黒田清さんの足跡

 記者:矢野宏

反骨のジャーナリスト、黒田清さんが亡くなって10年。今回はガンが再発してから息を引き取るまでをご紹介する。

黒田清さんは1931(昭和6)年の2月15日、大阪市北区の天満橋北詰の天満市場前で、製粉工場を経営する父、隆治さんと母、キミさんの5男4女の末っ子として生まれた。

その年の9月に満州事変が起こり、小学校に入学した37(昭和12)年には日中戦争が始まった。後に、黒田さんはこう振り返っている。

「天神さんの裏にあった映画館で南京爆撃のニュースを見て拍手をしていた。それが南京虐殺につながっているなどとは露知らず、提灯行列に浮かれていた」

そんな軍国少年が戦争の恐ろしさを体験するのは、45(昭和20)年3月13日の夜。高津中学(現・高津高校)2年だった黒田さんは大阪・梅田の小さな外科病院に入院していた。前年に盲腸炎、さらには腹膜炎を起こし、2度の手術を受けてベッドの上で絶対安静の状態だった。

そんな身動きできない黒田さんを空爆が襲った。第一次大阪大空襲だ。火勢の近づいてくる恐怖から死を覚悟した時、家から大八車を引いて駆けつけてくれた店員たちのおかげで九死に一生を得た。

だが、その後の大空襲で天満の家も焼失してしまう。

敗戦後、旧制4高から京都大学経済学部に進んだ黒田さんは、準硬式野球部の練習に汗を流す傍ら、カロッサやヘルマン・ヘッセに傾倒する。新聞記者になろうと決意したのは卒業をひかえた1952(昭和27)年2月。その時のことを黒田さんは著書『オール3の思想』(近代文芸社)の中でこう記している。

<再軍備反対の運動がまきおこっていた。それ以外に真剣に考えるものはないと思うくらいに、そのことは私にのしかかっていた。空襲や徴兵の夢をよく見た。しかし、この問題を解決できるのは何だろう。政治なのか、宗教なのか、と考えながら、なぜか私は動かなかった。ただ、この問題をふくめて将来の方針を決定しようと思った。いっけん、唐突のようだが、新聞記者になろうと思ったのはこのころのことである>
その年の12月、黒田さんは大阪進出を果たしたばかりの大阪読売に大学新卒の第1期として入社。田辺、平野の2つの警察を担当する「サツ回り」などを経て遊軍記者になる。事件記者としてもさることながら、黒田さんの力は企画でいかんなく発揮される。57年には、実際に西日本の道路をカメラマンと車で走りながらルポした「悪路5000キロ」、海外旅行の珍しかった65年には、100日の旅を通して着飾らないヨーロッパを綴った「向こう三軒ヨーロッパ」。

74年には、地に足をつけて生きるにはどうすべきかを探る大型連載「日本の道標」、オイルショック後、アラブの心を知って日本人はどうすべきかを探るため自らタンカーに同乗して産油国をめぐった「石油の旅」を連載。75年には長期連載「戦争」をスタートさせた。取材する記者の心情や内幕を紙面に書くという、これまでの記事のスタイルにない方法で、戦後30年語られることのなかった様々な人の戦争体験を綴った大河連載だった。

1976年、黒田さんは社会部長に就任してからもペンを持ち続け、男らしさとはを問いかけた「男」、逆に女らしさを問いかけた「女」、さらには民主主義を考える「われわれは一体なにをしておるのか」、愛国心を考える「日本に生まれてよかったか」などの大型連載で思い切った社会面を作る一方、賭博ゲーム機警官汚職事件などをスクープ、三菱銀行人質事件や茂樹ちゃん誘拐事件などの大きい事件にも強かった。
また、武器輸出事件のように調査報道によるキャンペーンで国会を動かしたり、自分たちの記者活動を書いた『ドキュメント新聞記者』や『誘拐報道』(映画化)、『捜索報道』、『武器輸出』、『警官汚職』(84年度の日本ノンフィクション賞受賞)などを単行本として出版、ノンフィクションの新分野を開拓した。

黒田さんは「新聞記者は記事で訴えるだけではあかん」と、77年から毎年の夏、社会部の記者たち自ら作り上げた「戦争展」を大阪の大丸百貨店で主宰する。それまで戦争時代の遺品などを一堂に公開する展示会はなく、各地で開かれる戦争展の草分けとなった(連載「戦争」と「戦争展」などの社会部活動で85年度の菊池寛賞を受賞)。

1980年からは社会面にコラム「窓」をスタートさせ、交通事故で息子を亡くした堺市の林知里さんの寄せた手紙は「大きい車どけてちょうだい」のタイトルで全文掲載され、大反響を呼ぶ。

また、結婚を前提に付き合っていた恋人から被差別部落の出身であることを突きつけられ破局、自殺未遂を図ったという28歳の女性の手紙を掲載したことにより、同じように部落差別や民族差別で苦しむ人々の心の叫びが寄せられる場にもなった。
いつのころからか東京のジャーナリズムは、黒田さん率いる大阪読売社会部をそれまでの常識を破る「新しい新聞記者」集団として「黒田軍団」と名付け、もてはやすようになっていた。

しかし、同じ読売でも中曽根元首相べったりの東京本社からすれば、反戦・反差別を自由に標榜し、政府を叩き、警察を叩く大阪読売社会部は目の上のたんこぶ。84年には8年半続けてきた社会部長を解かれ、編集局次長専任になった黒田さんは「窓」以外の仕事を取り上げられる。

1987年1月10日、“えべっさん”の本戎の日、黒田さんは35年間勤務してきた読売新聞大阪本社を退社する。「えべっさんの日だったら、ニコニコ笑って辞められるから」。この時、黒田軍団の中で行動をともにしたのは大谷昭宏氏だけ。その1か月後、読売新聞大阪本社からわずか200メートルほど西に離れた太融寺の裏に「黒田ジャーナル」を設立した。

<長い間、マスコミの一員としてやってきたが、どうやら私自身がその中で果たせそうな役割も見えてきたし、そろそろ違ったやり方で、報道という仕事をやってみたいと考えたまでのことである>(文藝春秋刊『新聞が衰退するとき』より)

黒田ジャーナルの中心的な基盤は「窓友会」という会をつくり、『窓友新聞』という新聞を月一回発行すること。大マスコミの中でのミニコミ活動であった「窓」を独立させたものだ。900万部の大マスコミから3000部のミニコミジャーナリズムへ。窓友会を発足させるにあたり、黒田さんはこう語っている。

「幸せな人には少しでも長く幸せが続くように、不幸せな人には少しでも幸せに近づけるようにしてあげたい。そして、人を幸せに近づけようと努力することが自分の幸せにつながるということが実感できる生き方をしてほしい。そのためのジャーナリズム活動をしたいというのが私の考えである」

こうしたミニコミ活動にこだわるのも、桐生悠々(1873-1941)への思いがあった。国家主義が台頭するなか、軍部が大規模な防空演習を行った際、「関東防空大演習を嗤う」という見出しの記事を書き、信濃毎日新聞を追われたのちも、自分で会員制のミニコミ誌『他山の石』を書き続け、その時局批判のため毎号のように検閲でズタズタに削られながらも、亡くなる直前まで発行し続けたジャーナリストである。

その先輩に対して、黒田さんは『窓友新聞』(88年2月)にこう書いている。

<『窓友新聞』は「他山の石」と違って、しごく平凡な月刊誌であり、私が才能の点でも勇気の点でも、悠々の足下にも及ばないのは言うまでもないことだが、しかし殺されてもただでは死なない、言うだけ言って死んでいこうという気がまえだけは、この偉大なる先輩に学びたいという気持ちが強い>

さらに黒田さんは、ジャーナリスト入門講座「マスコミ丼」を東京、大阪で開催、後進を育てることにも力を注いだ。

黒田さんに膵臓ガンが見つかったのは1997年夏。9月末には膵臓の半分と胆のう、十二指腸、小腸の一部を取り除く12時間にも及ぶ大手術を受けたあと、11月21日に退院。翌年1月から仕事を再開させた。2月にはテレビ朝日「やじうまワイド」のコメンテーターに復帰、北海道での講演もこなすようになった。

しかし、2000年1月13日の阪大病院でのCT検査(コンピューター断層撮影)で肝臓に1センチほどの影が3つ見つかった。主治医から「ガンが肝臓に転移したのは間違いない」と告げられる。しかし、自らを鼓舞するように黒田さんはその年の『窓友新聞』2月号「もぐらのたわごと」でこう書いた。

<友人から「ナチュラルキラーズ細胞」の名前を聞いた。新しい仕事などに気力を燃やして闘病すれば“いい細胞”が増え、“悪い細胞”をやっつけてくれるそうだ。

ちょうど、年初に、黒田ジャーナルとして2つの大きい著作にかかることを決めた。どちらも1年がかりの仕事である。さあ、上を向いて、もぐらは進みます>

2000年4月8日には最後の集い、万博公園での花見を楽しみ、20日に「やじうま」に出演したあと27日、阪大病院に再入院。冠動脈にカテーテル(管)を入れて、肝臓に直接抗ガン剤が注入できるような仕掛けをつくる施術を受けた。

注入処理は順調に終わったにもかかわらず、4月末から発熱、貧血、下血などの症状が出るようになる。長期入院を覚悟した黒田さんは、「やじうまワイド」と「ニュースらいだー」の各担当者に自ら打ち切りを伝える電話を入れた。

とりわけ、「ニュースらいだー」は、前身の「ぶっちゃけジャーナル」も含めると、実に4273回という長期連載コラム。3年前の、すい臓ガン手術の際も一日も休載することなく書き続けてきた黒田さんにとっては、断腸の思いだったろう。

7月2日に退院したものの、自宅でも「しんどい」と横になる時間が増え、18日ごろから食事もとれなくなり、体重も40キロそこそこに。しかし、「8月号の『もぐらのたわごと』はいつまでや」と最後まで『窓友新聞』の締め切りを気にかけ、仕事への意欲を失わなかった。

22日午前零時過ぎ、大阪・摂津市にある摂津医誠会病院に緊急入院。午後5時、主治医から治療の限界を告げられる。翌23日午前2時25分、膵臓ガンのため死去。69歳。

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