自民党の歴史的大勝に終わった衆院選。一つの政党が定数の3分の2を獲得するのは戦後初のことだという。どんな法案でも成立させることができる巨大な力を何に、どう使うのか。高市早苗首相は「国論を二分するような政策に挑戦する」とし、その一つにインテリジェンス(情報収集と分析)機能の強化を挙げている。与党が制定を急ぐ「インテリジェンス・スパイ防止関連法制」の危険性について、治安法制に詳しい永嶋靖久弁護士に聞いた。
「スパイ防止法反対」を、衆院選の公約に明記したのは共産党と社民党だけ。他の与野党はスパイ防止法を含むインテリジェンス体制強化を掲げた(れいわ新選組とチームみらいは言及なし)。
自民圧勝を受けて誕生した第2次高市内閣は、国内外のインテリジェンス活動の司令塔となる「国家情報局」を発足させるため、今の特別国会に「国家情報会議設置法案」(仮称)を提出する方針だ。
法案の柱は三つ。①「内閣情報室」(内調)を「国家情報局」に格上げする②国家情報局長を新設する③首相らが参加する「国家情報会議」を創設すること。
国家情報局は、外交・安保政策の司令塔である「国家安全保障局」と同格の機関と位置づけられ、外務省や防衛省、警察庁、公安調査庁などの情報部門が持つ情報を集約し分析する。発足後は国家情報局が中心になって、スパイ防止法の制定などに取り組む。
永嶋さんは「内調が局に格上げされることで、人も予算も増え、権限も強化される。省庁だけでなく、際限なく個人情報までもが収集される可能性がある」と警鐘を鳴らす。
さらに、自民と維新は、国家情報局とは別の組織として2027年度末までに「対外情報庁」(仮称)の創設を目指しており、選挙公約にも明記された。
永嶋さんによると、国家の安全保障のために外国の情報を収集・分析する対外情報組織で、モデルは米国中央情報局(CIA)や英国の秘密情報部(MI6)。
CIAといえば、米大統領直属の世界最大の対外情報機関で、これまで世界中で国家転覆や軍事活動を含む秘密工作を行ってきた。1月3日のベネズエラ侵略でも関与が報じられている。
対外情報機関が担うインテリジェンス活動は、三つのタイプが基本型とされる。
①通信や信号を傍受する『シグナル・インテリジェンス』(通称・シギント)
②敵の組織に入り込むなど人との接触を介した『ヒューマン・インテリジェンス』(通称・ヒューミント)
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抜き打ち的な衆院解散による短期決戦を制した自民党が圧勝し、立憲民主党と公明党が結成した中道改革連合の惨敗により、「1強多弱」時代を迎えた。野党第一党が50議席を割ったのは戦後例がないという。与党の補完勢力である国民民主党と参政党を除く、共産党、社民党、れいわ新選組を加えても反自民系は54議席。この国の将来を左右しかねないほど深刻な事態となった。「自己都合解散」との批判を受けつつも、高市自民はなぜ地滑り的勝利を手にできたのか。関西学院大法学部の冨田宏治教授に自民圧勝の背景を分析してもらった。
通常国会冒頭の解散から約1カ月、第2次高市内閣が発足した。政権の枠組みも、閣僚の顔ぶれも同じ。大きく変わったのは国会の風景だ。
「まさに一寸先は闇、何が起きるかわからない。自民が単独で316議席を取るとは驚きだった。メディアもすべて予想を外しましたね」
そう切り出した冨田さんは、自民の勝因について「岩盤保守層(極右)が戻ったこと」だと指摘する。比例の得票数が各党にどう動いたかを計算すると−−−−。
「自民党は2021年の総選挙で1991万票だったのが、25年の参院選では1280万票と、710万票減らした。今回の衆院選では2102万票を獲得して、820万票増やしました」
では、どこから取り戻したのか。
「国民は25年の参院選で742万票だったのが、今回は557万票と200万票ほど減らしており、参政は743万票から426万票と約300万票の減。日本保守党も298万票から146万票と約150万票も減らしており、合わせると650万票。さらに、これまで連立を組んでいた公明に『比例は公明に』と票を回していた自民支持者の100万近い票を取り戻したと考えていいでしょう」
獲得した820万票から、取り戻した岩盤保守層の票を差し引くと、残り70万票……。
「それが『サナ活』(首相の名前とアイドルやキャラクターを応援する『推し活』の『活』を組み合わせた造語)です。世間がもてはやすほど数は多くはない」と冨田さんはみている。
「高市さんは女性初の首相だし、はっきりものをいうし、中国にも強気だから高市さんに期待したいという有権者の声を『サナ活の風が吹いた』などと、テレビメディアが流していましたが、筋読みをしたディレクターがそういう回答が出るまで聞き、それを流しているのでしょう」
冨田さんは「風は別のところで吹いていた」という。
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2月8日投開票の衆院選に合わせて、大阪府知事と大阪市長の出直しダブル選が強行された。いわゆる「大阪都構想」への3度目の挑戦を掲げ、1年3カ月の任期を残して辞職した吉村洋文知事(日本維新の会代表)と横山英幸市長(同副代表)が仕掛けたものだ。対立候補が事実上不在の中、両氏は「都構想の設計図づくりをさせてほしい」と訴えて圧勝。選挙後の記者会見では「信を得た」として、設計図づくりの舞台となる「法定協議会」の設置を急ぐ考えを示した。しかし今回のダブル選で、住民投票の民意を超える「信を得た」と言えるのか。「なぜ、今なのか」「否決された過去2回と何が違うのか」「なぜ副首都に都構想が必要なのか」など、選挙前から指摘されていた疑問は解消していない。選挙を経て何が見え、何が変わったのか、吉村氏と横山氏の演説や記者会見での質疑から考える。
選挙戦最終日を迎えた2月7日夜、大阪市中央区難波の百貨店前では、日本維新の会の藤田文武共同代表とともに、ダブル選を仕掛けた吉村氏、横山氏が群衆の前でマイクを握っていた。
横山氏は「大阪では(成長戦略を)前に進めることができた。(知事、市長がともに維新という)人間関係の成長モデルではなくて、制度として確定することで大阪は確実に成長を続けることができる」と都構想の意義を説明。吉村氏は、自民党と日本維新の会の連立政権合意文書に副首都法案が盛り込まれたことについて「国民に副首都の信を問うのであれば、大阪府、大阪市においても都構想をやって副首都を目指す。その設計図づくりをさせて」と訴えた。
最後の演説でも都構想のメリットは語られたが、「なぜ今なのか」「過去2回と何が違うのか」「なぜ副首都に都構想が必要なのか」について明解な説明はなかった。
「大阪都構想」は大阪市を廃止して東京都のように特別区を設置する制度で、2015年と20年の住民投票で2度とも否決されている。僅差とはいえ、都構想の賛否のみを問うた住民投票の結果であり、多くの市民が自主的に勉強会を開いたり、仲間を増やす活動をしたりして、時間と労力をかけて導き出した民意だ。都構想以外にもさまざまな要因が検討される首長選とは重みが違う。
しかも、今回のダブル選は、知事選、市長選ともに白票を含む無効票が投票総数の10%を超える異常事態となり、有権者の抗議の声が表われたと考えるべきだろう。
吉村氏、横山氏に投票した人の中からも、「他に入れる人がいないから入れた」「1回(都構想を)やらしてあげたらええやん。あかんかったらやめたらええねん」などと、選択肢を持てなかった人、都構想のデメリットを知らない人の声が上がる。
辞職表明から告示まで知事選が1週間後、市長選が10日後の超短期決戦で、主要政党は「大義がない」として候補擁立を見送った。吉村氏自身も衆院選候補者の応援で大阪を離れることが多く、否決された過去2回の都構想との違いを示さないまま「設計図をつくらせて」と訴えるのは、住民投票の結果をあまりにも軽んじている。
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戦時中、183人が犠牲となる水没事故が起きた山口県宇部市の海底炭鉱「旧長生炭鉱」で2月7日、遺骨収容のため潜水した台湾出身のダイバー、ウエイ・スーさん(57)が不慮の事故で亡くなった。調査に取り組む地元の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が84周年追悼集会を執り行うさなかの悲報だった。
長生炭鉱の水没事故は1942年2月3日に発生、朝鮮人労働者136人を含む183人が亡くなった。91年に結成された刻む会は毎年、韓国から遺族を招いて追悼集会を開催。約10年前から遺骨収容・返還を目標に掲げてきた。
2024年9月、クラウドファンディングで集めた資金で坑口を掘削。水中探検家の伊左治佳孝さんの協力で潜水調査に乗り出し、昨年8月には初めて遺骨が収容された。坑道内に少なくとも4体があることも確認された。
刻む会はこの2月、「遺骨収容プロジェクト2026」と銘打ち、集中遺骨捜索・収容を計画。海外の世界トップクラスのダイバーがボランティアで参加した。6日には伊左治さんら3人が頭蓋骨や首の骨などを地上に持ち帰り、日韓の遺族が初めて遺骨との涙の対面を果たした。「人間の身体のまま横たわっておられて、手袋や靴、衣服もわかる状態だった」という。
沖縄戦遺骨収集ボランティア・ガマフヤーの具志堅隆松さんは「歯茎が後退している」
「金歯がある」ことなどから「それなりの年齢と思われる」と説明した。
一夜明けた7日午前10時半から水没事故84周年の追悼集会が開かれた。潜水調査が本格化する中、今年は国内外から800人が参列。「追悼ひろば」に入りきれず、隣接する漁港にマルチビジョンが用意された。
会場にほど近い旧長生炭鉱では、潜水調査も平行して行われた。3人一組になり隔日で行う日程で、この日はスーさんと、タイのダイバー2人の担当だった。
刻む会代表の井上洋子さんは1月の日韓首脳会談で、遺骨のDNA鑑定での協力に合意したことに触れ、「日本政府が、政府として関与するその第一歩を引き出した。遺族の皆様に一人でも多くご遺骨をお渡ししたい」と述べた。集中潜水調査に先立つ1月30日、厚労省の担当者が初めて現地を視察。専門家5人と井上さんや伊左治さんらが面談していた。
韓国遺族会の楊玄(ヤン・ヒョン)会長は「84年という長い歳月を経て、遺族が長年切望してきたご遺骨と対面がかなった」と謝意を述べ、「真相究明と公式的な謝罪、正当な責任が果たされるその時まで、私たちは声を上げ続けていく」と訴えた。
韓国政府からは担当の行政安全部の張銅洙(チャン・ドンス)過去事関連業務支援団長、姜鎬曽(カン・ホズン)在広島韓国総領事、国会議員5人も参列。この間の取り組みに敬意を表し、刻む会に行政安全省長官賞が授与された。日本政府関係者の姿は今年もなかった。
午前11時50分頃、前日、遺骨を収容した伊左治さんら3人が紹介された。その時、伊左治さんのスマホにピーヤの上から緊急事態を知らせる着信があり、3人は血相を変えて会場を飛び出した。
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日本では冤罪被害者の死後再審はあるが(徳島ラジオ商事件)、死刑執行後に再審となった例はない。
1月28日には70年前の殺人で犯人とされたハンセン病患者が死刑執行された熊本県の「菊池事件」の再審請求が熊本地裁で棄却された。そして34年前の福岡県の「飯塚事件」が注目されたが……。
「不当決定を許すな!」「最高裁まで闘うぞ!」。のぼりを立てた支援者らが福岡高裁前でシュプレヒコ―ルを挙げた。
1992年2月、福岡県飯塚市で小学1年の女児2人(いずれも7歳)が殺された飯塚事件。犯人として2008年に死刑執行された久間三千年氏=執行時70歳=の妻が求める第2次再審請求審の即時抗告審で2月16日、福岡高裁の溝国禎久裁判長は弁護団が提出していた男女2人の目撃者の新証言を認めず、棄却した。福岡地裁を踏襲した決定に弁護団は「審理を尽くさない高裁は裁判所の使命に反する」(岩田務主任弁護人)と最高裁に特別抗告した。
確定判決は久間氏が同年2月20日午前、登校中の女児2人をワゴン車に連れ込んで絞殺し、遺体を甘木市の山中に遺棄したとし、女児と木の枝に残された血液と久間氏のDNAの型が一致したとした。第1次再審請求審で、裁判所はDNA鑑定の信用性を否定したが、福岡県警は試料を廃棄しており再鑑定ができない。事件は当初、警察が事故と考えた初動ミスもあり有力な物証がなく、状況証拠ばかり。結局、警察の有罪立証の根拠は目撃証言だけだった。
県警は、飯塚市内で女児が通っていた小学校近くの三差路で女児を最後に目撃した女性の供述から誘拐の時間や場所を特定し、同じ時間帯の別の目撃証言から久間さんの犯行とした。だが目撃女性は第2次請求審で「女児らを見たのは事件当日ではないのに、警察に押し切られた」と最初の証言を大きく改めた。
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政治家は選挙に勝つためなら論点のすり替えなど平気だ。高市首相は今回の解散・総選挙について、当初、「私が首相でいいのか、国民に直接問いたい」と言っていた。しかし、議院内閣制の日本で国民に直接問いたいというのはおかしい。大統領制にしてトランプ大統領のようにやりたいのか。
支持率が高いうちに総選挙をして過半数以上を取りたいだけの話なのにという批判が出てくると、総選挙圧勝後の記者会見で、自らが掲げた「責任ある積極財政」、安全保障政策の抜本的強化、インテリジェンス機能の強化といった重要な政策転換を自民と維新の連立政権で進めていいのかどうかを国民に問う選挙だったと言っていたが、少数与党から脱却して自分の思い通りに政治ができるようにするため、高支持率のうちに総選挙をすれば大勝できると考えた大ばくち以外の何ものでもなかった。
しかし、大ばくちは大成功、どの予想もこえ、自民単独でも結党以来最多の316議席、3分の2強を獲得、維新を合わせると352議席、衆議院定数が465だから70%近くで、自民結党以来の悲願の自主憲法制定=改憲が視野に入る状態になった。勝敗ラインを過半数と高市首相は言っていたから、それは何とか超えるだろうと考えてはいただろうが、歴史を書き換える結果になるとは思いもしなかったのではないか。
それはともかく、ここまで勝った以上は、何がなんでも国民に約束した公約を実現させなければならない。自民の選挙ポスターは「日本列島を、強く豊かに!」だったが、国民は物価を下げてほしい、生活安定が一番だった。しかし、経済オンチの高市首相は、物価上昇の原因の大きなものに円安があるのに、輸出企業の立場に立って「円安ホクホク」と言って、批判されると言い訳した。こんな首相に経済はまかせられないのに、アホは利用した方がいいと、「高市相場」とはやし立てることで、かつてのバブル経済以上になって株価は上昇、6万円の大台にも届きそうである。
経済の本当のところを知らない人は株価上昇で日本経済は強く豊かになり、生活も安定すると思っているだろうが、アメリカ株に連動して日本の株が上がったところで、日本の経済と産業が強くなるわけではなく、自社株買いをしてつりあげている企業と株主、証券会社、そして割安だから買っている外国人投資家だけがうれしがっているだけで、バブル経済再来そのもので、一般人には何の利益ももたらさない。
……
1月、テルアビブの喫茶店「シャラーガ」にイノン・マオズがやって来た。彼は「イスラエル&パレスチナ平和運動」のユダヤ側の共同代表で、アラブ人のアジーズ・サラーと共に世界を巡りつつ平和の大切さを訴えている。マオズはイスラエルとパレスチナを結ぶ旅行業者で、ハマスに両親を、アジーズはイスラエル兵に兄を殺されている。それでも彼らは「報復するのではなく、互いに許し合う」道を選んだ。マオズに尋ねた。
−−−−2023年10月7日、ご両親がハマスに殺害されたのですね?
「はい。私はガザから1・5㌔のキブツ(集団農場)で生まれました。キブツを建設したのが私の祖父母で、約100年前にイギリスの委任統治領だったパレスチナに、シオニストとして移住したのです。父親はこのキブツで農業をしていました。農業は観光業より大変です(笑)。ある年、イスラエルはひどい干ばつに襲われて、農作物が収穫できませんでした。干ばつだけではありません、洪水や虫害でほとんど収穫できなかった年も覚えています。そんな時、父は必ず『マオズ、来年はいい年になる。だから種を蒔こう』と励ましてくれました。母はマンダラ絵師で、何千枚ものマンダラに文字を描いて販売していました。その中の一つ、これをあなたにプレゼントします。マンダラには『私たちは夢を追うことができる、その夢を追いかける勇気さえあれば』と書いてあります」
−−−−ありがとうございます。宝物にします。そんな優しくて強いご両親が一瞬にして殺されてしまったのですね。
「現場に急行しましたが、実家は焼け崩れていました。母親の顔は焼けただれて最初は誰か分かりませんでした。両親だけでなく、幼馴染や近所のおじさん、おばさんが殺されていました。生き残った友人たちはガザに連れて行かれて人質になりました」
−−−−リベンジしたい、とは思わなかったのですか?
「打ちひしがれて泣き続けていましたが、両親を埋葬した日に夢を見ました。私の涙の向こうでみんなが泣いています。身体はボロボロになっているのに、その涙が傷ついた身体を清めて、地面に染まった血もその涙が流し去ってくれています。そこに一筋の道が見えました、平和への道が。目覚めてから、これが私の生き方だ、と覚悟を決めたのです。報復しないで、和解すること。それが私の進むべき道だ、と」
−−−−そんな時にアジーズさんがメールをくれたんですね?
……
憲政史上最悪と言ってよい選挙であった。2月8日に投開票された第51回衆院選は、自民党が単独で316議席を獲得し、衆議院の3分の2(310議席)を超えた。連立を組む日本維新の会と合わせると352議席となり、4分の3を与党が占めることになる。
各委員会の委員長ポストと過半数を独占し、仮に参議院で法案が否決されても再可決でき、文字通り「やりたい放題」が可能な状況が生まれたわけだ。
自民党は過去に一度、中曽根康弘内閣だった1986年に300議席を獲得したことがある。しかし、この時は中選挙区制で定数も512あった。高市早苗内閣はまさに歴史的大勝を成し遂げたわけだが、選挙の中身は過去のものとは全く異質である。そもそも、今回の解散の大義はゼロだった。高市首相は理由について「私が内閣総理大臣でいいのか、国民に決めていただく」と述べ「私を選んでください」と訴えた。
だが、忘れてはいけないことがある。総選挙は首相の人気投票ではない。各政党が政策を掲げ、与党の政策の成果を検証し、議論を積み重ねる中で有権者に判断材料を提供し、審判を仰ぐのが総選挙だ。
首相が審判を受けたいというのなら、まず通常国会で施政方針演説を行い、各党の代表質問や委員会質疑で議論を戦わせてから解散するのが筋であろう。実質的に何も判断材料を示さず、「ドラム外交」などのパフォーマンスだけで「審判を受けたい」というのは、議会制民主主義への冒とくに他ならない。
加えて、真冬の時期に選挙を実施したことも、大問題である。有権者のみならず候補者にも、著しい不平等を生じさせた選挙だった。
2月の総選挙は、90年の海部俊樹内閣が実施した「消費税解散」の例がある。だが、この時は通常国会の開会が12月で、有権者は20歳以上だった。今回は突然の冒頭解散で、準備を含めた選挙期間がわずか16日間しかなかった。有権者は18歳以上になっており、20歳未満の多くは受験の真っ只中で選挙に臨まされた。多くの地域が豪雪被害を受ける中で、ポスター掲示板が雪に埋まるなど、選挙活動にも大きな支障が出た。予算策定の大切な時期に、いきなり選挙業務を課せられた自治体職員には多大な負担をかけたはずだ。
また、今回の選挙では「裏金議員」のほとんどが復活した。説明責任はもちろん、「政治とカネ」の問題についてもうやむやのまま、「みそぎは済んだ」とばかりに重複立候補まで認めた。だが、ちょっと待ってほしい。一昨年の総選挙で自民党を大敗させた有権者の「民意」はどこに行ってしまったのだろうか。当選した議員たちに1年3カ月ほどしか活動させず、早々に解散するとは選挙結果をないがしろにするにもほどがある。
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東京電力福島第一原発事故後、関西に避難した住民らが国と東京電力に損害賠償を求めた集団訴訟(関西訴訟)が昨年12月24日、大阪地裁で結審した。提訴から12年。判決は9月2日に言い渡される。2月14日、大阪市西区のクレオ大阪で「うずみ講座」を開き、原告団代表の森松明希子さん(52)にこの裁判で問われたことを、体験を交えて語ってもらった。
原発事故避難者による集団訴訟は北海道から関西まで全国で約30件、約1万人が原告になった。高裁段階では国の責任を認める判決が相次いだが、四つの集団訴訟に関する2022年6月の最高裁判決は国の責任を認めなかった。以後、後続の訴訟では国の責任を否定する判決が続く。
関西訴訟は13年9月から四次にわたり243人が提訴。昨年12月24日、12年がかりで結審した。地裁判決が出ていないのは関西訴訟だけ。原告68人が本人尋問で避難理由を語っており、大阪地裁の判断が注目されている。
原発事故から2カ月後の11年5月、生後5カ月と3歳の子ども2人を連れて郡山市から出身地の関西に避難した。夫は地域医療を担う勤務医で、二重生活はいまも続く。原発時kで避難を余儀なくされた人々が互いに支え合い、情報を共有するために設立した「東日本大震災避難者の会(Thanks & Dream」(サンドリ)の代表も務める。
森松さんは原告のたすきをかけてマイクを握った。「総選挙は終わりましたが、私は1年365日、街頭に出るときはたすき掛け。母子避難を続けている原発避難民で、国と東京電力は責任も取っていないことも含め、原発被害を訴えています」と説明し、福島県の地図を示した。
「日本は強制避難と自主避難とに分けましたが、どちらも国際社会から見れば『国内避難民(ⅠDP)』。国連の『国内避難に関する指導原則』では避難の経緯『行政の指示(強制)』か『自らの判断(自主)』かによって、国内避難民としての権利や保護の対象を分けていません」
郡山市は福島第一原発から60㌔で、強制避難区域ではない。郡山市や同じ浜通りの福島市は強制避難区域からの住民を受け入れ、一方で避難する住民が混在した。事故後、郡山市内でも深刻な汚染があり、空間線量が跳ね上がった。
原告の多くは福島県の郡山市、福島市、いわき市などからの避難者。茨城、栃木、千葉、宮城などから避難してきた人もいる。原告の多くが自主批判者で。森松さんのように母子避難した世帯も多い。
森松さんは「自主避難」という言葉に15年間苦しんできたと振り返った。
「『自主』は主体的でむしろ良い言葉なのですが、『やってもやらなくてもいい』。やらなくていいことをしているという悪い印象に加え、『自主避難ママ』となるとヒステリック、ナーバス。『放射脳ママ』とやゆされました。『自力避難』のほうが実態に合うと、メディアに何度も提案しましたが、「自主避難が浸透している」と受け入れられませんでした」
近畿では関西訴訟、京都訴訟、兵庫訴訟の三つの原告団が結成された。提訴は13年9月のほぼ同じ時期。ふたを開けて見れば、全てが横断幕に「避難の権利」を全面に掲げていた。
「避難の権利とは、無用な被ばくに抗う権利のこと。避難した人だけの正当性を訴えるわけではなく、現地に留まっている人の被ばく防御の権利も訴えています」
森松さんの子どもたち、福島の夫も原告団の一員だ。
避難の権利について声を大にしてきた森松さん。18年には、スイス・ジュネーブの国連人権理事会で。被害当事者としてスピーチした。
森松さんは、事故直後、汚染された水を飲まざるを得ない状況で、生後5カ月の娘に母乳を与えたという。辛い体験を振り返り、日本国憲法の前文「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利を有する」を引用、「被ばくの恐怖から逃れる権利は基本的人権」だと国際社会に訴えた。
その後、オーストリア、ポルトガル、ドイツ、メキシコは原発事故被災者対応について日本政府に勧告、ポルトガルは
「福島第一原発事故のすべての被災者に国内避難民に対する指導原則を適用すること」と促した。
避難の権利とともに、原告団が主張するのが「被ばくからの自由」。森松さんは「原発事故以降、私が奪われた権利は、被ばくからの自由と基本的人権。被ばくするかしないか私が決める、その権利が奪われているのです」
通常、一般公衆の被ばく限度は年間1ミリシーベルトと定められている。しかし、福島県のみ20ミリシーベルト。「緊急事態宣言」がいまも解除されていないからだ。その福島では今、事故当時18歳未満の子ども400人が甲状腺がんとその疑いと診断されている。6人が東電を訴えたが、その原告たちはSNSなどで攻撃にさらされたという。
昨年12月24日、森松さんは最終意見陳述でこう訴えた。 「福島に残った夫と子育ての苦楽を共有できず、家族だんらんを一切失いました。国はこの14年間、避難者を保護する制度や施策をほぼ何も実施してきませんでした。私たちは『自主避難』ではなく『自力避難』を強いられ苦境に立たされてきました。差別や誹謗中傷の標的にさらされてきました。これ以上『絶望』を与えないでください」
県立公園「群馬の森」(高崎市)にあった戦時中の朝鮮人労働者の追悼碑を県が行政代執行で撤去して2年。碑の跡地で1月31日、「語り継ぐ集い」(「アクション80」主催)が開かれた。市民80人が更地に花を手向け、消すことのできない事実を記憶し、語り伝えていくことを誓い合った。
追悼碑は「記憶 反省 そして友好」の碑。群馬県内では鉱山や軍需工場など少なくとも19カ所で約6000人が過酷な労働を強いられ、300~500人が亡くなった。戦後50年に市民有志が初めて県内をくまなく調査、実態を明らかにした。慰霊碑もなかったことから「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」が発足した。県に用地提供を請願し、県議会が全会一致で趣旨採択。当時の小寺弘之知事が群馬の森の敷地提供を決済し、2004年4月、追悼碑の除幕式を迎えた。
しかし10年後の14年、県は碑を管理する「追悼碑を守る会(旧・建てる会)」の設置更新申請を許可しなかった。追悼式で、参加者が「強制連行」と発言したことを「政治的行事を行わない」設置条件に反した、と理由づけた。県には約2年前から「追悼碑の内容は虚偽」などの電話やメールが相次いでいたという。
守る会は県を提訴。前橋地裁判決は県の不許可処分を違法としたが、東京高裁は一転、「適法」と判断。最高裁で守る会の敗訴が確定した。
山本一太知事は「司法で決着済み」などと自主撤去を要請。話し合いの求めに応じることなく、24年1月29日、行政代執行で撤去した。
守る会は同年に解散。戦後50年の理念に立ち返り、「アクション80」として再出発した。跡地での「語り継ぐ集い」は2回目で、共同代表の加藤昌克さんは「碑はなぜ建てられ、なぜ壊されたのか、誰に壊されたのか、語り継ぐことで私たちはずっと記憶に留めることができる」と挨拶した。
布で覆われた追悼碑をモチーフに作品を制作した美術家の白川昌生さんは「万が一、追悼碑がなくなっても美術作品として残せれば事実や歴史は残ると考えた。美術の役割の一つが過去の出来事を記録することだ」と振り返った。
情報科学芸術大学院大学教授の前林明次さんは、跡地にスマホをかざすと画面にバーチャル追悼碑が蘇る拡張現実(AR)アプリを開発した。「バーチャルは元々、『実質的には同じ』という意味。ここに来れば碑を見ることができるようになる、そのために貢献できれば」と話した。
国内の貨物輸送 輸送重量(トンベース)で、自動車が約5割、内航海運が4割、鉄道は5%です。
トラック輸送の現状 業務用(日用品、金属鉱、食料品など)が大半です。また電子商取引(EC)が増え、小口、宅配便が急増し、再配達の削減や物流の効率化も必要に。課題は、燃料の高騰に加え、労働力不足の深刻化。2024年4月から時間外労働の規制が適用されて(年960時間限度。原則は720時間)います。営業費用の4割が人件費ですが、中高年の割合が高く、労働時間が全産業より2割多い。年収は、全産業の平均より5~10%低く、人材確保が容易でありません。地球温暖化対策もあり、CO2の排出量が多いトラック運送の課題は山積。また4割を占める内航海運も、船員の確保・育成が大きな課題に。
鉄路の重要性 脚光を浴びているのが鉄路。その典型例、JR貨物の最長路線をご紹介。福岡から札幌への2100㌔余を2日間(43時間弱)費やし、途中の7カ所で交代しますが、7人の乗務員で走ります。トラック運送なら65人必要。関門トンネルを経て山陽線を通り、京都の山科駅から湖西線を経由、日本海側の路線(信越、羽後、奥羽など)を走り抜け、青函トンネルを通り、五稜郭、札幌に到着します。ただ残念ながら、JR各社には、鉄路が電気、ガス、水道と同様に、生活に欠かせない公共インフラだという意識が極めて希薄なようです。高額料金のイベント列車の運行や、将来の大きな負荷が予想されるリニア新幹線の実現に躍起となっていて、在来線の活性化に本腰を入れる気配が全く見えません。国鉄の解体、民営化の歴史を振り返っても、乗降客の少なく経営効率の悪い路線は、上下分離方式(線路などは国や自治体が保有し、運行のみ専念)や第三セクターの地域鉄道、バス路線への転換を図り、切り捨ててきました。その地域鉄道やバス路線も、次第に衰退し、廃止される例も少なくありません。その典型例をご紹介します。
JR西日本の木次線 JR西日本の中で、芸備線とともに存続が危ぶまれる木次線の現状をご紹介。島根県の宍道(しんじ)駅から芸備線の備後落合駅に至る81・9㌔の路線です。出雲坂根駅で3段式のスイッチバックを経由します。極端な例ですが、途中の出雲横田駅では、1日3便の表示はありますが、実質は1便で、残りは特定日のみ運転です。また備後落合駅から宍道駅行は、たった3便に過ぎません。より効率の悪い路線を多く抱える、他のJR各社も同様な事例が多いことでしょう。
雲南市の交通手段 木次町など6町が合併し、島根県の総面積8・2%を占め、林野が多い町です。総人口3万6000人ですが、人口減少に歯止めがかかりません。交通手段は、コミュニティ(地域)バスが主体で、自家用車(白ナンバー)による有償運転です。
地方の活性化 特効薬はありません。ただし、ヒトやモノが行き交うためには、鉄路は欠かせません。名産品や特産品の積極販売、在来線による観光客の呼び込みなど、息の長い地道な活動が必要です。自治体が主体となって、地域振興公社などを設立し、ふるさと納税方式でEC(電子商)取引により、特産品などの一括注文を受け、地元の輸送業者や郵便局などを活用し、鉄路で貨客混載する方法もあります。
知花昌太朗さんのお話と沖縄テレビの特集「チビチリガマ 真実明らかにした調査」、下嶋哲朗さんの著書「南風(パイヌカジ)の吹く日」でまとめると――
下嶋哲朗さん、石垣島で
チビチリガマのことを聞く
下嶋さんは、1978年に石垣島で読谷村出身の女性と出会い、チビチリガマの出来事とそれが当時タブー視されていたことを知った。
昌太朗さんによれば、その女性はチビチリガマの体験者で波平にいるのがつらくて石垣に来ていたとのこと。実は、米軍基地建設のため農地接収が必要となり、軍・政府当局が52年から農民を石垣島や海外に開拓移民として送り出した。この女性はその一人だったのである。
読谷村波平に通い
調査の必要性訴える
話を聞いた下嶋さんはチビチリガマで起きた事実を確かめたいと読谷村波平に通う。そして事実の全容を調査し、記録にとどめなくてはと思いながら5年が過ぎた83年3月。読谷村教育委員会から下嶋さんの絵本の原画展を開催したいと話があり、開催。個展の会期中、会う人ごとに、語る人ごとに、チビチリガマの「集団自決」の調査をし記録をするようにと訴え続けた。
調査始まる
7月、下嶋さんはともかく始めようと調査に取りかかる。その調査で証言を聞かせてもらった比嘉平信さん。戦地から戦後、波平にもどると家族、親戚12人全員チビチリガマで 亡くなっていた。
証言した後、平信さ んは調査の手伝いをさ せてほしいと言ってく れた。彼は波平の人たちから信頼され、自治会長の経験もあった。
長い沈黙が破られた
平信さんの呼びかけで、7月28日、チビチリガマの体験者、遺族12人が公民館に集まり、話し合った。
昌太朗さんは――
当時、調査でお家を訪ねると「あの人がわかるよー」と自分からは話してくれないので、みんな集まってもらうことに。そして集まった方々は38年間たまっていたものの封を切
った。体験者、遺族として苦しかったんでしょうね。
若い世代も調査に加わった昌太朗さんによれば、父(昌一さん)は絵本原画展で下嶋さんと出会い、チビチリガマの出来事を知ったとのこと。その上を通っていたが下にガマのあることはわからなかった。
昌一さん、そして若い世代の人たちは下嶋さんの呼びかけに応えて、その後、調査に参加するのである。
下嶋さんは著書「南風の吹く日」に、〈昌一さんが参加してからというもの、ぐんと村人の信頼は厚くなり、調査がはかどった〉と書いておられる。
昌太朗さんは――
父は波平でスーパーを経営、おばあたちと交流していたんです。
調査を終えて、中間報告書にはこう記されている――
戦争体験者から、確実に戦争体験を受け継ぎ、共有していくことこそが、私たちも戦争を知ることであり、そのことは同時に、〈二度とふたたび、戦争をしない、させない〉ことになるのだと、調査を終えた今思います。(つづく)
かつて京都に「鳴滝組」と呼ぶ集団があった。任侠集団でも、建築関係でもなく、映画のシナリオ執筆集団の名称である。映画がサイレントからトーキーに移り変わる過渡期の1934(昭和9)年から36年の3年間、洛西・鳴滝の地に、才能あふれる8人の若い映画人たちが暮らした。 8人だから「梶原金八」という集団ペンネームを名乗り、映画会社の垣根を越えて活動した。お互いの監督作品を応援執筆し、1本の物語を磨き上げ、矢継ぎ早に話題作を発表した。後の黒澤明作品の共同脚本や、現在のテレビ界が取り入れるチームライティングの先駆けともいえる。
8人は脚本家としてすでに売れっ子の八尋不二、時代劇脚本家の最高峰といわれた三村伸太郎、松竹専属の藤井滋司、時代劇革新の核となった稲垣浩と山中貞雄。後に新興キネマや東宝で才能を発揮した滝沢英輔。その新興で監督デビューする鈴木桃作と、若き萩原遼だ。彼らは夜毎集まり、映画について語り合った。トーキーに対応する台詞をどう作るか、スター中心で勧善懲悪の時代劇にあきたらず、剣戟のない時代劇も模索し、現代に生きる人間と同じ感性や感情の登場人物を描いた。現代語で台詞を描き、時代劇映画を再活性化させた。
ただ、この若き映画人たちの時代には、不穏な空気が漂っていた。31年の満州事変から、
翌年の上海事変、さらには満州独立と続き、五・一五事件というテロ事件を経て、満州国建国があり、国際連盟脱退と続く。そして36年に二・二六事件が起こり翌年、日中戦争に至る。日本は軍事国家に急速に傾斜していった。この時代の中で鳴滝組=梶原金八は、「映画の青春」を躍動させた。
鳴滝組の一人で『無法松の一生』など名作の監督・稲垣浩に『ひげとちょんまげ~生きている映画史』(中公文庫)という書がある。
「同じ町にいた若い監督やシナリオライターたちが、毎日毎晩集まって、飲んだり食ったり、映画の話ばかりやっていた」「およそ3年間に(鳴滝組で)、20余本のシナリオを書いたが、山中貞雄の『百万両の壷』『河内山宗俊』『街の入墨者』のようにベストテンに入ったものもあれば、滝沢英輔の『太閤記』『宮本武蔵』『戦国群盗伝』や、私と山中貞雄が共同で作った『関の弥太っぺ』『怪盗白頭巾』のように、興行的なヒット作もあった」(同書より)
梶原金八の名はたちまち評判となった。松竹の城戸四郎所長が製作部長を呼んで、「梶原金八を引き抜けっ」と命令した。部長はこう答えた。「それゃぁ引き抜けと言われれば引き抜きますが、少々引き抜き料は高いですぞ、なにしろ8人もいるんですから」と、コントのような話も残る。
37年8月、中心だった山中が召集で大陸に送られ、そして死亡。映画界から梶原金八の名も消えた。
日本の家、特に戸建ては夏は暑く、冬は寒いのが当たり前ですが、他の先進国はそうではありません。住宅の断熱性能が日本よりはるかに高いからです。欧米の冬季の平均室温は18℃を超えているのに対し、日本は10℃前後です。
私の友人2人はお母さんをお風呂場で亡くしました。寒暖差によるヒートショックが原因です。新しい住宅にはお風呂場にも暖房機能がありますが、古い住宅にはないことが多いので、冬場にお風呂場で倒れる人が多くなります。脱衣所には持ち運べる小型のストーブを置き、入浴前には湯船の蓋を開けて、温めてから入りたいものです。
世界保健機関(WHO)は冬場の室内温度は最低でも18℃以上とするよう強く勧告しています。冬の室温が18℃以上になると呼吸器系疾患や心血管疾患のリスクが低減するからです。物価高の今、光熱費がかかるので部屋の温度は低いままで、着込んで対処する方もいると思いますが、体のことを考えると、室温18℃は意識し、その上で衣服での調整をしたいところです。
といいつつも、光熱費は気になります。そこで私は昨年、思い切って窓の工事を行いました。日本の住宅の断熱性の低さは窓が大きく関係しています。一般社団法人「日本建材住宅設備産業協会」によると、冬は窓から58%の割合の熱が逃げ、夏は73%(昼間)の熱が入ってくるといいます。 日本の既存住宅の窓の多くはアルミサッシで単層ガラスです。アルミサッシは断熱性能が低く、他国では使われていません。世界の多くは樹脂サッシが中心です。近年日本でも少しずつ増えてきましたが、まだ割合が低いのが現状です。窓を複層ガラスと樹脂サッシにすると断熱性が2倍になると言われ、世界基準とも並びます。とはいえ、既存の窓をこれらに交換するには大掛かりな工事が必要です。
そこで今推奨されているのが二重窓です。樹脂サッシの内窓を取り付ける方法です。窓を開ける時は少し手間がかかりますが、断熱性能はぐっと上がります。私も昨年、いくつかの窓に取り付け、その効果に驚いています。
厳しい寒さの日には暖房前は7、8℃だった部屋が、取り付け後には12℃を下回ることがなくなりました。5℃ほどは確実に温かくなっています。窓工事をしてくれた業者さんいわく、取り付けた家で同じような感想を聞くとのことでした。
初期費用はかかりますが、このあとの光熱費は安くなり、CO2削減にもつながります。ここ数年は「先進的窓リノベ」など国の事業があって助成金が出ます。来年度はどうなるかわかりませんが、この事業が続くのなら、内窓設置は検討の余地があると思います。
DⅠY(日曜大工)が得意な方なら、ホームセンターで材料を揃えて自分で取り付けることも可能です。また私もやっていましたが、断熱ボードを窓に立てかけたりするだけでも、窓からの冷気はかなり抑えられます。まもなく冬は終わりますが、また暑い夏がやってきます。体のため、エネルギーのため、「窓」は見直す価値が大いにあります。
(消費生活アドバイザー)
この絵本は、イギリスの画家であり、イラストレーター、児童文学の作者でもあるウィリアム・ニコルソン(1872~1949)が1926年に自身の娘メリーのために描いたものです。100年前の作品なのに、決して色あせたものではありません。
黄色い表紙の上に、シンバルを両手に持ち、左手を挙げて走る近衛兵の後ろ姿が描かれているのがわかりますか。これは人形で、名前は「ビル」。その周りは列車で囲まれています。
物語は、主人公の少女メリーに郵便屋さんから手紙が届くシーンから始まります。あて先を見ると、ドーバーに住むおばさんからです。手紙には、「いくつ泊まっても良いから遊びにおいで」と書かれてありました。メリーは大喜び。すぐに返事を書き、お泊りの準備を始めます。
さあ、何をもっていこうかな。お父さんにもらったトランクを広げ、木馬の「アップル」や人形の「スーザン」を詰め込むメリー。でも、一番好きな人形のビルは、おばさんの手紙の上にすっくと立ったまま。メリーは笛や靴、ブラシ、財布を詰め込んでいきます。どんどん詰め込むものだから収めるのが大変です。ページを開くごとに、ビルの居場所やポーズが変わっていくのを見るのもおもしろいです。
時間に追い立てられたメリーは、手当たり次第に詰め込み、ふたを閉めてしまいます。で、ビルはというと、いつの間にか入れ忘れられてしまうのです。その時の表情が「え! ボクは入れないの!」と言っているようにしか見えません。「なんと!」が2ページわたって書かれ、「!」の数が二つから三つに増えています。
泣き崩れるビル。涙が大きな水たまりになっています。その後、ビルは突然、起き上がり、メリーが乗っている電車を追いかけて線路まで走るのです。あきらめずに全速力で電車を追いかけて。1ページずつ映画のワンシーンのようにビルの姿が描かれ、必死に走る様子が読み手にも伝わってきます。
そして、ビルはついにドーバー駅でメリーに追いつくのです。列車の窓から笑顔で手を伸ばすメリーに、敬礼してあいさつするビル。感激の再会を果たします。アップルもスーザンも歓迎のポーズをとっています。感激のラストシーンは裏表紙まで続き、ビルを抱きしめてキスをする笑顔のメリーが描かれています。
「そんなに大切ならもっとしっかり見守ってやればいいのに」との思いもよぎりますが、ビルのくじけず頑張るたくましさに勇気づけられます。すべてのページに作者の娘への愛情がたくさん込められており、心温まる一冊です。
原題は『CLEVER BILL』。翻訳の一人、松岡亮子さんは関西出身で、数々の海外の名作を翻訳しています。同じ関西人の私には、「かしこい」は「ええ子やねぇ……」という温かい気持ちの表れに思えてなりません。ビルはホンマに健気で「ええ子」ですから……。
春の気配が少しずつ感じられるようになった。日が暮れるのも遅くなっている気がする。夏場は、太陽の照り返しが強い時期は歩道が焼けつくため、介助犬イムア君との外出は夕方か夜で、この時期はいつでも大丈夫なのだが、このところ、体調がかんばしくない。そのため、予定を入れるのは一日一つと調整している。どうしても断れない場合は、午前中一つ、午後一つというペースにしている。周りから「怠けていたら身体が鈍るよ」と言われても、無理できない。
とはいえ、イムア君との外出は欠かせない。単純に愛犬を散歩させるために出歩いているのではない。絶えず会話を心がけている。もちろん、犬が話をするわけではない。先日、イムア君がお腹を壊した時、歩きながらトイレを訴えているのが伝わってきた。あわててペットシートを敷き、うんちの「キャッチ」がスムーズにできたときは、「やったね」とお互い喜んだものだ。
このところ、イムア君との外出の時間は慎重になる。できるなら、日用品や食品の買い出しも一緒に済ませたい。イムア君との外出を1時間半かけて済ませて、さらに他のことに時間を割くことは厳しい。夕方に外出するようになったら、スーパーには惣菜なども出ていて品ぞろえが良かった。だが、大きな問題もある。それは買い物客が多いということ。ちょっとした暴動が起きているのかと思うほどの人の賑わいだ。
当然、イムア君も一緒なので踏まれないようにと、人の少ない通路を歩く。それでも、買い物かごの直撃あり、カートを押している人は通路をふさぐようになる。危ない。この夕方の混雑している中では、好んで行かない方が良い。それに、みんなが動物好きな人ばかりではない。
お願いをしたいのは、「わぁ」と大きな声で騒がないでほしい。「あ〜犬がいるのねぇ」くらいにとどめていただきたいものだ。
結論として、夕方を避けて夜の外出となりそうだ。店内は空いていて「カート族」はほぼいない。イムア君も安全だ。
しかし、お惣菜や弁当は売り場から消えている。どちらもピタリとはいかない。スーパーへ行ってくるだけのことなのに。
■第21回湖南市人権研究大会
・日時 8日(日)午後1時半~4時20分
・会場 滋賀県湖南市の甲西文化ホール(手話通訳あり)
・演題 「戦後80年 戦争の記憶を記録として伝える」
・入場無料
・連絡先 湖南市人権擁護課(0748・71・2322)
■第9条の会なごや「第25回総会記念講演会」
・日時 29日(日)午後2時半~4時半
・会場 名古屋国際センター第2研修室
・交通 地下鉄桜通線「国際センター」駅下車、地下道で直結
・演題 「高市政権に白紙委任していないぞ!~維新の本場・大阪から見る高市政権のファシズム的正体」
・参加費 1000円
・連絡先 第9条の会なごや(052・684・5873)
菊池事件違憲認め
なぜ再審認めない
島根県大田市 太田明夫
裁判所とは、正義と真実を重んじる司法の砦であったはずだが、現実はどうか。いくつもの冤罪事件に出合い、この「菊池事件」再審請求に加わることを機に、知れば知るほど、そんなエエモンか! と思い知らされ続けている。そして1月末の、再審請求棄却の決定である。
裁判官は、憲法より大事なものにしがみついているのだ。哀れ過ぎて、正義の女神テミスが泣くぞ!
では、菊池事件とはどんな事件だったのか。それを詳しく記す紙数がないので、背景となる時代を見ておきたい。こちらが重要である。
この国は明治以来、列強に並ぶ「強い国」を作るために、国内各地のハンセン病患者の存在を国辱とし、不必要にその病気の恐ろしさを言い立て、市民を巻き込んで「強制隔離政策」を「無らい県運動」という形で競わせ、推し進めた。
菊池事件は、そんな時代背景なくして生まれなかった冤罪事件と言って良いだろう。
1951年、熊本県のある村で、元役場職員Aさんを被害者とする二つの事件が起きた。警察は両方の事件とも、当時、ハンセン病患者として療養所への入所を勧告されていたFさんを疑い、彼を犯人と決め付けた。あとは、殺人未遂での逮捕から取り調べ、「特別法廷」という憲法違反の非公開裁判まで、Fさんは人として扱われなかった。裁判関係者もまた、病気への恐怖と、差別とにとらわれていた。
そして、死刑判決。再審請求中の突然の死刑執行……。
そのような、うそにまみれた事件だった。しかし、Fさん亡き後、再審を求める権利のある親族は、ハンセン病差別と「殺人犯の家族」という汚名の中、社会で堂々と生きることさえできず、たち上がることができなかった。これこそが、今なお残る差別の実態を表している。
そして、2017年、6人の元患者が国を相手取って「菊池事件国賠訴訟」を提起。この裁判で初めて、熊本地裁は裁判手続きには「憲法違反があった」と認める判決を出している。
にもかかわらず、Fさんの再審・無罪による名誉回復は実現しない。おかしくないか?そこで、憲法に基づく「国民的再審請求」(①参照)という新しい手続きが試みられ、私たち市民も参加して「1205名の請求人団」が提訴した。
残念ながら、裁判所はこれが再審請求権を有すると正式に認めたわけではない。ただ、この動きによって、親族の方が再審請求にたち上がったという点で、意義は大きく、一定の役割を果たしたと言えるだろう。
さて、問題はここからだ。過去の裁判で、憲法違反を認めながら、裁判所はなぜ再審に踏み切れないのか。ここが理解できない。このたびの棄却決定でも、初めに棄却の結論があって、その理由を後から付けているかのようだ。あろうことか、複数箇所に誤った記述という失態まで添えて!
このたびの熊本地裁決定は、単に恥という問題ではない、憲法違反と知りながら出したこの決定は、死刑になったFさんを再び殺すという判断である。
私たちは、それを許してはいけない。
最後に一つ反省を記しておきたい。
裁判所もひどかったが、私たち市民で構成する「国民的再審請求人団」も、取り組みが甘かった。努力不足を超えて、怠慢であったと認めざるを得ない。
福岡高裁での協議はすでに始まっている中で、私たちは急ぎ全国に組織を拡げて、多くの冤罪と闘う人たちと共に、再審法改正への運動とつなげていかなければならない。
私たち自身もまた、Fさんを二度殺させてはならない!
なお、事件の詳細、憲法違反の審理の過程については、紙数の関係で表せないので、このQRコードから、まんがで解説する「特別法廷」を含む「菊池事件」の冊子でお読みいただきたい。
長生炭鉱遺骨収容プロジェクトの潜水調査中に起きた痛ましい事故。重大な事態を厳粛に受け止め、刻む会は活動を一時休止した。上田慶司事務局長は「もう一度、遺骨の収容に立ち上がっていく時間をいただきたい」と自分に言い聞かせるように話した。いまはそっと見守り、再始動する日を待ちたい。▼アメリカから駆け付けたウエイ・スーさんの息子さんは、伊左治佳孝さんにこう伝えたという。「父は海を愛し海で死にました。全世界でダイバーを育てる事業に全身全霊を捧げて幸せな人生でした。だから悲しまないで下さい」(上田さんのXより)。あらためて、ウエイ・スーさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。 (栗)
まずはお詫びから――。2月号の「あきれた大阪ダブル選」2ページの1段目に掲載した大阪府関係委職員労働組合の小松康則委員長の写真説明が間違っていました。紙面を組んでいく際、1月号の写真説明がそのまま残っていることに気づかなかったためです。申し訳ありませんでした▼「国論を二分するような政策に挑戦する」と公言した高市首相。復活させた旧安倍派の裏金議員らが担ぐみこしに乗り、右派的な政策を強力に推し進めていくことだろう。今月号で紹介したインテリジェンス体制の強化で「国家情報局」「日本版CIA」創設とスパイ防止法の制定、安全保障政策の抜本的強化で防衛費の更なる増額(GDP比3・5%)と殺傷能力のある武器輸出の解禁、原子力潜水艦の保有もささやかれている。非核三原則の見直し、そして改憲も――▼「国会で何とかなる」時代は終わった。「大阪都構想」を二度止めた大阪からこれからも発信し続けます。あきらめへんで。 (矢)
1月16日(金)
矢野 栗原 午後、吉村洋文・大阪府知事と横山英幸・大阪市長による出直しダブル選について、府関係職員労働組合の小松康則委員長にインタビュー。夜、関西学院大教授の冨田宏治さんにうずみ火事務所で話を聞く。
1月17日(土)
阪神・淡路大震災から31年。矢野は早朝、神戸市中央区の東遊園地で開かれた「1・17のつどい」を取材。須磨区で被災した井芹史見代さんにばったり。矢野は午後、東灘区の加賀翠さん宅を訪ね、手を合わせる。震災後に生まれた亮君が結婚するとの報告を受ける。
……
■3月7日(土)午後2時半~今中哲二さん「日本の原子力開発」
次回のうずみ火講座は3月7日(土)、京都大複合原子力科学研究所(旧京大原子炉実験所)研究員の今中哲二さんを講師に迎え、大阪市此花区のクレオ大阪西で開催します。演題は「原発事故から15年 日本の原子力開発を振り返る」。
東京電力福島第一原発事故で数万人が避難生活を強いられているというのに、政府は「原発への依存度を可能な限り低減させる」との方針を一転、「原子力を最大限活用する」と原発再稼働を進めています。
事故直後から福島県飯館村に入り、放射能汚染を調査してきた今中さんにこの国の原子力開発を検証してもらいます。
日時:3月7日(土)午後2時半~4時半 ※打ち上げあり
会場:クレオ大阪西2階の研修室
資料代:1000円
■4月11日(土)午後2時半~永嶋靖久さん「スパイ防止法の危険性」
衆院選圧勝を受けて、高市首相は国家情報局や日本版CIAの創設、スパイ防止法制定を進めています。その危険性について、治安法制に詳しい永嶋靖久弁護士を招き、緊急学習会を4月11日(土)に開きます。会場はクレオ大阪西2階の研修室で、資料代は1000円です
■お花見集いは4月12日(日)に変更
毎年恒例のお花見集いは当初の予定を変更し、4月12日(日)正午~大阪城公園の教育塔の東側で開催します。
当日、お弁当や飲み物は各自でご用意ください。シートの上で長時間座っていると足に負担がかかりますので、折りたたみ椅子などがあればご持参ください。
最寄りの駅は大阪メトロ谷町線「谷町4丁目駅」です。参加ご希望の方はうずみ火事務所までご連絡いただけますか。はぐれた時のために、矢野の携帯をお伝えしますので。