敬愛する経済評論家の内橋克人さんが、9月1日に亡くなった。もう少し、「ここ」に居ていただきたかった。わたしたちと一緒に。
内橋さんが最後に見つめた社会や経済やむろん政治が、こんなにも醜悪で、こんなにも偏ったそれであったことが、なんとも無念であり、悔しく申し訳なくてしかたがない。
敢えて乱暴なくくり方をしてしまうなら、猛々しくも醜悪な新自由主義とは真逆の視座から、経済と人間を、経済と政治を、何よりも経済といのちと人権を結びつけてこられた、稀有なる経済評論家が内橋克人という存在だった、と改めて考える。わたしなどは長い間、距離をとって経済というモンスターを遠くから眺めるしかなかった。一部のより多く持つ側にとっての経済を、反対の側から身近に引き寄せて、人が人を生きる土台から紐解いてくれたのが内橋克人さんだった。
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「OTHER VOICES」という名称をわたしが知ったのは、1980年代初めだったろうか。それよりもう少し前だったかもしれない。英語圏、主にアメリカ合衆国の文学シーンでよく使われていた記憶がある。
OTHER VOICES、別の声、周辺の声と訳すことが可能だ。主流ではない声であり、価値観であり、視界でもある。アングロサクソンの男性、それも生産性が高く、高学歴で、高収入といった存在が尊重されるという歪みきった社会構造のもとで、主たる決定権を持った一部とは「違う存在」。たとえばアフリカ系アメリカ人。女性や高齢者、障がいと呼ばれるものがあるひとや人種的少数者、最近になってようやく光が当たり始めたLGBTQのひとたち……。この人たちの声こそ、わたしたちの声でもある、と言える。
「飢えて泣く子の前で文学は何が可能か」と問いかけたのは、かのサルトルだったが、OTHER VOICESが描かれた作品の中には、かすかではあったが、その問いへの、答えが見え隠れしていた。
この混迷をきわめる政治に、社会に経済に文化に新しい風穴を開けて、さらに緩やかでゆったりとした心地いい風が吹く大地に向けて変えていく力(権力的なそれとは別の)となり得るものこそ、OTHER VOICESだと、わたしは信じる。
ニュースにならないニュースは存在しなかったことと同じと言われるメディアで、「うずみ火」が果たす役割は、ここにもあるのだ。市民が、ほんとうに主役である社会を目指して。
雨の中の炎は消えやすい。しかし「うずみ火」は消すことはできない。