沖縄・慶良間諸島68年目の「慰霊の日」

強いられた死 遺族訪ねて

太平洋戦争中、国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が展開された沖縄戦。米軍は沖縄本島に先駆け、慶良間諸島に上陸、島の住民たちは日本軍の命令によって「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。犠牲者は約700人。このうち渡嘉敷島では「集団自決」のあった3月28日、村主催の慰霊祭が開かれた。遺族らは犠牲者の名を刻んだ白玉之塔に献花、黙とうし、反戦平和と史実の継承を誓った。(栗原佳子)

サンゴ礁の海が広がる慶良間諸島。那覇市の西方30㌔から40㌔に位置し、太平洋戦争末期には「海の特攻隊」陸軍海上挺進戦隊が配備された。座間味島に第一戦隊、阿嘉・慶留間島に第二戦隊、そして渡嘉敷島に第三戦隊。沖縄本島に上陸する米軍を背後から特攻艇で奇襲するという作戦だ。

しかし、米軍は慶良間諸島を最初に攻略、1945(昭和20)年3月26日、座間味島、阿嘉島、慶留間島、翌27日には渡嘉敷島に上陸した。沖縄本島での戦闘に備え、投錨地を確保する狙いだったとされる。日本軍は自ら特攻艇を破壊、想定外の陸戦に転じていった。

渡嘉敷島では米軍が上陸した夜、壕に避難していた住民たちに、「北山(ニシヤマ)に集合せよ」という軍命令が出た。北山は、南北に長い渡嘉敷島の北端にあり、日本軍は米軍上陸に伴い、この山中に陣地を移動していた。

住民たちは土砂降りの中、何時間もかけて北山へたどりついた。のちに「玉砕場」と呼ばれる軍陣地の背後の谷間で、防衛隊員が村長に伝令した直後、「集団自決」がはじまった。手りゅう弾の多くは不発で、残された人々は、ナタやカミソリなどの生活用具、さらには石や小枝などを手にとり、死に急いだ。軍の方針は「軍官民共生共死」。米軍に投降するのを恐れ、住民に「鬼畜米英」の恐怖を叩き込んだ。

幼い目に映った戦世

村は「集団自決」が起きたこの3月28日を「慰霊の日」と定めている。77年の三十三回忌のあとは自由参拝形式をとっていたが、新村長の方針で、昨年、村主催の慰霊祭が復活した。

「戦世(いくさゆ)のあわり、忘(わし)てぃ忘らりみ(沖縄戦の苦しみ、忘れようにも忘れられない)」――。渡嘉敷港を見下ろす白玉之塔。遺族代表として新崎直恒さん(74)が=那覇市=があいさつに立った。犠牲者を祀る塔には、母と2人の妹の名も刻まれている。その春、一緒に国民学校に入学するはずだった4人の同級生や可愛がってくれた親戚や近所の人たちも。

半農半漁の静かな島に日本軍が駐留するようになったのは、前年の44(昭和19)年9月。村の生活は激変した。将兵は民家に分宿、船は徴用され、小学生まで特攻艇を隠す壕を掘るため駆り出された。

45年3月23日、突如、米軍の空襲がはじまった。米艦船が慶良間海峡を埋め尽くし、艦砲射撃も加わる。そして27日、上陸。大人たちに遅れないよう、6歳の新崎さんは必死に自分の足で後を追った。

途中、濁流に飲まれそうになりながらもようやく北山の集合場所へ。同級生らと無事を喜び合ったのも束の間、陣取った上のほうで手りゅう弾が爆発した。「空をかき消す悲壮の声と共に騒然となり大混乱となりました」「飛び散る血痕、頭部に破片が当たり半狂乱で倒れた女性。言葉で言い尽くせぬ、想像を絶する無惨な集団自決が地獄絵図として行われました」――。

新崎さん家族4人は親戚の輪に加わった。手りゅう弾は不発。集団で修羅場を脱出したが、翌朝、疲労困憊して眠っているところに砲弾が直撃した。母と下の妹(3カ月)が即死。上の妹(3つ)は片腕に重傷を負い、1週間後に亡くなった。

戦争責任 全て国に

戦後、教師の道を歩んだ新崎さん。体験を語ることはほとんどなかったが、2007年の「教科書問題」が沈黙を破らせた。文部科学省が高校歴史教科書の「集団自決」の記述から、軍の強制性を示す文言を削除させるという史実歪曲の動き。新崎さんはこの日の追悼の言葉でも、はっきりとこう述べた。

「『集団自決』がなぜ起こったか。軍命により北山に集められた。海上挺身第三戦隊の駐屯がなければ米軍の上陸はなかった。軍がいなければ、手榴弾は配られなかった。手榴弾がなければ悲惨な集団自決は起こらなかった。そのことは歴史的事実であり、戦争責任はすべて国家にある」

戦前に回帰していくようないまの社会情勢に強い懸念を持つ新崎さん。「『戦争を放棄し戦力を保持しない』、世界に誇れる国の最高法規である『日本国憲法を擁護する』ことが、これからの平和国家の礎である」と締めくくった。

叫んだ「命どぅ宝」

慰霊祭終了後、何人もの友人知人が駆け寄り、ねぎらった。同級生の吉川嘉勝さん(74)も「直恒、いいあいさつだった」と肩を抱いた。同じ教育の道に進んだ親戚同士。「玉砕場」では、同じ円陣の中にいた。

手りゅう弾がなかなか爆発せず、追い詰められていく大人たち。何百人もが死に向かっていく異様な空気を破ったのは、母の叫びだった。「手りゅう弾を捨てなさい。人間は生きられる間は生きるべきだ。『命どぅ宝』だよ」と。

07年の教科書問題。その年9月29日に開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で吉川さんは渡嘉敷島の体験者を代表して証言した。母の言葉を再現し、そして「日本軍の命令、誘導、強制、指示などの関与がなければ『集団自決』は絶対起こっていません。事実は厳然としてある」と力を込めた。

慰霊祭の2日前、文科省が高校教科書の検定結果を公表した。執筆者らの努力で表現は前進したが、07年の県民大会で決議した「検定意見の撤回」はいまも実現していない。吉川さんもまた、戦争の時代を思い起こさせるいまの危うい空気を憂えている。

同じ体験者として

この日の慰霊祭に、座間味島出身の宮里洋子さん(72)=那覇市=が初めて参列した。辺野古や高江へ通い、オスプレイの強行配備に抗議して普天間基地のゲート封鎖行動にも加わった。いまも週数回、早朝のゲート前に立ち、米兵や市民に思いを訴える。

「殺すのも殺されるのも真っ平ごめんです」。原点には軍命令によって住民同士が手をかけあった島の記憶が原点にある。座間味島では米軍が上陸した45年3月26日、住民の「集団自決」が起き、177人が亡くなった。宮里さんは当時4歳だった。
慶良間海峡を隔てて向き合う渡嘉敷島と座間味島。それぞれ別の自治体で、定期航路もない。島の体験は、なかなか共有されにくい。しかも肉親や親戚同士が手をかけあう究極の悲劇。宮里さん自身、体験者であることを公にしたのは、まだ最近のことだ。

姉、弟、そして亡き母には首に傷跡があった。家では戦争の話はタブーだった。

米軍上陸の情報がもたらされ、パニックになった壕の中。一発の手りゅう弾が炸裂した。ほとんどの人は無傷で、さらに追い詰められた。国民学校の校長が妻の首をカミソリで切り、「自決」。国民学校の教諭だった宮里さんの母もカミソリを手にした。「死ぬのは嫌だ」。宮里さんはそう叫んで壕を一人飛び出した。

トラウマに苦しみ

父も国民学校の教諭だった。「師範学校で洗脳され、島の人々を洗脳した」。宮里さん自身、加害の意識が強く、それがなおさら口を重くさせた。

宮里さんは慰霊祭のあと、吉川さんの家を訪ねた。「だんだんものを申せなくっていくのが怖い」。思いは吉川さんと同じだ。特に教育の怖さは身に染みている。

宮里さんはずっと苛まされてきたトラウマについても打ち明けた。夜中に叫んで飛び起きる。睡眠剤はずっと手放せない。吉川さんも応じた。「僕は子どもの頃、雷が怖かった。雷が鳴ると、すぐ布団にもぐってしまうんで、大人たちは『男の子がなんで』ってたんだが」――。

配られた手りゅう弾

宮里さんはこの日、もう一人の体験者を訪ねた。小嶺正雄さん(83)。持っていた手りゅう弾が不発、生き延びた。手りゅう弾は「北山へ」という軍命令が出たとき、防衛隊員が配っていたものだ。
「『軍は手りゅう弾を島民に渡してない』などと言う人がいます。でも当時、民間人が軍の弾薬庫から勝手に持ち出せるわけがないですよね」と宮里さん。自分がいた座間味の壕にも手りゅう弾があった。民間人だけだというのに。

渡嘉敷島では日本軍による住民虐殺も相次いだ。小嶺さんの妻の父もその一人だった。「戦争は人間が人間ではなくなってしまう。子や孫に事実を語り継いでいかないと」。

百二歳の祈り

小嶺さんのお隣は北村登美さんの家だ。102歳の登美さんは数年前まで一人暮らしをしていたが、いまは那覇市の長男、盛武さん(71)宅に同居している。

後日、那覇の家を訪ねると登美さんは「慰霊祭、私も参加したかったですよ」と残念そうだった。毎年「慰霊の日」は必ず、白玉之塔に参拝していた。8歳と5歳で亡くなった長女と次女に、会えるような気がすると。「あの日も、母が、『行って来なさい』と送り出してくれたんですよ」と盛武さんが言い添えた。

夫は出征中。義母と盛武さんら4人の幼な子を連れ、北山へ向かった。登美さんは以前、伝令を聞いたとき、「北山は避難場所として上等だと思って行きました」と話していた。ところが待っていたのは「集団自決」だった。

盛武さんが仏壇に案内してくれた。「上の姉は即死でした。下の姉は1週間くらい生きていて……。上の姉は元気な姉で、空襲警報が鳴ると一番下の妹をおぶって真っ先に防空壕に入りよったそうです」

親戚が輪になり、そこに手りゅう弾が爆発。偶然にも登美さんは無傷だった。瀕死の重体の叔父が「逃げなさい」と声を振り絞った。叔父は、軍と同じ場所に行ったら逃げられないと察し、行くのを躊躇していたという。

祖母に抱かれていた当時3歳の盛武さんも、手りゅう弾の破片が尻に突き刺さった。「『艦砲の食ぇーぬくさ(食い残し)』ですよ」。体内に残る破片のため、いまもMRIの検査は受けることができないという。

我が子2人を失う辛い体験を、登美さんが表立って語ることはなかったが、07年の教科書問題を機に口を開いた。長老として慕われている登美さんが語ったことは、多くの体験者の背中を押した。

「いまも『命令はなかった』という人がいます。でも僕はいうんですよ。『なかった』ではなく、『聞かなかった』ということだろう、と」。

盛武さんは柔和な顔を引き締めた。

「二度とあってはいかんから。未来永劫語りついでいかなくてはならんからね。歴史を歪曲せず、事実は事実として語り継いでいきましょう。そのことが平和につながるわけですから」

新崎直恒さん追悼の辞

戦世の哀(あわ)り、忘て忘らりみ。本村は大義なき先の戦争により、かけがえのない多くの命を亡くしました。人生の道半ばに無念の犠牲を強いられた御霊の心情を察するとき、遺族の一人として、いまだに怒り悲しみがこみ上げてまいります。白玉之塔に祀られる御霊の安らかなご冥福を心から祈念し、哀悼のまことをささげます。

当時6歳で幼稚園でした34人の仲間は、3月の卒園と4月の国民学校入学を楽しみにしていました。幼い人生の門出をかき消すように、村に戦火が迫り、海上挺進第三戦隊の駐屯により、村の生活が激変しました。民家への軍の駐留、運搬船や鰹船の徴用、軍への強制協力、高鳴る空襲警報のサイレン、けたたましく迫るグラマンの爆音、荒れ狂う大人の動揺、防空壕掘り、食料や避難場所の確保等村民は恐怖の日々を強いられました。

父の2度目の出兵で、残された母と妹2人の4人家族の我が家は、避難生活を親戚の家族と共に細々と送っていましたが、イチャチチで偶然出会い、避難生活をお世話になった伊良波家の方々と安全な恩納川に落ち着く間もなく、軍本部近くの北山に集合するよう伝令があり、大雨の中、暗い山を登り、激流の谷を下り、悪戦苦闘の末、安全な場所を求め、自分の足で、自分の身は自分で守る、泣き言も言わず必死に大人の後を追いかけました。

少し遅れて北山の集合場所に着いた我が集団は、大きな椎木(シイノキ)に覆われた広場の斜面の下側に陣取り、久しぶりに友人とも出会い手を上げて合図し、生きていることを喜びあいましたが、先に来た人たちが我を忘れ大声で泣き叫び、地面をも泣き叩き、異様な疾風怒濤の恐怖が眼前にありました。

突然、陣取った上のほうで手榴弾が爆発し、空をかき消す悲壮の声と共に騒然となり大混乱となりました。飛び散る血痕、頭部に破片が当たり半狂乱で倒れた女性。言葉で言い尽くせぬ、想像を絶する無惨な集団自決が地獄絵図として行われました。

運よく我が家族は、集団自決場では手榴弾が爆発せず無事でしたが、29日の明け方、疲れきって眠る我が集団の中に、砲弾の直撃を受け、不幸にも砲弾が炸裂しました。この非情な砲弾の直撃で、愛する母と末の妹を亡くし、片腕に傷を負った妹も後に亡くなり、戦争孤児となった実感さえ知りませんでした。戦世の大混乱の中、伊良波家の方々が守って下さったからです。特に武夫兄さんのご恩は終生忘れることができません。生きる力としての人間力が、この戦争体験で身につきました。「東リ小嶺家」の登美叔母さんとともに、無傷でナガンジュ皮の土手で捕虜になり、まぶしい青い空を見ることができた感動は、昨日のように思い出されます。

鉄の暴風と呼ばれた集団自決がなぜ起こったか。軍命により北山に集められた。海上挺進第三戦隊、船舶特幹隊の駐屯がなければ、米軍の上陸はなかった。軍がいなければ、手榴弾は配られなかった。手榴弾がなければ、悲惨な集団自決は起こらなかった。そのことは歴史的事実であり、戦争責任は、すべて国家にある」

平和を希求する国際社会の一人として〈戦争を放棄し戦力を保持しない〉、世界に誇れる国の最高法規である〈日本国憲法を擁護する〉ことが、これからの平和国家の礎であることを御霊前にお誓いし、追悼の言葉とします。安らかにお眠り下さい。

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