大阪市中央区の大阪府立労働センター「エル・おおさか」で7月16日から18日まで「表現の不自由展かんさい消されたものたち」(実行委主催)が開かれた。施設側が会場利用承認を突然取り消し、開催が危ぶまれたが、実行委は法的手段で対抗。最高裁も不使用を認めず、3日間の会期を全うした。
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18日午後4時過ぎ。会場の9Fギャラリーに拍手が広がった。3日間の日程が無事終了。実行委員会のメンバーやボランティアのスタッフらが安堵の表情でペットボトルを掲げた。
「『明日も開催できるだろうか』と毎日どきどきしながら今日までたどり着きました。大阪でできなければどこでも出来なくなるだろう、そんな気持ちでした。大阪で、そして関西で表現の自由を守ったと思います」
実行委を代表してメンバーの1人があいさつした。
3日間で延べ1300人が来場した。新型コロナウイルス対策で観覧時間は50分、50人ずつに制限。午前9時から配布する入場整理券を求め、早朝から長蛇の列ができた。最終日の18日には午前8時過ぎに予定枚数がなくなるほど、市民の関心は高かった。
会場には100人を超えるボランティアスタッフのほか、約30人の弁護士がシフトを組んで常駐した。建物の外では、大音量の街宣車が列をなし、大勢の警察官が警備。「表現の自由を守れ」など思い思いのメッセージボードを掲げ、市民がズラリと立ち並んだ。「自分も何か役に立ちたい」と、手作りのプラカードを持参した人たちも少なくなかったという。
……
「第4波」が落ち着いたのも束の間、大阪の新型コロナ感染者数は再び上昇傾向にある。吉村洋文大阪府知事は7月11日、「第5波の入り口に立っている」とし、「まん延防止等重点措置」は8月22日まで延長された。医療崩壊の教訓は生かされるのか。府の保健師らが7月3日、オンライン会見で「第5波を乗り越えられるか不安」と吐露した。
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府のコロナ死者数は7月17日現在、全国最多の2707人。半数以上が第4波で命を落とした。入院率はわずか1割。患者と医療機関をつなぐ保健所業務も崩壊寸前に陥った。会見は大阪府関係職員労働組合(府職労)が現場の声を発信しようと実施、保健師らは匿名で参加した。
保健師Aさんは「4月半ば以降は(入院調整を行う府入院フォローアップセンターに)入院申請してから3、4日後にやっと入院先が決まるのが普通。自宅で患者さんが日に日に悪化していく姿が電話口からも感じ取れ、恐怖のあまり受話器を取る手や声が震えることもあった。入院でき安堵したのも束の間、亡くなったという連絡が次々と入ってくる。他にできることはなかったかという無力感や自責の念を抱えながらみな働いていた」と振り返った。
「ご家族には『呼吸器をつける病院がどこもいっぱいなので、万一の時は高度な医療が受けられないかもしれないがそれでもいいか』と厳しい現実を伝えなければならないこともあった。一人一人に寄り添いたくても、その日のうちに新規陽性者に連絡をしなければならず常に時間との勝負。体調不良でも、小さい子どもが家で待っていても、ほとんどの保健師が総動員で毎晩夜遅くまで働いた」
第5波が迫る中、人員体制強化も夜間休日の体制も不十分。「もう一度乗り越えられるか不安でならない」
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民間の空襲被害者を救済する法案提出がまたも見送られた。国は、旧軍人や軍属にはこれまで60兆円の補償や援護をする一方、民間人は補償がない。東京や大阪の国賠訴訟はいずれも最高裁で敗訴が確定、立法による解決を促したが、今も実現していない。今年は戦後76年。残された時間はそう長くない。
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「先の国会で成立するものと思っていましたが、提案すらされず、残念です」
大阪大空襲の被害者らが国に謝罪と損害賠償を求めた「大阪空襲訴訟」の元原告、大阪市東住吉区の藤原まり子さん(76)は肩を落とした。
民間の空襲被害者を救済する議員立法を目指す超党派の国会議員連盟(空襲議連)は昨年10月、空襲で障害やケロイドを負った人を対象に1人一律50万円を支給することを柱にした法案をまとめた。
3月には空襲議連の河村建夫会長が自民党の二階俊博幹事長に面会。法案成立を訴えた際、二階幹事長は「われわれの代でやらないといけない課題だ」などと答えたという。野党は法案提出についてすべて同意しており、藤原さんらも「今度こそは」と期待を寄せていた。だが、自民党内で「戦後補償は解決済み」と異論が出て、法案提出できぬまま、通常国会は6月16日の会期末を迎えた。
「50万円では、義足代にもなりません。それでも私たちにはもう時間がないのです」
藤原さんは、今でも古い診断書を大切に保管している。
「いずれ役に立つ時がくるかもしれないから」と母親から手渡されたものだ。病名は「左下腿火傷」で、「昭和20年3月13日、焼夷弾により第三度火傷にして加療せしことを証す」と記されている。
戦時中、民間の戦災被害者を救済する「戦時災害保護法」があったが、敗戦の翌1946年に「軍事扶助法」や「軍人恩給法」とともに廃止された。日本が占領体制から脱した52年、旧軍人や軍属らを救済する「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定され、翌年には軍人恩給も復活した。その後、未帰還者や引揚者も援護の対象となり、原爆被爆者や中国残留邦人に対する援護法も制定されたが、空襲被害者だけが置き去りにされている。
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7月3日、静岡県沼津市の沼津御用邸で「棋聖戦」五番勝負の第3局が行われた。コロナ禍の取材制限などで将棋の現場取材ができず、今回、可能になった沼津での取材を楽しみにしていた。ところが豪雨で新幹線などが止まり、神戸から駆け付けられずAbemaTV観戦となった。
この日まで藤井の2連勝。棋聖戦は「一日制」で双方の持ち時間は4時間。息詰まる熱戦の末に午後7時14分、渡辺は投了した。ともに持ち時間を1分ほど残していた。防衛であるため藤井に新たなタイトルが加わったわけではないが、「最年少タイトル防衛」、「最年少九段」の二つの金字塔を打ち立てた。
渡辺は昨年7月に大阪で棋聖位を藤井に奪われ、最年少タイトルを献上していた。リベンジに燃えていたが、まさかのストレート負けを喫した。竜王位の11期獲得などを筆頭に渡辺は過去39回もタイトル戦を戦ったが、1勝もできずに敗退するのは初めてだ。
渡辺は得意な「矢倉」の陣形。藤井は雁(がん)の群れが空を飛ぶような「雁木(がんぎ)」と呼ばれる陣形を構えた。藤井は早々に攻撃を仕掛けた。最近の将棋は、AI(人工知能)の影響もあり、美濃囲い、穴熊などで玉を囲ってから戦端を開くのではなく、囲う前に「居玉」のままなどで戦いが始まることが多く序盤から目が離せない。
真っ向から受けた渡辺は、中盤に角を捨てて藤井陣に斬りこむ。1時間半もの長考の末の一手だった。生中継していたAbemaTVのAI評価は藤井有利を示していたが、途中から渡辺70%有利と示した。対戦中の二人の優劣をAIの評価値がパーセンテージで示してくれるが、勝率数%とされた方が大逆転して勝つこともある。そもそもAIは「失着」などは想定しないし、人間なら不安になる「危険な手」も怖がらない。
渡辺は角で藤井陣の金を取り込んだ。ここでAI評価が逆転した。そのまま藤井優勢で進み、最後は藤井が桂馬の王手で仕留めた。
終盤、藤井の玉の周りには金や銀などがなく、ポツンと自陣の中央に取り残されたような格好だった。危なく見えるが飛車、角、桂馬、香車という離れたところから攻撃できる駒を持っていないと捕まえにくい。藤井は渡辺の持ち駒が金や銀であることを見越して、巧みに逃げていた。
勝利した時点で藤井は18歳11カ月。従来の最年少九段は渡辺の持つ21歳7カ月である。当分の間、抜く棋士は出ないだろう。
従来の最年少防衛は屋敷伸之九段(49)の19歳。1カ月差での達成だった。昨年、同じ棋聖戦で渡辺から奪取した藤井の初タイトル獲得は17歳11カ月で誕生日まで3日だった。17歳と18歳では印象が違う。ヒーロー伝説にはこうした「強運」も付きまとう。
九段昇段の条件は「名人1期」「竜王2期」「タイトル3期」「八段昇段後に公式戦で250勝」のどれかだ。
かつて将棋の九段は単なる段位ではなくタイトル。「名人に次ぐ」とされるタイトルだった。大山康晴十五世名人(故人)のライバルで知られる升田幸三名人(故人)は、
「名人」「九段」「王将」の三冠に輝く時期もあった。当時はタイトル数も少なく、価値は高かった。
ちなみに現役九段の最年長は、加藤一二三九段(81)が引退した後、大阪の強豪、桐山清澄九段(73)である。元棋聖、棋王。桐山は大山や同い年の中原誠十六世名人(73)とも覇を競った名棋士である。
藤井は勝利直後、「九段は最高位なので光栄です」「将棋界には『タイトルは防衛して一人前』と言う言葉もあるので、防衛できてよかった」などと語った。渡辺は「ストレート負けは初めてですね」の質問に「ストレート負けでもフルセットの負けでも関係ないです」と答えた表情に悔しさがにじんでいた。
……
学級崩壊になぞらえるならば、菅政権は文字通り「政権崩壊」である。東京五輪を強行すれば、巨大な感染クラスターになる可能性が高いと指摘されてきたが、すでに来日している選手や関係者の感染が次々確認されている。バブルは弾けるものだということがなぜわからないのか。東京でも大阪でも、感染は急拡大の様相を示しており、安全・安心の五輪など絵空事、今からでも中止すべきである。
政府はコロナ感染拡大を防ぐため、飲食店に対し営業時間短縮や酒類提供をやめるように要請してきたが、それに従わない店を放置していくのかという批判が出ていた。それで金融機関を通じて圧力をかけようとしたり、酒類販売業者に協力を求めることとして、支援金の請求にあたって誓約書を提出させたりしてきたことに対し、そういう圧力のかけ方はおかしいのではないかという批判が与野党からも経営者団体や当事者の業界からも出て、それを撤回する騒動になったことは周知の通りである。
今もそのゴタゴタが続いているが、菅首相や関係閣僚の対応はドタバタとしか言いようがない。当初、菅首相は知らなかったと言って、西村経済再生相が独断でやったかのように言っていたが、すべて報告されていたことが明らかになり、菅首相は謝罪し、関係大臣すべてがあれこれ言い訳した。特にひどかったのは麻生副総理兼財務相で「普通に考えておかしい。そんなものほっとけと言った」と逃げたが、記者の質問や国民の疑問にまじめに答えようとせず、くだらない雑談、無責任放言の域をこえて確信犯的政治暴言となっているが、首相は止めようともしない。所管の梶山経済産業相は「強い違和感を覚えた。了承した事実はない」などと答え、まったく政権崩壊状態である。
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馬毛島をほぼ全島所有するのが立石建設の子会社「タストンエアポート社」(以下タストン社)。そして馬毛島への米軍タッチアンドゴー訓練施設建設が決まったのが、2011年6月の2プラス2だ。地元住民の意見を全く聞かないまま、米国の国務長官と国防長官、日本の外相と防衛相だけで決めてしまったのだ。
勝手に決められた基地建設だが、実際に島の売買が成立したのが19年1月。つまり約10年にわたる水面下の価格交渉の末、なんと当初の予想を大きく上回る160億円+αで国が購入してしまったのだ。なぜこんな高値で税金が支払われたのか?
地元説明会では一切明らかにならなかったので、21年2月12日に防衛省へ情報公開請求書を郵送した。請求した文書は3点。①18年度にタストン社と防衛相の間で交わされた土地売買契約書②当初、馬毛島の評価を45億円とした積算根拠のわかる文書(土地鑑定書など)③45億円の評価額が160億円で売買されることになった経緯がわかる文書。(タストン社と防衛省の面談記録など)。
同時に東京の立石建設へ電話。タストン社はこの社屋にあるようだ。会長の立石勲氏への面談を申し込んだが、「この件では一切誰とも会わないようにしている」との返事だった。立石氏は21年5月に亡くなったので、文字通りこの秘密を「墓の中に持っていった」ことになる。
この問題については、週刊新潮やネットニュース「ハンター」がその疑惑を報道し、さらには西之表市自身が公開質問状を出している。ここではその概略を述べる。
……
今から21年前の7月23日、黒田清さんは69歳でこの世を去った。まもなく今年の命日がやってくるが、その日に東京オリンピック・パラリンピックが開会される。本来であれば命日に「平和の祭典」が日本で開会することを、私たちは大いに喜べたかもしれない。平和の尊さを語り、それを奪う戦争と差別に反対し続けてきた黒田さんにとって、「オリンピック休戦」は何よりの供養になり得たはずだった。
だが、今回の東京五輪は、供養になるどころか、黒田さんの思いを踏みにじるような経緯で開会式の日を迎えてしまった。先日、大阪で開催された第4回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の作品募集の集いで講演した佐高信さんは「オリンピックを止められないようなら戦争は止められない」という趣旨の話をされた。
世論調査で「延期」あるいは「中止」をやむなしとする声が8割近くを占めても、政府は「開催ありき」で突き進んできた。専門家などが指摘した、人々を感染爆発にさらすリスクから目を背け、その場しのぎの対応策を繰り出しながら強引に開催へとひた走った。開催に向けた動きは、かつて戦争に突入していった状況と恐ろしいくらいに酷似しているのだ。
政府に足並みを揃えたほとんどのメディアは「開幕まであと○○日」というカウントダウンなどで、ひたすら開催ムードをあおってきた。それだけではなく、NHKが聖火リレーのインターネット中継で、「五輪反対」と抗議する沿道の声を一部消して配信したことに象徴されるように、政府にとって不利な情報は極力抑え込まれていった。世論調査も、いつの間にか「延期」「中止」の選択肢が消え、開催を前提とした「有観客」か「無観客」かを問うものが中心となってしまう。
政府とメディアが「ここまで来たらもうやるしかない」と言わんばかりに突き進んできた様は、不利な戦況をひたすら隠して戦争を続け、多くの犠牲を伴う敗戦へと至った太平洋戦争と重なって見える。コロナ禍で開催を強行しようとする政府のやり方は、「最悪の作戦」と評されるインパール作戦とそっくりではないか。作戦の立案段階から、補給が困難な中での実施は無理だと参謀が反対したにもかかわらず、司令官の判断で決行された。そして、失敗が明らかになっても司令官は保身のために中止をせず、結果的に多くの日本兵が死を余儀なくされた、あの作戦である。
安倍・菅政権による新型コロナ対策でも過去の教訓に学ぶことなく、被害を拡大させてきた。この1年半の間に4度も緊急事態宣言を出す一方で、具体的な対応策はほとんど取らず、飲食店への時短要請や外出自粛に終始し、感染拡大を止められないまま今に至っている。
かつて、情報収集や分析を怠って「戦力の逐次投入」を行った結果、惨敗を喫したガダルカナル島の戦いの再現を見るようではないか。そして多くのメディアは、当時の大新聞が大本営発表を垂れ流し、ガダルカナルの撤退を「転進」と言い換えて、あたかも作戦が成功しているかのごとく報じたように、東京五輪が無観客ならば実施可能という雰囲気を作り出している。
東京五輪を実施するために、一部の「特権的関係者」以外には、ひたすら自粛と忍従を求める今の状況は、「欲しがりません、勝つまでは」の精神論を強要した戦前そのものではないか。このようなことがまかり通るのであれば、例えば中国などの脅威をあおることで、戦争への道を開くことが容易な社会になるのは想像に難くない。
本来の「復興五輪」という理念がどこかへ行ってしまっただけではない。聖火リレーを通して伝えられた被災地の様子は、JR双葉駅など復興事業で整備されたポイントばかりだった。福島第一原発事故の影響で10年を経た今も復興途上にある街並みなどは、ほとんど伝えられてはいない。 避難指示が出された12市町村で唯一、住民が帰還できていない双葉町が、復興途上にある街並みが見えるルートを希望したにもかかわらず、大会組織委員会は一部に避難指示が未解除のエリアがあることを理由に、同意しなかったという。解除を見据えて、日中は自由に行き来ができる「立ち入り規制緩和区域」に指定されていたにもかかわらず、である。
原発事故の影響を隠し、あたかも町全体が復興しているかのように見せた聖火リレーは、大本営発表そのものではないか。その上で、福島第一原発事故の教訓を全く活かさず、再稼働のみならず老朽原発の運転延長まで認めて、再び原子力利用の道をひた走っているのが今の日本なのである。
佐高さんの言葉を補足するならば、「原発を止められなかったのだから、オリンピックを止められるわけがない」ということになる。さらに、わずか10年前の教訓すら活かせない今の為政者たちが、70年以上前の教訓を活かせるはずもないのである。
仮に、何とか東京五輪が無事に終えられたとしたら、菅政権はそれを手柄として支持率の回復に奔走するであろう。そして、自分たちの無為無策を棚に上げて、新型コロナの感染拡大を招いたのは、主権制限ができなかったためだと吹聴するに違いない。その先にあるのは、間違いなく改憲である。もし、そのようなことになれば戦前回帰が加速し、ますます日本は「戦争を止められない」国になってしまう。
東京五輪は止められなかった。しかし、それでも「戦争は止められる」国であり続けなければ、黒田さんに顔向けができない。今年の7月23日は、東京五輪の開会式に惑わされることなく、黒田さんの命日として私たちは心を一つにして、改めて反戦、反差別の想いを強くする一日としたい。きっと天国の黒田さんが「みんな、ここが正念場やで」と、檄を飛ばしているはずである。
ミャンマー国軍によるクーデター発生から5カ月。新型コロナウイルスの感染拡大で中断していた「うずみ火講座」は7月3日、大阪市浪速区湊町の難波市民学習センターで再開した。ミャンマーはどうなっているのか。私たちにできることは何か。関西在住のミャンマー人に現状と課題について語ってもらった。
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米国施政下の沖縄で実際にあったサンマをめぐる裁判にスポットを当てたドキュメンタリー映画「サンマデモクラシー」が7月31日から大阪・十三の第七芸術劇場で公開される。監督は沖縄テレビのプロデューサー、山里孫存(まごあり)さん。統治者アメリカの不条理に異議申し立てをした「サンマ裁判」が復帰運動に火をつけ、自治権獲得の闘いに発展する道のりを軽妙に描いた。
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名古屋出入国管理局に収容中に亡くなったスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんの事件をきっかけに入管法改正案は先の国会で廃案となった。しかし、日本における「難民」の状況は何も変わらない。大阪・十三の第七芸術劇場などで上映中の「東京クルド」はクルドの若者2人が主人公。日向史有監督は5年間密着、彼らの希望を奪うものの正体をあぶりだした。
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9月以降に予定されている衆院選。日本維新の会が、公約にベーシックインカム(BI)を掲げた「日本大改革プラン」を発表した。所得に関係なく、すべての人に毎月6万~10万円を給付し、財源は経済成長と行政改革により生み出すと。国民民主党の玉木代表までも。具体的には「社会保障を簡素な仕組みに」変え、消費税や法人税の減税、相続税を廃止し、生活保護、基礎年金、児童手当をBIに統合(=廃止)すると。
将来への不安 ベーシック=基本、インカム=所得、を組み合わせた造語。現在の状況は、かなり大まかな数字ですが、社会保障に120兆円が費やされています(税金50兆円と企業や個人の保険料負担70兆円)。年金60兆円、医療費40兆円が中心。2025
年には、団塊の世代が後期高齢者となり、仮に1人7万円を1億2000万人に配布すれば、100兆円が必要です。40年は、65歳以上の高齢者の数がピークとなり、財源も含めて大きな課題になります。
膨大な債務 以下は、かなり大雑把な数字です。政府の債務残高(借金)は断トツで世界一。20年末で1216兆円。GDP(国内総生産=542兆円=20年10~12月)対比で227%です。国家予算ですが、20年(19年12月)は総額102兆6580億円(以下、兆未満切り捨て)。
歳入(収入)は国債発行(借金)32兆円(総額の31・7%)、税収63兆円(同61・8%)など。歳出(支出)は、国債(借金返済)23兆円(同22・7%)、地方交付税15兆円(10・2%)社会保障35兆円(同34・9%)、公共事業6兆円、文教科学5兆円などです。個人の家計に例えれば、借金を重ねて、身の丈以上の生活をしながら、ますます首が回らなくなり、お手上げの状態に陥っています。
財政赤字を打開? 財政赤字が手の付けられない状態になっており、BIは、これを打開する目的が背景にあります。「自国通貨で国債を発行している国は、財政赤字を気にしなくてよい。国債の発行量を適切に調整すれば……」MMT(現代金融)理論なども同様です。BIは、市場原理主義者のM・フリードマンなども提唱し、政商と称される竹中平蔵氏なども推奨しています。
税制の歪み 米国の調査報道ニュースサイト「プロパブリカ」が、米国の内国歳入庁(IRS)の内部資料から暴露しました。アマゾンのJ・ペゾス、テスラのI・マスク、著名な投資家W・バフェットら資産額上位25人の超富裕層は、納税を巧みに逃れていました。14~18年に増えた資産43・7兆円のうち、本来は14%ですが、たった3・4%しか所得税を納めていなかったとか。我が国でも、3年連続で法人税を引き下げたり、所得税や相続税の軽減を図るなど税制の歪みが目立ちます。電気・ガス、上下水道、鉄道や道路、通信網など、公共インフラなどの恩恵を最大限に受けている法人や富裕層を含め、富の公平な再分配が必要です。 (羽世田鉱四郎)
(参考)当コラム「法人税減税16年1月号」「パナマ文書16年7月号」。「財政爆発」(明石順平・角川新書)
1972年5月15日、復帰の日、
脱力感に襲われた
屋宜さんは「その日の深夜、社内
で共同通信の支局長とテレビを見て
いると、ランパート高等弁務官が午
前零時に星条旗を巻いて嘉手納基地
から飛行機で去るところが中継され
ていた。しっぽ巻いて行くようで、
追い出すんだという気持ちになった。
しかし(基地をなくすという自分
たちの)要求は通らなかった」
戦後、一貫して日本復帰に取り組
んできた屋良朝苗さんは
この復帰は自分たちが願った復帰
ではない。基地のない平和な沖縄の
実現という復帰の中身はこれからの
課題。「基地のある間は沖縄の復帰
は完了したとは言えない」と語って
おられる。
復帰について
屋宜さんは「沖縄県民は米軍の占
領支配によって無権利と言っていい
くらいの状態に置かれていた。
裁判も米軍に都合がいいような制
度で行われ、日本本土への渡航の自
由、言論や集会などの
自由もない。
県民はそんな日常的
な重圧から抜け出し、
民主主義や基本的人権
が保障され、戦争放棄
をうたった日本国憲法
のもとに入ろうと復帰
運動に取り組んだ。
米軍は沖縄の基地を
維持するために、県民
を支配した。重圧、諸悪の根源は米
軍基地なのである。だから全面撤去
が理想だけれど、核抜き本土並みで
妥協した。核は絶対だめ、攻撃基地
はだめと言っていた」
復帰後の現状については
「復帰前の基地が維持され、その
上、北部訓練場の機能が強化される
など、基地の重圧は重くなっている。
核についても、後に核密約が分かっ
た。そして安倍政権は集団的自衛権
を認め、戦争に参加しかけている。
また米国にノーと言えない。危険だ
と思う」と屋宜さん。
屋宜さんは87年、55歳で沖縄
タイムスを退職。新聞社の仕事
をふりかえって思うことは
「よかった。悔いない。満足感が
ある。沖縄タイムスは米軍に立ち向
かうという社の姿勢を持っていた。
沖縄の住民が要求していた『土地
を守る4原則』、米軍による土地買
い上げや新規土地接収に反対などへ
の支持や、住民の立場から基地、戦
争に反対など、世論をリードしてき
たという自負がある」
後輩に屋宜さんは
「よくがんばっていると思う。住
民に寄り添うことで受けることもあ
る攻撃の中で。
戦前の言論統制に抵抗できなかっ
た反省に立って、権力に立ち向かう
姿勢を持つという創刊当時の編集綱
領があり、後輩にはこれからも綱領
を守って行ってほしい。マスコミが
権力に迎合すると、住民を変な方向
へ引っぱっていくから」
折に触れ、落語とは何ぞや? と考えるのだが、なかなか的確な表現が見つからない。ま、落語には何千という噺があるので、それを端的に表現するのはかなりの難題だ。立川談志の「落語とは人間の業の肯定だ」というのは、なかなかうまい表現だが、これでは人間の全行為を肯定することになるわけで(それも一つの考え方だが)、今一つ胸に落ちない。
村上春樹の短編に、こんな一節がある。「人生は勝つことより負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は『どのように相手に勝つか』よりはむしろ、『どのようにうまく負けるか』というところから育っていく(「ヤクルト・スワローズ詩集」)。
村上は熱心なヤクルトファンだとか。彼は関西、それも芦屋や夙川で育ったので、少年時代はタイガースファンだった。「阪神タイガース友の会」に入ってたぐらいの。で、18歳で大学に入学し東京へ来たので、「よし、これからはサンケイ・アトムズ(ヤクルトの前身)を応援しようと決断した」そうだ。それからは熱心なファンに。当時は川上巨人の全盛時代、王や長嶋は国民的ヒーロー。が、ヤクルトは弱かった。でも彼は神宮球場にせっせと通い、外野席の芝生に寝転んでビール片手に観戦。「たまに勝っているときにはゲームを楽しみ、負けているときには『まあ人生、負けることに慣れておくのも大事だから』と考えるようにしていた」。そうして、毎日のように負け試合を経験して、冒頭の「(人生)どうしてうまく負けるか」にたどり着いた。
落語もハッピーエンドは少ない。と言うよりもむしろ失敗の連続。主人公の喜六は、まあ、おっちょこちょいの典型だが無類の能天気。何度失敗してもめげない。「商売根問」では、いろんな金儲けにトライしては失敗を繰り返す。
では節約をと考えた「始末の極意」では、さまざまな教えを実践するもことごとく失敗。最後には庭の松の木に指2本でぶら下がるという荒業。「千両みかん」では、もうすぐのれん分けを控えた番頭が、こともあろうにみかん3袋持って主家を出奔するという体たらく。恋に憧れる「色ごと根問」では、女性に持てる手段を10も教えてもらうが、どれもダメ。呑む打つ買うの三だら煩悩でも、呑めば失敗の連続。博打も儲けなんぞ夢のまた夢。女郎買いも碌なことにことにならない。
……
「日本映画の父」といわれた京都・西陣の千本座経営者・牧野省三が、横田商会の依頼で、初めての映画『本能寺合戦』を撮ったのは明治40年(1907)年のこと。自らの芝居小屋に出演していた一座の役者が出演し、近くの寺の境内で撮影した。省三は映画製作は未経験だったが、芝居小屋で演出も兼ねていたため、以降、次々と歌舞伎の時代物を映画にする。役者のなかに「目玉の松ちゃん」の愛称で人気スターとなった尾上松之助がいて、空前のチャンバラブームとなった。チャンバラ=時代劇映画の原型はこの時から生まれている。
時代が下る。第2次世界大戦終結後、占領したGHQ(連合軍総司令部)の方針により、チャンバラ映画は封建的であり反民主主義的であるとされ規制された。いわゆる「チャンバラ禁止令」である。ようやく解禁されたのは昭和26(51)年7月のこと。前年勃発した朝鮮戦争、同年のサンフランシスコ講和条約調印という政治状況の変化が背景にあった。それ以上に戦後の貧困と混乱のなかで、多くの日本人が抱いていた娯楽への渇望であり、チャンバラ映画への郷愁が、解禁に大きな拍車をかけたといえよう。
昭和20年代後半から30年代は、映画は庶民の最大の娯楽であり、その中でも復活したチャンバラ映画は隆盛を極めた。子供たちの遊びの中心もチャンバラごっこだった。あちこちにあった野原や空き地で、棒切れやオモチャの刀を持って、あるときは鞍馬天狗になり、また旗本退屈男になる。私がまだ小学校に上がる前だった。祖母に風呂敷を縫い直してもらって、鞍馬天狗の頭巾を作ってもらった。「東山三十六峰、突如拡がる剣戟のひびき!」などと回らぬ舌でいい、ちびっこたちは勤王方と新選組に分かれてチャンバラごっこが始まった。家々から夕餉の匂いが漂い出すまで遊んでいた。
私が最初に出合った映画は、アラカン(嵐寛寿郎)主演の『鞍馬天狗 角兵衛獅子』(昭和26年)だった。天狗のおじさんを慕い続ける少年、杉作役は子役時代の美空ひばり。「♪笛に浮かれて 逆立ちすれば/山が見えます ふるさとの」というひばりの『越後獅子の唄』の歌声は今も心に残る。ルポライターで芸能評論家でもあった竹中労の名著『鞍馬天狗のおじさんはーー聞書アラカン一代』(ちくま文庫)の巻末解説で作家の橋本治は、「竹中労のおじさんもーー」というタイトルで「背伸びをして鞍馬天狗になってしまった少年も、別に『ふるさと』を離れた訳でもないのに、『山』とは無縁の都会地に育ったくせに。あるいは、多くの日本人は、どこかでうっかりと笛に浮かれて逆立ちをしてしまった不本意な角兵衛獅子であるのかもしれない。そしてさすがに嵐寛寿郎は〝鞍馬天狗のおじさん〟であって、そんなあわれな角兵衛獅子達の上を超然と飛んでいるのかもしれない」
と書いている。私自身も「うっかりと笛に吹かれて逆立ちをしてしまった」(日本の)少年の一人であった。
「順番がきたらワクチン接種する?」ママ友からLINEが来ました。「接種するつもりだけど、迷っているの?」
彼女はもう接種可能で予約済みですが、「危険だから受けるのをやめて」「テレビや新聞は本当のことを言わない」と友人に言われて心配になったとか。「あなたが打つなら少し安心した」と彼女。
ところが翌日、「今夜電話してもいい?」とまたLINEが来ます。ワクチン反対派の友人からきた動画も添えられていました。ファイザーの元副社長や日本の医師が「ワクチンは危険」と訴えるYouTubeでした。
私は「それらの動画は根拠のない情報」とファクトチェック(真偽の検証)をしたバズフィードの記事や、コロナやワクチンに関する正確な情報を発信するプロジェクト「こびナビ」を紹介し、「夜に話そう」と返しました。ママ友がワクチンデマにどのくらい影響を受けているか心配でした。
その夜。彼女は送った資料にも目を通し、落ち着いていました。私は病気をして以来、勉強を重ねているので医療の知識はある程度あります。またネット問題も専門なので、医療とネット情報、両面から話をしました。電話を切る頃には、少し残っていた迷いも消えたようで、彼女は予定通りワクチン接種をしました。
誤解のないよう言っておくと、私はワクチンを打つよう説得したわけではありません。打つ、打たないは自分で判断することで、誰も強制できるものではないからです。ただ今回はデマに惑わされていたので、現時点で明らかになっている情報を基に判断ができるようお手伝いしました。
ワクチンに関しては、私も初めは懐疑的でした。けれど信頼できる臨床試験が行われて効果も確認されたことなどワクチン情報が明らかになるにつれ、迷いがなくなりました。
ママ友は基礎疾患があったので、コロナにかかると重症化する可能性が高い人です。明らかにワクチンを打つことにメリットがあります。「ワクチンを打つな」は善意からなのでしょうが、その言葉を信じてワクチン接種を止めた人のその後に、責任を取れるのでしょうか。
私も体験しましたが、がん患者にも素人が無責任な治療を勧めてきます。その言葉を信じて無治療を選択し、悪化させる人も出ています。自分が信じた治療を自ら選択することと、他人に勧めることは大きく異なります。後者は他人の健康や命に関わることになるからです。
勧めるならせめて根拠が必要です。「ファイザーの元副社長が言っている」「医師が言っている」は根拠になるでしょうか。ネットでは「誰が言っているか」を根拠にする人が多い傾向があります。確かにファイザーのワクチンについての元副社長の話は信じたくなります。けれど大事なのはその内容です。
医療情報の真偽は一般の者にはわかりにくいものですが、昨今デマ情報は、専門家やメディアによってチェックされます。判断するのはそれを見てからでも遅くはありません。目を引くセンセーショナルな情報ほど慎重に判断したいものです。
(フリーアナウンサー・消費生活アドバイザー)
卸業に「酒売るな」
戦時に逆戻りのよう
千葉県 小出賢治
東京都に4回目の緊急事態宣言が出されました。政府は「酒類を卸販売する事業者に対し、『提供停止』に応じない飲食店との取引を行わないよう要請する」方針を示しました。その報道に触れ、「統制経済」という言葉を思い出しました。広辞苑で調べると、「国家が資本主義的自由経済に干渉したり、これを規制・計画化したりすること」。別の資料では1938(昭和13)年4月に「国家総動員法」が公布され、「あらゆる経済活動、国民生活を戦争遂行の一点にふり向けるために、国家による経済統制を図ろうとし、消費物資の統制が強化され、国民は耐乏を強いられることになった」ともありました。第2次世界大戦前に逆戻りしているようで非常に気持ちの悪い記事でした。
飲食店に酒類を販売する事業者に取引先が「夜8時以降営業しているか」を調査させるのでしょうか。そのお店に対して酒類卸を停止したら、今後そのお店と取引できないでしょう。飲食店のみならず卸業者も殺そうとしているのでしょうか。
「むのたけじ」さんのことを新聞うずみ火で知り、「たいまつ十六年」(岩波現代文庫)を読み始めました。戦前・戦後の世の中の動きを肌に感じ、特に戦争に突っ走っている状況がわかりますが、当時の大半の市井の人は「バスに乗り遅れるな」と行き先のわからないバスに乗り続けたのではないでしょうか。
酒の卸業者に対する威圧をどう捉えるか、中にはコロナを収めるために必要な措置だという人もいるかもしれませんが、今の自分はとてもそのような気持ちにはなれません。自公連立政権の動きには不気味さを感じます。
(酒卸業者に「酒を売るな」とは営業の自由の否定であり、憲法違反です。さらに、政府は酒類の提供停止を拒む飲食店に取引先の金融機関から応じるよう働きかけてもらうと発言。批判が出て撤回しましたが、強権を振りかざすやり方は言語道断。酒が悪いのではなく、政府のコロナ対応の無能無策が最大の原因です)
6月上旬に一通の郵便物が届いた。2カ月前、インターネットで「コロナウイルスのハイリスク者」の登録をした。ワクチン接種の対象は65歳以上と言われている中で、50代半ばの自分に接種券が郵送されたのだ。高齢者が接種予約するのに難儀をしているとニュースで見聞きしていたが、確かにそうだ。 まず、情報量が多い。一枚の紙にあらゆることが書かれていて、どこに目をつけるのか迷う。次に予約方法はインターネットですると決めていたのでサイトを開いてみたが、どの月を開いてもどこが違うのかが分からなかった。
後で気づいたのだが、自分の開いたサイトのカレンダーはすでに予約でいっぱいだったので、見た目が同じだったのだ。日にちを大幅にずらしてサイトを開くと、予約できる日時と残りの人数が出てきた。なるほど、自分の住んでいる自治体は地元の住民センターで予防接種が受けられるようになっているが、駅直結の場所やショッピングセンターに近い会場は、6月上旬の時点で8月末まで予約が埋まっていた。確かに自分も駅直結の会場を最初に見て3度見返すほど混んでいた。結局は、自宅から徒歩20分くらいの住民センターを予約した。これが一番早くて7月21日だった。1回目を予約すると、2回目の接種日が自動的にカレンダーに出てきて、簡単に予約できた。自治体ごとにやり方は千差万別だろうが、予約に難儀した話は、高齢者だからではない。
接種券を受け取ってから1カ月半の間、ワクチンに対する意見を見聞きした。気になったのはSNSなどでワクチンそのものを否定する意見。「〇〇ワクチン」などと差別的な言葉が羅列されているものもあり、そういう押しつけがましい理屈にへきえきとした。治験の絶対数に不安を持っている意見も多かった。これは自分も持った不安の一つだ。現在接種しているデータが治験とも言えるのではないか。
7月15日の時点でワクチンの需要と供給のバランスが崩れて、供給されない自治体からの不安が高まっていたり、どこそこでは余剰があったりと、不確定な情報が入り混じっている。こうした人々の不安や焦りは、経験のないことが一番の原因だろう。それを後押ししているのは、決定的な治療薬が存在していないことだろう。そもそも、政府が腰を据えず、「オリ・パラ」にあおられていることが一番の問題ではないかと考える。
(アテネパラ銀メダリスト・佐藤京子)
いささか「うしろめたい」ところのあるジャーナリストである。
昭和34(1959)年4月に朝日新聞記者となり、盛岡支局に赴任した。
その年、明治末期から大正、昭和の時代を生きた偉大な作家、永井荷風が79歳で死去した。壮絶な最期に衝撃を受けた。
荷風の小説に登場する女性のほとんどが、芸者、娼婦などだから女性読者に人気がないし、舞台も東京が多いから西日本でも知名度はやや低い。文化勲章受章者なのに。
しかし、その「好色」には軍国主義や腐敗した政治権力を、ひそかにせせら笑う「力」がひそんでいるのである。
特にぼくが座右の書としているのは、近代の日記文学の最高峰と評価されている『断腸亭日乗』である。
大正6(1917)年から死の前日、昭和34年4月29日まで、42年間、1日も欠かさず、ひそかに書きつづられた膨大な日記なのである。
その巨巻を巧みにまとめた、岩波文庫の摘録『断腸亭日乗』(磯田光一編、上下2巻)は、外出するときでもバッグにある。
なぜかといえば、昨今のジャーナリズムなんぞ「へのカッパ」のジャーナリズム精神、批判精神にあふれているからである(エッチなところもあるけれど!)。
たとえばぼくが生まれた昭和11(1936)年、軍国主義が頂点に達する「2・26事件」の12日前の日記はこうだ。
「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり……。個人の覚醒は将来においても到底望むべからざる事」
自覚なき国民、とはいまだって耳が痛い。メディアの責任も糾弾されているのだ。
戦前、戦中に軍国主義と政治権力を批判しつづけた、たぐいまれな作家の問題意識の源は、ほとんどすべて、チマタで、足と見聞で拾い集めた事実であった。新聞もラジオも大嫌いだったのだから。
という意味では、永井荷風は、存在そのものが、「うずみ火」のごとしだった。
「酔眼妄想翁」と自称する85歳のぼくは、「新聞うずみ火」や荷風のようにありたし、と願いながら果たせないでいる。だから「うしろめたい」のである。
轡田隆史(くつわだ・たかふみ)さん1936年東京生まれ。59年に朝日新聞社入社、築地哲也氏と同期。社会部次長や特派員などを務め、88年から論説委員。99年に退社後、著作活動や講演活動に入り、テレビ朝日系「ニュースステーション」「スーパーJチャンネル」のコメンテーターも務めた。中・高・大とサッカー歴は長く、浦和高校では二冠を経験。著書に「『考える力』をつける本」(三笠書房)ほか多数。
黒田清さんが亡くなって21年目の夏を迎えます。「黒田さんを追悼し平和を考えるライブ」を7月31日(土)午後2時半~大阪府豊中市立すてっぷホールで開催します。コント集団「ザ・ニュースペーパー」結成時のメンバー松崎菊也さんと石倉直樹さんを招いての風刺トーク&コントライブで、コロナ禍で忘れかけていた笑いを取り戻しましょう。
【日時】7月31日(土)午後2時開場、2時半開演
【場所】豊中市立会館とよなか男女共同参画推進センター「すてっぷ」ホール(阪急宝塚線「豊中駅」南口改札から右手、エトレ豊中5階)
【資料代】読者2000円、一般2200円、学生・障害者1000円
ライブの運営費を賄うため、当日会場でお配りするパンフレットの広告(1マス3000円~)、カンパも募集しています。このコロナ禍でそれどころではないと思いつつ、今年も専用の赤い郵便振込用紙を同封しました。とはいえご無理なさらないように。少し余裕がある方はできる範囲内でご協力いただけると幸甚です。