福島・浪江町ルポ 時間が止まったままの街

帰還させない形での復興も

福島県双葉郡浪江町。福島第一原発の所在地である同郡双葉町に隣接するこの町は、西に阿武隈山地、東に太平洋を望む豊かな自然に恵まれており、2万人余りの人々が生活をしていた。しかし、2011年3月11日に町を襲った地震と津波は、海岸線を中心に甚大な被害をもたらし、400名余りの尊い命を奪った。さらに、福島第一原発事故による放射能汚染によって、町のほとんどが帰還困難区域や居住制限区域に指定されたため、全町民が避難を余儀なくされて、今日に至っている。事故から2年余りが経過した浪江町の「今」を取材した。(高橋 宏)

6月7日朝、仙台市内で浪江町から同市に避難している鈴木大久さんと待ち合わせをした。鈴木さんは本紙89号で報告した、堺市で開かれた講演会『放射能に故郷を追われて』で講師を務めた方であり、浪江町の取材をしたいという求めに快く応じてくださった。浪江町は現在、午前9時から午後4時まで立入りが可能となっているが、町民以外が自由に町内を見て回ることは難しい。町に入るには原則的に通行証が必要なため、鈴木さんに協力していただいたわけである。

仙台から常磐自動車道で一路、浪江町を目指した。海岸線から5㌔前後のところを走っていくが、津波被害のためほとんど障害物がなく、遠くに海を見ることができる。水田の一部では田植えも行われており、道路の陸側では真新しい建物があちこちに建設されていた。いわゆる「瓦礫」もほとんどなく、一見すると着実に復興が進んでいるように思われる。山元町から国道6号に入り、さらに南下をしていくと、震災前は森や集落があった場所が「草に覆われた更地」のようになり、遠くに波頭が見える景色が延々と続いた。海岸線をごっそりはぎ取ったような光景に、改めて津波被害の甚大さが伝わってくる。

浪江町に近づくと、辺りの景色に大きな変化が起こった。津波の被害を受けたと思われる建物や、流されてきた車がそのまま放置されているのだ。そして、南相馬市に入るまでと比べて、国道の交通量も激減する。浪江町の入口近くの道路脇にはパトカーが止まっており、警察官が通行する車に目を光らせていた。

手つかずのまま

浪江町に入ると、国道に合流する道路のほとんどは封鎖されており、一部の交差点に検問所が設けられ、町が雇用した警備会社の職員が検問をしていた。

その一つを通過して、私たちはまず、鈴木さんの店舗兼工場(鈴木さんは「こうじや」の屋号で味噌や醤油を製造販売していた)に向かった。町の中心部に入ると、その光景に言葉を失った。倒壊した建物、壁が崩れた建物、ガラスが粉々に砕け散った建物、地割れを起こした道路など、ほとんどが震災直後のまま放置されていたのである。それは、阪神・淡路大震災直後の神戸市内に入った時に目にした光景と、まさに同じだった。覆い茂った雑草や、錆びついた鉄骨、空気が抜けてタイヤがつぶれて放置されている車などが、かろうじて2年余りの歳月を感じさせる。

「こうじや」の新しく立てた店舗兼工場の外観は、ほとんど地震の被害を受けていなかった。だが、隣接する大正時代に建てられた蔵や、旧店舗兼工場、そして自宅はめちゃめちゃに壊れていた。木造の自宅は柱が折れ曲がり、「大きな余震が来る度に、今度こそ倒壊してしまっただろうと思ったのですが、かろうじて立っています」と鈴木さん。家の中は家財道具が散乱していたが、「微量とはいえ放射能に汚染されているため、持って行き場がないのです」と、地震直後から手つかずのままとなっていた。

ネズミが大発生

庭の植木に目をやると「調査測定点」と書かれた赤いリボンが結びつけられていた。鈴木さんは「環境省が勝手に入って測定していったようです。出入り口を応急措置でふさいで避難したのに、どこから私有地に入ったのでしょうね……」と苦笑した。

新しい工場の中に入ると、壁にいくらかのひび割れが見受けられた以外、ほとんど建物の被害は見られなかった。だが、「避難後に一時戻ってきた際に、大量のネズミが入りこんでいたのです。侵入口は下水口以外に考えられないのですが……」とのことだ。よく見ると、パソコンのケーブルがかじられたり、あちこちにネズミの糞が落ちている。製品を運ぶベルトコンベアの上にも糞が落ちていたが、鈴木さんは「食品を扱う機械にネズミの糞など、通常では考えられない。機械は無事ですが、洗えば使えるというわけにはいかないでしょう」と悔しさに唇をかんだ。

事務所や店舗にかけられたカレンダーや、スケジュールを記したホワイトボードは全て、2011年3月のままだった。出荷直前の味噌樽から汁が溢れていたが、「何度か掃除をしたのですが、室温が上がると中で発酵が進んでパンクしたようになってしまうようです」とのことだ。鈴木さんは「浪江町では時間が2011年3月11日で完全に止まってしまっています。原発事故さえなければ、とっくに再スタートが切れていたはずなのですが……」と無念をあらわに言った。そして、「ネズミの被害など、原発事故がなければあり得ないもの。外から見て無事な建物も、すぐに処理ができなかったことで考えられないような被害が進んでいるんです」と続けた。

車内でも高線量

工場の2階の部屋で、途中で購入してきた昼食(浪江町内では飲食物は入手できない)をとった後、私たちは車で町内を回ってみた。JR常磐線・浪江駅の背後に、真新しい体育館が目にとまる。「震災直前に竣工したものです。地震で屋根が落ちてしまったようですが、結局、一度も使われないままです」と鈴木さん。

持参した線量計は、町内ではだいたい毎時1マイクロシーベルト前後を示していたが、鈴木さんによると駅前の車道の凹み部分の地表で毎時100マイクロシーベルトを計測したことがあるそうだ。信じられないような値である。さび付いて雑草に覆われた線路を見ながら踏切を渡り、新設された体育館を横目に見ながら進むと、運動公園内に緑色のシートに覆われた土が堆く積み上げられていた。町内の公共施設などを除染した際に生じた土だった。

しばらく走ると「この先、帰還困難区域」と迂回を促す立て看板(封鎖はされていない)があった。浪江町が作成した「浪江町への立入りのしおり」によれば、帰還困難区域に立ち入る場合は防護服やマスクの着用と線量計の携行が必要となる。そこを通過する際に線量計に目をやると、窓を閉め切った車内であるにもかかわらず毎時2・29マイクロシーベルトを示していた。この場にずっととどまれば、単純計算で車内でも「引き上げられた」被ばく許容限度の年間20㍉シーベルトを超えてしまう。帰還困難区域、居住制限区域などを線引きで区分けするのは不可能なこと、そしてこのように高線量の土地に人を帰すのは不可能なことを痛感せざるを得なかった。

私たちは津波被害に遭った海沿いの集落跡を訪ねるため、市街地に戻る形で車を走らせた。道路から町並みを見ると、倒壊を免れた建物の方が多いように感じる。ただ、無傷の家屋はほとんどなく、屋根にビニールシートがかけられた家が多かった。鈴木さんは「外から『視察』すれば、戻ってきたらすぐに住めるように思われるかも知れませんが、2年余りの間に雨漏りなどで、家の中はひどい状態です。天井や床が抜けたケースも多々あります」と言い、「屋根も含めて無傷の家がどうなっているか、ご覧に入れましょう」と自宅に案内してくれた。確かに、外見上はほとんど壊れてはいない。しかし、一歩玄関から足を踏み入れると、強烈な樟脳の匂いがした。「工場と同様に、我が家もネズミの被害に遭いました。樟脳はネズミ除けに支給されたものです」。家財道具が散乱した部屋には、樟脳の他に強力なネズミ取りシートがあちこちに仕掛けられていた。昨年の夏以降、たまに帰宅すると多い時には20匹近いネズミがかかっていたそうだ。家の中は、とてもそのままでは住めない状況だった。

見渡す限り雑草

再び海岸線を目指して車を走らせていくと、突然集落が途切れた。震災直後のテレビ映像で目にしたままの、津波被害の跡地が広がっている。所々に建物が残されている他は、見渡す限りの雑草地。その中に、漁船や車が内陸部まで至る所に転がっている。折れ曲がった電柱、積み上がった瓦礫……津波の凄まじさが当時のままに残されていたのである。残された建物には、明らかに新築の住宅もあった。海岸沿いの道を走っていると、そのような光景が延々と続く。残された建物に時折、赤い×印が記されているのが目に止まったが、それは遺体発見を示すものだった。カメラを向けることも出来ず、ただただ絶句するしかなかった。

見晴らしの良い橋の上で鈴木さんは車を止めた。はるか彼方、双葉町の方向に目をやると山の稜線に白い建造物が見える。「あれが、福島第一原発の1号機です。戻ってきたとしても、浪江町民は、あれを毎日見ながら生活していくことになるんです」と鈴木さんは静かに言った。

その後、双葉町との境近くまで車を走らせたが、「この先、帰還困難区域につき通行止め」というバリケードに阻まれ、Uターンをする。原発から約5㌔の地点であった。バリケードの手前の浪江町側は、現在、避難指示解除準備区域。あまりの現実に、線量計の数字を確認することも忘れてしまった。

海岸線から離れ、私たちは再び市街地に戻り、国道6号に出て浪江町を後にした。時折、部屋の片付けなどに戻ってきている町民の姿を目にしたが、暑い中、ビニールキャップをかぶりマスクをして庭の片付けをしているお年寄りもいた。熱中症にならないかと、心配になってしまう。国道を目指している際、町内放送でスクリーニング会場への立ち寄りを盛んに呼びかけているのが耳に入った。帰還困難区域を通過した場合には、スクリーニングを受けなければならない。

南相馬市での別れ際、鈴木さんは「町は何とか住民を帰還させて復興しようと必死になっている。住み慣れた故郷に帰りたい気持ちは皆が持っているでしょう。でも、この現実を前に、住民を帰還させない形での町の復興も選択肢としてはあるのではと思うのです」と言った。

今回見た浪江町の状況、そして鈴木さんが言うような苦渋の選択を迫られる状況、それらをもたらしたものが「原発震災」なのである。最近は復興イメージがことさら強調されているが、取り残され、途方に暮れる人々の存在を忘れてはならない。そして、原発事故が奪ったものを、私たちはまだまだ知らずにいることを自覚しなければならないだろう。

 

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