新聞うずみ火 最新号

2021年4月号(NO.186)

  • 1面~3面 福島・楢葉町に「原発悔恨の碑」 半世紀の警鐘 後世にも(矢野宏)

    東京電力福島第一原発事故で一時、全町避難した福島県楢葉町に「事故を防げなかった悔い」を刻んだ石碑が建てられ、東日本大震災の発生から10年の3月11日、宝鏡寺で除幕式があった。「電力企業と国家の傲岸に立ち向かって40年 力及ばず」と始まる「原発悔恨・伝言の碑」には「原発は本性を剥き出し、ふるさとの過去・現在・未来を奪った」との避難住民の悔しさが記されている。事故の反省もなく進められる原発再稼働に対し、住職の早川篤雄さん(81)は「このままでは『原発大事故、次も日本』になりかねない」と訴える。

    宝鏡寺は、福島第一原発から南西15㌔の山あいにある浄土宗の寺院。創建は室町時代の1395(応永2)年で、早川さんは30代目住職にあたる。高校で教鞭を取りながら、半世紀にわたって反原発の運動を続けてきた。

    「1971年3月26日を境に私の人生が変わった」と、早川さんは振り返る。福島第一原発1号炉が営業運転を開始した日であり、南隣の広野町で東電の火力発電所誘致が議決された日だった。早川さんは学習会を重ね、確信する。「原発も火力も公害は必ず起こる」

    3年後、国は福島第二原発1号炉の設置を許可した。宝鏡寺から数㌔の場所だった。設置許可の取り消しを求め、周辺住民404人が提訴したのは75年1月のこと。早川さんは原告団の事務局長を務めた。

    一審、二審とも棄却。チェルノブイリ原発を視察した早川さんは「原発大事故、次は日本」と警鐘を鳴らしたが、最高裁は92年に「安全は確保されている」として上告を退けた。

    住民側の敗訴が確定して20年近く過ぎた2011年3月、長年訴え続けた原発事故が現実のものとなる。

    人口8000人の楢葉町は全町避難を余儀なくされた。早川さんが身寄りのない障害者12人を連れて頼ったのは、いわき市の「浜通り医療生活協同組合」理事長の伊東達也さん(79)だった。元高校教師で地元の大気汚染問題に取り組み、市議や県議を務めたあと、反原発運動をともに闘ってきた同志である。

    血相を変え、飛び込んできた早川さんの第一声を、伊東さんは今でも覚えている。

    「伊東さん、とうとうやっちまったよ」

    東電に対し、「地震と津波対策に万全を尽くせ」と繰り返し交渉してきた2人。伊東さんも
    とうとうやっちゃったな」と応じるほかなかった。

    いわき市は一部の市域を除いて福島第一原発から30㌔圏外にあるが、事故直後には放射性プルーム(放射性物質を含む空気塊)が観測されている。それでも避難指示区域に指定されなかったことから被害が小さいと見られ、沿岸部の浪江町や大熊町、双葉町、富岡町などから住民が次々と避難してきた。

    「本物の食べ物をつくろう」と、自然の中で牛を育ててきた酪農家は、原発事故で牧場の土と草が汚染された。「すべてを失いました。牧場という人生の大舞台を失い、心まで死んでしまいました」

    一家で避難してきた農家は、故郷にはもう戻れないと泣いた。「故郷で代々築き上げてきたものが一瞬にしてなくなりました。人生をぶった切られた思いです」

    早川さんも裏の山に山桜をたくさん植えていて、「老後は、春の花、秋の紅葉を楽しんで孫と過ごす日を夢見ていたが全てダメになりました」

    さらに、池で飼っていた体長1㍍の真鯉が7匹持ち去られたり、寺のさい銭箱を盗まれたりしたため、寺の本尊で、町の重要文化財に指定されている阿弥陀如来立像を避難先のアパートに運び込んだこともある。盗難から守るためとはいえ、布にくるんで押し入れに隠していたという。

    「東電は避難者の苦しみをわかっていない。避難者の無念を晴らすためには訴訟を起こすしかない」。12年12月、福島県内の避難指示区域に住んでいた住民ら216人が東電に損害賠償を求めて集団提訴した。早川さんは原告団長として、避難者の生活再建や再出発に必要な賠償を求めて奔走する。

    昨年3月の仙台高裁での控訴審判決は「津波対策の工事を先送りしてきた」と東電を断罪。一審判決の賠償金を上回る支払いを命じた。この時、早川さんは「正義が通った。人間の良識を信じて訴えてきたことが報われた」と涙したが、国と東電が上告したため最高裁で審理が続いている。

    伊東さんも事故から2年後の13年3月11日、原発事故で避難を余儀なくされたいわき市民とともに東電と国の責任を追及する訴訟を起こし、1600人を超える原告団の団長を務めている。3月26日に一審判決を迎えるが、伊東さんの表情は浮かない。

    「裁判長は別の訴訟の判決で、津波対策を先送りした東電の責任を認めませんでした。でも、私たちはひるむわけにはいかない。『事故は起きない』と言い張ってきた東電と国に、加害者としての責任を認めさせるまで闘います」

    この日、早川さんと一緒に「原発悔恨・伝言の碑」を除幕したのは、放射線防護学が専門で立命館大名誉教授の安斎育郎さん(80)。2人の出会いは1973年にさかのぼる。当時、東大助手だった安斎さんは、早川さんらの学習会に講師として駆けつけ、原発の危険性について講義した。

    事故直後、安斎さんから連絡が入った。「反対運動に関わってきたのに、事故を食い止めることができず、申し訳ありません」。早川さんは安斎さんの協力を得て、除染が終わった場所の放射線量をあらためて測定し、住民が戻ってきても大丈夫かどうか調べた。

    碑は縦1㍍、横1・4㍍、重さ1㌧の黒御影石。碑文を書いた安斎さんは「こんな大事故を起こしてしまったことの悔恨がある。この教訓を少なくとも数世紀は伝えたい」との思いを込めたという。

    碑文はこんな言葉で締めくくられている。

    「人々に伝えたい、感性を研ぎ澄まし、力を結び合わせて、不条理に立ち向かう勇気を! 科学と命への限りない愛の力で!」

  • 4面~5面 福島原発の現状と課題 「負の遺産」百年計画で (まとめ・矢野宏)

    新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、昨年12月から中断していた「うずみ火講座」は3月12日、大阪市内で再開した。史上最悪の「レベル7」と評価された東京電力福島第一原発事故発生から10年。京都大複合原子力科学研究所(旧京大原子炉実験所)助教の今中哲二さんが現状と廃炉に向けた課題について語った。

    三陸沖を震源とするマグニチュード9・0の大地震「東北地方太平洋沖地震」が発生したのは10年前の3月11日午後2時46分。震源から東京電力福島第一原発は180㌔、東北電力女川原発までは130㌔とこちらの方が近い。高さ13㍍を超える津波が二つの原発を襲来したが、女川原発は助かった。なぜか。福島第一原発の敷地の高さが10㍍だったのに対し、女川原発は14・8㍍。5㍍の差が命運を分けた。福島第一原発は非常用電源が津波でさらわれ、全電源を喪失。冷却できなくなった核燃料が過熱し、12日には1号機が水素爆発を起こした。14日に3号機、15日には定期検査のため運転を停止していた4号機も爆発。1~3号機の原子炉は炉心溶融(メルトダウン)を起こした。

    2号機が爆発しなかったのは、1号機が爆発した衝撃でたまたま建屋側面のパネルが開き、2号機の中の水素が外部へ排出されたため。4号機が爆発したのは当初、使用済み核燃料プールの水がなくなり、核燃料が冷やせなくなったからではないかと考えられた。そうなると福島第二原発にも近づけなくなる。アメリカの原子力規制委員会は原発から半径80㌔以内に滞在するアメリカ人に避難勧告を出した。調査の結果、3号機の排気筒を4号機も共用していたことが判明。3号機で発生した水素が排気筒を通って4号機へ流入したのが原因だった。

    東京電力の勝俣恒久元会長ら旧経営陣3人が検察審査会の議決により、強制起訴された。巨大津波への対策を怠ったことで業務上過失致死傷罪に問われたが、東京地裁は19年9月、「津波による事故を予見可能だったとはいえない」として無罪を言い渡した。08年には東電内部の作業チームが福島第一原発に15㍍を超える津波が来る可能性があることを指摘。防潮堤をつくる計画もできていたが、旧経営陣が握りつぶした。

  • 6面~7面 原発止めた樋口元裁判長 煙に巻かれる司法関係者(粟野仁雄)

    原発訴訟数あれど運転停止を命じた裁判官は、志賀原発を止めた大津地裁の井戸謙一裁判長、伊方原発を止めた広島高裁の森一岳裁判長、東海第二原発を止めた水戸地裁の前田英子裁判長、そして大飯原発と高浜原発を止めた福井地裁の樋口英明裁判長だ(肩書はいずれも判決時)。
     
    3月7日にエル・おおさかで行われた「さよなら原発 関西アクション」で、樋口英明氏(68)がユニークで素晴らしい講演をした。
     
    まず「裁判所は皆さんが思っているよりずっと健全な組織なんです」と笑わせた。大飯原発について「判決の内容を知ってるのは4人だけ、裁判官3人と書記官1人。所長も最高裁長官も知らず、圧力のかけようもない。当日、被告の関西電力は一人も来ません。負けるとわかっていたから。私はあらかじめ原発が危険なら止める、そうでなければ止めないとはっきりさせた。被告はそれなら勝てないと思ったのです」と淡々と語った。「皆さんは、危険だから止めるのは当たり前と思うでしょう。しかし裁判所ではそうなっていないのです」
     
    原発の仕組みを図を示して説明し「福島第一原発は決して大事なところがやられたわけではない。停電、断水だけで壊滅的なことになる。それが原発の怖いところです」と強調する。

    福島第一原発は二つの奇跡が東日本壊滅から救ったと説明した。
     
    まず2号機。「ウラン燃料が溶け落ち、格納容器は水蒸気と水素で設計基準の倍くらいの圧力になった。爆発寸前。電気が来ず圧力を抜く『ベント』もできず、手動もバルブに行きつくまでに人が死んでしまう。吉田昌郎所長(故人)は死を覚悟し、東日本は壊滅と思った。でも、プスンと圧力が抜けたんです。下の方が開いていた。死の灰を封じ込める格納容器は丈夫ではなくてはいけない。それが丈夫じゃなかったんですよ」
     
    そして4号機。定期点検中で使用済み燃料が水を張った貯蔵プールに入れてあった。「3月11日、停電で水が減ってきた。菅直人首相に聞かれた原子力委員会の近藤俊介委員長は『東京含めた250㌔の避難が必要』と答えた。ところが隣のシュラウドとプールの仕切りがずれた。本来ずれてはいけないがずれてシュラウドの水が燃料プールに入ってとりあえず助かった。しかし高さ30㍍に水を入れなくてはならない。その時、ちょうどいい水蒸気爆発が起きたのです。建屋の天井に穴が開いて上から放水できた。爆発が大規模ならプールの壁を壊し破局でした。偶然でした。また、3月7日に抜くはずのシュラウドの水が工事の遅れで抜いていなかった」。まさに4号機の奇跡。
     
    二つの奇跡で避難者は15万人に収まった。「2号機、4号機のどちらかに奇跡が起きなくても避難者は4000万人で東日本は壊滅した。これが本当の被害の規模です」
     
    踏切のない新幹線と踏切のある近鉄特急に例え、「被害の大きさと発生確率は反比例」すると樋口氏は原発の事故発生率は本当に低いのか?と提起する。「原発は停電と断水で駄目。これをもたらすのは地震。揺れの強さを示す加速度の単位がガル。震度は7までしかないから規制委員会もガルで決める。しかし日本は阪神・淡路大震災を機に2000年以降しか地震観測網はない。806ガルが大阪北部地震。熊本が1780。北海道胆振が1796。20年しか測っていないのに1000ガル以上は18回ある。ところが原発は三井ホーム並みの耐震設計で大飯は405ガル。私が判決を出した時700ガル。今は800。老朽化するにつれ耐震性が上がる。不思議。怪しいでしょ」と笑わせる。
     
    「巨大地震が直撃したら終わり。直撃でなくても危ないのに原発は住宅並みの耐震性。震度6など多く起きる。原発は被害が大きく発生率も高い完全に危険なもの。こんなものは世の中に一つもない。止められない裁判はおかしい」

  • 8面~9面 フクシマ後の原子力 フクシマの教訓広げよう(高橋宏)

    2011年3月11日午後2時46分、私たちが忘れられない、決して忘れてはならないあの時から10年が経過した。「節目の10年」ということで、マスメディアが大量の報道を連日行ったため、改めて人々はあの日、あの時を思い起こしたはずだ。
     東北地方を中心に、2万2000人余りの死者・行方不明者を出した未曽有の大地震・大津波について、語るべきことは山ほどある。だが、発生直後47万人余り、そして10年を経た今なお4万人余りが避難をしている現実をまず、私たちは直視するべきである。この現実を引き起こしたものこそ、福島第一原発事故であった。大地震・大津波は私たちの力ではどうすることもできない自然災害だったが、原発事故は間違いなく人の手によって引き起こされた人災だったのだ。
     史上最悪の原発事故の大きな原因の一つは、地震と津波による施設内の全電源喪失だった。事故前の06年、国会でその可能性を問われた安倍晋三首相(当時)は「日本の原発でそういう事態は考えられない」として、国としての対応を拒否している。また08年、東京電力は福島沖で巨大地震が発生する可能性を踏まえて、シミュレーションを行い、15・7㍍の津波が来るという計算結果を出した。それに基づき、10㍍の地盤の上に10㍍の防潮堤を建設する計画が出されたが、巨額の費用がかかり、住民に不安を与えるとして却下された。
     たとえ全電源喪失の可能性に基づき対策し、防潮堤を建設していたとしても、巨大地震で事故は防げなかったかもしれない。だが、福島第一原発を襲った津波の高さは、ほぼシミュレーション通りの15㍍だったことを考えると、少なくとも史上最悪に至る事故は防げたはずだ。事故は断じて想定外ではない。想定があまりにも楽観すぎた、いや、あえて最悪の想定を無視したことで、想定外を招いたのである。そしてその責任は、誰一人として負っていない。
     チェルノブイリ原発事故をはじめとした、過去の過酷事故が示すように、核エネルギーを扱う以上、常に最悪の事態を想定した危機管理が求められる。だが、日本の原子力政策は「安全神話」にあぐらをかき、経済効率最優先で最悪の事態を想定した安全対策を怠ってきた。その結果、これまで「絶対に放射能を外部にはもらさない」根拠とされてきた「多重防護」が、いとも簡単に崩壊して惨状を招いたのであった。
     「東日本大震災10周年追悼式」における式辞で、菅首相は「震災による大きな犠牲の下に得られた貴重な教訓を決して風化させてはなりません」と述べた。だが、教訓は既に風化してはいないだろうか。いや、そもそも国や電力会社は教訓を得たのか。この10年間に私たちが見てきたものは、新規制基準という新たな「安全神話」を作り上げ、あくまでも原子力開発・利用にこだわり続ける姿ではなかったか。

  • 10面~11面 ヤマケンのどないなっとんねん 震災復興望めぬ腐敗政治(山本健治)

    菅首相と取り巻き政治家と官僚、群がる情報通信関係経営者らの汚い関係が次々明らかになって国民はあきれ返り、これではまともなコロナ感染対策などできるわけがない。利権の塊、森&佐々木発言で汚れた五輪は即刻中止、腐敗だらけの政権も変えなければならないと思っている。
     
    とって代わるべき野党の中心は、東日本大震災・福島原発事故の際に有効な対応ができなかった連中であることを考えると、野党の支持率が上がらないのも仕方ない。維新は吉村大阪府知事がコロナ対策で人気を博し、国政でも勢力拡大しようとしているが、住民投票で負けたにもかかわらず、多数を占める府議会・市議会で中身は同じ府市一元化を進めるのを見て、こんな汚いやり方をする連中に国政を任せられないと思っているし、問題が明るみに出てから維新を離脱したが、市長室にベッドやサウナを置いて寝泊まりしていた池田市長のような首長や議員が何人もいるのでダメだとも思っている。
     
    10年前の3月11日に発生した東日本大震災では、想定をはるかに超えた激震と津波で1万5899人が亡くなり、今も2526人が行方不明で、3775人が震災関連で亡くなった。建物被害は40万5000戸を超え、現在もなお4万1241人が戻れないでいる。福島原発が壊れ、電源喪失で炉心溶融を起こして放射能が漏れ出して避難指示が出され、今も7市町で指示が継続され、復興庁発表では4万3000人が避難を余儀なくされ、仕事や生活面での苦しさだけではなく、人間関係、偏見などから心身の健康面でも苦しみを抱えている。

    福島原発事故などへの対応のまずさから、民主党政権は期待を裏切り、2012年12月に安倍第2次政権が発足、7年8カ月もの一強体制・憲政史上最長政権となった。この間、官僚統制・忖度政治で森友・加計・桜を見る会など権力の私物化と腐敗を招き、支持率が低下する中、安倍首相は第1次政権と同様に健康を理由に政権を投げ出し、昨年9月16日、官房長官として官僚統制・忖度政治の裏人物だった菅氏が後を継いだ。
     
    その菅首相が安倍政権で総務大臣を務めていた際、息子を秘書官にしていたことに絡む疑惑が次々と明らかになり、当時、総務審議官だった山田広報官が、菅首相の息子が秘書官をやめた後に務めていた衛星放送関係会社幹部の接待に応じていたことが明らかになり、追及されるや、政治家と同じ常套手段で入院、NTTの接待にも応じていたことも発覚して辞職。総務大臣を務めた野田聖子・高市早苗両氏もNTTの接待に応じていたことが明らかになり、安倍一強体制の裏で権力の私物化・弛緩・腐敗が底抜け状態で進行していたことを示した。
     
    東日本大震災を契機として実施され始めた国土強靱化対策もゼネコンやヤミ勢力の利権と化している疑惑、また新型コロナ経済対策としての「Go toトラベル」「Go toイーツ」も二階幹事長がからんだ利権ではないかと疑われている。

  • 12面~13面 世界で平和を考える 馬毛島への米軍訓練移転(西谷文和) 

    イラク戦争が始まったのは18年前の2003年3月20日未明。イラクの首都バグダッドにミサイルが撃ち込まれ、夜空に火柱が立った。空爆したのはペルシャ湾に展開していた空母からの戦闘機と、同じくペルシャ湾からのトマホークミサイルだった。その威力は凄まじく、フセインの軍事施設をことごとく破壊していた。

    サダムタワー、航空省、内務省、オリンピック省……。アメリカが空爆しなかったのは石油省だけだった。空爆から半年後、ミサイルで破壊されたオリンピック省の建物に入った。トマホークミサイルの着弾地点には大きな穴が空いていて、そこに雨水がたまり、池になっていた。

    このオリンピック省はフセインの長男ウダイの管轄。長男ウダイは父サダムに輪をかけたような独裁者で、イラクのスポーツ界に君臨していた。ちなみに1994年のドーハの悲劇。イラク対日本戦でこれを勝てばワールドカップというところでイラクが日本に追いつきドロー。あれは「負けて帰ればウダイの拷問が待っている」(苦笑)のでイラク選手も必死だったのだ。
     
    通訳によると、このオリンピック省が空爆されたとき地下室にウダイの愛人が数名、幽閉されていたとのこと。今は池になっているその場所で、閉じ込められ、震えながら死んでいった女性たちに思いを馳せた。
     
    このトマホークミサイルと同時並行で、ペルシャ湾に浮かぶ空母からの戦闘機が飛来していた。様々な爆弾が投下されたが、その中にクラスター爆弾があった。これは長さ2㍍ほどの親爆弾が空中でパカっと割れて、その中から100個近い子爆弾がバラバラと降ってくるものだ。この子爆弾のうち10%くらいにパラシュートがついていて、わざと不発弾になる仕組み。空爆後、子どもたちが不発弾を拾って遊ぶうちに爆発し、大怪我をする子どもが後を絶たなかった。バグダッドのメインストリートを歩くと、片手、片目、片足の子どもたちが私に寄ってきて「お金ちょうだい」。そのほとんどがクラスターの被害者だった。クラスター爆弾は別名「チャイルド・キラー」(子供殺し)と呼ばれている。

  • 14面 辺野古埋め立てに激戦地の土砂 「戦没者への冒とく」(栗原佳子)

    沖縄県名護市辺野古の新基地建設をめぐり、国が激戦地の南部から埋め立て用の土砂調達を計画、遺骨収集を続ける市民団体「ガマフヤー」の具志堅隆松さん(67)がハンストを決行するなど反対の県民世論が高まっている。そんな中、3月18日、搬出元の鉱山の開発届を県が正式に受理した。知事は30日以内に中止命令を出す権限があり、玉城デニー知事の判断が注目されている。

    始まりは軟弱地盤の存在が明らかになり、沖縄防衛局が昨年4月、県に設計変更を申請したこと。これまで8割近くを県外から調達してきた土砂を「県内で全量調達可能」とする内容だった。そのうち7割を糸満市、八重瀬町の「南部地区」から調達する計画だ。
     
    40年前から戦没者の遺骨収集に取り組む具志堅さんは昨年9月、糸満市米須の斜面で2人分の骨を見つけた。ところが11月に訪れると立ち入り禁止のロープ。「熊野鉱山」の看板が立ち、森林も伐採されていた。
     
    「骨も血も吸い込んだ土砂も辺野古の埋め立てに使う。戦没者に対する冒とくだ」と3月上旬、県庁前で1週間のハンストを決行。連日大勢の県民が激励に訪れた。高齢の遺族も多かった。自民県連、公明県本部も防衛局に抗議する事態となっている。
     
    3月17日午後、市民グループ「沖縄平和市民連絡会」の北上田毅さんに現地を案内してもらった。糸満市米須の熊野鉱山は「魂魄の塔」の真横だ。戦後、野ざらしだった3万5千柱を住民が収骨した沖縄で最初の慰霊塔。6月23日の沖縄慰霊の日は参拝する遺族が引きも切らない。

  • 15面 ミャンマークーデター2カ月 「国軍はテロリスト」(矢野宏)

    ミャンマーで国軍がクーデターを起こし、総選挙で圧勝した国民民主連盟(NLD)の代表であるアウンサンスー・チーさんらを拘束してまもなく2カ月。抗議デモへの弾圧は激しさを増し、ミャンマーの人権団体「政治犯支援協会」によると犠牲者は3月22日までに250人を超えた。銃撃だけでなく、拷問を受けて死亡する市民も増えているという。「ミャンマー人にとって地獄の日々が始まった」。現状を日本人にも知ってほしいと、大阪在住のミャンマー人ヤン・ナイン・ウィンさん(34)は訴える。  

    「『デモに出たら死ぬかもしれない』とわかったうえで行く。みんな、国の将来のために、独裁に対し命がけで抗議しているのです」
     
    ヤンさんは最大都市ヤンゴンの北東約750㌔に位置する村の出身。2009年に来日。大阪大大学院で船舶海洋工学を学び、府内の企業で技術者として働いている。

    クーデターが起きた2月1日以降、ヤンさんは現地で抗議する同胞のためにSNSで情報を拡散したり、業務を放棄して抗議する不服従運動に加わっている人を支援したりする募金活動を展開。日本人にもミャンマーの現状を知ってもらうためのウェブサイトも立ち上げた。仕事終わりには2枚のパネルを体の前後にぶら下げて路上に立つ。パネルには「ミャンマーを助けて!」の文字や現地で抵抗する市民の写真が紹介されている。コロナ対策で大声を張り上げることは控え、道行く人たちに静かに訴える。
     
    ヤンさんのもとには連日、現地からニュースが届く。銃撃だけでなく、拷問を受けた市民の死亡や治安部隊の商店襲撃も相次いでいるという。

  • 16面 府市一元化条例案 地方分権の流れに逆行(栗原佳子)

    大阪市の広域行政の権限を大阪府に一元化する条例案が3月中に府・市議会で可決、4月に施行されることがほぼ確実となった。政令市の重要な権限を府に移すという地方分権の流れに逆行した前代未聞の施策となる。

    条例案は大阪維新の会が「大阪都構想の代案」と位置づける。大阪市を廃止し、特別区に分割する「都構想」の本質は、政令市が持つ広域行政の権限と財源を府へ移管すること。昨年11月1日の住民投票で「都構想」は否決されたが、敗北した維新の松井一郎市長、吉村洋文知事はその4日後、「否決されたが、賛成も拮抗した。大阪市を残し、府と市の二重行政をなくしてほしいというのが民意」などとして、条例によって広域行政の権限と財源を府に移譲する方針を打ち出した。

    条例案は2月26日に府議会、市議会には3月5日に上程された。「うめきた2期」のような大規模再開発や「淀川左岸線延伸部」などの高速道路整備、鉄道整備、都市計画の基本的な方針や大阪の成長・発展に必要な広域的な都市計画の権限について府に事務委託するという。
     
    維新は府議会で過半数を占めるが、市議会では届かず公明の加勢が要る。公明は15年の住民投票は「都構想」に反対したが、昨年は一転、賛成に回った。松井市長は「条例案に反対すれば、衆院選の大阪の選挙区に対立候補を擁立する」と繰り返しけん制している。上程された条例案は、基本方針などを協議するトップ会議として知事が本部長、市長が副本部長の副首都推進本部会議を規定しているが、公明は「知事と市長は対等」と示す一文を入れる「修正案」で折り合うと見られる。3月24日に府議会、3月26日には市議会で採決される見込みだ。

  • 17面 愛知知事リコール署名偽造 河村市長辞職求めデモ(矢野宏)

    愛知県の大村秀章知事へのリコール署名の偽造事件で、リコールに反対する市民団体が3月7日、名古屋市中区で「不正は許せない」と訴える集会を開いた。参加した市民ら240人は署名活動を支援した河村たかし市長の辞職を求める決議を採択し、デモ行進した。

    発端は2019年に開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」。企画展に「平和の少女像」が展示されたことなどを問題視した美容外科院長の高須克哉氏が、トリエンナーレ実行委員会の会長だった大村知事のリコール活動を展開。河村市長も街頭宣伝を行うなど、活動を支援した。
     
    集まった署名はリコールに必要な半数の43万筆ほどだが、8割以上に不正が判明。中日新聞と西日本新聞の同時スクープにより、広告関連会社の下請け会社がアルバイトを雇い、佐賀県で署名を大量偽造していた疑いも浮上、愛知県選挙管理委員会の告発を受けた愛知県警が地方自治法違反容疑で捜査している。
     
    さらに、河村市長が10年の市議会リコールで集めた約3万4000人の「受任者名簿」のデータを提供したことまで明らかになったが、河村市長は関与を否定した。

    集会では、中谷雄二弁護士が「河村市長が『平和の少女像』の展示に対し、『日本国民の心を踏みにじる行為』と発言したことで脅迫や抗議が殺到し、展示は3日間で中止に追い込まれた。表現内容に対して政治権力が介入することは許されない」と述べ、リコール活動は河村市長がトリエンナーレの分担金3300万円の支払いを独断でやめたたことに端を発していると指摘した。

  • 18面 朝鮮人空襲犠牲者初の追悼集会 人物特定阻む「創氏改名」(矢野宏)

    太平洋戦争末期の第1次大阪大空襲から76年の3月13日、朝鮮半島出身者の空襲犠牲者を追悼する初の市民集会が大阪市北区で開かれた。これまでに判明した159人の犠牲者の氏名を記した名簿を祭壇に置き、参加者約150人が黙禱をささげた。              

    大阪への空襲は1944年12月19日から敗戦前日の45年8月14日の大阪陸軍造兵廠への大爆撃まで50回を超える。大阪府警備局の「大阪空襲被害状況」(45年10月)によると、空襲による死者は1万2620人。行方不明者を合わせて約1万5000人とされる空襲犠牲者のうち、朝鮮半島出身者が何人だったか実態は今もわからない。

    朝鮮人犠牲者を追悼するため、「大阪空襲被災者運動資料研究会」(空資研)が2019年から名簿作成や空襲体験の聞き取りを行ってきた。大阪国際平和センター(ピースおおさか)が管理する死没者名簿には9117人分が記されているが、民族名(本名)で記されていたのは十数人。多くが「創氏改名」による日本名(通名)で記載されているため、名簿作成は困難を極めた。専門家の分析や文献との照合などで、159人を朝鮮半島出身者と特定した。だが、旧陸海軍関係文書の「内地在住朝鮮人戦災者概数」の中に「朝鮮人戦災者は府全体の8・19%に当たる」とあり、少なくとも1200人が犠牲になったとみられている。

    追悼集会は戦後75年の昨年3月に開く予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年延期した。

    空資研代表の横山篤夫さん(79)が登壇。
    「大阪大空襲の体験を語る会」がこれまで出版した体験記に朝鮮人の手記が寄せられていないことについて「空襲は在日朝鮮人にも過酷な体験だったが、敗戦後は民族差別や祖国の分断が加わり、過酷さが日本人よりはるかに大きかった」と説明した。

  • 19面 米教授慰安婦論文 「再査読し撤回を」(栗原佳子)

    旧日本軍「慰安婦」について「自発的な契約を結んだ売春婦」などと主張するハーバード大教授の論文が米国の学術誌に掲載され、波紋を広げている。マーク・ラムザイヤー氏の「太平洋戦争における性行為契約」がそれ。国内の研究者らは「主張の裏付けがなく、学術論文として認めがたい」などと撤回を求めている。       

    ラムザイヤー氏の論文は昨年12月、「インターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクス」のオンライン版に掲載された。「慰安婦は商行為」「慰安婦は高収入」「慰安婦は性奴隷ではない」など、典型的な歴史修正主義的言説が特徴だ。
     
    1月31日付産経新聞が『慰安婦=性奴隷』説否定」と掲載。ハーバード大の歴史学者はじめ多くの研究者が論文を批判する声明を出すなどした。 日本では3月10日、「慰安婦」問題の学術的ウェブサイトを運営する市民団体「ファイト フォー ジャスティス」と歴史学研究会、歴史教育者協議会などがオンラインの記者会見を開き、論文を批判する声明を発表した。
     
    「日本軍の主体的な関与を示す数々の史料の存在を無視した」などと指摘、「一研究者の著述ということを超えて、日本の加害責任を否定したいと欲している人々に歓迎された」「『嫌韓』や排外主義に根差した動きが日本社会で再活発化している」と懸念を示した。論文は査読を経て掲載されてはいるが、「しかるべき査読体制によって再審査し、掲載を撤回すべき」とした。
     
    14日にはオンラインの緊急セミナーを開催。「慰安婦」研究の第一人者、吉見義明・中央大学名誉教授は「『慰安婦』は被害者との重大な人権侵害を無視している」などと述べた。
     
    ラムザイヤー氏は在日朝鮮人問題、部落問題、沖縄の辺野古新基地建設問題をめぐっても偏見に満ちた論文を書いている。大学HPによると日本で幼少期を過ごし、日本研究への貢献が評価され2018年には、旭日中授章を受章した。

  • 20面 ドキュメンタリー映画「生きろ」 沖縄戦時の島田知事描く(栗原佳子)

    太平洋戦争末期の沖縄県知事・島田叡(あきら)にスポットを当てたドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡ー戦中最後の沖縄県知事」が3月26日の京都・みなみ会館を皮切りに関西でも上映される。沖縄戦の渦中で一人の行政官がどう行動したのか。佐古忠彦監督は元部下らの証言や新資料を積み重ね人物像を浮き彫りにした。

    佐古さんはTBSアナウンサーとして「筑紫哲也NEWS23」などのキャスターを担当。劇場用ドキュメンタリー映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー」2部作に次ぐ最新作だ。
     
    主人公の島田は神戸市出身。太平洋戦争末期の1945年1月31日、単身で沖縄県知事に赴任した。島田は警察畑が長い内務官僚。米軍上陸が時間の問題となる中、県外や北部やんばるへの大規模疎開などを推進した。3月26日に慶良間諸島、4月1日には沖縄本島に米軍が上陸、地上戦が拡大する中で、沖縄県庁も壕を移動しながらの行政運営となる。5月末、沖縄守備軍第32軍は本土決戦を遅らせるため持久戦を選択し、首里の司令部を放棄して南部へ撤退。軍民が入り乱れる戦場で多くの住民が犠牲になった。
     
    そんな中、島田は6月15日、県庁職員幹部らとともに避難していた壕で「県庁解散」を宣言。行動を共にしていた部下らに「死ぬな」などと説いたという。6月23日、牛島満司令官が自決。島田も荒井退造警察局長とともに摩文仁で消息を絶っている。「軍官民共生共死」が32軍の方針。佐古さんは、島田が最後に残した言葉を知り、島田という人間に興味をひかれたという。
     
    土台となったのは13年に放映されたTBSの報道ドラマ「生きろ」。ドラマとドキュメンタリーを組み合わせ、島田らを描いたもので、ドキュメンタリー部分を佐古さんが監督した。この頃から、いつかドキュメンタリー映画にできないか構想していたという。だが残された島田の写真は数枚。映像も音声も存在しない。その壁を打ち破るため、関係者や遺族らの取材を通じ、語りと数々の証言によって「人間・島田叡」を描いた。
     
    摩文仁の丘には戦後、島田ら殉職県職員を悼む「島守の塔」が立った。旧制中学、大学と野球選手としてもならした島田の顕彰碑は神戸の母校と沖縄にも。一方、戦争に協力したとして批判の声もある。
     
    「軍に協力しながら住民の命も守らないといけないという二律背反の中で苦悩したと思う。島田への批判はありますが、功罪を提示し、今と違う時代背景の中、抗えない権力を前に『個』として何をなしたかに注目したかったんです」 26日に京都・みなみ会館、27日に大阪・第七芸術劇場、神戸・元町映画館で、それぞれ佐古監督の舞台挨拶がある。

  • 21面 経済ニュースの裏側 アホノミクス(羽世田鉱四郎)

    米国の株式市場での異変が話題に。大手ヘッジファンドの空売り(先行き価格の下落を意図)に対抗し、個人投資家たちが株を買いまくり、値を上げて抵抗しました。
     
    超高速取引(HFT) その中心になるのが、プログラムで自動的に売買注文を繰り返す電子取引。1秒間に数千回もの取引やキャンセルを繰り返す。取引所のシステム内にサーバーを併設(コロケーション)し、大口注文を瞬時に察知(フロントラン)し、先回りして売買を繰り返して薄く広く利益を剥ぎ取る。FX(外為証拠金取引)で横行したが、今や株式、債券などにも広がる。年金など、巨額の資産を運用する機関投資家は、リスク軽減のため分散投資をするが、HFTの標的になっています。「株の流動性を高めている」と弁明するも、単に売買高をかさ上げしているだけ。米国では売買高の6割以上を占める。HFTは毎回のポジションがゼロになります。 
     
    日本の現状 2010年、東証が取引システム「アローヘッド」を開設し、コロケーションサービスを開始。今では、成約の4割、発注の6割がコロケーション経由。HFTは3割。大半は海外勢か?オペレーターは香港、シンガポール、豪州で遠隔操作し、日本の証券会社を経由して大量の注文を発注。またサーバーの中に私設取引所を設置し、意図的に値付けする売買も(ダークブール)。取引所の売買記録は秒単位で、HFTのマイクロ秒のデータは記録できない。えじきになるのは生保、投資信託など大手機関投資家。アベノミクスで、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が国内株、外国株を積極運用。日銀も、株の集合体であるETF(上場投資信託)を爆買い。ETF市場54兆円のうち8割を買い占め(20年9月末34兆円)、日本で最大の大株主に。「20年12月末で、GPIF45兆270億円を上回る46兆5600億円に(野村証券の試算)」。日本のHFTは19年春で約60社が登録。SBI・三井住友FGも参入(2月20日付朝日新聞)。 
     
    大きな懸念 中央銀行が GDP(542兆円/20年12月)を上回る総資産(690兆円/20年9月末)を持ち、しかもリスク資産の株(ETF34兆円)を保有する事例は世界でも例がなく、金額も突出しています。また国債保有残高530兆円(20年9月末)のうち大半が長期です。市中の推定では平均利回りは0・247%(19年)。この1年の買入れ48兆円は利回り0%の長期国債が中心。現状は0・2%前後かと。かって日本国債の空売り(国債下落、金利上昇)を試みたヘッジファンドがいましたが、現状はさらに危険性が高まっています。米国の金利が上昇したら、金利を上げざるを得ません。中央銀行が債務超過に陥り、通貨の信認が揺らぎます。
     
    先日、近くの郵便局で衝撃を受けました。10年の定額貯金の利率が0・001%。日銀の爆買いによる強引な長期金利の抑え込みという不自然な金融政策。過疎に悩む地域が多いのに、支える地域金融機関の自助努力を超えています。一人の政治家の私利私欲から始まったアホノミクス。致命的な禍根を残すでしょう。

  • 22面 会えてよかった 屋宜光徳さん(上田康平)

    (1968年から2年の沖縄特派員時代は)沖縄中が燃え上がっている頃で(後半)一人で全部取材し、記事を書いた。そうしてみて初めて新聞記者を続けようと気持ちが固まった。それまでこの仕事が自分に向いているのだろうかと思っていたが。
     
    そんな筑紫さんのことを屋宜さんは「支局長になったとたん、元気になった。だんだん熱心に」
     
    「沖縄は記者が勉強するのにいいところだと思う。記者クラブがきつくなくて、筑紫さんは自由な取材、覚えたのでは」

    67年11月、日米は安保堅持、沖縄基地の維持を確認し、米国が沖縄の施政権を返還すると取り決める。
     
    68年1月末、米国は琉球政府行政主席の公選(住民による直接選挙)を認める。
     
    68年11月、初めての主席選挙で革新共闘会議が推す屋良朝苗さんが保守候補を破って、初代公選主席に当 選。核抜き本土並み、 即時無条件の日本復帰 を望む住民の気持ちを 反映したものだった。

    02年、読谷村に生ま れる。戦前、戦後の教
    員を経て、50年から沖縄群島政府文教部長、
    52年から教職員会会長に。復帰運動に取り組
    んだ。

  • 23面 落語でららら 崇徳院(さとう裕)

    春になれば心が弾む。毎年そうだったが、今年はそうもいかない。近畿では緊急事態宣言は解除になったが、それでも光明が見えない。花見や行楽に恋に、心ウキウキのあの頃が懐かしい。春によくかかる噺に「崇徳院」がある。
     
    出入りの大家に呼ばれた熊五郎、若旦那が恋の病で明日をも知れん容態やという。渋る若旦那から恋のいきさつを聞いた熊五郎。若旦那は数日前に高津神社で出会った女性にひと目惚れ。別れ際にもらった紙に「瀬を早み岩にせかるる滝川の……」と崇徳院の和歌の上の句が書かれていた。下の句「割れても末に逢はむとぞ思ふ」がないのは、いずれ後に会いましょうの意味が隠されていると旦那に事情を説明。と、すぐにも相手を探せ、見つけたら今までの借金は棒引き、別にそれ相当の礼もする。喜び勇んで大阪中を探し回るが見つからない。毎日黙って歩いて探していると言うと嫁に、せっかくの手掛かりがあるのに、なぜそれを使わないのかと叱られる。
     
    で、風呂屋と散髪屋を尋ね歩き、崇徳院の歌を大声で叫ぶ。と、ある散髪屋でその歌が好きなのは、うちの母屋の娘やと棟梁風の男。さあ、うちへ来い。こっちが先やと2人はつかみ合いに。はずみで散髪屋の鏡が割れる。あんたら、どないしてくれるんやと散髪屋。熊五郎「崇徳院の下の句や、割れても末に買わんとぞ思う」。
     
    噺は初心(うぶ)な男女の初恋譚で、ほほえましい限り。歌も百人一首の有名なものだから、歌の作者にもなにやらほのぼのした思いを抱くのだが、実は崇徳院は怨霊になった伝説の上皇。わずか3歳で即位するも、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子(なりこ)の子、躰仁親王(後の近衛天皇)を即位させるため、23歳で譲位させられ、自分は上皇に。時あたかも源平の勢力争いのただなか、院政を敷いていた鳥羽法皇が崩御すると、法皇に疎まれていた崇徳院は藤原頼長らと乱を起こす。が、平清盛らに制圧され、讃岐に流される。これが保元の乱(一一五六年)である。
     
    その後、様々な迫害を受け、讃岐で崩御。死後、多くの災厄が続けて起こったため、崇徳院の祟りと噂され、恐れた後白河院は怨霊を鎮めるため、保元の乱の戦場であった春日河原に「崇徳院廟(のちの粟田宮)」を作った。
     
    不遇の死後、社会に祟り怨霊になったと恐れられた人物としては、菅原道真や平将門が名高い。が、崇徳院も江戸時代には有名な怨霊で、日本三大怨霊ともいう。
     
    落語「崇徳院」にはそのような怨霊伝説は、微塵も影を落としてはいない。しかし、噺の作者は崇徳院をどのように見ていたのだろう。私は案外、崇徳院を密かに鎮魂する思いを、この噺にこめたのではないのかと思う。でなければ、怨霊になった上皇の和歌を、こんなに楽しくもほほえましい初恋譚に、大切な鍵を握る歌として、はめ込まないと思うのだが、どうだろう。

  • 24面 極私的日本映画興亡史 第1章活動写真事始め(三谷俊之)

    明治という時代は歴史の大きな転換期であった。青雲の志を持った青年たちが躍動した時代でもあった。新しい文明の象徴である活動写真にも、大いなる野心を持った青年たちが関わっていった。前回の横田永之助がそうだし、駒田好洋(本名・万次郎)もその一人だ。前川公美夫・編著『頗る非常』(新潮社)によれば、「1877(明治10)年7月、大阪の呉服屋に生まれる。少年時アメリカ密航を企てるが、資金難から放浪2カ月で帰国。上京して宣伝広告代理業の広目屋に勤める」とある。新井商会がエジソン社のヴァイタスコープを輸入。97(明治30)年3月6日、神田錦輝館で公開するにあたり、宣伝を広目屋に依頼した。弱冠19歳の事務員だった駒田が興行を任された。リュミエール社のシネマトグラフは大阪で7日前に公開されていたが、東京ではヴァイタスコープが3日早く公開されたわけだ。
     
    この新時代の産業の磁力に、駒田は強く惹き付けられた。披露興行への参加をきっかけに活動写真を通じて、新しい文明を日本全国に広げるという使命感を持った。やがて駒田は「日本率先活動大写真会」と名付けて独立。「日本率先」というのは「日本のさきがけ」という意味だという。「アメリカ帰り、エジソンの弟子」と自称。巡業隊を率いて、交通不便な時代に、北は北海道から南は鹿児島まで、人気弁士兼興行プロデュサーを兼ね、日本各地で興行を続けた。西洋音楽も紹介したいとブラスバンドも結成、巡業先ではその音楽隊を先頭に行進した。
     
    「長身で色白く、美貌な駒田は、シルクハットに燕尾服といった格好に、軽快な指揮棒を振って、その先頭を颯爽と行進する。いや、その見事さといったら胸がすくようでした」(田中純一郎『日本映画発達史』)
     
    上映には黒のフロックコートを着て現れ、右手で天を指して、『天上天下唯我独尊、頗(すこぶ)る非常大博士』とのたまい語り出す。弁舌爽やかだが、「頗る非常に」という言葉を多発、これが流行語になるほどの人気を呼んだ。輸入フィルムに頼るだけではなく、日本人による日本人のフィルムをつくろうと、小西写真機店に撮影を依頼。同社の同年齢の店員、浅野四郎を日本初の撮影技師として実験的な撮影を始める。99年、駒田はゴーモン社製のムービーカメラを購入。料亭「紅葉館」で3人の新橋芸者が踊る場面を撮影し、この実写を『芸者の手踊り』として公開、これが日本初の商業公開映画となる。次に『かっぽれ』を撮り、『清水定吉(稲妻強盗)』を製作する。当時起きた拳銃強盗事件を題材に、横田運平という新派系の役者に、犯人を逮捕して殉職した警官を演じさせた。ワンシーンだけの簡単な作品だが、日本初の劇映画といえる。撮影者は三越写真部にいた柴田常吉。柴田は99年に九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎の『紅葉狩り』を野外で撮って評判になった。このフィルムは最も古い日本映画としてフィルムセンターに保存されている。

  • 25面 坂崎優子がつぶやく 森会長発言再び

    私の父は家のことは何もしない典型的な昭和の男性でしたが、娘に対しては違いました。
     
    母は年に2回友人たちと旅行に行くのを楽しみにしていました。昭和の家庭ではそんな時、娘が母親の代りをします。初めての母のいない朝、私もそのつもりでいつもより早起きすると、すでに父が洗濯機を回そうとしていました。「私がするよ」「おまえには無理だろう。お父さんがやる」。もちろん洗濯機くらい使える年齢です。
     
    その後もお味噌汁を作るなど、普段とは全く違う父の姿がありました。今思うと父は母と娘、完全にダブルスタンダードでしたが、娘の私は、父から女性の役割なるものを植え付けられることなく育ちました。
     
    中学1年の時、ベテランの男性が担任になりました。当時は室長は男で副室長は女というのが当たり前。ところが担任は「室長が男性と決めつけるのはよくない。投票数が多い人を室長にしよう」と言いました。結果、一番票の多かった私が室長に。学校始まって以来の出来事に、いろんなクラスの子が「女室長は誰だ?」と冷やかしにきます。副になった男性はふてくされるし、私にとっては大迷惑な出来事でしたが、性による差別を意識するきっかけになりました。
     
    夫が結婚の申し込みに来た時のやり取りも忘れられません。父は「この子は一生仕事をしていく子です。だからあなたもそのつもりでいてもらわないと困りますよ」という予期せぬことを言いました。そして彼も「もちろん家事をやってもらうために結婚するわけではありませんから、そのつもりです」と応えたのです。
     
    2人の会話に一番驚いたのが私です。あの父がこんなことを言い、彼がこんな返し方をする。女性である私自身が、いつの間にか社会が求める役割に縛られていたことに気づいた瞬間でした。
     
    その後、私は男の子の母になります。心に決めていたのは「男の子を育てる」のではなく「人を育てる」ということ。家事も当然やらせました。今、息子は当たり前に家事をし、女性が当たり前に活躍できる企業で仕事をしています。私の「人を育てる」は目標通りの結果になったように思いますが、もし男女を育てていたら、無自覚に差をつけていたかもしれないとも思うのです。
     
    日本で育てば、大なり小なり男女差別的な考えを有してしまっています。そのことに歩んでいく間に気づき、修正しようと努力してきたのが多くの人の現実だと思います。森喜朗さんの発言への反発が高まったのは、そうして自分を更新させながら生きてきた人たちが、男女を問わず多くいたことの証です。
     
    この国にはまだ森さんのように偏見に満ちた考えの人がいます。それでも何とか自分の古びた考えを変えていかなければと、もがいている人なら希望はありますが、全くその気がない人は、もはや要職から離れてもらうしかありません。オリンピックの精神からも大きく外れる人が五輪・パラの中心にいて指揮していた、その1点だけでも東京大会は開く価値がないと私は思っています。

  • 26面~30面 読者からのお手紙&メール(文責・矢野宏)

    若者の介護職離れ
    仕事見合う報酬を

    大阪市 交田節子
     
    介護の仕事から離れる人があとをたたず、娘も夜勤が増えて辛そうです。昼間の勤務と違い、一人でワンフロアを見ないといけないプレッシャーは相当なものです。同時に何人も具合が悪くなる入所者が出ると、対応に順番をつけなければなりません。その判断の重さは計り知れないものです。それでも責任感をもってこなしている娘を誇りに思います。
     
    先日、娘が通っていた専門学校から会報が届き、「志願する学生が年々減少し、今年で介護福祉科はなくなる」と書かれていました。私たちが介護を必要とするとき、介護の現場はどうなっているのか、面倒みてもらえるのだろうかと、不安になりました。介護を受けるにはお金が必要です。仮にお金があってもみてもらえない状況にならないか、あるいはもっと介護を受けるためには大金が必要になるのでは……。介護の現場で働いてくれる人をこれ以上減らさないように、仕事に見合った報酬を出せる社会になってほしいものです。
     
    (新たに介護職に就く若者が減ると、現場を支えている職員の負担は増える一方です。結果、人材不足が加速するでしょう。娘さんの体調と心が折れないかが心配です)

  • 28面 車イスから思う事 自粛とは自覚なり(佐藤京子)

    新型コロナウイルスは少々自粛しても減らないだろうなぁ……。仕事帰りに立ち寄ったファミリーレストランに友人と入って思った。
     
    拡大抑制のために、1都3県には非常事態宣言が出されている。感染者は減ってきたといっても微減微増を繰り返している。つまり、感染者を抑えきれていない。普段、外出を控え、家で孤食している。たまたま朝から12時間の外出で疲れ、つい友人と会食をすることになったのだが、100席はあろうかという店内はほぼ満席。時間は午後6時、駅直結の好立地で、ラグビーの試合が終わった後のようで、熱気がこもっていた。 話し声は叫び声のように聞こえてくる。お酒を飲んでいる人が多いのか、とにかく声が大きい。しまったと思ったが、覚悟を決めてメニューを開いた。すると突然、隣の席のマスクを外している酔客から話しかけられた。お酒の入ったグラスを片手に今日行われたラグビーの試合の感想を求められた。自分はマスクをしていたが驚き、苛立たしい気持ちになった。
     
    ニュースでは「夜の飲食(飲酒)が感染拡大の原因である」かのような報道がなされ、どこか特別の世界のように受け流していたが、身近に存在していた。この駅は近くに大学もあり、飲食店が軒を並べている。きっとそれらの店も盛況なのだろう。自分は下戸なので、お酒をたしなむ人の気持ちが今一つ理解しにくいのだが、なぜ、こんなにも声が大きくなるのだろうと不思議だった。
     
    よくお酒を飲むと、気が大きくなると聞く。しかし、「大声を出すな」と言われているご時世、静かにお酒を飲み食事するということがなぜできないのだろうか。このような集団が1都3県の飲食店で繰り広げられていると思うと、ぞっとする。
     
    自粛疲れが良くないとか、新型コロナウイルス感染症は風邪と同じだとか言われているが、ともあれ、決まったことを粛々と守るのが大人の振る舞いではないかと思う。何も政府の言いなりになれと言っているわけではない。今の状態は自覚を持った節度ある生活が大切ではないだろうか。外食も飲酒も個人の勝手だと思う。しかし、勝手の隣には、責任もあわせ持っていなくてはならないと思う。
     
    「自粛とは自覚」ではないかと強く思う。

  • 30面 編集後記(矢野宏)

    東日本大震災の発生から10年目の3月11日午後2時46分を福島県楢葉町で迎えた。東京電力福島第一原発から南西15㌔の山あいにある宝鏡寺で「原発悔恨の碑」の除幕式のあと、車で国道6号を北上した。楢葉町は4年半近くに及んだ避難指示が2015年に解除されたが、その北隣の富岡町は今も帰還困難区域が残っている。原発被害だけでなく、津波被害も甚大で、特にJR富岡駅周辺の地域は186人が犠牲になった。海に一番近い駅は高さ21㍍の津波にのみ込まれ、駅舎ごと流された。6年前に駅前の商店街を歩くと、2階部分までえぐられた旅館や窓ガラスが粉々になった美容室、スクラップ状態になった車が家屋に飛び込んだままになっているなど、時間が止まったままだった。その後の復興工事で駅前はロータリーが広がるなど、大きく姿を変えていた。だが、依存として人の生活の匂いが感じられなかった。さらに、北上して大熊町に入ると、持参した放射線測定器が車内にもかかわらず、2マイクロシーベルト/時を計測した。通常の50倍。瞬間の数値であり直ちに影響があるものではないが、車外はもっと高いはず。それでも、政府は避難住民に対する賠償金を打ち切り、半ば強制的に帰還させている。「復興」という名の切り捨て政治がまかり通る。災害国日本、明日は我が身である。

  • 31面 うもれ火日誌

    2月1日(月)
     
    夜、MBSラジオ「ニュースなラヂオ」。濃厚接触者と判定された矢野は外出できず、電話出演。新型コロナウイルスに感染した家族がホテル療養していること、体験したPCR検査などについて話す。

    2月5日(金)
     
    感染した矢野の家族が帰宅。濃厚接触者は2週間の自宅待機を求められるが、感染者は10日間で社会復帰。しかもPCR検査もないので完治したかもわからず、リビングから聞こえてくる咳に脅える日々。
     
    高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。

    2月9日(火)
     
    午後、矢野の携帯に「むのたけじ賞」実行委員会事務局から電話。「新聞うずみ火が第3回の大賞に決まりました」。大声で触れ回りたいが、「17日の発表までは内密に」と釘を刺される。
     
    栗原 午後、大阪府庁で「コロナ対策会議」取材。

    2月10日(水)
     
    矢野は自宅待機最終日。夕方、尼崎市保健所から体調不良はないかなど尋ねられ、「熱も咳もない」と答え、社会復帰の許可が出る。受話器の向こうでは何本もの電話が鳴り続けており、保健所業務のひっ迫を実感する。
     
    西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ・ラジオ・DE・しょ!」に電話出演。

    2月14日(日)

    矢野、栗原は午後、濃厚接触者となった大阪市内の読者、A子さん宅へ。矢野への見舞いの電話をかけてくれたA子さんだが、母親がコロナで亡くなり、兄は陽性となりホテル療養したという。

    2月17日(水)
     
    矢野 朝、大阪から東京経由でさいたま市へ。午後、埼玉県庁で行われた「第3回むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の受賞発表記者会見に同席。最終選考にあたった共同代表の鎌田慧さんや轡田隆史さん、むのさんの次男の武野大策さんから過分な言葉を受ける。夜、轡田さんの行きつけの店で祝杯。

    2月18日(木)
     
    矢野、栗原 午後、天王寺区の大阪老人保健施設協会事務局長の木場康文さんに取材。

    2月19日(金)
     
    高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。

    2月22日(月)
     
    午後、読者の工藤孝志さんと澤田和也さんが新聞折り込みチラシのセット作業。

    2月23日(祝・火)
     
    矢野 午後、事務所でMBSラジオ「ニュースなラヂオ」のYouTube「動画班」の収録。むのたけじさんについてパワーポイントを使って話す。

    2月24日(水)
     
    夕方、新聞うずみ火3月号が届く。工藤さんと澤田さんのほか、小泉雄一さん、樋口元義さん、多田一夫さん、大村和子さんの手を借りて発送作業。郵便局の回収前に作業を終える。ビールが最高!
     
    西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ・ラジオ・DE・しょ!」に電話出演。

    2月26日(金)
     
    高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。

    3月2日(火)
     
    矢野 夜、エッセイストの武部好伸さんが神戸学院大教授の安冨信さんとMBSの大牟田聡さんに呼びかけ、大阪十三の風まかせで受賞祝い。

    3月4日(木)
     
    矢野、栗原 午後、大阪市議会を傍聴。

    3月5日(金)
     
    高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。

    3月6日(土)
     
    矢野 午後、来社した毎日新聞の亀田早苗記者から取材を受ける(10日付大阪市内版で紹介)。

    3月7日(日)
     
    矢野 午後、名古屋へ。愛知県の大村知事のリコールをめぐる不正署名問題で、リコールに反対する市民団体が開いた集会とデモを取材。

    3月8日(月)
     
    矢野 MBSラジオ「ニュースなラヂオ」はいつもより1時間早めの午後7時に始まった2時間の特別番組「コロナ禍の東日本大震災10年」。新型コロナについて関西福祉大教授の勝田吉彰さんにリモートで話を聞いた後、福本晋悟アナウンサーが津波から命を守るカギとなる防災無線について報告。8時台は原発作業員の取材を続けてきた上田崇順アナウンサーのリポート。福島から母子避難している「原発賠償関西訴訟原告団」代表の森松明希子さんに話を聞く。

  • 32面 「むのたけじ賞」受賞式(矢野宏)

    不屈のジャーナリストむのたけじさんの精神を受け継ぎ、地域の問題を掘り下げ、民衆の声を伝える活動をしている個人、団体を顕彰する「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の第3回受賞の集いが3月21日、東京都文京区の文京シビックセンターで開かれた。共同代表でルポライターの鎌田慧さんから大賞を受賞した新聞うずみ火に賞状と記念の盾、「復刻版のたいまつ」の目録が贈られた。
     
    むのさんは戦時中、朝日新聞の従軍記者として戦地に赴きながらも、戦争の実態を伝えてこなかった責任を感じて退社。戦後、郷里の秋田県横手市に戻って「たいまつ新聞」を30年間発行した。「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」は、むのさんの精神を後世に伝えようと、地域に根差し、民衆の声を伝える活動をする個人・団体を発掘して顕彰するため、2018年に創設された。
     
    最終選考に当たる共同代表は、鎌田さんのほか、作家の落合恵子さん、元朝日新聞記者の轡田隆史さん、評論家の佐高信さん、元「一水会」代表の鈴木邦男さん、武蔵大教授の永田浩三さん、むのさんの次男の武野大策さん。
     
    鎌田さんは大賞に関して、「灰に埋もれたが燃え続ける『うずみ火』は、むのさんの『たいまつ』に通じるところがある。共同代表全員が高く評価した。むのさんの精神を受け継いでこれからも頑張って下さい」と挨拶。永田さんは「『大阪都構想』のでたらめさを訴えるなど、新聞うずみ火が果たした役割は大きい。愛知トリエンナーレや自主避難者など多面的に続けてこられたことを高く評価する」と激励した。
     
    賞状を受け取った矢野は「恩師である黒田清さんが『いい新聞はいい読者が作る』とよく言ってました。いい新聞かどうかわかりませんが、うずみ火はいい読者に支えられています」とお礼の言葉を述べた。
     
    なお、「第4回むのたけじ賞」の作品応募の集いは6月5日(土)、大阪府豊中市の「とよなか男女共同参画推進センターすてっぷホールで開かれる。佐高さんの講演のほか、轡田さん、武野さんと第3回受賞者とのシンポジウムが予定されている。 

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