新聞うずみ火 最新号

2025年9月号(NO.239)

  • 1面~4面 日本軍 終戦後も住民殺害 久米島事件 初の追悼集会(栗原佳子)

    80年前、沖縄の久米島で、日本軍が住民20人を「米軍のスパイ」と決めつけ、次々と殺害する事件が起きた。史実を語り継ぐ決意を込めた追悼集会(実行委主催)が8月20日、久米島町の本願寺久米島布教所で開かれた。三線の演奏や「月桃」の合唱などで犠牲者を悼み、彫刻家の金城実さん(86)=読谷村=が島の有志や子どもたちと共同制作したレリーフが除幕された。 

    沖縄本島の西約100㌔に位置する久米島は面積約60平方㌔。沖縄戦当時、海軍通信隊「鹿山隊」(隊長・鹿山正兵曹長)約30人が駐屯した。「皆さんを守りに来た」と自称したが、実際は戦闘能力のない通信部隊だった。島で最も高い310㍍の「宇江城(ウエグスク)岳」を拠点とし、島の住民は彼らを「山の兵隊」と呼んだ。
     
    沖縄本島で日本軍の組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日から3日後、久米島に米軍が上陸した。鹿山隊長は、米軍と接触したりしたものはスパイとみなす」と通達した。
     
    米軍上陸翌日の同27日、米軍の「降伏勧告状」を鹿山隊に届けた郵便局員を射殺したのが最初だった。2日後の29日には、海に近い北原地区で9人を小屋に押し込め、針金で縛って銃剣で刺殺。「火葬」と称して小屋ごと焼き払った。
     
    殺されたのは、米軍上陸前の13日深夜、偵察部隊に拉致され、島の状況を聞かれた男性2人と家族、「2人が帰ってきたのにすぐ隊に通報しなかった」とされた北原の区長と警防団長だった。
    ……

  • 5面~7面 大阪万博帰宅困難3万人 地下鉄への過剰負担(木下功)

    黒字化が見えてきたと言われる2025年大阪・関西万博で、指摘されていたリスクの一つが顕在化した。会場の夢洲が大阪湾に位置する人工島であり、主なアクセスが同じ人工島の舞洲につながる夢舞大橋と咲洲に抜ける夢咲トンネルの二つしかなく、夢咲トンネルを通る大阪メトロ中央線に過剰な負担がかかっている問題だ。

    8月13日午後9時半ごろ、万博会場に直結する大阪メトロ中央線のコスモスクエア駅と大阪港駅の間で電気系統のトラブルがあり、一時全線で運転を見合わせたため、約3万8000人が足止めされた。盆休みの最中であり、この日の来場者数は開幕から2番目に多い19万3554人(関係者含む)。万博会場から退場するピーク時と重なったこともあり、すべての来場者が会場を出たのは翌14日の午前6時55分。熱中症が疑われるケースも含め36人が救急搬送された。
     
    25年日本国際博覧会協会(万博協会)の8月22日の発表によると、大阪メトロ中央線で停電が発生した時間帯に、ゲートの外の広場も含めて万博にいた人数は約4万9000人、このうち西ゲート側のバスやタクシーの利用者は1万1000人だったという。
     
    今回のトラブルによる帰宅困難者は約3万8000人で、日付をまたぐことになった人数は約3万2000人。翌朝5時まで会場にとどまった人は1万1000人に上る。現場にいた男性は「ゲートを乗り越えようとしたり、無理やりメトロに乗ろうとしたりする人もいるなど、危ない行動もあったが、大阪府警の行動で雑踏事故は防ぐことができた」と振り返る。
     
    「オールナイト万博」などと今回のトラブルを肯定的にとらえる声が拡散したが、救急搬送された人たち、雑踏事故の危険性を考えれば、事態はもっと深刻であり、その深刻さは現在も続いている。
    ……

  • 8面~9面 熱と煙 防空壕の記憶今も 前橋空襲語り継ぐ原田恒弘さん(栗原佳子)

    太平洋戦争末期、日本全国は米軍の無差別爆撃にさらされた。大都市に続き中小都市が標的となり、徹底的な焼夷弾爆撃が行われた。群馬県前橋市もその一つ。1945年8月5日の大規模空襲で市街地の8割が焦土と化し、約600人が命を落とした。火の海に取り残された防空壕から奇跡的に生還した原田恒弘さん(87)は、きな臭さが漂う時代を憂い、体験を伝え続けている。   

    「前橋よいとこ糸の町 8月5日は灰の町」。米軍が投下した警告のビラ「伝単」にはこう記されていた。前橋は江戸時代から繭・生糸の集積地で、製糸の町として発展してきた。別の伝単には爆撃予定の12都市が記され、前橋も名指しされていた。
     
    原田さんは当時7歳。前橋市中心部にある国民学校の2年生だった。約1カ月前、グラマンの機銃掃射で校舎の屋根の一部が吹っ飛び、一時休校に。郊外の親せきの家に疎開した原田さんはその日、一時帰宅していた。
     
    よく晴れた蒸し暑い日だった。午後9時頃、警戒警報。姉に揺り起こされた原田さんは、いつもそうするように一人、目の前の防空壕に逃げ込んだ。地域の防空壕で、広瀬川に架かる橋の名前から「比刀根橋(ひとねばし)防空壕」と呼ばれた。奥行き20㍍。幅3㍍弱のかまぼこ型。半地下式に掘り下げられていた。コンクリート製の天井は15㌢の厚みがあり、前橋随一の堅牢さ。40~50人を収容できた。
     
    「入ったときはがらんとしていて、子ども数人で耐えていました。そのうち、大人たちがどやどや入ってきました。まもなく、空襲警報に変わり、遠くでずずん、と地響きがするのです。『敵の野郎、やりやがった』という震える声。防空壕の中はぎゅうぎゅう詰めになり、鉄の観音扉が閉まらないほどでした」
    ……

  • 10面~11面 本坑道に到達 本格調査へ 183人遺骨収容目指し潜水(栗原佳子)

    山口県宇部市の「長生炭鉱」で戦時中に起きた水没事故で、犠牲者の遺骨収容を目指す地元の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会(刻む会)」の5回目の潜水調査が8月8日に行われた。水中探検家の伊左治佳孝さん(37)が沖合のピーヤ(排気・排水塔)」から、遺骨が多く眠ると見られる本坑道へ到達。刻む会は今後、坑道全体で全ての遺骨を収容する大規模なプロジェクトを計画、世界中のダイバーに呼びかける。

    事故は太平洋戦争が開戦してまもない1942年2月3日に発生。死者183人のうち136人が朝鮮半島出身者だった。
     
    刻む会は10年前から遺骨収容・返還を目標に掲げ、政府交渉を続けてきた。戦時中の民間徴用者の遺骨については2004年の日韓首脳会談を受け、毎年約1000万円の調査予算が計上されている。しかし、厚労省人道調査室は「(寺などに安置されている)見える遺骨だけが調査対象」とし、海底の遺骨発掘は困難との立場を崩さなかった。
     
    刻む会は、クラウドファンディングなどで資金を集め、昨年9月、床波海岸近くの地中から長生炭鉱の入口(坑口)を掘り当てた。閉鎖環境を専門とするプロダイバー、伊左治さんが協力を申し出たことで、昨年10月、坑口から本坑道(主坑道)への潜水調査が始まった。
     
    その後、1~2月の調査で、坑口から200㍍付近に崩落があることがわかった。韓国のダイバー2人と伊左治さんが行った4月の調査で、崩落箇所を抜けるルートを探ったが、視界の悪さに阻まれた。
    ……

  • 12面~13面 前川さん 再審最新無罪確定 冤罪招いた目撃者証言(粟野仁雄) 

    「目撃者証言の怖さ」を見せつける冤罪だった。
     
    1986年3月に福井市で女子中学生が殺害された事件で、殺人犯に仕立てられた前川彰司さん(60)の再審裁判の判決が7月18日、名古屋高裁金沢支部であった。
     
    増田啓祐裁判長は「犯人と認めることはできない」として、前川さんに無罪を言い渡した。87年3月の21歳の時の逮捕から39年目の雪辱だった。
     
    筆者は抽選に外れ、支援者らと正門で待っていると、弁護士3人が無罪の報告に来た。続いて「東住吉事件」の冤罪被害者青木恵子さんが先に現れ、「裁判長の言葉に感激しました」と涙声で報告した。
     
    判決言い渡しの後、増田裁判長は前川さんに「再審に至らずとも無罪判決が確定していた可能性が十分にある。前川さんのかけがえのない人生を長期間、服役で奪うことになり、取り返しのつかないことをしました。39年もの間、大変ご苦労をおかけし、申し訳なく思っています」と謝罪したというのである。
     
    まもなく、袴田巖さんにプレゼントされた帽子をかぶった前川さんが拍手の中を現れたが、昨年10月にこの場所で再審開始決定が出た時に両手を掲げたような歓喜は見せなかった。記者に気持ちを問われると沈黙し、「ありがとうございました。心空っぽと言うか、感極まっている状態ですね」などと話した。
     
    増田裁判長は「血の付いたシャツを着た前川を見た」と証言した知人について「覚せい剤などで逮捕されており、量刑を軽減するため、虚偽の供述をした」と指摘した。
     
    さらに、県警はこの知人の供述に頼り、「他の関係者を誘導してなりふり構わず供述を得ようとした疑いが濃厚だ」と認定した。県警が供述を得るために勾留先での面会や飲食で優遇した「不当な利益供与」にも触れた。増田裁判長は別の知人が公判で「前川犯人説」を補強する証言をした後、警官が結婚祝いの名目で現金を渡したことについて「到底看過できない」と批判した。要は目撃者と警察が裏取引をしていたのだ。
    ……

  • 14面~15面 ヤマケンのどないなっとんねん 「国防派」よ 現実を見ろ(山本健治)

    アメリカのトランプ大統領の言動をまともに受けるものは、もはや岩盤支持層以外にはいないと思うが、7月、ノルウェーのストルテンベルグ財務相に関税問題で電話したついでに、世界平和に尽力してきた自分がノーベル平和賞受賞にふさわしいと言い、受賞を切望していると語ったことが明らかになり、みながあきれかえっているのではないか。歴代大統領の中で最低最悪だろう。
     
    しかし、こんな人物が大統領であっても、アメリカは世界最大国家で、何をするかわからないだけに言動を無視できず、関連ニュースを読むが、このノーベル平和賞おねだりや関税問題に見られるように独善的パフォーマンスばかりで中身がなく、自らの主張や政策に反対するものの予算カットや解雇、弾圧だけやっている。まさしく独裁者、周りの誰もが止めない、「裸の王様」になって、憲法を無視して3選まで口にするようになっている。
     
    いまウクライナの人々はもちろん、世界の人々がロシアによるウクライナ侵略の一日も早い終結を望んでいるが、自分が大統領に就任したら24時間以内、いや1カ月以内、1カ月がダメなら3カ月、3カ月がダメなら6カ月と、たたき売りのようにし、50日間停戦を呼びかけたことは誰もが記憶しているだろう。
     
    プーチン大統領は停戦要求などまったく無視、これまで以上に激しい攻撃を加えるようになって、トランプ大統領は8月15日にアラスカのアンカレジでプーチン大統領と会談すると言った。当然のこと、侵略されているウクライナのゼレンスキー大統領も呼ぶのかと思ったら呼ばないと言い、彼は何百回も会談しているが、停戦につながっていないからと述べた。
    ……

  • 16面~17面 世界で平和を考える 山本美香さん銃殺死13年(西谷文和)

    4月15日、ホムスから国道を飛ばすことわずか3時間、アレッポに入る。やはりこの街もトータルに破壊され、瓦礫の街になっている。市内中心部、世界遺産のアレッポ城に到着。レストランがオープンしていて、風船やコーヒー、おもちゃなどを売る露店がひしめき、たくさんのシリア人がお城の前で記念撮影している。13年前、この城にアサド軍が、城下町に自由シリア軍が立てこもり、壮絶な銃撃戦を繰り広げていた。かつての戦場が今は市民の憩いの場になっている。笑顔で通り過ぎる市民とハイタッチ。あー平和っていいなー。
     
    特別に許可をもらって城内へ。4000年の歴史を誇る世界最古の城。ビザンチン時代の刑務所や考古学博物館でレプリカになっていた本物のライオン像などを横目に城の最上部まで登りきる。アレッポの街を見下ろす。
     「山本美香さんが殺害されたのはあの辺りだ」と通訳のモハンマドが当時の激戦地を指し示してくれる。私は山本さんが殺害された2週間後の2012年9月にほぼ同じ場所で取材している。ロケット弾が飛び交い、銃声が響きわたり、空爆の煙が上がる中、着のみ着のまま逃げ出す人々……。内戦当時のアレッポ城と今のお城を見比べてほしい。当時は「動く者全て撃たれる」状態で、ロケット弾が飛び交い、戦闘機の空爆におびえていた。自由シリア軍兵士の隠れ家で考えたのは「あの戦闘機に空爆されれば、俺はここで生き埋めになる。日本語で遺書を書き残しておかねば」と考えたくらいだった。私は運良く生還できたが、あの現場に身を置いた当事者の1人として、さらに言えば「殺害される可能性があった1人」として殺害現場を取材し、慰霊する必要を感じた。
     
    アレッポ城から北東へ2㌔、サマール交差点にこの地区の消防署がある。「あの日、私たちは山本さんと一緒にここに座っていました。アサド軍が空爆してきたので、あわてて逃げました」。当時行動を共にしていたアフマド・アブーシュさん(46)が語る。彼のスマホには山本さんが亡くなる直前の映像が残されていた。 この消防署を護衛と共に出発した山本さんと佐藤和孝さんはミニバスに乗り込み大通りを左折し、とある地区で子育て中のママさんに出会う。山本さんがママさんにインタビュー中、パンパンッという銃声が轟いて、映像が切れる。殺害される瞬間まで、アフマドさんはすぐそばにいた。彼の案内でスレイマニ・ハラビー地区へ。現場は何の変哲もない三叉路だった。
    ……

  • 18面~19面 フクシマ後の原子力 核廃絶のため共闘を(高橋宏)

    今年も広島と長崎の原爆忌が巡ってきた。被爆80年の節目ということもあり、私は8月4日から9日まで広島と長崎に赴き、それぞれで開催された原水爆禁止世界大会(以下、「世界大会」)に参加した。私にとって広島は3年ぶりだが、長崎は40数年ぶりの訪問であった。約1週間の滞在で見聞きしたことを、この連載で数回に分けて報告したい。
     
    ところで、読者の皆さんは広島と長崎の「世界大会」がそれぞれ、同日程で二つ開催されてきたことをご存じだろうか。今年も原水爆禁止日本協議会(原水協)が主催する「被爆80年・原水爆禁止2025年世界大会」と、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が主催する「被爆80周年原水爆禁止世界大会」が開かれた。私は広島では原水禁の、長崎では原水協の「世界大会」に参加した。
     
    原水協と原水禁の「世界大会」の日程は、時間帯や開催場所に相違はあるものの、初日に開会の集いがあり、2日目に各分科会、そして原爆忌に当たる3日目に閉会の集いとパターンはほぼ同じである。両組織に所属しない立場からすれば、話を聞きたいと思う集いのゲストや参加したい分科会は、必ずしもどちらかの「世界大会」に絞れるものではなかった。正直なところ「なぜ『世界大会』が二つあるんだ!」という思いが否めない。
     
    このような思いは、おそらく海外の参加者、そして何よりも広島や長崎の被爆者も同じであろうことは想像に難くない。そもそも、日本の原水爆禁止の運動は1954年の「ビキニ事件」に端を発し、東京都杉並区の主婦らが署名活動を始め、被爆者も声を上げることで広がった。そして翌年、第1回の原水爆禁止世界大会が広島で開催され、被爆者の援護・連帯を目的として原水協が結成されたのだった。さらに翌年には第2回世界大会が長崎で行われ、それを機に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成されている。
    ……

  • 20面 戦後80年「フィナーレ爆撃」 国体護持に固執 空爆招く(矢野宏)

    終戦前日、最後の大阪大空襲で500人以上が犠牲になった「京橋駅空襲」の慰霊祭が8月14日、JR京橋駅南口近くの慰霊碑前で営まれた。読経が流れる中、遺族や市民ら200人が焼香し、手を合わせた。

    1945年8月14日午後1時過ぎ、大阪上空に飛来した145機のB29爆撃機が、当時、東洋一の軍需工場と言われた大阪砲兵工廠を空爆。目標を外れた4発の1㌧爆弾が国鉄京橋駅を直撃した。
     
    駅舎は吹き飛び、がれきが乗客を押しつぶした。ちぎれた手足や肉片が飛び散り、あちらこちらから泣きわめく声、助けを求める悲痛な叫びがしたという。死者は身元が確認できただけで200人余り、実際は500人を超える。
     
    「もう1日早く戦争が終わっていれば……」。これまでに聞いた体験者の言葉だ。
     
    ポツダム宣言の受け入れについて、首相・外相・陸相・海相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長からなる「最高戦争指導会議」で話し合われた。8月9日午前11時過ぎ、長崎に原爆が投下されたとの情報が入ったが、陸軍は本土決戦を主張。深夜に昭和天皇が列席して御前会議が開かれた。10日午前2時過ぎ、鈴木貫太郎首相が天皇の聖断をあおぎ、国体護持を条件にポツダム宣言を受諾することを決定。連合国へ伝えられた。
     
    米軍は事態を静観し、空襲を一時的に中断する。
     
    米国のバーンズ国務長官の回答は「日本国天皇および政府の統治権は、連合軍司令官に『subject to』することがある」というもので、この解釈をめぐり、外務省と陸軍が対立する。外務省は「連合国司令官の制限下に置かれる」と訳し、「無条件降伏を受け入れる以上、当然のこと」と主張。陸軍は「隷属する」と解釈し、「天皇制廃止を求められると従わなければならなくなる」と譲らなかった。
     
    米軍資料の「作戦任務報告」にこう書かれている。
     
    〈司令官はすべての航空団に対して、最小限の準備時間で最大限の力を使って爆撃するよう準備を命じた。交渉は敵によって遅らされているようにみえたので、これらの作戦任務は8月14日、15日に行われるように命ぜられた〉
    ……

  • 21面 読者近況(矢野宏) ※全文紹介

    桂花団治さん伝戦落語

    戦争を次の世代に伝えていく「伝戦落語」に取り組んでいる三代目桂花団治さんが8月16日、大阪市北区の天満天神繁昌亭で4作目となる「どうぶつえん1945」を初披露した。
     
    戦時中、全国の動物園で「空襲でおりが壊され、猛獣が逃げ出す危険がある」などの理由で猛獣の殺処分が進められた。1943年に戦争遂行のために東京市が府と合併した東京都では、初代長官が「戦時猛獣処分」を発令。上野動物園では11種24頭を毒殺し、3頭のゾウを餓死させた。
     
    名古屋市の東山動物園では、北王英一園長や飼育員らの努力と懇願によって猛獣飼育を続けていたが、44年12月の空襲に危機感を持った猟友会や警防団からの強い要求に抗しきれず、ライオンやクマなど15頭の殺処分が行われた。
     
    飼料不足もあり、東山動物園では戦争を生き延びた動物は20頭ほどだったが、その中に2頭のゾウがいた。敗戦後、国内で唯一生き残ったゾウを見たいと子どもたちが願うようになり、当時の国鉄が全国各地と名古屋との間を特別仕立ての列車を走らせた。その実話が絵本「ぞうれっしゃがやってきた」で紹介されると、合唱組曲や劇になり、今も語り継がれている。
     
    花団治さんは、小学1年の長女が所属する合唱団による「ぞうれっしゃがやってきた」に着想を得て、新作落語を一気に書き上げたという。
     
    「大好きな動物を育てるために飼育員になったのに、殺せやなんて……」
     
    花団治さんは、殺処分を命じられ、泣きながらヒョウの首にロープをかけようとする飼育員の苦悩を情感たっぷりに表現した。

    「最後の証言者たち」

    元毎日新聞記者で「全国空襲被害者連絡協議会」事務局長も務めた澤田猛さんが「最後の証言者たち―戦場体験者・戦争体験者からのメッセージ」を高文研から出版した(3000円+税)。
     
    本の帯に「日中戦争、アジア太平洋戦争を生き抜いた人びとの敗戦後の道のりをたどり、彼ら彼女らが後世の日本人に向けた『遺言』を届ける」とあるように、澤田さんがこれまで取材した戦場体験者と戦争体験者の中から震洋特攻隊員やBC級戦犯、戦争孤児、出陣学徒、民間の空襲被害者ら25人を取り上げている。その大半はすでに鬼籍に入っているという。
     
    「国にだまされるな」と訴えているのは、元海軍整備兵として空母「飛竜」に乗り込み、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に従軍した瀧本邦慶さん。「うずみ火講座」でも講師に招き、懐かしい声が耳元によみがえってくる。
     
    「沈黙は国を滅ぼしますよ。『私は戦争反対』とはっきり声を出さないといけません。声を出さないから、今のような政府ができるのと違いますか」
     
    執筆の理由について、澤田さんは「証言者たちの未来に託したメッセージを何としても戦後80年という節目の年にしっかりと届けておきたかった」と語っている。

  • 22面 会えてよかった 比嘉博さん⑨(上田康平) ※全文紹介

    米軍ヘリ墜落事件当時、
     宜野湾市基地政策部長だった
     県庁職員だった比嘉さんは200
    4年から05年、途中出向で宜野湾市
    基地政策部長に就任。04年8月13日。
    この日は14時から市庁舎横の市中央
    公民館で基地対策協議会(宜野湾市
    訪米報告会)が開かれ出席していた。
     この訪米は伊波洋一宜野湾市長を
    団長とするもので、日程は04年7月
    11日~21日。米国政府機関や連邦議
    会議員に普天間飛行場の早期返還等
    について要請した。比嘉さんも団員
    の一人で「訪米要請概要について」
    のコピーをいただいたけれど、最後
    は「関係者の一定の御理解の下、大
    きな成果をあげたものと考えており
    ます」と結ばれていた。
     宜野湾市では04年4月に普天間飛
    行場返還アクションプログラム(返
    還への道筋)を発表。それにもとづ
    いた訪米だった。
     私の方でアクションプログラム
     策定の経過をまとめると――
     1995年、日米特別行動委員会
    (SACO)が設置さ
    れ、96年、普天間飛行
    場の全面返還が合意さ
    れた。SACOは沖縄
    県民の負担軽減が主な
    目的にもかかわらず、
    普天間飛行場について
    も代替施設を条件に5
    ないし7年以内に返還
    とされていた。
     しかし、その7年が
    経過したけれど代替施設は進展せず、
    日米政府は危険や爆音被害を放置。
    そのため市は2004年4月、08年
    までの普天間飛行場返還アクション
    プログラムを策定したのである。当
    時は米国が海外米軍基地の再編を行
    おうとしている時期であった。
     (大きな成果をあげた訪米だった
    が、今も普天間飛行場はそのままで
    ある。それから普天間基地の代替施
    設についてであるが、比嘉さんが副
    団長をしている普天間基地爆音訴訟
    団はホームページに〈普天間基地の
    移設は深刻な基地被害を県内でたら
    い回しにし、沖縄の貴重な自然環境
    を破壊するものだと考えています〉
    と記述している)
     普天間飛行場の危険性を放置した
     結果の米軍ヘリ墜落
     普天間飛行場の返還が日米政府か
    ら発表されたにもかかわらず8年間、
    返還されずにきた04年8月13日14時
    18分、米軍ヘリが沖国大に墜落した。
     沖縄タイムス(24年8月7日、13
    日付)によれば――
     このヘリは米軍が戦闘作戦を展開
    していたイラク中部へ派遣される予
    定で、テスト飛行を終え、普天間飛
    行場へ戻ろうとしていたが、整備不
    良で制御不能となった。沖国大の手
    前から尾翼、回転翼などを落下させ、
    沖国大1号館に激突、墜落炎上。衝
    突で飛散した無数のコンクリート片
    が民家の窓ガラスを突き破り、乳児
    が昼寝していた部屋を直撃した。窓
    越しに機体が向かってくるのを見た
    母親が乳児を抱いて外に出て、間一
    髪、難を逃れた。   

  • 23面 日本映画興亡史 日本で映画監督として(三谷俊之) ※全文紹介

    映画監督、日夏英太郎には三つの名前があった。一つ目は、生まれた朝鮮半島での名前の許泳(ホ・ヨン)。日本に来てついた日本名の日夏英太郎。そして三つ目のインドネシアでの名はドクトル・フユン――。彼は朝鮮半島で1908(明治41)年に生まれる。2年後、日本に併合され、敗戦までの35年間、朝鮮半島は植民地支配された。
     
    幼い時から映画が好きで監督になりたいと夢見ていた。22年に来日。働きながら、映画の勉強をする。29年にマキノ映画に入り助監督、脚本家として活動を始めた。脚本としては吉川英治原作『処女爪占師』と、長谷川伸原作『紅蝙蝠』がある。31年、二川文太郎監督とともに松竹映画の下加茂撮影所に移る。松竹映画雑誌『下加茂』の編集に関わり、スターのトピックや撮影風景などを書く。また、『映画評論』誌にも寄稿し、「日本映画論」(31年)、「千恵蔵映画のある見方」(33年)、「伊藤大輔論」(34年)などの評論は高い評価を受けた。
     
    37年、衣川貞之助監督『大坂夏の陣』の助監督に就いていたが、姫路城での撮影中に、爆破ミスが起きて石垣を破損。死傷者も出してしまった。日夏は責任者として、執行猶予付きの有罪判決を受けた。その後は松竹系列の新興キネマ太秦撮影所企画部に移籍。シナリオを書いていたが、望んでいた映画監督にはなかなかなれない。
     
    そこで彼は朝鮮に行って、朝鮮人の日本軍への志願兵制度について取材し、シナリオ『君と僕』を書いた。朝鮮の志願兵訓練所を舞台に、日本兵として訓練を受けている朝鮮人青年たちの軍隊生活を描いたものだ。このシナリオを持って、彼は朝鮮軍司令部に日参。ついに司令部幹部の「これを映画化せよ」という命令書を出させた。そこで映画は、朝鮮軍報道部製作、陸軍省報道部・朝鮮総督府後援、南次郎朝鮮総督、板垣征四郎朝鮮軍司令官特別出演というものものしい名称を並べた国策映画となった。
     
    映画は朝鮮の志願兵訓練所で日本兵として訓練を受けている朝鮮人青年たちの軍隊生活を描いた。青年たちは日本に対する忠誠心に燃えていて、主人公はその帝国軍人ぶりを日本人たちにも認められ、戦場へ赴く直前に日本人女性と結ばれるという物語。だが映画は朝鮮人の日本人化という国の政策を宣伝しているだけの稚拙な作品として批評され、興業成績でも失敗であった。
     
    『戦争と日本映画』を書いた佐藤忠男は、「差別と偏見の中で生きてきた日夏にとって、日本で映画監督になるにはこうして軍を利用する以外には方法はなかったのであろう。ただし、彼が本心を偽って軍におもねったかどうかはわからない。日本で映画監督として成功したいと思いつめていたに違いない彼としては、日本人になりきろうと念じ、ついには本気で日本に忠誠を感じるようになっていたのかもしれない」と記している。

  • 24面 坂崎優子がつぶやく 外から日本見てほしい

    オーストラリア出身ながら日本で仕事をし、何十年も日本で生活してきた方が定年後、出身国に戻られました。実家も身内ももはや残っていない状況での選択でした。
     
    オーストラリアは世界一の食料自給率を誇ります。カロリーベースでいえば約233%。ちなみに日本は38%程度です。今の時代、食料を自国で賄えるほど強いものはありません。私自身はこの国と心中するしかありませんが、選択できるなら移住は魅力的です。
     
    オーストラリアの食べ物にはとても力がありました。野菜や果物がともかくおいしい。驚いたのは卵。全然味が違いました。動物愛護の観点から平飼いや放し飼いが多いからです。ただし日本円で1ケース1000円以上していました。「高い!」と思いますが、向こうは賃金も高いのです。
     
    毎年7月に見直される最低賃金。2025年の改訂では、総合インフレ率2・6%をはるかに上回る3・5%の引き上げとなり、時給は24・95豪㌦(AUD)に。
     
    この原稿を書いている日のレートAUD=95円で計算すると2370円です。東京の最低賃金が現在1163円ですから2倍ということになります。先ごろ日本でも金額の改訂の目安が示され、東京は63円引き上げられます。引き上げ幅は過去最大とはいえ0・5%程度。オーストラリアも雇用者側は、インフレ率に近い引き上げを求めていたので反発はあったようですが、政権が選挙公約に生活費高騰対策を挙げていたこともあり実現したようです。
     
    賃金は職種や条件によっても上がります。例えばスーパーのアルバイトでも、関連の資格を持っていると上乗せがあるそうです。もちろん土日など休日や夜間も時給は変わります。日曜日に働くと10AUD以上アップしますし、祝日は2倍になるそうです。資格や技術、人が休んでいる時に働けば賃金がアップするのは本来当たり前ですが、何ら上がらない、上がっても申しわけ程度の日本で暮らしていると、この当たり前を忘れてしまいます。人件費を安くすることばかりに力を入れてきた、政治や経済界の罪は重いと思います。
    ……

  • 25面~30面 読者からのお手紙&メール(文責 矢野宏)

    敗戦前夜の熊谷空襲
    犠牲者悼み灯篭流し

      埼玉県 根橋敬子
     
    埼玉県熊谷市は、敗戦の日前夜の8月14日深夜から15日未明にかけて、米軍のB29爆撃機89機による空襲を受け、市街地の7割が焼けて、266名が亡くなりました。
     
    新型コロナウィルスなどで、このところ足が遠のいていた空襲慰霊祭へ久しぶりに行ってみようと思い、最後の道を曲がったら今まで見たこともない人の多さにびっくりしました。
     
    熊谷の友人の話によると、「市は今まで慰霊祭を実行委員会に任せていて弱腰だったのに、考えるようになったみたいよ。市の広報にも灯籠流しのことが掲載されていた」とのこと。そのせいだろうか。
    でも、以前はお話を伺えそうな方がいましたが、そのようなお年寄りはいませんでした。
     
    当時、街の中心を流れる「星川」の両側には木造の家が立ち並んでいましたが、すべて焼け落ち、川は「煮立っていた」と言われていました。空襲の炎に追われた市民は、その川に飛び込み、多くの人が亡くなったのです。
     
    当時12歳だった井上昌子さんに伺った話が忘れられない。
     
    「何にも知らない市民が殺されるんですよ。原爆なんてもってのほかです。こうやって話すことが亡くなった方々に対する供養になるかしらと思っているんですよ」
     
    10万発の焼夷弾と6000発の爆弾が頭上に降り注ぐ中、足元には倒れた人々の手足があったとか。炎に包まれて焼ける人々、傷つき倒れる者、逃げ惑う中で、離れ離れになったわが子を探す親、父母を求める子どもたち……阿鼻叫喚の地獄だったそうです。
     
    慰霊祭の冒頭、あいさつした方は80歳。空襲当時は母親のお腹の中にいたそうです。
     
    「空襲で家を失った人にはトタン板が20枚配給され、雨が防げるだけの家を建ててしのいでいた」とのこと。
     
    日本の敗戦が決まっているのに、なぜ、攻撃されたのか。B29が機体を軽くしたいから爆弾を落としたとか、市内に理研の工場があったからだとか、いろいろなことが言われていますが、パイロットだったビビアン・ロック氏は「攻撃の中止を意味する『UTAH(ユタ)』の暗号が届かなかった」とメモしています。
     
    灯籠流しには長い列ができました。今の世界を思ってでしょうか、「平和」と書いてある灯籠をいくつも見ました。私も「うずみ火 平和」と書いて流してきました。

    (空襲の悲劇を繰り返さないために、若い世代に語り継いでほしいですね。根橋さん、現場レポートをありがとうございました)

    ……

  • 27面 車いすから思う事( やっかいだけど街に出る(佐藤京子) ※全文紹介

    毎日、厳しい暑さが続いたかと思うと、ビックリするような土砂降り。天気の変化の激しさに閉口する。きょうは傘にするか、それとも日傘にするかと、迷いながらも外出できるうちはまだましだった。
     
    熱中症でたくさんの人が救急搬送され、なかには亡くなる人もいるとのニュースを見ると、不安を感じる。体温調節が難しいからだ。空調温度を28度に設定すると、汗が止まらない。25度にしても、流れるように出ていた汗がべたついている。22度に下げたら、サッと汗が引いた。だが、これは低すぎる。結局、25度で折り合いをつけることにした。
     
    車イス生活をしていると、気候の変化や空調の微妙な差が体調に大きく影響してくる。うっかりとしていると、体調を崩して寝込むことになりかねない。
     
    外出時には、衣類選びや水分補給にも細心の注意を払うようになったが、最適な環境を見つけ出すことは簡単なようで、意外と難しい。だが、工夫や選択の積み重ねが大切。人さまを不快にさせなければ、快適な日常へとつながっていく。
     
    外出中、突然の土砂降りに見舞われた。傘はない。電動車イスは安定して走ることはできるが瞬発力はない。「降るぞ、降るぞ」と思いながら、先へと進んでいたら天を切り裂いたような土砂降りだ。「仕方ない」との一言であきらめる生活に慣れている。普段通りの生活を維持することが、どれほど貴重で難しいことであるかを思い知らされる。
     
    現実は予期せぬことの連続だと言われる。何気ない通りを走っていても、自転車を抜いたり抜かれたり。横に広がっている人々の後ろから、どいてくれないかなと甘い考えをしていると、ますます人があふれる。
     
    突然の段差や水たまりに行く手を阻まれるなど、道の狭さや歩行者の無意識な動きに対応するため、想像以上に神経を使う。車イスのタイヤに少しでも接触すると大変に痛いらしい。凶器になりかねない。
     
    それでも外へ出たい。街の喧騒や人々の表情を楽しむことができ、自分自身のあり方を考えて自身に問いかける瞬間でもある。小さな困難や突然訪れるやっかいなことに嫌気がさすこともある。
     
    車イスの目線から見える世界は、下向きになりやすい。あまり下を向いていると突然に立ち止まった人に追突しそうになるので気を付けねば。日々のいつも通りを繰り返して過ごしたい。

    (アテネパラ銀メダリスト 佐藤京子)

  • 28面 絵本の扉 「ネコとクラリネットふき」(遠田博美) ※全文紹介

    表紙と裏表紙を広げると、真ん中に大きな太った白いネコ。その背中でクラリネットを吹いている男性。後ろには家財道具も乗っています。あまりにも大きなネコの出現に、口をあんぐりと開けた街の人々も描かれています。
     
    ある夜、クラリネット吹きが家に帰ると、ドアの前に1匹のネコが座っていました。エサを与えても食べません。仕方なくクラリネットの練習をしたあと、ネコを見てびっくり。さっきよりも大きくなっていたのです。
     
    ネコがゲップを一つすると、その音はクラリネットの音に聞こえました。ネコは満足そうに笑っています。次の日、その次の日と、ページをめくると、クラリネットを吹くたびに大きくなっていくネコが描かれています。毎晩練習するクラリネットの音色で、ネコはまくらの大きさからベッドの大きさへ。クラリネット吹きは「君みたいに、大きなネコと暮らしてみたかったんだ」と幸せそうな笑顔で、ネコのお腹を枕に横になります。ネコも幸せそうに、のどをゴロゴロと鳴らすのです。
     
    録音していたクラリネットを一日じゅう聞いていたネコは、クラリネット吹きが仕事から戻ってくると、「信じられないくらい」大きくなって、家から出られなくなります。その夜、一晩中録音を聞いていたネコは家よりも大きくなり、家が壊れてしまうのです。
     
    見開きのページに思わず「ワオ! そんなアホな」と声が出そうなシーンです。でも、ネコもクラリネット吹きも幸せそう。家が壊れたので、ネコの背中で住むことにして、クラリネットを吹きながら町を行きます。時には空を飛び、移動します。どんどん大きくなるネコと一緒にクラリネット吹きは、各地で演奏してお金を稼ぎ、旅を続けます。
     
    ネコと一緒にかなえた夢は何だと思いますか。
     
    作者の岡田淳さんは児童文学作家ですが、自ら絵も描きます。というのも、岡田さんは大学卒業後、兵庫県西宮市の小学校教員となり、図工を教えながら作家活動をされ、定年まで勤めたのです。
     
    作品の舞台は小学校が多く、現実の小学校からファンタジーの世界に入る内容は、子どもたちはもとより大人の私たちをも引き込んでいく素晴らしさを持っています。
     
    (元小学校教諭 遠田博美)

  • 30面 編集後記(矢野宏) ※全文紹介

    まずはお詫びから。「新聞うずみ火」の発送予定日は毎月23日ですが、今月は土曜日で、印刷・製本をお願いしている印刷所がお休み。発送が週明けになってしまいました。この小さな小さな新聞が届くのを心待ちにされている読者の皆さん、申し訳ありませんでした▼お盆休みの最中、大阪・関西万博の来場者が大阪メトロ中央線のトラブルで帰宅困難になったとのニュースが飛び込んできました。かねてから大阪メトロの過剰負担を指摘していた元大阪日日新聞記者の木下功さんに執筆を依頼したところ、万博協会の幹部3人の記者会見に臨み、3ページにわたって執筆いただきました。ありがとうございました▼栗原記者も沖縄・久米島で起きた日本兵の住民殺害、大規模な焼夷弾爆撃で市街地の8割が灰燼に帰した「前橋大空襲」、山口宇部市の長生炭鉱で戦時中に起きた水没事故の遺骨収容を目指す潜水調査と、現場主義に徹した東奔西走の取材。ぜひともページを開いてやってください▼「矢野はさぼっていたな」とのお叱りを受けそうですが、さにあらず。空襲体験者の証言DVD第3弾「パンプキン」の編集原稿、追加撮影、ナレーション収録などに追われていました。ようやく目処がつき、9月13日にPLP会館で開講する「うずみ火講座」で上映できそうです▼毎月ドタバタですが、読者の皆さんに支えられ、おかげさまで新聞うずみ火は来月で創刊20周年。「誰が泣いているのか、泣いている人の横に立つ」編集方針のもと、現場に足を運び、訴える新聞を一号一号と積み重ねていくとともに、小中高校での平和学習を支えるための証言DVD制作や講演活動にも取り組んでいきたいと思っています。これからも支えてやってくださいね。

  • 31面 うもれ火日誌(矢野宏)

    7月10日(木)
     矢野 午前、大阪市立東我孫子中学校の平和学習で、1年生143人に「大阪大空襲を知っていますか」と題して話す。夜、元大阪日日新聞記者の木下功さんと打ち合わせ。
     栗原 大阪地裁で、現職市議による差別的言動を問う李修代さんの訴訟を傍聴、取材。
    7月14日(月)
     矢野 午後、大阪暁光高校で看護専攻科の社会学ラスト講義。参院選が初投票という学生たちに「憲法は権力者を縛るもの。それを変えようという政治家にだまされるなよ」と語りかける。
    7月15日(火)
     矢野 午前、東大阪市立布施小学校の平和学習で6年生67人に「大阪空襲と模擬原爆」。人身事故で30分遅れて体育館へ。国際教室担当の洪佑恭(ホン・ウゴン)さんと児童たちに拍手で迎えられる。まだ話していないのに……。
    7月17日(木)
     矢野、栗原 午後、大阪ミナミで行われた参政党代表の街宣を取材。「インチキ政党に騙されないで」などと書かれたプラカードを掲げる市民と支持者が小競り合い。
    7月19日(土)
     矢野 午後、京都市中京区で「憲法を活かす京都郵政労働者の会」の学習会で講演。演題は「万博、維新政治のつけ~参院選を見透かして」。
     栗原 夕方、事務所近くで参政党の「マイク納め」取材。
    ……

  • 32面 うずみ火講座&編集長9月講演(矢野宏)

    ・うずみ火講座 9月13日午後2時半~PLP会館で証言DVD上映会と講演

    新聞うずみ火が制作中の空襲体験者証言DVD「パンプキン爆弾を知っていますか」の上映会を9月13日(土)午後2時半~大阪市北区のPLP会館で開きます。
     
    パンプキン爆弾とは、原爆投下の訓練に使われた模擬原爆のこと。長崎に落とされたプルトニウム原爆「ファットマン」と同じ大きさ、同じ重さ。中には火薬が詰められていました。でっぷりした形、黄色く塗られていたため、「パンプキン」(かぼちゃ)と呼ばれていました。
     
    原爆投下の候補地だった京都、広島、新潟、小倉の近くに49発が投下され、犠牲者は400人あまり。大阪市東住吉区田辺にも1発のパンプキン爆弾が投下されました
     
    当日は、矢野が「空襲とパンプキン」と題して講演した後、証言DVDを上映します。
     
    資料代は1200円、読者1000円。
     
    現在、小中高校での平和学習を支えるため、証言DVD「パンプキン」を制作しています。クラウドファンディングに挑戦中です。ご支援よろしくお願いします。

    ・11月1日、PLP会館で創刊20周年お祝いの集い

    詳細は次号で。今から予定に入れておいてください。

    ・矢野編集長9月の講演

    ■豊中きらら福祉会・平和学習
    ・日時 8日(月)午後5時~7時
    ・会場 地域共生センター(豊中市中桜塚)
    ・演題 大阪大空襲を知っていますか
    ・問い合わせ 06・6170・6590
    ■部落解放・人権政策確立要求滋賀県
     実行委員会「第1回人権セミナー」
    ・日時 9日(火)午後2時~3時半
    ・会場 滋賀県立武道館大会議室
    ・演題 空襲とパンプキン
    ・問い合わせ 部落解放同盟滋賀県連合会 077・522・8290
    ■JR総連兵庫県協議会「戦後80年 
     未来へつなぐ平和集会」
    ・日時 21日(日)午後1時半~4時半
    ・会場 明石市生涯学習センター
    ・演題 今を「戦前」にしないために
    ■大阪市立平野小学校6年生人権平和学習
    ・日時 26日(金)午前9時40分~11時半
    ・会場 平野小学校
    ・演題 大阪にも空襲があった
    ■戦争をさせない1000人委員会・しが
     「連続市民講座」
    ・日時 27日(土)午後1時半~3時半
    ・会場 平野市民センター(JR税所駅)
    ・演題 「日本人ファースト」の危険性
    ・問い合わせ 090・8821・5367

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