「犠牲繰り返させない」抗議と怒り

オスプレイ 沖縄に強行配備

記者:矢野 宏、栗原佳子

米海兵隊の新型輸送機オスプレイが10月1日、米軍普天間基地に強行配備された。すでに本格運用が始まり、「未亡人製造機」の異名を持つ欠陥機が、日米で合意した運用ルールを無視して住宅密集地の上を低空で飛び回っている。県民の抗議の声が高まる中で米海軍兵による集団強姦致傷事件も発生した。犠牲を強いられる沖縄の怒りにあらためて耳を傾けた。

宮里洋子さん(72)は毎朝、那覇市の自宅から宜野湾市の普天間基地のゲート前へ通う。抗議の意を込めた座り込みだ。『イマジン』『ウィ・シャル・オーバーカム』――。フェンスの向こうの米兵に聞かせたいと、英語の反戦歌を仕込んだラジカセを持参する。
基地問題に関する県民大会としては復帰後最大の10万1000人が参加した9月9日の県民大会。県内41全市町村議会の反対決議。島ぐるみのノーも全く顧みられることなく、配備は強行された。

「もう怒りを通り越してむなしいですよ」と宮里さん。

それでも気力を振り絞る。「黙っていたら現実を受け入れることになる。オスプレイが墜落したら人が死ぬ。私たちの子や孫に犠牲者が出ないとも限らないでしょう」


配備強行を目前に、抗議の市民数百人が普天間基地の主要なゲート前に座り込み、3日間完全に封鎖。非暴力による直接行動で島ぐるみの怒りを体現した。

 

 

座り込みに高齢者

ゲート封鎖を、という市民団体の呼び掛けはツイッターやフェイスブックで広がり、運動とは無縁の市民も座り込みに加わった。特に白髪頭が目立った。逮捕されても生活に影響が出ないとして高齢者が身体を張ったのだ。座り込み開始を前に、宮里さんは「万が一のときも身元がわからないよう携帯電話などは持たないで行く」と話していた。

ゲート前には沖縄県警の警察官が出動。座り込もうとする市民の腕をわしづかみにした。小柄な宮里さんも強い力で警官に手足を抱えられ、二度も運び出された。

緊迫した状況の中、ついに3カ所の主要なゲートを市民が完全封鎖。しかし配備前夜の30日、200人を超す機動隊が投入され強制排除に動く。午後は大山ゲート、日が落ちてからは野嵩ゲート。抵抗する市民が次々とゴボウ抜きにされた。宮里さんはワゴン車の屋根に乗り、夢中でカメラのシャッターを切り続けた。



盾を手にズラリと並ぶ機動隊員を前に「恐怖はなく、ただ腹立たしかった」という宮里さん。同じ沖縄の人間同士が対峙する構図。フェンスの向こうには時に談笑しながら顛末を見守る米兵たちがいた。

宮里さんは辺野古や、ヘリパッド建設が強行される東村高江に通い続けてきた。知人には「基地なんて、なるようにしかならんさ」――反対しても仕方ないよ、という人もいる。それでも声を上げないと、と自らを奮い立たせる。その原点には戦争体験がある。

宮里さんは座間味島出身。67年前の沖縄戦で、島民は旧日本軍の強制によって「集団自決」に追い込まれた。当時、宮里さんは4歳。壕の中で「死ぬのはいや」と叫んで逃げ出し、生き延びた。



沖縄戦で沖縄は捨て石にされた。それは今も変わらない、と宮里さんは考えている。そして「戦前と同じ、沖縄に対する差別が今もある」と。

戦争体験が原点に

大阪市福島区の海江田登美子さん(74)は9月9日の県民大会に海を越えて参加した。

「これまでも、あらゆる人殺しの兵器が沖縄に入ってきているのに、それでも足りないというのか。それも『未亡人製造機』といわれるオスプレイを押しつけるとは。ハワイでは住民が『ノー』といえば通るのに、日本では『ノー』が通らないのでしょうか」

那覇市生まれ。沖縄戦当時は7歳だった。北部に避難し、8月になるまで祖母と叔母、兄の4人で山中を逃げ惑った。「自決」を選ばなかったのは祖母が「命どぅ宝(命こそ宝)」という信念を持ち続けていたからだと思っている。

「そんな『命どう宝』の島になぜ、人殺しの兵器が押し寄せてくるのでしょうか。沖縄は今でも戦場に直結し、人々は今でも占領軍のままの米軍に苦しめられています」

海江田さんも、沖縄戦の生き残りの一人として絶対納得がいかない、という。

墜落事故忘れぬ

兵庫県尼崎市の伊波(いなみ)修さん(64)は53年前の悲劇を重ね合わせる。「なぜ、オスプレイを強制的に配備するのでしょうか。米軍機は実際に落ちたことがあるのです。落ちないという保障はない以上、反対しなければ」
1959年6月30日。嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が石川市(現・うるま市)の住宅地に墜落、宮森小学校の校舎に激突して炎上した。児童ら18人が犠牲になり(児童1人は大学進学後に後遺症で死亡)、210人が重軽傷を負った。当時6年生の伊波さんも頭部に全治3カ月の重傷を負った。いまも、左頭部に傷跡が残る。事故を起こしたジェット戦闘機は、整備不良の欠陥機だった。

梅雨明け間もない、快晴の暑い一日だった。2時間目の授業終了後の「ミルク給食」の休憩時間。脱脂粉乳を飲み終わったところに突然の爆風が襲い、教室の窓ガラスが吹き飛ばされた。「戦争が始まった」。爆弾が落ちたと思った。

ガラスの破片で頭部を切って血だらけになっていたが、痛みは感じなかった。校庭に出ると、米兵や児童の親たちで、もうごった返していた。

すぐ隣の教室はジェット戦闘機のエンジンに直撃されていた。そこで親戚の伊波正行君(享年12)が亡くなった。

「魚釣りにメンコ、よく一緒に遊んでいました。母子家庭できょうだい2人。おばさんが泣き叫んでいた姿を今も忘れることができません」

伊波さんの妻、秀子さん(65)は同じ石川出身。ジェット戦闘機が火を噴いて宮森小学校に落下するのを目撃した。伊波さん夫婦は、この事故を題材にした映画『ひまわり~沖縄は忘れない、あの日の空を』の制作に協力、カンパや観賞を広く呼びかけている。 「あの日、人生が止まってしまった人たちがいることを知ってほしい。正行君のお母さんのような悲しい思いをするような人が二度と出ないようにするためにも、絶対にオスプレイ反対です」

若い世代に変化が

那覇市の我喜屋あかねさん(23)は今春、関西大学を卒業し、地元沖縄で社会人の一歩を踏み出した。県民大会にも参加、「赤を身に着けた何万人もの人々の熱気は生まれて初めて体感するものでした。レッドカードを突きつけ、『頑張ろう』と高く拳を突き上げる。もしかしたら何かが変わるのかもしれない」と思ったという。

しかしオスプレイは予定通りに配備され、「ルール」を無視して傍若無人に飛び回る。

「頭上を見たこともない巨大な二翼の機体が飛んでくる。ふてぶてしさすら感じるその堂々とした飛行ぶりは、結局ダメなのかと、喪失感すら感じた」と我喜屋さん。ただ、一方でこのことが若い人たちにも今までにない変化をもたらしているとも感じている。

「これまで『しょうがない』としてあまり語ろうとしなかっ子も、『オスプレイは許せない』と明らかな拒否感を持つようになりました。楽しい宴席でも話題にのぼります。これからの沖縄はどうなってしまうのか、何か出来ることはないか、どうすればより良い沖縄を築けるのか――と。私たち若い世代一人一人が、明確な意思を持ち、これからの沖縄について真剣に考えていく。今回のオスプレイ配備はそのきっかけとなったのかもしれません」

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