九州のウチナーンチュ

「強制疎開」で家族引き裂かれ

記者:栗原佳子

 太平洋戦争末期の沖縄戦を前に、当時の政府は沖縄の住民10万人を、九州と台湾に疎開させる方針を決めた。「口減らし」などの軍優先の論理によるもので、家族は強制的に引き裂かれていった。戦後は、その地にとどまった人たちも少なくない。宮崎と福岡を訪ねた。
門柱のシーサー、店の看板には「沖縄そば」「泡盛」「サーターアンダギー」……。三叉路の突き当たりには魔よけの「石敢當(いしがんとう)」まである。宮崎市波島(なみしま)地区はウチナーンチュ(沖縄の人)が多く住む地域。伝統のエイサーも脈々と受け継がれ、地元では「リトルオキナワ」とも呼ばれる。

「私たちが来たころの建物がそのまま残っていて、当時の面影がありますよ」

山内武さん(74)はリトルオキナワの歴史を知る生き証人。強制疎開で沖縄を離れ、以来、ここに暮らす。

「足手まとい」対象に

1944年7月7日、サイパンが陥落。政府は同日中に緊急閣議を開き、沖縄から九州へ8万人、台湾へ2万人の計10万人の疎開を決定した。対象は老幼婦女子。沖縄が戦場になれば足手まといになり、戦闘員の指揮や食糧確保に支障をきたすという軍の論理だった。

学童の集団疎開も決まった。原則国民学校3年生から6年生の男子だったが、実際は低学年や女子も含まれた。日本軍は「制海権」を失い、船舶による移動は危険そのもの。最大の悲劇が44年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた「対馬丸」の遭難だ。学童775人を含む1418人が犠牲になった。

しかし、軍はかん口令を引き事実を隠蔽。疎開船は米軍上陸を目前にした45年3月まで出航した。

一週間で帰れると

「まだ子どもですから旅行気分。学童疎開で同級生たちと行きたいと思っていたんですが、母親が反対して、母と妹と弟と私で疎開することになったんです。1週間くらいで帰れると思っていました」

山内さんが乗船したのは夏。船倉は蒸し暑く、甲板は焼け付くように熱かった。鹿児島から汽車で宮崎へ。疎開者300人余りが列を連ねて田んぼ道を延々と歩き、たどり着いたのが波島(当時は東大島)だった。軍需工場の社宅が未使用のまま空いていた。

「こんな冬の寒さは経験したことがありませんでした。霜も雪も初めて。裸足ですから霜焼けになって」

一方、17歳から45歳までの男子は「県(国)土防衛の要員として」疎開を禁止されていた。沖縄に残った父とは、戦後になってもついに再会できなかった。どこでどんな最期を遂げたかもわからない。

残された母は幼い子ども3人を抱え異郷で懸命に働いた。「焼酎を作り、塩を作り……。ヤミの仕事です。戦争で被害を受けた人たちが、生きるがために必死だったのです」と山内さんは声を詰らせる。漆職人になって母を助けた。ちなみに、いま宮崎を代表する工芸品に育った「宮崎漆器」は、疎開した琉球漆器の職人がはじめたものだ。

国策によって家族が切り裂かれ「戦争は非戦闘員の一番弱いものが苦しめられる」と述懐する山内さん。逆コースをたどりはじめたような動きを憂える。「戦争は絶対ダメ。やはり教育しかないと思うんですよ」

山内さんの夢は、必死に生きた沖縄の母たちを思い、この波島の地に、いつか「母親像」を建てるのが夢だという。

戦後もさらに苦難

伊波健さん(77)は宮崎県小林市で終戦を迎えた。首里出身。酒造所を営む一家は三手に分かれて九州へ疎開した。2つ上の姉は対馬丸と同じ船団で学童疎開、伊波さんは母らと45年2月の疎開船に乗った。真冬の玄界灘にもまれ、船酔いに苦しめられたが、結果的にはその荒波が敵艦をかく乱し魚雷攻撃を阻んだという。

初めて経験する九州の冬。やはり寒さが身に染みたという。「いまでも忘れられないのは、ある朝、医院の前で女性が凍死していたことです。若い沖縄の人でした。栄養失調もあったのかもしれませんが、沖縄の服装では耐え難い寒さだったのだと思います」

重い結核で寝たきりの父は、最後の疎開船で海を渡ってきた。波間に米軍の潜水艦の潜望鏡が見え隠れするという死と隣り合わせの航海。家族との合流を果たし、鹿児島で息を引き取った。

残されたのは女性と子どもばかり。戦後も苦難は続いた。ふるさとに帰りたくても帰るに帰れない。食糧難の時代はそんな伊波さんら沖縄からの疎開者たちにさらなる苦しみを強いた。「配給でも、私たちがいることで地元の人たちの取り分が減りますから……。差別や偏見がきつかったです。何かあると新聞も『沖縄の人がまた』と。新聞を読むのが辛かった。沖縄はアメリカに占領されていましたし、独立した朝鮮人が羨ましかったです」

戦後、教師の道を歩んだ伊波さんは現在、福岡県小郡市に暮らしている。「戦争は体験したものでないとわからない」と、好戦的な安倍政権の誕生を憂える。 「首里で44年10月10日の『10・10空襲』を体験した私たちは、宮崎の疎開先・西小林でも空襲警報のたび防空壕に飛び込み笑われました。『臆病だ。竹やりで落とせばいいのだ』などと」

しかし終戦5日前、西小林に米軍の戦闘機が飛来、機銃掃射で児童ら10人が死亡、18人が重軽傷を負った。「西小林の人は初めて空襲の怖さを知り、警報が鳴ると防空壕に飛び込んでいました。戦争の怖さは体験しないとわからない。どんな名目があっても、どんな大義名分を作ろうが戦争は絶対すべきではありません」

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