カテゴリー別アーカイブ: 14.ドイツの旅

「空襲NO!」国境越え訴え

記者:矢野宏

東京、大阪の空襲被災者に同行し、2月11日から8日間、ドイツの空襲被災都市を訪れた。

▲ドレスデン空襲犠牲者の碑

第2次大戦、ナチス・ドイツによる加害の反面、米英軍の無差別空爆でドレスデン、ベルリンは廃墟となり、ハンブルクでは3万5000人もの市民が犠牲になった。空襲を生き抜いた体験者たちが言葉を越え、国境を越えて、空からの虐殺を繰り返さないことを誓い合った。

関西空港からドイツ・フランクフルト空港まで12時間。空港で東京組と合流したあと、国内便に乗り換えてさらに1時間、最初の訪問地・ドレスデンに着いた。街は一面真っ白で、氷点下の世界だった。

ドレスデンはドイツ東部・ザクセン州の州都で、人口50万人ほど。戦後は東ドイツ領となり、ライプツィヒと並ぶ工業都市として発展、統一後は観光都市としても賑わっていた。

▲エルベ川沿いに立ち並ぶ宮殿や大聖堂

街は「エルベの誓い」で名高いエルベ川を挟み、南北に分かれている。南側の旧市街地のエルベ川沿いにはバロック様式の壮麗な宮殿や大聖堂が立ち並んでいる。空襲で破壊された「聖母教会」は戦後、その残骸をさらしていたが、ガレキから掘り起こされた石材を活用して2005年に修復された。焼けた黒色と新しい白色の石材がモザイク模様を描き出している。

かつて「エルベ川のフィレンツェ」と呼ばれた古都・ドレスデンが英米軍によって空爆されたのは1945年2月13日から14日にかけての両日だった。避難民が流入し、当時の人口は80万人を超えていたという。

13日夜からの英軍の2波による無差別爆撃と、翌14日の米軍の爆撃で市街地の8割近くが廃墟となり、2万5000人が亡くなったと言われている。ドレスデンには重要な軍事施設もなく、ナチス・ドイツが降伏する3カ月前だったこともあり、無意味な市民虐殺として「ドイツのヒロシマ」とも形容されている。

▲「助かったのは私一人だけだった」と空襲体験を話すヨーンさん

今回のツアーを企画したのは、東京で空襲被害者の支援を行っている市民グループ「和・ピースリング」(代表・山本唯人さん)。昨年2月、ドレスデンで日本とドイツの空襲被害者の写真展が開かれたのをきっかけに交流を求める声が現地から上がり、日本の空襲体験者や研究者らによる訪問が実現した。訪問団長は大阪大学大学院准教授の木戸衛一さん。作家の故・小田実さんが設立した「日独平和フォーラム」の事務局長で、「大阪空襲訴訟」の呼びかけ人ということもあり、原告団代表世話人の安野輝子さん(72)をはじめ、「支える会」の3人も参加した。

ドレスデンに着いた翌12日、市内の「外国人審議会」の建物でドレスデン空襲の被災者、その支援者との交流会が開かれた。

アニータ・ヨーンさん(80)は空襲で家族を失い、孤児になった。当時12歳だった。

67年前の2月13日午後10時ごろ、空襲警報で目を覚ましたヨーンさんは、両親や祖母らと自宅の地下室へ逃げ込んだ。爆弾の破裂音がとどろくたびに身を硬くしたという。うち一発がヨーンさんの家を直撃、地下室に避難していた14人が崩れたガレキで生き埋めになった。ヨーンさんは薄れていく意識の中で見た、両親のもがき苦しむ姿を今でも記憶しているという。

▲空襲体験を話すケーニックさん夫妻と通訳する木戸さん(左)

16時間後、助け出されたヨーンさんは自宅のガレキを自力で掻き分けて、地下室から両親を助け出そうとした。周りの大人たちも手伝ってくれ、地下室への入り口を掘り当てたとき、両親たちはすでに窒息死していた。

「私よりも年下の子どももいました。それでも助かったのは私一人でした……」

叔父に引き取られ、戦後を生き抜いたというが、ヨーンさんは多くを語ろうとしない。

空襲がなければどんな人生を送っていただろうか。

「上の学校へ行きたかった、成績もよかったので。でも、親戚に引き取られて養ってもらっている身なので、これ以上の迷惑をかけることができません。結局、あきらめるしかなかった。上の学校へ行けないというのは人生にとって不利ですよ」

日本の若い世代へメッセージを求めると、「人の痛みを受け止める大人になってほしい」と静かな口調で語った。

元小学校教師のアルブレヒト・ケーニックさん(81)は妻のクリスタさん(76)と一緒に出席した。

アルブレヒトさんは当時15歳。郊外に住んでいたため、空襲による被害は免れた。だが、突然、ナチスの関係者がやってきて、近所の若者とともに市街地へ行き、格納庫からピストルやマシンガンなどの武器を取り出すよう命じられた。街は炎に包まれていた。血だらけになって横たわっている老人、わが子の名前を泣き叫びながら探している母親、炎に焼かれて黒焦げになった遺体も目の当たりにした。「まさに地獄絵だったよ」。炎が武器庫にも迫ってくる。ケーニックさんらは一目散に逃げた。

ナチから逃れたものの、英軍による空襲が再び始まった。ケーニックさんは近くのアパートへ逃げ込んだ。ほどなく、一発の焼夷弾がアパートの屋根を突き破り、ベッドの上に転がった。身動きできなかった。その部屋の住民がベッドごと外へ放り出し、事なきを得たという。

▲東京大空襲の体験を語る二瓶さん

「一秒でも遅かったら、私は今ここにいないかもしれない」と、ケーニックさんはため息をついた。

この日の交流会を主催したのは、ドレスデンの市民グループ「1945・2・13」。87年に設立されて以降、空襲体験の「記憶」を若い世代に継承してもらうため、「生きた証」と題した写真展を開いたり、学校への啓蒙活動を行ったりしている。

さらに、戦争犠牲者はドイツ人だけではないと、ナチス・ドイツが空襲した英国のコヴェントリー、スペインのゲルニカなどを訪れ、空襲被害者との和解にも努めている。

一方で、気になる動きも出てきた。ネオナチの存在だ。特に、失業率の高い旧東ドイツの若者の間で広がりを見せている。ドレスデン空襲を「爆弾ホロコースト(大量虐殺)」と位置づけ、ドイツ人の被害をことさら強調して加害の事実を消そうとしており、そんな動きにも警戒を強めている。

ヨーンさんは「私たちの世代は少なくなっていき、いつかはいなくなります。私たちの体験を次の世代にどう受け継いでもらうか。被害と加害とを混同してはいけません。そのためにも、戦争を仕掛けられた被害者と話し合うことで心の痛みを共有し、『和解』していくことが大事なのです」と語っていた。

空襲から67年を迎えた2月13日。市民団体「1945・2・13」などによる追悼式典が三王教会で行われ、45年3月10日の東京大空襲を体験した二瓶治代さん(75)が市民ら100人を前に体験を語った。今年で8回目を数える追悼式典で、日本の空襲被災者が体験を話すのは初めて。

当時、二瓶さんは8歳、両親と兄と妹の5人家族だった。

「10日の深夜、父に起こされて外へ出ると、街は一面火の海でした。父に手を引かれて逃げる途中で防空頭巾に火が付いたので、手を離した直後、火の風に吹き飛ばされてしまいました。道端に倒れた私の上に避難してきた人たちが折り重なるようにして倒れ、意識を失ってしまいました。どれぐらい時間がたったのか。私は折り重なった遺体の一番下から父親によって引きずり出されました。私の上にいた人たちはみんな焼け死んでおり、私は焼き殺された人たちに守られたのです。

炎のおさまった街には黒々とした遺体がいたるところにあリました。子どもを抱いてうつぶせの母親、大きな死体の周りに寄り添っている小さな遺体は子どもたち……。

その前日、『明日一緒に遊ぼうね』と言って別れた友達も、親戚の子どもたちもみんな亡くなってしまいました」

時折、声を詰まらせながら語る二瓶さん。こんな言葉で講演を締めくくった。

「平和を願う気持ちは言葉を越え、国境を越えて手をつないでいければ、きっと戦争のない時代をつくることができると思います。平和を願う心はドレスデンの皆さんと同じです。私もささやかですけれど、これからも空襲体験を語り継いでいきたいと思います」

元医師のシュミーガ・ゴッドフリードさん(82)は「日本でも空襲があったとは知らなかった」と自らの体験を語ってくれた。

空襲当時14歳。両親と二つ下の妹と5歳だった弟の5人で市街地に住んでいた。空襲警報が鳴り、家族は自宅の地下室へ逃げ込んだ。やがて猛爆撃が始まり、炸裂音がするたび、アパートが揺れた。2㌔ほど離れた公園へ避難することになり、家を飛び出すと、街が燃えていた。逃げ惑う人たちでごった返していた。

空襲が収まると、父親は家財道具を取りに戻った。翌14日午前1時ごろ、再び英軍による空爆が始まった。きょうだい3人は公園の木陰に隠れていたが怖くなり、助けを求めて近くの家へ飛び込んだ。その家も焼夷弾によって燃え始めたため、ゴッドフリードさんらは再び外へ飛び出した。その後、父親とは再会できたが、自宅は跡形もなく焼け落ち、親戚や友人たちも大勢亡くなったという。

「二度と繰り返したくない恐ろしい体験をした。私たちは被害者だが、同時に誰がこの戦争を始めたのかを考えねばならない。われわれにも罪があるというところから始めないと、戦争は再び繰り返されてしまう」。日独の戦争責任に向き合う姿勢の違いがその言葉に込められている。

三王教会での追悼式典のあと、旧市街地の周りで市民ら1万人が手をつないで平和を訴える「人間の鎖」が行われた。市庁舎前を出発した訪問団はエルベ川にかかる橋の上で横断幕を掲げ、午後6時からの教会の鐘の音を合図に手をつないだ。

二瓶さんの左手はドイツ人女性としっかりと結ばれていた。「平和を求める気持ちがつながっているんだと思うと、心まで温かくなりました」