ヒロシマ被爆者の声

記者:矢野宏

 東京電力の福島第一原発事故から1年5カ月。今も放射性物質が放出され、汚染は続いている。事故を起こした原因も責任もあいまいなまま、関西電力大飯原発が再稼働した。核の恐ろしさを知る被爆者の声に耳を傾けたいと、被爆67年の「原爆の日」に広島を訪ねた。

原爆投下時刻の午前8時15分を広島市中区の平和記念公園で迎えた。5万人が参列した「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」。「黙祷」の合図に合わせて平和の鐘が鎮魂の音を響かせる。

この1年で亡くなったか、新たに死亡が確認された被爆者は5729人。死没者数は28万959人となったという。

松井一実市長が平和宣言を読み上げ、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきた被爆者の切なる願いを世界に伝えたいと述べ、「世界中の皆さん、被爆地で平和について考えるため、ぜひとも広島を訪れてください」と呼びかけた。

福島第一原発事故の被災者に対して、「前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります」と力を込めた。だが、政府には「市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」と訴えたものの、「脱原発」という言葉は一言も出てこなかった。

野田首相は「脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指す」と語った。

何と空疎な言葉であることか。

動員学徒慰霊塔

原爆ドームの南にある「動員学徒慰霊塔」の前でも慰霊祭が行われた。
主催者の「広島県動員学徒等犠牲者の会」によると、太平洋戦争中に全国で勤労奉仕に動員された学徒は3百数十万人で、戦禍に倒れた者は1万人あまり。その半数を超える6000人以上が原爆死を遂げたという。

会長の寺前妙子さん(82)は、学徒動員で広島中央電話局に出勤していて被爆した。爆心地から550㍍。寺前さんは当時15歳、進徳高等女学校(現・進徳女子高校)の3年生だった。
電話交換手としての勤務は、午前7時と8時、9時からの3交代制。8時勤務の生徒たちは電話局の屋上で朝礼中に被爆、その大半が焼け死んだ。9時勤務の生徒たちも通勤途中だったため、行方不明者が多いという。

寺前さんは7時勤務で、電話交換の仕事を交代するため、廊下に整列していた。
「窓から青空を眺めたとき、キラキラと光り輝いて落ちてくるものが見えました。ずんずんと大きくなりながら落ちてくるので、何だろうと思った瞬間、『ピカッ』と炸裂したのです。真っ白な世界に変わったかと思うと、『ドーン』という大音響が鳴り響き、真っ暗闇になりました」
寺前さんは何かの下敷きになり、気を失っていた。意識が戻ると、「お母さん、助けて」という声があちこちから聞こえてきたという。

このとき、寺前さんは顔面を切って大きな傷を負い、左目もなくしていた。
暗闇の中、手探りで階段にたどり着くと、動員学徒や女子挺身隊たちが折り重なって倒れていた。外を見ると、闇が広がり、街が燃えている。早く逃げなければと、2階の窓から飛び降りた寺前さんは、炎の中を火の手が上がっていない東に向かって逃げた。やっとの思いで京橋川の河畔までたどり着き、後ろを振り返ると炎が迫っていた。川岸には焼けた皮膚をぶら下げた人たちが並んで、向こう岸に向かって両手を挙げ、何か叫んでいる。渡ろうにも橋が燃え出していたのだ。

不安と恐怖の中でたたずんでいると、担任の脇田千代子先生が来てくれた。向こう岸まで100㍍ほどあるが、泳いで渡らないと助からない。先生に抱えられながら懸命に手足を動かした。「あのとき、脇田先生がいらっしゃらなければ、私は死んでいました」

意識を失いつつ、脇田先生に抱きかかえられて救護所へ向かう途中、「助けてください」「お母さんの所へ、連れてってください」などと言う声を耳にした。先生に尋ねると、建物疎開の作業に出ていた中学生たちが体を焼かれ、熱い道路に倒れ、もがき苦しみ、助けを求めているのだと教えられた。

官公庁や軍事施設などを空襲から守るため、建物疎開地域に指定されると強制的に立ち退かされ、家屋は取り壊された。広島市では133カ所が指定され、中学校や女学校、国民学校高等科の1、2年が動員された。被爆当日も屋外作業にあたり、6300人が亡くなっている。

救護所にも大勢のけが人が治療を待っていた。寺前さんを救護班の兵隊にゆだねると、脇田先生は他の生徒を助けるため、再び戻って行った。

5日後、父がようやく探し当ててくれた。一発の新型爆弾で広島の街が壊滅したこと、女学校の1年生だった妹が建物疎開の作業に動員されて被爆、翌日亡くなったことを知らされる。

疎開先の五日市町(現・佐伯区)に戻ってから、寺前さんは40度の高熱に苦しめられ、全身に紫の斑点が出た。脱毛、嘔吐、歯茎からの出血など、原爆症に悩まされた。顔の傷口も化膿してウジがわいた。

奇跡的に一命を取り留めたものの、顔の傷を鏡で見たとき、一人泣き崩れたという。
「これからこの醜い姿で生きていかなければならないのかと思うと、死んだ妹に対しても『あんたは死んでよかったね』と言い、恩人である先生に対しても『助けてもらわなくてもよかったのに』とも思いました。でも、原爆で殺された妹や動員学徒のためにも生きなければと思い、少しずつでしたが、生きる希望を取り戻していきました」

戦後、消息を探し続けた脇田先生が45年8月30日に亡くなっていたことを知るのは被爆から33年後のこと。

「お礼も言わずにお別れしたことが残念でなりません」という寺前さん。せめてもの恩返しになればと、その年から 「語り部」として自らの被爆体験を語り始めた。

寺前さんは戦後、政府が被爆した動員学徒への援護をなかなか認めなかったことを振り返り、「無責任さは今も変わっていないのでは」という。さらに、福島で生活しなければならない人に対して「何とか元気に生きてほしい。そのためにも、広島の実情を知ってもらいたい」と訴えた。

8.6ヒロシマ大行動

広島県立総合体育館で開かれた「8・6ヒロシマ大行動」の集会で、佐々木澄江さん(73)が被爆体験を語りつつ、福島への思いを語った。

佐々木さんは6歳のとき、西観音町(現・西区)の自宅で被爆した。爆心地から1・3㌔の距離だった。「突然、家の廊下の白いカーテンが真っ黄色に光りました。次の瞬間には目の前が真っ暗になり、煙や埃にまみれていました」

爆風で家は潰されていた。ほどなく職場から駆けつけた父と一緒に家族4人で己斐町(現・西区)へ一時避難したが、2週間後には焼け跡へ戻ってきた。
「焼け焦げたトタンやがらくたを拾い集めて父がバラック小屋を建てました。工場の大きな煙突が1本焼け残り、夜はとても恐く感じましたが、辺りにキラキラ輝くたくさんの星がとてもきれいでした」

焼け跡での生活は沼田町(現・安佐南区)に知人を頼って引っ越しをするまで続いた。
原爆投下から2、3年すると、父親の体調が日増しに悪化していく。白血病だった。
「ピカドンさえなけりゃあのう」というのが口ぐせで、50年に血を吐きながら死んだという。
放射線被爆による「後(こう)障害」。被ばく後に速やかに生じる急性障害とは異なり、数年ないし、数十年後に出現する放射線障害である。広島市によると、被爆後5、6年が経過した50年ごろから白血病患者が増加し、55年頃からは甲状腺ガン、乳ガン、肺ガンなど悪性腫瘍の発生率が高くなり始めたという。

被爆から58年後、佐々木さんは乳がんを患う。再発するのではないか、と今でも不安感に包まれているという。

「福島の子どもたちのことが心配です。5年、10年後、何が起きるかわかりませんから。しかも、きちんとした検査も受けられていないと聞きました」

佐々木さんはあいさつをこう締めくくった。
「国の政策で原発を進め、事故が起きると責任のなすりあい。事故は収束していないのに、休止していた原発を再稼働させたことに怒りを感じます。核兵器廃絶、再稼働反対という大きな声を上げないと国は動きません」

原爆死没者慰霊塔に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」の文字。「核と人類の共存はありえない」という被爆者の声に耳を傾けてきただろうか。原子力の完全神話を支えてきたのは私たちの無関心だったのかもしれない。

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