『時代を撃つノンフィクション100』(岩波新書)にも引いたが、佐木隆三が「琉球新報」の記者と一緒に、沖縄で親しくなった娼婦と話していたら、突然、彼女がこう言ったという。
「私もう、ものすごく頭にきたことがあるんだ。『琉球新報』に投書させて」
その記者が「いいよ」と応ずると、彼女は「それで、いくら」と聞く。佐木たちは、原稿料のことかと思って、とまどっていたら、彼女は逆に、いくら出せば載せてくれるのかと尋ねていたのだった。
「よく考えてみれば、彼女の感想は、そんなに間違っていないわけです。自分のことを考えてみても、思い当たることがたくさんあるしね。そのときに大げさに言えば、目のうろこが落ちた気がした。つまり、ジャーナリズムというのは大変正義を愛し、公平であるけれども、彼女のほうから見れば、金を出した人間が意見を述べることができるところであるみたいな思い込みがある。彼女なりの新聞の読み方で、新聞というのはそういうものだと彼女が思っているわけです。あとで新聞記者と二人で頭をかかえましたけれどもね」
佐木はこう述懐しているが、「うずみ火」は金で買われるジャーナリズムというか、マスコミへの抵抗から生まれたのだろう。
私は最近、佐藤優から訴えられた。『佐藤優というタブー』(旬報社)に、佐藤が電事連の原発推進の広告に出て、おそらく1000万円はもらっただろうと書いたことが名誉棄損だというのだが、物書きは訴えるより訴えられるものだと思っている私には、佐藤はそこまで堕ちているのかと、ちょっとした驚きだった。
アメリカの新聞などは裁判費用を積み立てていると聞く。訴えられることを覚悟しているわけである。
最近、「文春砲」を放ち続けた新谷学と対談したが、彼のこんな指摘に頷いた。
「いいネタを持っている人は、ややこしい人や面倒な人が多いんですよ。コンプライアンスにとらわれているためか、大手紙の記者はそういう人たちと接触しない」
私に言わせれば「怪しい人」である。「最後のフィクサー」と呼ばれる朝堂院大覚と対談して私は『日本を売る本当に悪いやつら』(講談社+α新書)という共著を出した。一部の友人からは顔をしかめられたが、怪しい人はイコール卑しい人ではない。