新聞うずみ火 最新号

2021年7月号(NO.189)

  • 1面~3面 「競争だけが教育か」大阪市長に提言 校長に聞く(矢野宏)

    大阪市淀川区の市立木川南小学校(児童数140人)の久保敬校長(59)が、松井一郎市長に送った教育行政への提言書が注目されている。3回目の緊急事態宣言で市長がオンライン授業で緊急事態宣言に対処する方針を打ち出したことで、「学校現場は混乱を極めた」と指摘。さらに、子どもが過度な競争にさらされている現状を憂え、「競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される。そんな理不尽な社会であっていいのか」と問いかける。松井市長は処分の可能性にも言及したが、共感の輪は全国に広がっている。提言の真意について、久保校長に話を聞いた。   

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  • 4面~5面 寄稿 コロナ感染から見えた社会(岡本朝也)

    新型コロナ第4波で大阪は医療崩壊に陥った。一時は1万8000人以上が自宅療養を強いられた。大阪市の岡本朝也さんもその一人。医療と隔絶されて不安な療養期間を過ごし、いつ収まるともしれない後遺症にいまも苦しむ。社会学者の視点から、岡本さんに体験を振り返り、考察してもらった。

    筆者は4月4日に新型コロナウイルス感染症を発症し、その後16日まで自宅で療養した。突発性の疲労を主な症状とする後遺症は本稿執筆時の6月中旬現在も続いている。ここではその経験から考えたことを報告させていただくが、まず話を検査から始めたい。
     
    筆者は発熱外来のある医療機関を受診できなかった。関係先での集団感染に続いて風邪の症状が出たのだが、発熱しなかったため「まず保健所に連絡してください」と言われてしまったのだ。そして保健所への電話はつながらなかった。これではどうにもならないと判断して、4月8日に民間業者によるPCR検査を受けた。その結果を待っている間にたまたま保健所の電話がつながり、民間検査のいかんにかかわらず保健所によるPCR検査(行政検査)を受けるように指示されたのだ。
    ……

  • 6面~7面 沖縄戦 住民虐殺語り継ぐ(矢野宏、栗原佳子)

    76年前の沖縄戦で、住民は米軍だけでなく日本軍にも生命を脅かされた。壕追い出し、食料強奪、自決強制、虐殺。 1945年5月、沖縄県北部の大宜味村渡野喜屋(おおぎみそん・とのきや)では約40人が日本軍に虐殺された。兵庫県尼崎市の仲村元一さん(76)は生後3カ月で事件に遭遇、母、美代さん(2018年5月、99歳で死去)から「平和のバトン」を引き継ぎ「戦争は人間を残酷にする。だから、どんな戦争もしてはならない」と訴える。
     
    仲村さんは那覇市出身。高校卒業後、兵庫県で就職した。生家は理髪店で、祖父、仁王さんと父、元康さんが親子で営んでいた。44年10月10日、米軍が南西諸島全域を無差別爆撃した「十・十空襲」で店舗兼住宅は焼失。母の美代さんは大きなお腹を抱えて懸命に逃げ延び、45年2月8日、仲村さんを出産した。4月1日の米軍上陸直前、一家は9人で本島北部(やんばる)へ避難。5月に東海岸の東村平良で米軍に捕まった。
     
    他の避難民とともにジープから降ろされた場所が西海岸の渡野喜屋だった。集落の住民は山中に避難しており、民家に約90人が一時的に分散して収容された。米軍は食料も配給、収容者の班長に、当時57歳の仁王さんを指名した。
    ……

  • 8面~9面 元裁判官 木谷明氏 「イチケイ」実在モデル(粟野仁雄)

    刑事や検事、弁護士を主人公にしたテレビドラマは多いが、裁判官を主人公にしたものは珍しい。4月5日から放送されたフジテレビの『イチケイのカラス』が6月14日の最終回で終了した。主演は竹野内豊、黒木華。イチケイとは、東京地裁第三支部の「第一刑事部」の略である。原作は浅見理都の漫画だが、ドラマでは主人公をはじめ大幅に役柄が変わっている。このドラマで竹野内が演じる主人公、入間みちお判事の助言役で、先輩の総括判事駒沢義男(小日向文世)には実在のモデルがいた。木谷明弁護士(83)である。
     
    神奈川県生まれ、東大法学部卒。1963年に裁判官に任官し最高裁調査官、水戸地裁所長などを歴任して定年退官。公証人や法政大大学院教授を務めた後に弁護士に転じた。現在も冤罪問題などで、メディアにコメントを求められる著名人である。実父は、大竹英雄や石田芳夫、趙治勲ら囲碁の大棋士を育てた木谷實氏(故人)。明氏の妹の一人もプロの囲碁棋士である。
     
    起訴有罪率99・9%とされる中、木谷氏は裁判官時代、30件の無罪判決を言い渡した。冤罪をライフワークの一つにしている筆者は一度お会いしたいと思っており、5月末に渋谷の弁護士事務所で会う時間をもらえた。木谷氏はまず「イチケイのカラス」の話をされたが、筆者はドラマを見ないため、番組を全然知らなかった。「えー、知らないの。面白いのに」と木谷氏はちょっと拍子抜けした様子。そして漫画が原作で、自身が登場人物の一人のモデルであることなどを話してくれた。
    ……

  • 10面~11面 ヤマケンのどないなっとんねん 支持率のため旗振る接種(山本健治)

    6月15日、野党4党が内閣不信任案を出したが、いとも簡単に否決された。数で言えば当たり前だが、立憲らが不信任案提出を匂わせていた頃、二階自民幹事長は解散権を握る菅首相を差し置いて「受けて立つ。即、解散だ」と息巻いていたから、もう少し何かあると思っていたが、何もなく、翌16日、通常国会は閉幕した。印象に残ったことは何かと言われれば、不信任演説していた立憲・枝野代表が「スガ総理」と言うべきところを「カン総理」と叫び、議場は嘲笑と冷笑、「百の説法、屁一つ」となった。
     
    安倍前政権の悪と闇のすべてをそのまま引き継いだ腐敗しきった政権、首相や官房長官を忖度するだけの弛みきった行政、コロナ対策をはじめやることなすこと泥縄でありながら、緊急事態に便乗して改憲に突き進もうとしている。いまこそ内閣を打倒し、みんなの命と生活を守る政治に変えなければいけないのに情けない。某スポーツ紙は、この「カン総理」発言以外に、枝野演説の聞き所は何もなかったと揶揄した。首相はこれで安心したことだろう。
     
    コロナ対策を最優先させ、オリンピックを開催して成功したと評価され、ワクチン接種がほとんどの希望者に行き渡るメドがつく秋頃には支持率も上向くだろうから、そのあたりで解散・総選挙という計算をしていることは誰もが想像できる。立憲・国民など野党は内閣打倒と威勢のいいことを言うが、野党共闘はうまくいっていないし、連合傘下労組の中には自民党支持まであり、本気でオリンピック開催に反対しないし、不信任案提出はスケジュール闘争、内閣打倒など口先だけと見透かされていたが、その通りのこんな国会幕切れを見せられると、本当に腹が立つ。
    ……

  • 12面~13面 世界で平和を考える 馬毛島取材報告③(西谷文和)

    2月に鹿児島県種子島沖、馬毛島問題を取材した。種子島は三つの行政区に別れていて、北から順番に西之表市、中種子町、ロケット発射で有名な南種子町と続く。米軍のタッチアンドゴー訓練のための自衛隊基地は西之表市に属する馬毛島に建設が予定されている。1月に行われた西之表市長選では基地推進派と反対派が激突。144票差で反対派の八板俊介候補が当選。私はまず推進派の浜上こう十さんを取材した。浜上さんは「基地交付金が10年間で250億円。その上に自衛隊基地ができたら人口も増えて街が活性化する」と訴えた。過疎と不況に悩む島に巨額の基地マネー。では反対派は何を考え、どう行動したのだろうか。

    種子島は「移住者の島」でもある。土地が平坦で温暖な気候、トビウオ漁で有名な好漁場に囲まれた島では、歴史的に農林水産業が発達し、豊かであった。経済的な豊かさは人々の心に余裕を生み、移住者にも優しい。島の人々の純朴さ、温かさに惹かれて若者たちがⅠターンして来るのだ。その中の一人、「馬毛島通信社」を立ち上げた猪狩毅士さんを訪問した。
     
    猪狩さんがここに移住してくるまでの経緯は?

    猪狩「2011年3月11日まで、私たち家族は福島県いわき市に住んでいました。まさか原発が壊れるとは思っていなかった。安全神話に騙されていました。自宅のすぐ隣が双葉郡で政府は『逃げろ』と言う。しかし、いわき市には避難指示は出なかったんです。道路挟んで向こう側が逃げているのに」
     
    放射能もウイルスも市町村の境界で止まってくれませんからね。

    猪狩「原発関係者の友人が『ヤバイぞ、逃げた方がいい』と。それで奄美大島へ」
     
    その後どうしたんですか?

    猪狩「一時帰郷しました。何しろ着の身着のままで逃げていましたから。家族会議を開いて、結論は移住することに。もう一度改めて移住地を探そう、と」
    ……

  • 14面~15面 フクシマ後の原子力 「復興五輪」の理念どこへ(高橋宏)

    東京オリンピック・パラリンピックの開会まで1カ月余りとなった。新型コロナウイルスの感染拡大は収束が見通せず、開催地である東京都の緊急事態宣言も継続中(6月15日現在)だ。確かに、多くの人々が様々な「我慢」に耐えた結果、感染者数が減少に転ずると同時に、ワクチン接種もようやく本格化してきてはいる。だが、わずか1カ月余り後に人々がスポーツの祭典を楽しむ状況が訪れるとは、とても思えない。
     
    そのことは、開催の可否を問う全ての世論調査結果だけでも明らかであろう。にもかかわらず、人々の疑問や懸念にまともに答えることもせず、国や東京都、そして五輪関係者は「開催ありき」で突き進んでいる。開催をめぐってこれまでに起こった様々な不祥事や、関係者以外の人々を置き去りにして強行しようとする動きから、オリンピックが「アスリート・ファースト」を隠れ蓑とした、為政者と国際オリンピック委員会(IOC)ファーストの「利権の祭典」になっていることが、はっきりしたと言えるだろう。
     
    置き去りといえば、東京五輪の開催理念は「復興五輪」ではなかったか。招致活動の当初は「世界一コンパクトな五輪」と、主に東京で開催する利点が訴えられた。だが、それはあくまでも開催方法のアピールに過ぎず、東京、つまり日本で開催する大義名分に欠けていた。
     
    そこで持ち出されたのが、東日本大地震・大津波からの復興である。大会組織委員会のホームページには、今も次のように明記されている。「世界最大のスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックを通じて、被災地の方々に寄り添いながら被災地の魅力をともに世界に向けて発信し、また、スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指します」
     
    また、復興庁もホームページで「東日本大震災に際して、世界中から頂いた支援への感謝や、復興しつつある被災地の姿を世界に伝え、国内外の方々に被災地や復興についての理解・共感を深めていただくこと」などを挙げ、「復興を後押しすることを主眼とするものです」と宣言している。この大義名分があったからこそ招致に成功したと言っても過言ではない。
     
    だが、新型コロナウイルスの感染拡大という予期せぬ状況に直面したとはいえ、「復興五輪」という理念はどこかへ行ってしまった。開催にこだわる菅首相ら関係者の大義名分は、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」「世界の団結の象徴」に置き換えられていく。
     
    そもそも、11年の震災直後から、国は「被災地の方々に寄り添いながら」復興を、特に福島第一原発事故被災者の救済をしてきたのだろうか。そして、13年の東京五輪招致決定以降、具体的にどのように復興を後押ししてきたのであろうか。
     
    復興を目指す被災地にとって、人材や資材は常に不足がちであった。にもかかわらず、国立競技場の新設に象徴されるように、五輪の準備に多くの人材・資材を投じてきたのではなかったか。また、被災地では、復興をアピールするために鉄道や高速道路、建物など、インフラの復旧に力が注がれてきた。それと並行して、4兆円にも及ぶ除染によって、次々と避難指示を解除し、住民の帰還を促してきた。その陰で、原発事故避難者への住宅支援の打ち切りなど、帰還を強制するような施策がなされているのだ。
     
    聖火リレーのスタートは福島県で、野球とソフトボールが開催される予定だ。だが、その他に「復興五輪」を意識させるような取り組みは、見当たらない。もし予定通り東京五輪が開催されれば、それなりの取り組み(イベント)はなされるのであろうが、それだけ……で終わりはしないか。
     
    復興庁は「大会に関連する様々な機会に活用される食材や、競技開催等をきっかけとして来ていただいた被災地の観光地等を通じて、被災地の魅力を国内外の方々に知っていただき、更に被災地で活躍する方々とのつながっていただくことで、大会後も含め『買ってみたい』『行ってみたい』をはじめとする被災地への関心やつながりを深めていただく」ことで復興の後押しをするという。だが、福島第一原発事故の処理が難航し、この先には汚染水の海洋放出も控えている現状とは大きく矛盾する。
     
    置き去り……矛盾……今私たちが目の当たりにしている東京五輪をめぐる国の迷走(暴走)は、これまでの原子力政策の在り方そのものである。「開催ありき」で東京五輪が強行されようとしているように、「原子力利用ありき」で福島第一原発事故以降の原発再稼働が強行されてきた。予想できたはずの猛暑について、マラソンの開催地を北海道に変更するなどの場当たり的対応もまたしかり、である。
     
    「東京2020大会を、世界中の人々が多様性と調和の重要性を改めて認識し、共生社会をはぐくむ契機となるような大会とする」とビジョンを掲げる大会組織委員会で、公然と女性蔑視の発言がなされたことは記憶に新しい。いかにこの国の為政者たちが理念をないがしろにし、単なるお題目として掲げているだけであるかを端的に表しているだろう。原発事故で「自力避難」を余儀なくされた人々を事実上放置している現状のどこから「共生社会をはぐくむ契機」が生まれるのであろうか。
     
    菅首相が頻繁に口にする「安全と安心」は、理念の実現に向けた具体的な努力があって初めてもたらされるものだ。不安を訴える声や、政策に対する異論には耳を貸さず、原子力政策を強引に進めてきた日本には、そもそもオリンピックを開催する資格がなかったのだ。理念を失ってしまった東京五輪の中止を強く訴えたい。

  • 16面 飲酒店にステッカー 複雑、難解、大阪府の制度(栗原佳子)

    新型コロナの第4波が猛威をふるった大阪。6月20日に3度目の緊急事態宣言が解除され、7月11日までの「まん延防止等重点措置」の適用が決まった。宣言明けの6月21日からは一定の条件をつけたうえで午後7時までの酒類提供も認めるという。しかし飲食店からは「申請が難しすぎる」と疑問の声が上がる。

  • 17面 重要土地調査規制法 国の「監視」住民懸念(栗原佳子)

    自衛隊や米軍基地、国境付近の離島などの土地利用を規制する「重要土地調査規制法」が6月16日、可決・成立した。対象となる施設など具体的な内容は今後、政令で定めるとしており、特に基地が集中する沖縄からは、政府による恣意的な運用を懸念する声が上がる。 

  • 18面 在日韓国人元政治犯の李哲さん 13年間の獄中記出版(栗原佳子)

    軍事独裁政権下の韓国で1970年代から80年代、母国留学中の在日の学生らが「北朝鮮のスパイ」などとでっち上げられ逮捕・拘束される事件が相次いだ。「在日同胞スパイ団事件」で死刑判決を受けた大阪市の李哲(イ・チョル)さん(73)もその一人。事件から45年余り。13年間の獄中記「長東日誌」(東方出版)を出版した。

    李さんは熊本県生まれの在日韓国人2世。地元の公立高校卒業後、中央大学に進み母国に留学した。高麗大学大学院で政治や外交を学んでいた75年12月、当時の韓国中央情報部(KCIA)に連行された。「北朝鮮に2度訪問して指令を受け、韓国でスパイ活動をした」という全く身に覚えのない容疑。当時27歳。韓国で出会った2歳下の婚約者、閔香淑(ミンヒャンスク)さんとの挙式を2か月後に控えていた。
     
    77年、大法院(最高裁)は李さんの上告を棄却、国家保安法違反罪などで死刑判決が確定する。その後減刑されるが、88年に釈放されるまで獄中生活は13年に及んだ。翌89年に帰国。関西の同胞と「在日韓国良心囚同友会」を設立し、代表になった。
     
    李さんは95年8月から1年3カ月かけ、大学ノート7冊分の獄中記録を書いた。阪神大震災、地下鉄サリン事件と相次ぎ、妻の閔さんと「自分たちに何かあれば、子供たちは両親の歩んできた人生について知らないままになる」と案じたからだ。当時娘は6歳、息子が4歳。李さんは47歳だったが、「過酷な獄中生活を送ったため、60歳まで生きられないと思っていた」という。
     
    出所後7年。記憶はまだ生々しかった。昼は電気工事、夜は月曜から土曜まで韓国語講座を受け持っており、書くのは行き帰りの電車や昼休み。ワープロに打ち直し、「私が死んだ後も子供が見ることができる」と安堵したという。
     
    それから四半世紀。ワープロに保存していた獄中記の出版を決意した。2015年には再審で無罪判決。19年には来日中の文在寅大統領が在日の元政治犯に対し国家を代表して謝罪した。ともに獄中で病死を知ることになった両親の墓前に報告、「あの世に行っても晴れて両親に会える」と心の重しが取れた思いだったという。2年にわたり推敲を重ね、人生を振り返った。
     
    凄惨な拷問により事件を捏造され極刑判決。いつ執行されるかわからない恐怖の日々。矯導所(刑務所)側の凄まじい暴力を伴う弾圧、それに抗し処遇改善などを求め集団で身体を張った獄中闘争。非転向長期囚をはじめとする政治犯や社会の底辺を象徴する刑事犯たちの姿も克明に描いた。
     
    「在日政治犯救援運動をしてくれた何万人、何十万人という全ての方々に、最後の感謝の気持ちを捧げたい。私がここまで来られたのは本当に救援会の皆さんのおかげです」
     
    「長東日誌」は東方出版刊。税込み3850円。

  • 19面 大阪大空襲76年 「来年こそ」慰霊祭中止(矢野宏)

    太平洋戦争末期に大阪市北部や豊中市などを襲った「第3次大阪大空襲」から76年となる6月7日、大阪市旭区の城北公園にある「千人塚」で予定されていた慰霊法要が昨年に続き、新型コロナウイルス感染防止のため中止となった。「千人塚法要協賛会」の東浦栄一会長(92)は家族とともに現地を訪れ、犠牲者の冥福を祈って手を合わせた。             

    米軍による大阪への空襲は50回を超え、うちB29爆撃機が100機以上来襲した空襲を「大空襲」と言い、計8回を数えた。1945年3月13日深夜から14日未明にかけて大阪市の中心部が焼夷弾攻撃を受けた第1次大阪大空襲が広く知られているが、6月に入って1日、7日、15日と1週間ごとに大空襲に見舞われ、大阪は焼け野原となった。
     
    とりわけ、7日の大空襲では3月の大空襲をはるかに上回る409機ものB29が来襲。焼夷弾のほかに1㌧爆弾が使われた。当時、東洋一の軍需工場と言われた「大阪陸軍造兵廠」を攻撃する計画だったが、悪天候のため、投下した1㌧爆弾は造兵廠を外れて豊中市の住宅まで破壊している。
     
    さらに、白昼攻撃するB29を護衛するため、硫黄島の基地からP51ムスタング138機が襲来。低空飛行で機銃掃射を繰り返し、旧長柄橋の下や淀川河川敷などに避難していた市民が狙い撃ちされた。この日の死者は2759人、重傷者は6682人に上る。
     
    東浦さんは当時16歳。父の英二郎さんが旭区生江で営むバスなどの車体をつくる工場を手伝っていた。午前11時過ぎに焼夷弾攻撃が始まり、周りは火の海と化した。消火活動を行っていたが、「このままでは窒息する」と建物のない城北公園へ避難しようとしたとき、1㌧爆弾が隣の地区に投下された。「目と耳を手でふさいで口を開けてうずくまり、頭の上を爆風が通り過ぎてから近くの公園へ走りました」
     
    東浦さんが目の当たりにしたのは、この世のものとは思えない地獄絵図だったという。
     
    「昼間なのに周りは薄暗く、おびただしい遺体があちこちに横たわっていました。木の枝には死体がぶら下がり、頭を撃ち抜かれたり、手足を飛ばされたり、工場に動員された女学生の遺体もありました。公園の池にまたがる『太鼓橋』が焼夷弾の直撃を受けて燃えていました。真っ赤な火がちょろちょろと残り、マムシが舌を出しているようでした」
     
    堤防を上がったところで警報が解除された。放置された身元不明の遺体は千体を超え、公園の北側を流れる淀川の河川敷で荼毘に付され、そのまま埋められたという。
     
    敗戦の翌年、栄次郎さんが庭入りに書いた「千人つか」の文字を石材業者に彫ってもらい、慰霊法要を始めた。父亡きあと、東浦さんが遺志を継ぎ、私財を投じて法要を続けてきた。
     
    「空襲を生きながらえた者としての使命です」という東浦さん。2年続けての中止になったが、こう言い切る。「あの地獄を二度と繰り返さないためにも、来年は慰霊法要を行いたいと思います」

  • 20面 経済ニュースの裏側 コロナ敗戦(羽世田鉱四郎)

    ワクチンの基礎知識 ワクチンの原理は、病原体の一部による免疫反応で、いわば疑似感染です。「ウイルス抗原の遺伝子情報」をベクター(運ぶ手段)で体内に送り、抗体を作らせます。①mRNAを人工的に作って投与するのがファイザー(米)とビオンテック(独)の共同製品やモデルナ(米)のワクチン。体内の酵素に破壊されやすく、脂質ナノ粒子の脂肪性の膜に包みます。壊れやすいので超低温で保存・運搬します。②アストラゼネカ(英)のワクチンは、風邪のウイルス(ウイルスベクター)を「運び屋」にして投与します。③シノファーム(中)、シノバック(中)は、無害化(不活化)したウイルスを投与します。ワクチンの最終的評価は、数千~数万人規模の第三相試験(有効性や安全性のデータ収集)がむずかしく、大半がこの段階での失敗です。
     
    ワクチン不足 承認や製造準備にも手間取り、人材開発や品質管理も課題。また自国優先も災いしています。日本は、欧米のワクチンを事後に国内承認する「ワクチン・ギャップ」が常態化。今回のファイザー等は特例扱いです。
     
    危機管理の失敗 司令塔である専門家会議は、国立感染症研究所(以下、「感染研」)や厚労省などが母体。ワクチンの製造から評価まで感染研の管理下です。1980年代までは、日本はワクチンの開発技術が高く、米国などに技術供与していました。が、大きな薬害が相次いで、厚労省などが及び腰になり、技術開発が頓挫しました。今では、海外のワクチン株を感染研が入手し、国内製薬会社に配布して製造。またPCR検査の拡大にも消極的で、民間検査会社の活用は禁忌です。医院での検査も、保健所の「積極的な疫学的調査」の業務委託契約という形を取らざるを得ません。感染症と医師が診断すれば、保健所長を経由して知事に届け、予算と情報を独占しています。医系技官の天下りも。例えば神奈川県。副知事の一人は医系技官の出身で、健康医療局長も医系技官の現役出向です。専門家会議のメンバーは、学者としての実績も疑問視されており、ましてやパンデミック対策の専門家と程遠い存在です。参考までに、感染研は、戦時中での生物兵器開発と人体実験が疑われる731部隊(関東軍防疫給水本部)の流れをくみ、軍医たちが歴代所長や幹部に就任していました。
     
    私見 最大の過ちは初期対応です。PCR検査も、感染を疑われる人と濃厚接触者だけの限定が問題かと。素人判断ですが、感染しても、無症状な人や重症化する人など様々です。無症状の保菌者が、知らないうちに他人に感染させ、まん延しているかと。政権側は、アベノマスク、Go To政策の推進、東京オリンピックの開催発言、政府要人の「さざ波発言」など、首を傾げることばかり。身内からも「『ワクチンの危機管理は失敗』(河野克俊・前統合幕僚長)5・13朝日」と指摘される始末。経済への影響も深刻。GDP(国内総生産)は20年▲4・6%、21年1~3月▲5・1%。非正規を含め多くの離職者も。「ウイルスを無害化する中和抗体」のニュースが唯一の光明です。     (羽世田鉱四郎)
     
    参考 月刊「選択」(日本のサンクチュアリ)20年3~6月号 

  • 21面 会えてよかった 屋宜光徳さん⑱(上田康平)

    1969年11月、日米共同声明が発表され、沖縄の施政権を72年に返還、核兵器は返還時までに撤去、安保条約を堅持などが決まり、米軍基地は残ることになった。しかも有事における核兵器再持ち込みの密約が後に明らかになっている。そして70年には日米で復帰当初の自衛隊沖縄派遣規模が合意されている。
     沖縄の声は聞き入れられず
     この動きに復帰協に結集する革新
    勢力は安保廃棄、米軍基地撤去、自
    衛隊駐留阻止の反戦復帰闘争を繰り
    広げることになった。求めていた基
    地のない平和な沖縄とはかけ離れた
    返還協定に反対して2回のゼネスト
    を含む闘いに取り組んだが、71年11
    月17日、衆議院沖縄返還協定特別委
    員会で自民党により強行採決された。
     同日、屋良朝苗主席が米軍基地撤
    去、自衛隊配備反対などを含む即時
    無条件全面返還をもとめる「復帰措
    置に関する建議書」を携えて上京し
    たが、手渡す前に沖縄返還協定は強
    行採決されてしまった
    のである。沖縄県民の
    願い、要求を集約した
    建議書は国会に反映さ
    れることはなかった。
     復帰前の勉強会や
     討論会
     屋宜さんは「復帰時
    の沖縄からの要求を整
    理しようとマスコミ、
    行政の若手、労組員で
    立ち上げた任意の勉強会に参加して
    いた。意見書などは出してないが、
    行政のメンバーは建議書の作成にか
    かわっていた。
     タイムスでは、核抜き本土並み復
    帰論、時期尚早論、反復帰論などの
    人々を招いて復帰についての討論会
    を開いた」という。
    「本土の沖縄並み、だめだよ」
     「本土の基地を米軍が今の沖縄の
    ように使うのではと危惧したから、
    復帰の頃、よくそう社説に書いた」
     1972年5月15日、
     沖縄は日本に復帰した。
     沖縄復帰記念式典が東京と沖縄で
    開催されたが、佐藤首相と屋良朝苗
    沖縄県知事の挨拶は本土と沖縄の思
    いを象徴するものだった。
     屋良朝苗沖縄県知事は「復帰の内
    容をみますと、必ずしも私どもの切
    なる願望が入れられたとは言えない
    ことも事実であります」と挨拶。
     記念式典が行われている那覇市民
    会館に隣接する与儀公園では、復帰
    協主催『自衛隊配備反対、軍用地契
    約拒否、基地撤去、安保廃棄、「沖
    縄処分」抗議、佐藤内閣打倒5・15
    県民総決起大会』が開催された。
     タイムス労組は抗議スト
     それで与儀公園の大会に政経部長
    だった屋宜さんが取材に行った。ど
    しゃぶりの雨。記事を書こうとした
    ら、大会に参加していた記者、カメ
    ラマンが〈これ使ってください〉と
    記事、写真を持って来た。それを使
    ったという。「大会会場で、当時の
    沖縄県民の様子、思いが伝わってき
    た」         (つづく)

  • 22面 落語でラララ きょと(さとう裕)

    古典落語には結構、古い言葉が出てくる。今はもう使われない死語も。今回の「きょと」も今や絶滅した死語だ。「植木屋娘」に出てくる父親、娘から「きょとの慌て者」と評される。「きょと」の説明の前に、この父親、どんなおやじなのかを見ておくと……
     
    かなり成功した植木屋なのだが、残念ながらおやじは無筆。そこで、向かいのお寺の和尚さんに節季の書き出し(請求書)を頼みに来るが、和尚の顔を見た途端、「あんたの字、評判悪いで」。和尚の書く字は戒名や塔婆の字に似てる。植木は生き物や、もうちょっと勉強せえ、と悪態の限り。かと思うと、和尚に代わって書き出しを書きに来てくれた伝吉に、帳面の符丁を説明して、「筋が一本百文、チョボ一つが十文や」「この上の丸は?」「そら一貫」「この黒い丸は」「一両やがな」「三角は」「一分ということぐらい分からんか」。分かるはずないやろ。そんなことおかまいなし。 
     
    はては、娘のお光に婿を取る。相手は伝吉やと独り決め。娘の気持ちを聞かなと女房が言うと、嫌がったら娘を放り出して伝吉を養子にする。赤の他人にこの家を譲るのかと聞くと、ほな、女房のお前に暇をやる。お前が伝吉と夫婦になってワシを養え。もう無茶苦茶。けど、このおやじ、娘のお光がかわいくて仕方がない。お光も伝吉にまんざらでないと気づくとお寺に掛け合いに。が、伝吉は武士の子、五百石の跡目を継ぐ身だと断られる。それでもあの手この手で二人を引っ付けようと画策。   
     
    おやじを評して和尚は、口ごうはい(理屈っぽい・口やかましい)やが、腹に一物もない、さっぱりとした男という。

    「口ごうはい」も今や死語。対して娘は父を「きょとの慌て者」という。「きょと」とは、「言動のあわただしい人。軽躁な人」の意で、元は「きょときょと(うろたえて落ち着かぬさま)」という語の語尾が省略され、なになにする人の意味で使われる転成名詞。ぐずぐずしてるのでぐず。ゲラゲラ笑うのでゲラ。この類(たぐい)だ。。「きょときょと」という語はわりあい一般的だったようで、圓朝の「牡丹灯籠」や尾崎紅葉の『多情多恨』、漱石の『こころ』にも出てくるという。が、「きょと」の用例はあまり見かけない。しかし、『日本国語大辞典』(小学館)には、「きょと。江戸末期、上方での流行語」と出てくるし、『近世上方語辞典』(前田勇編)では、文政・天保頃の流行語としてある。
     
    さて、このおやじ、娘が伝吉の子を妊娠していると聞かされると、「うちのお光はポテレンじゃ」と大はしゃぎ。この時代、未婚の娘の妊娠で大喜びする父親は、まあ珍しい。で、奥さんにまで「けったいなおっさんやなあ」と呆れられる始末。ま、悪人やないし、距離を置いてみてる分にはおもろいお人やけど、身近にいたらちょっと困ったちゃんやろね。


  • 23面 日本映画興亡史 弁士たちの栄枯盛衰(三谷俊之)

    無声映画が登場し、わが国だけの独特の文化が生まれた。「活弁士」の登場である。欧米でも最初期には同様の説明者がいたが、弁士が残ったのは日本と、その植民地だった朝鮮と台湾、そして日本人移民が多かったブラジルだった。

    当初、活動写真は見世物であった。見世物には呼び込みや説明などの口上言いがつくのは当たり前だった。日本には仏教の説話や、それをより面白おかしくする説経節、阿呆陀羅経、祭文、チョボクレ、チョンガレなど、大道芸を含めて庶民に根差した芸の流れが息づき、「活弁」の土台となったと思われる。
     
    大正中期から昭和の初期には弁士の全盛期であった。なかには自己陶酔的だったり、映画の内容と無関係に語る弁士もいて、知識人には不人気だったが、庶民は面白おかしい語り口に熱狂した。官憲から上映禁止を申し渡された輸入作品を、弁士の口先一つでひっくり返すこともあった。
     
    例えば『ルイ16世末路の歴史・仏国大革命』は人民が国王に反乱する作品だったが、劇場側は『北米奇譚・巌窟王』と改題。弁士はルイ16世夫妻をアメリカ人の山賊夫妻。革命に起ち上がった民衆は、警察とともに山賊退治をする市民たちと変えて上映した。これをいいかげんとみるか、弁士の力業とみるか……。
     
    活弁は次第に高度な芸になって、見世物興行から大衆の娯楽の王座についていく。そんな活弁を「芸」の域まで高めたのは染井三郎であった。わが国初の常設活動館である浅草電気館で活躍、特に大正3(14)年3月に封切りされた史劇『アントニーとクレオパトラ』での格調高い美文での名調子が大当たりをとった。 染井が活弁を「芸」にしたとすれば、「芸術」にまで高めたのは徳川夢声だった。明治27(1894)年島根県生まれ、第一高等学校(現在の東京大教養学部)の入学試験で挫折、弁士となる。大正4年から赤坂の葵館、銀座の金春館などの東京の一流映画館などで活躍。特にドイツ表現派の映画『カリガリ博士』での弁士ぶりなどは高く評価された。後年、埴谷雄高と丸山真男という日本の代表的な知性が大絶賛している。丸山は、「徳川夢声なんていう天才がいてね。『カリガリ博士』などは、無声の説明と離れてはぼくのなかにはないんだね」と述べ、応えて埴谷は、「無声に出会ったことは、あなたにもぼくにも大きな影響を与えているね。彼は本当の芸術家であって、映画そのものももちろんよかったけれども、無声がいてどうも深さが倍増したな」(「文学の世界と学問の世界」『ユリイカ』78年3月号〉と語っている。
     
    昭和に入るとトーキー映画の発達で、弁士の仕事はなくなっていく。弁士たちはストライキを起こし、組合がつくられ、政治運動とも接近する。労働組合と劇場との交渉に須田貞明という人気弁士が立った。知性豊かで「甘く叙情的かつ劇的」という人気弁士だったが、労使闘争の板挟みになり、睡眠薬をのんで自裁した。彼の本名は黒沢丙午。あの黒澤明の実兄であった。

  • 24面 坂崎裕子がつぶやく コロナ下で運動続けるには

    「なんでここまで体が固まってしまったの!」。パーソナルレッスンを受けているトレーナーからの指摘に私もびっくりでした。
     
    自粛要請が続き、運動不足になりがちです。コロナ禍での体力低下は年齢に関係なく顕著で、とりわけ高齢者はコロナ前との変化が大きいといいます。日々の運動は健康を保つ上で、感染対策と同じくらい大事です。厄介なのは、体を動かさない悪影響は少しずつ進行し、ひどくなるまで気づきにくいところです。
     
    私は昨年からジム通いが週1回になり、変異株が主流になってからは行くのをやめました。長年通って、多くのレッスンも受けてきたので、運動知識はかなりある方です。自分が強化すべきところもわかっています。コロナで浮いた飲み会代の多くを運動器具の購入に注ぎ、自宅の一室はミニジム化するまでになって、運動できる環境もばっちりです。それなのに運動不足が進行していたのです。昨年からは贅沢にも付き合いの長いトレーナーに月1回、自宅に来てもらい個人レッスンも受けてきました。
     
    レッスン後は刺激を受け、しばらくは頑張れるのですが、徐々にさぼり出し、次に見てもらう頃には振り出しに戻る、その繰り返しでした。そんな中での冒頭の指摘だったのです。首も肩も凝っていて体中ガチガチ。これでは運動しても効果は出ないからと、その日はほぐしてもらうだけで終わりました。
     
    若い頃ならいざ知らず、年齢を重ねた体は、少しさぼると容赦なく衰えます。そこから頑張ったとしても、効果が出るまでには40代なら2カ月、50代なら3カ月、60代なら6カ月かかるそうです。
     
    反省した私は、それからパソコン作業で固まりがちな体をまめにほぐすようにし、トレーニングも地道に続けています。とはいえすぐにサボり癖は出てきます。
    そんな時はyouTubeの無料動画レッスンにもお世話になります。動画の先生と一緒にやると目先が変わり、またやる気が出るからです。
     
    便利な動画レッスンですが、選ぶ時は少し注意が必要です。体を痛めそうなものもあるからです。また今の自分の運動能力よりも高いレベルのものを選んでしまい、結果、膝や腰を痛めることもあります。
     
    動画は、①丁寧に動きの説明をしているもの②やや簡単と思えるくらいのもの③動きが見やすい映像のもの、などが選ぶポイントになります。
     
    まずは大手スポーツジムのオンラインレッスンから入るのが無難です。コナミやセントラルスポーツなどでは無料動画を用意しています。そうした動画で試し、続けられそうなら本格的に有料のものを契約するのもいいかもしれません。
     
    大切なのは継続。モチベーションが上がる有料契約も一つの手ですが、私は時間管理を始めました。運動の時間を決めたのです。自宅では時間になれば作業中でも中断してやる。そう決めてからは続いています。効果も感じ始め、家で運動を続ける自信がついてきました。継続は力なり。今更ながらかみしめています。
    (フリーアナウンサー・消費生活アドバイザー)

  • 25面~29面 読者からのお手紙&メール(文責・矢野宏)

    僧侶抜きに語れず
    ミャンマー民主化

      神戸市長田区 猶原信男
    (ミャンマー関西代表)
     
    イギリスの植民地支配の延長に、ミャンマーがある。もともと民族ごとに文化と歴史があり、それぞれ独立社会を形成していた。それをイギリスが武力で侵略、無理やり一つの国にした。そこからこの国の不幸は始まっている。
     
    日本軍もこの国に混乱を持ち込んだ。アウン・サン将軍らの軍事訓練を後押ししたり、ロヒンギャとビルマ軍の代理戦争を引き起こしたり。そしてインパール作戦を強行するなど、この国を混乱させた責任の一端があることを肝に銘ずべきだ。
     
    アウン・サン将軍はイギリスからの独立調印直後、シャン、カチン、カレン、モンなど多くの民族「バンロン会議」を開催している。会議では、各民族の自治を尊重し、統一国家を建設することに同意した。しかし、間もなく将軍は暗殺される。周辺の指導層も拘束され、新指導部が実権を握る。志もビジョンも持ち合わせていない軍人集団だ。彼らはバンロン会議で決議された各民族の自治を無視し、統一国家建設のみを追求した。武力で国内を鎮圧していく、今の軍隊の基礎が形成された。
     
    1988年に民主化運動が高揚するが、敗北する。学生を中心にした運動の限界を認識、市民とともに歩む必要性から運動の修正を実践していく。その一つが寺院による小学校建設運動だ。当時、学校に通えない子どもが多数おり、全国で建設運動が2000年からスタート、13年には1500校が設立された。学費は無料、校舎の建設などは寺院が負担。運営委員会がつくられ、多くの市民が学校運営にも参加する。例えば、教員の賃金を市民のカンパで賄う。集金に給料日前は大忙しだ。
     
    2007年、ヤンゴンを中心に僧侶が民主化を訴えてデモ行進したことがある。多くの市民も参加し、歓喜にあふれていた。この国の変革を考えた時、僧侶を抜きにはありえない。
     
    ヤンゴンのエンダカ僧侶が前住職と出会ったのは刑務所。2人とも民主化運動の闘士、刑務所で意気投合して住職を継いだ。ミャンマーの僧侶には禁止事項が100を超す。結婚はもちろん、金も服も家も所有は許されない。
     
    ミャンマーの僧侶は約50万人。民主派僧侶しか知己はないが、軍人の相談にあずかる僧侶も存在する。この国ほどの熱心な仏教国はない。ならば、ミャンマーの民主化のためには僧侶たちを動かそう。ミャンマー以外の国の仏教関係者も、世界仏教会議の開催、僧侶の交流など、さまざまな方法を駆使してもらいたい。
     
    (同じアジアとはいえ、ミャンマーのことを知らない人が少なくありません。まずは知ることから始めようと、猶原さんのお力を借りて在日ミャンマー人を招き、7月3日に訴えを聞こうと思います)

  • 27面 車イスから思う事 悲しいオリ・パラ(佐藤京子)

    東京オリンピック・パラリンピック開幕まで40日を切った。聖火ランナーも日本海側を走っているようだが盛り上がりに欠け、空気の抜けた紙風船のような印象を受ける。無理もない。1都6県に新型コロナウイルスによる非常事態宣言が出ている中で、笛吹いて踊るような高揚感などあろうはずがない。コロナもインフルエンザも変わりはないと言う人がいるが、決定的に違うことは、インフルエンザには治療薬があるが、コロナには対処療法しかない。この違いは天と地ほどの差だ。
     
    4年に1回、しかも自国開催。2004年のアテネパラに参加した時に皆で「一生のうちに自国開催はないだろう」と話した。それが40日後に始まる。もちろん、競技者は身を削るような日々を送っているだろう。だが、新規感染者の減る勢いは鈍化しており、いかに増やさないようにするか。四苦八苦しているのが現状だ。
     
    現在、必死になってワクチン接種率を上げようとしているが、無理やり感が否めない。オリ・パラを開催するために、ワクチンの接種率が上がればいいというのは乱暴過ぎる。ここまで来て止められないという問題でもないと考える。海外からの入国者を制限しただけでは焼け石に水ではないか。10万、100万の単位で海外から人が入国する。そのすべての人に感染リスクがないという保証は全くない。ザルで水をすくうようだ。なぜ、今までに延期の判断ができなかったのか。中止を決断できなかったのか。何が大事なのか、この国に住んでいる人たちの命以上に大切なものはないはずである。
     
    この国の偉い人はおいしいことばかり、手柄ばかりを享受するためにいる訳ではないだろう。膝を折り、腰を曲げ、頭を下げて選手に詫び、世界に向けて詫び、オリ・パラ開催しない決断をすることが後世から評価を受けることになるのではないだろうか。
     
    観客もなく、歓声も賛成もないままに開催されてしまうことこそ、よほど悲しい大会ではない。あれだけ国会で非難を受けつつも感染拡大の懸念を唱える分科会の尾身会長や、寝食を忘れ家族にも会わずに患者さんの治療をしている医師たちに何と言うのか。どんな顔をして「オリ・パラを楽しんでいます」と言えるのであろう。そんな、デリカシーのかけらもない、この国の偉い人に恥を感じる。
     
    何が正しかったかは、歴史が教えてくれるはずである。
    (アテネパラリンピック銀メダリスト・佐藤京子)

  • 29面 編集後記(矢野宏)

    「声を上げることが、こんなにもエネルギーのいることだと実感しました。差別される側に身を置く人の気持ちが少しだけわかったような気がします」。大阪市長に提言書を送った久保敬校長の言葉だ。最初に赴任したのは、同和教育推進校だった。被差別部落の子、外国にルーツのある子、障害のある子など多様な子どもたちと一緒に学び、「僕自身も育ててもらいました」と振り返る。スローガンは「共に学び、共に育ち、共に生きる」。受け持ったクラスでリーダー的な女の子がいた。勉強できない子にも親身に教え、障害のある子にも手を貸してくれた。「なんで面倒見てくれるの?」と尋ねると、「だって、このクラスなら自分が困ったときも助けてくれるから」。結果としてテストの点数も上がり、「生き合う」力が高まったという。久保校長は若い先生たちにこう語りかける。「先生が子どもの気持ちをわかり、生徒が信頼してくれたら、少々授業がうまくなくても大丈夫やで」。ところが、この10年ほどの間に首長が教育に介入し、テストによる子ども間の競争、その結果によって教員や校長間、さらには学校間の競争まで激しくなり、現場は疲弊しているという。こうした過度な競争に対し、久保校長は提言書の中でも怒りを隠さない。「あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないか」。大阪だけの話ではない。私たち大人一人一人への問いかけでもある。久保校長にとって理想の学校を聞いてみた。「特別なことは何もしない学校、ホンマに必要なことだけをする学校、世界一平凡な学校です」。それこそが、私たちが見失いかけている学び合う学校の姿なのだろう。

  • 30面 うもれ火日誌(文責・矢野宏)

    5月6日(木)
     森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、国が一転、自殺した近畿財務局職員赤木俊夫さん(当時54)が改ざんの過程を書き残した「赤木ファイル」の存在を認めたことを受け、矢野は午後、大阪高等裁判所内の司法記者クラブへ。国から書面が送られてきたのが午後5時。2時間半待たされ、原告代理人の松丸忠弁護士の記者会見、取材。
    5月7日(金)
     矢野 午後、 「ニュースなラヂオ動画班」収録。大阪府関係職員労働組合の小松康則委員長にZOOMで「保健師はなぜ増えないのか」について話を聞く。
     高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。
    5月10日(月)
     矢野 夜、MBSラジオ「ニュースなラヂオ」。特集は「ワクチン接種が進むイギリスからの報告」。ロンドン在住のジャーナリスト、木村正人さんにオンラインで実情を聞く。「10分で現在を解説」で福本晋悟アナウンサーが大阪のワクチン接種会場の様子を紹介したあと、時事通信社解説委員の山田恵資さんと電話でつなぎ、「菅政権のコロナ対応」について話を聞く。
    5月12日(水)
     西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ!ラジオ・DE・しょ!」出演。
    5月13日(木)
     矢野 午後、来社した教職員地域研修推進委員会第3教育ブロック事務局の中島里隆さんと6月16日の講演会の打ち合わせ、生野中学校教諭の岩本典子さんと7月2日の平和学習の打ち合わせ。
     高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。
    5月16日(日)
     矢野 午前、名古屋市守山区の斎場で営まれたスリランカ人のウィシュマさんの告別式を取材。白いひつぎを前に妹のワヨミさんが「姉が大好きな国で亡くなるなんて耐えられなかったでしょう。姉のように亡くなる人が二度と出ないようお願いします」とあいさつ。2日後、在留外国人の収用などを見直す入管法改正案が見送られることに。
    5月19日(水)
     矢野、栗原 夜、新型コロナウイルスに感染後に1週間も自宅待機を余儀なくされ、重篤化し亡くなった塩田一行さんの遺族に話を聞く。妻の朝子さんは「肝心な時に医療が受けられなかったことを『運』という言葉で片付けたらいけないと思います」
    5月20日(木)
     矢野 「人権と部落問題」編集部から原稿依頼。「大阪空襲訴訟は何を訴えたのか」について執筆。
    5月21日(金)
     夕方、新聞うずみ火6月号が届く。大村和子さん、小泉雄一さん、多田一夫さん、康乗真一さん、樋口元義さん、金川正明さん、そして高田耕平さんが応援に。ありがたい。
    5月24日(月)
     矢野 午後、「ニュースなラヂオ動画班」収録。「ニュースなラヂオ」ディレクターの新川和賀子さんが編集。
    5月25日(火)
     矢野 夜、来社したABCリブラの尾川浩二さんと歓談。
    5月26日(水)
     西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ!ラジオ・DE・しょ!」出演。
    5月28日(金)
     矢野 午後、新型コロナの影響で撮影が延び延びになっている空襲被害者証言DVD制作で、大阪城周辺の戦争遺跡撮影のための事前取材。大阪砲兵工廠の化学分析場=写真=や荷揚げ門などを回る。
    5月29日(土)
     矢野 午後、空襲被害が大きかった大阪市西区の戦争遺跡——昭和橋の焼夷弾落下跡、竹林寺の焼け焦げた地蔵など回る。
    5月30日(日)
     矢野 午後、大阪市内のライブハウスで行われた兵庫県尼崎市在住の俳人・木割大雄さんによる「俳句から見える琉球・沖縄」を取材。
    6月1日(火)
     矢野 午後、沖縄戦で日本兵が一般住民を惨殺した「渡野喜屋事件」の生存者の仲村元一さんに話を聞く。

  • 31面 「むのたけじ賞」共同代表からのメッセージ(永田浩三)

    第3回「むのたけじ地域民衆ジャーナリズム賞」選考委員の一人として、大賞受賞お喜び申し上げます。反戦平和を訴え続けたむのさんの魂が黒田清さんへ、そして矢野宏さんと栗原佳子さんに継承された思いがしました。
     
    心揺さぶられたのは、大阪都構想に関連した記事でした。大阪のメディアは一部を除き維新一色に染め上げられています。私は大阪で生まれ育ちました。友人のなかにも、都構想は地盤沈下するこの街を元気にすると錯覚する人が少なくありません。ムードをあおる維新に対して、「うずみ火」が敢然とウソを暴き警鐘を鳴らすことに大きな意味があります。公務員をたたき、教育・医療・福祉を破壊したことがコロナ禍の土壌をつくったとも言われます。ファクトが尊重される社会のために、「うずみ火」の存在感は一層高まっています。
     
    いま私が力を注いでいるのが、2年前の「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」の続編の展示です。「慰安婦」をあらわす平和の少女像や、昭和天皇の写真が燃えることで論議を呼びました。私はタブーに挑戦する作家や作品に敬意を抱き、多くの人に見てもらいたいと願ってきました。しかし東京展は、度重なる街宣車の攻撃にさらされ、会場変更を余儀なくされました。

    あいちの際は、電凸(電話での嫌がらせ)や、脅迫が繰り返され、わずか3日で中止に追い込まれました。その後多くの方の努力のおかげで再開されましたが、さまざまな傷が残りました。
     
    今回の攻撃はあらかじめ予想されたことで、自業自得だと言う人がいます。でもそれは違います。憲法21条「言論・表現の自由」を脅かす重大な問題です。くじけるわけにはいきません。
     
    私の母は広島の爆心800㍍で原爆に遭いました。占領下で原爆を伝えることを禁じた「検閲」(プレスコード)の研究者・堀場清子さんは著作『禁じられた原爆体験』の中でこう語っています。
     
    「なぜ私たちの文化は言論の自由について、かくもこだわらないのであろう。正確さと執念のないところに、伝説が流通し、すでに過去に属する危険についてならば、強調によってとかく、武勇伝的色彩も加わる。私たちがこれから言論の自由を守ってゆくための防塁としては、砂よりも、砂糖よりも、脆いだろう。しかも日常的な、地味な闘いの積み重ねを軽視させる作用によって、害毒をさえ流すだろう」
     
    言論・表現をめぐる地味な闘い。「うずみ火」もまさにそのただ中で闘っておられると思います。


    永田浩三(ながたこうぞう)さん 1954年大阪生まれ。77年NHK入社。ドキュメンタリー・教養・情報番組を制作。著書に『NHKと政治権力』『ヒロシマを伝える』『奄美の奇跡』など多数。現在、武蔵大教授。表現の不自由展実行委員。監督として、映画『命かじり』『闇に消されてなるものか』を制作中。

  • 32面 うずみ火講座・むのたけじ賞講演会・黒田さん追悼ライブ(文責・矢野宏)

    ミャンマー国軍によるクーデター発生からまもなく5カ月。関西在住のミャンマー人を講師に招き、7月3日(土)午後2時から大阪市浪速区湊町1の難波市民学習センターで「ミャンマー問題を考える」学習会を開催します。
     日本ともつながりの深いミャンマーでなぜクーデターが起きたのか。現在、どうなっているのか。私たちにできることは何なのかなど、考えていくためにも、まずは知ることから始めようと、神戸市長田区の「ミャンマー関西」の協力を得ての緊急学習会。母国とネットで連絡を取り続けている在日ミャンマー人からの現状報告のほか、戦後史などを含めて説明してもらいます。
     会場はJR難波駅上。地下鉄なんば駅で下車、OCATビル4階。
     資料代500円。オンライン視聴をご希望の方はインターネットで「うずみ火商店」を検索し、そこからお申し込みください。

    続いて、むのたけじ賞講演会のお知らせです。
     6月5日に予定していた「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」第4回作品応募の集いですが、新型コロナ感染拡大の緊急事態宣言延長のため、7月10日(土)午後2時~大阪市北区天神橋3のPLP会館4階で開催します。実行委員会共同代表の一人で評論家の佐高信さんが「いま、日本を考える」と題して講演。共同代表で元朝日新聞記者の轡田隆史さんと武野大策さん、第3回大賞、優秀賞の受賞者とのシンポジウムなど。
     資料代1000円。オンライン中継あり。うずみ火まで。

    最後に恒例の黒田さんを追悼するライブです。
    「黒田清さんを追悼し平和を考えるライブ」を7月31日(土)午後2時半~大阪府豊中市立すてっぷホールで開催します。コント集団「ザ・ニュースペーパー」結成時のメンバー松崎菊也さんと石倉直樹さんを招いての風刺トーク&コントライブで、忘れていた笑いを取り戻しましょう。
     会場は、阪急大阪梅田駅から宝塚線急行で10分、豊中駅南口改札から右手、エトレ豊中5階)
     資料代は読者2000円。

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