今月の核 高橋宏 放射能に故郷を追われて

「戻れない」浪江町の現実

 1月27日、堺市のサンスクエア堺で、福島県浪江町出身で避難生活を強いられている方の話を伺う集いが開催されました。『放射能に故郷を追われて』というタイトルで、主催したのは原発震災を受け止め考える堺の会(本紙でお馴染みの海老澤徹さんたちが発足させた会で、私もメンバー)です。現在、堺市在住中の紺野昌則さんと、知り合いの鈴木大久さんが話をしてくださいました。

 まず海老澤さんが配布資料などに基づいて浪江町の汚染状況について簡単に説明した後、紺野さんが事故発生当時を振り返り、話を始めました。

 紺野さんは酒屋を経営していて、地震の時は最初の揺れで冷蔵庫などを押さえていたのですが、2度目の大きな揺れで棚の酒瓶が一気に倒れたそうです。地震後、30分ほどで津波が来ましたが、後で見回ったところ、海の方の700世帯ほどが総なめになってしまっていました。

東電社宅の異変

 原発事故については、避難所になっていた役場のテレビで10㌔圏内の避難情報がテロップで流れ、そこから急きょ、避難命令になったようです。紺野さんは普段から原発に批判的で関心も高かったため、町内にある東京電力の社員寮にバスが何台も横付けにされ、社員や家族が慌ただしく乗り込む様子を見て異変に気づいたといいます。

 事故直後、東電は自治体向けに避難用のバスを手配したようですが、双葉、大熊、富岡町といった立地町と違い、浪江町の場合は隣接町なので連絡網がしっかりしておらず、そういった対応はありませんでした。その後、20㌔圏外にある学校に町民は主に車で避難しましたが、幹線道路が1本だけだったため、「普通なら30分ほどで行ける所を車が集中したため、7時間近くかかった」そうです。

 紺野さんにとって悔しかったのは、津波の難を逃れて助かった人たちがいたらしく、その人々が灯していたと思われる灯りが見えていたにもかかわらず、消防が朝一番で救助に行こうとしたところへ避難命令が出てしまったため、捜索に行けなかったことでした。原発事故のために、救える命を救えなかったわけです。また、自身は大阪の親戚を頼って避難してきましたが、堺市をはじめとした自治体の対応は非常にスピード感があって助かったと言います。

 一方、「関東に避難した人は、福島ナンバーだったらガソリンを入れてもらえないなど、辛い思いをしたらしい。車も、福島ナンバーだとほとんどが傷つけられたりしたそうだ」とのことです。

町民ちりぢりに

 続いて鈴木さんが話をしました。鈴木さんは味噌や醤油の製造を営んでいましたが、地震の最中は、店の中にある300㌔近い水槽が4㍍近くずれてきたのを押さえるのに必死だったそうです。11日の夜はテレビを付け放しにして地震と津波の報道を見ていましたが、「原発に関する情報はほとんどなかった」といいます。翌朝、片付けを始めようとしたら、町の広報車が回ってきて10㌔圏外への避難を呼びかけ、初めて原発事故を知ったそうです。

 さらに20㌔圏外へと避難指示が広がった後で、町が指示した避難先は町内の津島地区でしたが、千人ほどの地区に、市街地の1万人余りが避難していき、避難所には入りきれなかったため、さらに西へ避難をせざるを得ず、この時点で浪江町民はバラバラになってしまったとのことでした。

 鈴木さんは「後から分かったことだが、浪江の市街地よりも津島地区の方が汚染がひどかった。3号機の水素爆発があった時に、避難所の周辺には白い雪のようなものが降ってきたが、町民は普通に外に出ていた。防護服を着て駆けつけてきた警官や自衛官によって、自分たちが危険な場所にいることを知らされた」と、情報が不十分であったために町民が危険にさらされた事実を明かしました。「事故から2年が経とうとしているが、父親は会津若松、母親は東京、私は仙台、子どもたちは茨城と、まとまっていた家族が未だに一緒に生活ができない」そうです。

 その後、鈴木さんは最近の浪江町の様子を撮影した写真を見せ、「浪江町は震災直後から時が止まったままだ。人が1人もいないことを除けば、全く風景は変わっていない」と、復興が全く手つかずの状態であることを説明。「今の福島県にいれば、避難区域外でも毎時0・6マイクロシーベルトの被ばくをする。浪江町に戻るということは、そういう環境の中で暮らすということだ。戻りたくても戻れないというのが現実で、放射線の怖さはそこにある」と汚染の深刻さを訴えました。

「仮の町」構想

 浪江町は4月1日に警戒区域が解除されますが、町の除染計画は全く決まっていないそうです。「仮の町」という構想については「住居は提供されるものの仕事の場がない。我々のように地元の人々を相手に商売してきた人間にとっては、お客が全国に散らばってしまっている。商売を再開したくてもできない。放射能で追われた人間は、津波で追われた人々とは悩みの違いがあると思う。建物はそのまま残っているなど、目に見える被害は一見少ないなど、理解してもらえない部分がたくさんあるからだ」と、原発事故による被害の特殊性を訴えました。

 さらに二人は「東電は『100%補償をする』と言うが、それは3月11日で残っていた建物についての価値であり、10年経てば当然価値は減るし、よその土地に新たに工場などを建てた場合は補償の対象にはならない。その中で浪江町民は選択をしていかなければならない」「不適切な除染が問題になったが、自分も洗浄した水を垂れ流している所を何度も見た。今の除染では効果がないと思う。『地元に戻れば除染の仕事があるだろう』と言う人がいるが、放射能で追われた人間が、なぜ除染の仕事をしなければならないのか」などと、様々な問題提起をしてくれました。

 私たちの知らない被害の実態がまだまだあることを、改めて思い知らされた集いでした。これからも現地の人々の声に耳を傾けていかねばなりません。

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