夜の大阪大空襲。旧制中学2年のときに盲腸炎で入院し、腹膜炎を起こして絶対安静の状態だった。
<3月13日深夜からの大阪大空襲の日には、梅田の小さな外科病院のベッドで身動きもできずに、火に囲まれた。焼夷弾の雨が降った深夜の街で、木造の病院は炎に包まれ、火がメラメラと板塀を焼き始めたのがわかった。腹膜炎の手術から1カ月、開腹したまま横向けになることさえ禁じられていたが、焦げ死にするのを待っていることはできない。ふらつく足で起き上がろうとしたところへ、父が差し向けてくれた大八車で、店の若い衆が助けに来てくれた>
九死に一生を得た黒田さんだったが、6月に入ってからも危ない目に遭う。
<学校の校庭の隅の防空壕にもぐっていたとき、1トン爆弾が6発落ち、一番近くの一発が不発弾だったため助かった。この時が一番、死に近かったように思う>
空襲体験者の「記憶」を「記録」に残すべく、この春にはDVD「堺大空襲」(全4巻)を制作した。その上映会と体験者の一人、浜野絹子さんの講演を8月11日(土)午後2時から堺市民会館で開く。黒田さんの追悼集会を兼ねて。

(矢野宏)

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