政府は、銃撃事件で亡くなった安倍元首相の国葬を9月27日に行うことを閣議決定した。首相経験者の国葬は戦後2例目で、55年前の吉田茂元首相以来となる。根拠法がない中で、「吉田国葬」はどのように決められ、執り行われたのか。なぜ、野党は反対しなかったのか。国会事務局で33年間、参院議員を12年間務めるなど、永田町を知り尽くした平野貞夫さん(87)がその実態を証言した。 (矢野宏)
吉田元首相は1967年10月20日、神奈川県・大磯の自宅で死去した。89歳だった。
「愛弟子の佐藤栄作首相はマニラ訪問中でしたが、木村俊夫官房長官と園田直衆院副議長に電話で『国葬とすべし』と命じました。それが始まりです」
平野さんは当時、園田副議長の秘書だったため、その一部始終を聞いていた。半世紀以上の歳月が流れているが、後に小沢一郎氏に政策提言し「知恵袋」と呼ばれた平野さんの記憶は鮮明だ。
「佐藤首相は『木村官房長官から(国葬は)法的根拠がないが、貞明皇太后の例を聞いている』と述べた後、『野党の了解を取れば、閣議決定でやれる』『社会党を説得すれば、公明と民社は納得する。今夜中に説得しろ』という内容でした」
貞明皇太后は大正天皇の皇后で、昭和天皇の母。51年5月に亡くなり、当時の吉田内閣で「国葬とするかどうか」で議論が行われた。 「国葬令」は戦後廃止されていた。吉田首相の判断で「法制がない」ことを理由に、「国葬にはしない」と決めた。
と同時に、「皇室の公的予算である宮廷費扱いの準国葬的行事とすることを閣議決定した」という。
新型コロナ感染第7波が猛威を振るっている。私も10日間、自宅療養した。軽症のうちだったが、3日間38度超の発熱、味覚嗅覚障害などの症状があり不安は尽きなかった。コロナ感染拡大からまもなく2年半。陽性になり初めて知ることも多かった。かつてない規模での感染爆発と裏腹の行動制限がない夏である。症状は人それぞれ。あくまで個人的な体験だが、参考になれば幸いだ。 (栗原佳子)
8月2日朝、寝床で体温を測ると37度4分あった。主流のオミクロンBA5の潜伏期間は平均2・4日程度だという。私は3日前に濃厚接触した可能性が高かった。しかし咳も喉の痛みもない。総合風邪薬「改源」を服用したが、昼前には37度8分、午後には38度2分に。日付が変わるころには空咳が出始めた。
3日前の濃厚接触は事務所が現場。7月30日、「黒田清さんを偲び平和を考える集い」終了後、懇親会を経てさらに8人ほどが狭い事務所へ流れた。その一人が翌31日、陽性になった。翌日、事務所近くの薬局を回ったが市販の検査キットは軒並み品切れ。1店だけ「入荷したばかり」という抗原検査キット(2200円)に飛びついた。
3日朝は38度4分。検査キットを開封した。唾液によるセルフ検査タイプ。5分で検出という触れ込みだ。陰性なら1本、陽性なら2本のラインがあらわれる。が、15分経っても反応なし。まさかの不良品である。スマホで検索すると、そもそも抗原検査には定量と定性があり、定量のほうが精度が高い。市販のキットは定性で「研究用」と「体外検査用」がある。研究用は厚労相の認可外で性能は保証できないという。パッケージを見ると下の方に小さく研究用と表示されていた。
「どうしても聞いていただきたくて書いています」。大阪市西淀川区の交田節子さんから手紙が届いた。京都市内にある特別養護老人ホームで働いている長女の真結さん(24)が新型コロナウイルスに感染したこと。人手不足の介護現場ゆえ、完治していないのに出勤を命じられたこと。ふらふらになりながら入所者をみなければならない夜勤の実情など、集団感染が起きた介護施設の状況、身も心もくたくたの娘を案じる母親の苦悩などが便せん5枚にわたってつづられていた。コロナで機能不全に陥りやすい介護現場の現状、24歳の介護職員の奮闘ぶりを知っていただくため、全文紹介させていただく。(文責 矢野宏)
〈実は、真結が7月21日にコロナに感染しました。
20日が夜勤(午後7時~翌朝7時)で、仕事に入る前に抗原検査をした結果は陰性。一緒に受けた看護師は陽性でした。
ところが、夜勤をこなした翌21日に発熱し、咳、のどの痛みが出たため、PCR検査を受け、陽性が判明したのです〉
真結さんが勤務する特別養護老人ホームは60人ほどが入所しており、ほとんどが認知症。介護職員は朝から晩まで、食事や入浴、排せつのケアなど、身体を寄せて行わなければできない仕事だ。2年前に話を聞いた時、こう語っていた。
「コロナに感染してしまうことより、誰かにうつしてしまうことが怖いです。ウイルスを施設に持ち込むとしたら職員です。一人でも感染者が出ると、入所者の命にかかわります」。それが現実となってしまった……。
2001年7月21日夜。兵庫県明石市の歩道橋で群衆雪崩事故が起き、花火見物客11人が死亡した。圧死だった。重軽傷者は247人。遺族と弁護士の有志が事故や裁判を振り返る『明石歩道橋事故 再発防止を願って~隠された真相 諦めなかった遺族たちと弁護団の闘いの記録』(神戸新聞総合出版センター2200円)が出版された。
JR山陽本線の朝霧駅から線路をまたぐ「朝霧歩道橋」は花火会場の大蔵海岸へつながる。花火が終了した午後8時半、帰宅する人と出店を楽しもうとした人が衝突した。当時、長さ100㍍、幅6㍍の橋に約6000人がいた。1平方㍍当たり最大13~14人と、息もできない超過となる。一人にピアノが乗る圧力というから幼児や高齢者はひとたまりもない。海岸へ下りる階段が通路の半分の幅しかない構造も影響したが、子供とお年寄りが犠牲になった。71歳だった草替律子さんは潰されかけた見知らぬ幼児を高く抱え上げて「この子を助けてー」と叫びながら力尽きた(幼児は助かった)。当時、あざだらけで腫れあがった痛々しい足が写真週刊誌に載った。「真実を知ってほしかった」と話していた夫の与一郎さんも今はいない。
下村誠治さんは次男の智仁ちゃん(当時2歳)を失った。「橋から下を見ると警察5人が隊を作って歩いていた。みんなわらをもすがる思いでアクリル板を必死に叩きました。彼らは何度も下を往復しましたが、何もしなかった。智仁に『絶対にここから動くな』と言って、押し潰されている人たちを必死でごぼう抜きにして救助して、戻ったら……」。 この日、明石署は暴走族対策に人員を大量投入し、会場にはわずかしか配置せず、橋から携帯電話で助けを求められても動かなかった。「地面に置かれていた瀕死の息子を抱えて通りかかった警官に助けを求めたら『私は機動隊なので』と去ったんです」(下村さん)。
事故の3日後、下村さんが記者会見した。阿鼻叫喚の中、写真のごとく詳細に現場の状況を覚えていた。「保険の仕事しとって、交通事故とか火事とかの現場をよう見るから、ああいう場面は覚えるんや」と話していた。
岸田首相は8月10日、内閣改造と自民党人事を行い、国内外で歴史を画す課題が生じる中、「有事対応、政策断行内閣にした」と述べたが、優柔不断な首相が自己保身のためにポストをばらまき、安倍元首相の遺志を継いで改憲・敵基地攻撃・防衛費引き上げを実現させると叫ぶ連中に媚びただけだ。昭和戦前期、流れに押され、戦争の急坂を暴走していった首相たちと同じ、敗戦77年に改めて危機を感じないわけにはいかない。
今回の内閣改造と党人事は、昨年の衆院選、7月の参院選で大勝したものの、コロナ対策も物価対策も経済対策も中途半端であるのみならず、安倍元首相殺害事件で再び問題化した旧統一教会にケジメついた対応ができないため内閣支持率が低下し、あわてて刷新感を打ち出すためにやったものだが、ケジメがついていないのでさらに低下したことは誰もが知る通りだ。
国民の声を聞くと言いながら、派閥の声しか聞いていないし、切るべきものを切れないから旧統一教会関係新閣僚は8人、新副大臣・政務官は21人もいる。これで旧統一教会が日本の政治に影響を与えていないなどと、よく言えたものだ。
事件現場でも、それ以外の場所でも、元首相追悼の列が絶えないことから、「国葬」にすれば支持率は上がると思ったのだろうが、国民は元首相と同派議員たちが日頃は反韓・反朝をあらわにしているのに、日本は戦前、韓国を植民地にしていたのだから贖罪させて
当たり前だとばかりに、洗脳や脅迫で日本の信者から巨額な寄付させている旧統一教会・国際勝共連合と資金面でも選挙面でも関係を持っていたことを知り、国葬反対が賛成よりも大きくなっているのだ。
8月4日から6日、私は広島市で開催された原水爆禁止世界大会に、和歌山県代表団の一人として参加してきた。これまでに何度か広島を訪ねてきたが、原爆忌を現地で迎えたことはなかった。1945年に人類初の原爆が投下されてから77年、核兵器禁止条約が発効して初の締約国会議が開かれた直後のヒロシマでの体験をリポートする。
世界大会では、締約国会議で議長を務めたオーストリア外務省のアレクサンダー・クメント軍縮局長がゲストスピーチを行うなど、核廃絶に向けて世界では大きなうねりが起こっていることを実感できた。同時に、核禁条約に被爆国である日本が参加しないことが、いかに恥ずべき状況であるかを改めて痛感した。
会議を終えた後、和歌山県原水協の被爆体験学習講座があった。講師は被爆2世で、2002年から広島県被団協平和学習部長を務める大中伸一さんだ。大中さんは「被爆者がゼロになった時に、自分たち2世が被爆を語り継ぐ世代になる」と前置きして話を始めた。被爆者の高齢化の深刻さがうかがわれる。大中さんは父親の被爆の状況とともに、戦後の被爆者が結婚差別や就職差別など、精神的にも多大な苦痛を受け続けたことを語ってくれた。
また、国連に報告された1945年末までの広島の死者数が約14万人(誤差1万人前後)となっていることについて「市役所をはじめとした行政機関が壊滅して、住民票などが消失してしまったため、死者数が特定できないのです。原爆は一瞬で、人の営みの記録までも葬ってしまいました」と説明した。長崎に比べ、広島では被爆直後の写真などの記録が少ないのは、中心部に落とされメディア関係者のほとんどが犠牲になってしまったからだという。
その夜、平和公園に足を運んだ。生まれて初めて、ライトアップされた原爆ドームや原爆の子の像を見た。慰霊碑の周辺には線香のにおいが漂い、ひざまづいて一心に読経をする人の姿があった。
大阪府と大阪市が進めるIR(カジノを含む統合型リゾート)を巡り、誘致の是非を問う住民投票を求めた府民の直接請求は7月29日の臨時府議会で否決された。21万134筆(有効署名数19万2773筆)を集めたが、過半数を占める大阪維新の会、公明党が反対した。「カジノの是非は府民が決める 住民投票をもとめる会」は区域整備計画の審査を念頭に国への働きかけを強めていく。大阪市民5人が公費投入の差し止めを求める住民訴訟を起こした。(新聞うずみ火 栗原佳子)
もとめる会は7月21日、吉村洋文府知事に直接請求。知事は請求を受けてから20日以内に府議会を招集しなければならず、7月29日の臨時府議会が開かれた。知事は意見を付したうえで住民投票条例案を提出しなければならない。吉村知事は「府市はIR整備法に基づき必要な手続きを実施してきた。選挙で選ばれた議会で議決されている。改めて住民投票を実施することには意義がない」との意見を付した。
もとめる会の山川義康事務局長ら請求代表者6人が意見陳述。ギャンブル依存症の家族を抱えた苦しみや民意の重みを強調した。しかし6人で計30分。知事やIR推進局長への質問は5人以上の会派の維新、公明、自民に限られた。そして即日採決。門前払いさながらに条例案は退けられた。閉会後、もとめる会は「民意を問うことさえ否定し、固執する政策を押し通そうとする府知事と推進派議員の態度は、府政の重大な汚点として長く記憶される。民主主義を放棄する行為にほかならない」などと抗議声明を発表した。
「私たちに何してくれた? 国葬反対」「私は自由の心を動員されたくない」。それぞれ書かれた横断幕やプラカードを持った市民団体が8月19日、JRと京阪の京橋駅前広場に立った。無言で抗議の意を示す「サイレントスタンディング」。9月27日に予定されている安倍元首相の国葬反対を通行人に呼びかけた。 (矢野宏)
安全保障関連法廃止や護憲を訴えてきた市民団体「おおさか総がかり行動実行委員会」が呼びかけ、市民団体や労働組合のメンバーら約60人が集まった。
「NO!国葬」と手書きされた段ボールを手にした梅田章二弁護士は、三つの反対理由を挙げる。
「まず、国葬を行う法的根拠がないこと。1926年公布の国葬令は戦後失効しています。次に国葬は弔意の強要であり、憲法19条が保障する『内心の自由』を侵すことになりかねない。三つ目は安倍長期政権が残した歪みが大きいことです」
具体的には、集団的自衛権の行使を容認する安全保障法制や特定秘密保護法、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法などを強行採決したこと。
森友・加計学園問題、「桜を見る会」をめぐる政治の私物化疑惑についても説明責任を果たすことなく、国会で118回も嘘の答弁をするなど、「民主主義を形骸化し、日本社会を根底から腐らせた罪は大きい」と訴えた。
新聞うずみ火主催の市民講座が8月13日、大阪市北区のPLP会館で開かれ、「『個』のひろしま~被爆者 岡田恵美子の生涯」(西日本出版社)を上梓した元朝日新聞記者でフリージャーナリストの宮崎園子さんが講演した。「被爆者なき時代」もそう遠くないと指摘されるなかで、「私たち一人ひとりが当事者意識を持つことが大事だ」と訴えた。 (矢野宏)
宮崎さんは1977年広島生まれだが、海外で育つ。香港では、「戦時中の恨みを晴らすため日本人を殺す」との脅迫状が領事館や日本企業に届いた。アメリカでは「原爆は戦争を早く終わらせ、多くの命を救った」と教科書で教えられたという宮崎さん。「平和の象徴としての『ヒロシマ』の対極にいた」と語る。
被爆者だった母方の祖母が被爆60年後に多発性骨髄腫と診断され、「原爆は60年経っても後から追いかけてくる」と漏らした言葉を聞いたとき、「昔あった大変な出来事が自分にもつながっていることを意識した」と語った。
ロシアによるウクライナ侵攻前、ウクライナ軍と東部の親ロ派勢力がにらみ合う前線を横断して撮ったドキュメンタリー「ウクライナから平和を叫ぶ」(2016年)が8月26日から大阪・シネリーブル梅田で上映される。「いまの戦争は8年間続いて戦争が第2の局面に移ったもの。その始まりを知ってほしい」というスロバキア人写真家のユライ・ムラヴェツ・ジュニア監督にオンラインで話を聞いた。(新聞うずみ火 栗原佳子)
ムラヴェツ監督は1987年生まれ。写真と映像を学び2010年からシベリア鉄道で旧ソ連の国々を旅し、人々の暮らしをカメラに収めてきた。13年にスロバキアの隣国ウクライナで起きた「ユーロマイダン」デモも取材した。
翌14年、親ロシア派のヤヌコヴィッチ大統領が国外へ逃亡。ロシアがクリミア半島を併合した。さらにウクライナ東部のルハンシク州とドネツク州で親ロ分離派が独立を宣言、ウクライナとの紛争に陥った。15年、ムラヴェツ監督はドネツク州で撮影を開始。紛争の渦中で何が起きたのか住民たちに話を聞いた。ウクライナ兵にスパイと間違えられ暴行を受けて拘束された炭鉱夫、村に取り残されたおばあさんは「プーチンに助けてほしい」と訴えた。
ドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」鬼才の軌跡たどる旅
1970年の大阪万博のシンボル「太陽の塔」で知られる芸術家、岡本太郎(1911~96)が旅した沖縄を舞台にしたドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄(完全版)」が大阪・第七藝術劇場で始まった。監督は葛山(かつらやま)喜久さん。日本中を旅した太郎がほれ込んだのは沖縄だけで、何がそこまで太郎を引き付けたのか、太郎にとっての沖縄とは何かを、太郎と同じ沖縄を歩く旅を通し解き明かす。(新聞うずみ火 栗原佳子)
岡本太郎はパり大学で民族学などを学び、帰国後、日本の原点をさぐった「縄文土器論」を発表した。各地で日本再発見の旅をし、最後に向かったのが米軍統治下の沖縄だった。1959年、10日間ほどの旅で那覇や読谷村、やんばる、八重山などを歩き回り、数百枚に及ぶ写真を残した。
96年には当時の論考が「沖縄文化論 忘れられた日本」として出版され、没後の2000年には写真集「岡本太郎の沖縄」が編まれた。
葛山監督はこの写真集を15年ほど前、偶然手にし、表紙の写真に心をつかまれた。白い髪をたばねた気品ある高齢の女性。沖縄本島知念岬の東に位置する久高(くだか)島で祭祀をつかさどる「ノロ」だ。太郎の7年後の再訪は、この島の12年に一度の祭祀「イザイホー」に合わせた取材旅行だった。
葛山さんも沖縄で、太郎がたどった土地を訪ね歩いて写真や映像に収めてきた。11年に太郎生誕100年の企画として写真集の軌跡をたどるテレビドキュメンタリーを制作、18年にドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」を発表した。復帰50年の今年、前作からさらに取材を重ね、再構成・再編集した「完全版」を完成させた。「太郎さんの存在を通して、見た方々も自分自身を見つめる感覚になるのでは」と葛山監督。
■むのたけじ平和塾
7月の参院選で改憲勢力が3分の2を超えたことを受け、武野大策さんが支援者とともに「むのたけじ平和塾」を立ち上げる。
「父・むのたけじは『戦争はいらぬ、戦争をやらぬ世にしたい』と思い、語り続け、2016年8月21日に亡くなりました。101歳でした。それから6年、父の思いと違う方向に進んでいるように思います。とりわけ、ロシアとウクライナ戦争が起こり、核戦争さえ危惧されます」
むのたけじさんが生前、反戦のために訴えていたことをもう一度読み直し、自分たちの行動を考えていきたいと思い、平和塾の設立を思い立ったという。
平和塾の第1回は10月10日(月・祝)午後1時半~東京都文京区民センターで開催する。「むのたけじ平和塾」(090・4599・5314)まで。 (矢野)
■ネット銀行に挑戦
本紙にエッセイを連載中の坂崎優子さんが所属する「くらしの情報発信研究会(TIPS)」が9月25日(日)午後2~4時、講座「インターネットバンキングに挑戦~ほぼほぼわかるデジタル用語集を使って」をオンライン(Zoom)で開催する。
「ネット専用銀行が身近になった今、既存の銀行は店舗やATMの数を減らし、インターネットによる金融サービスの提供に力を入れています。講座では『デジタル用語集』を使ってインターネットバンキングに挑戦するための知識と、消費者トラブルを防ぐ方法についてお伝えします」と坂崎さん。講師はファイナンシャルプランナーの中村典子さんで、参加費は無料。
定員50人。9月17日(土)までに①氏名②電話番号③メールアドレスを明記し、島津さん(west-tips@nacs.or.jp) まで。 (矢野)
■「轟音」上映と講演
趙博(チョウ・パク)さんが主催する「映画『轟音』上映会と古久保健さんの講演会」が9月3日午後2時~大阪市北区のPLP会館5階で開かれ、「新聞うずみ火」も共催する。
映画の舞台は和歌山県田辺市龍神村。1945年5月、B29爆撃機が墜落する。当時、小学2年だった古久保さんは幼心に衝撃をもたらす。退職後、父が戦死した中国を訪ね、龍神村に墜落したB29の遺族を探し始め、遺族と対面する。
趙さんは「地球環境破壊と核汚染はもうこれ以上猶予を許さない事態にまで達しているのに、日本では戦争を仕掛けようとする動きが加速している。そんな時代だからこそ、皆さんとこの映画を見て、ともに考え、ともに感じ合いたいと思います」と語っている。
前売1800円(当日2300円)をご希望の方は新聞うずみ火まで。(矢野)
日銀と国に分け、出口戦略を模索してみます。以下、財務省、日銀の資料を引用。 国債残高 短期を除き、2022年度末には1026兆円の見込み。10年以上の長期国債は780兆円(76%)。うち特例公債(赤字国債)は708兆円(69%)。GDP(国内総生産)対比で、21年度は256・9%。
日銀 債務超過になると、通貨の信用が崩壊します(大幅円安)。異常な金利抑制(特に長期金利)を止めて、都銀、地銀、信金、信組など間接金融の正常化を図ることが大切です。債券は、金利が上がると、価値は下がります。
控えめな民間試算でも、保有する国債に含み損の可能性を示唆(6月28日付日本経済新聞)。日銀の当座預金(民間金融機関の預け入れ金)563兆円(3月末)も懸念材料。0・5%の利息をつけると逆ザヤになるとの試算も。保有するETF(株の集合体)は「13兆円の含み益がある」(黒田総裁)(21年1月27日付日経新聞)とか。またREIT(不動産信託)にも数兆円の含み益があるとのこと。22年3月末の決算では、ETF35兆円、REIT24面6000億円を簿価で計上。もし、含み益が事実であれば、国債保有の圧縮(テーパリング)が可能です。
取材の最後に、「愛楽園には交流
会館ができていて、歴史や証言が展
示されているんです」と話すと、艶
子さんは自治会の社会学習で機会が
あれば訪ねたいとのこと。鈴木陽子
さんからの問い合わせもいいですよ
とOKをいただいた。
沖縄民謡の方の慰問が多かった
翌日、19日、鈴木さんに電話ーー
園の記録には1966年1月8日、
「でいご3人娘」慰問と出ていたと
のこと。民謡の方の慰問が多く、民
謡のレコードの作詞家として園の方
の名前が出ていることもある。「愛
楽音頭」も作詞は園の方で、作曲は
喜屋武繁雄さん、歌は砂辺民謡クラ
ブ。50~60年代の曲ではないかと思
うという。
砂辺民謡クラブも慰問に
鈴木さんと電話した後、何日か前
に約束していた知人のおばさんのお
家を訪ねた。彼女は仲村正子さん。
34年生まれで今、87歳。若いとき砂
辺民謡クラブで歌・三線をしていた。
民謡「吉屋物語」のツラネ(琉歌を
詠む部分)を担当した
人である。
鈴木さんから民謡の
方の慰問が多かったと
聞いたので、仲村さん
には、何も事前に話し
ていなかったんだけれ
ど、「愛楽園に慰問に
行ったのですか」と聞
くとすぐに喜屋武繁雄
さんと砂辺民謡クラブ
で2回慰問に行った。ステージで民
謡を歌ったという。
慰問は60年代のようで、そのとき
みんなで屋我地大橋のたもとで記念
撮影した写真も2枚あり、若かりし
頃のおばさんの写真を見ながら、園
のみなさんが喜んでくださったこと
を話していただいた。
さらにおばさんはよく覚えていて、
園の方の詞に喜屋武先生が曲をつけ
た歌があると写真の入った箱を探し
たら、「島の初春」(作曲・唄、喜
屋武繁雄と砂辺民謡クラブ)という
ガリ版刷りの歌詞の書かれた紙が出
てきた。
歌詞は三八六(さんぱちろく。八
八八六)の琉歌で5人の方の名前が
出ている。4番には、「屋我地春海
や池のごと静か、浮ちよる島々も影
ものどか」とあり、おばさんと5人
の方は園の琉歌を作るグループの方
だったのかなぁと話しあった。
沖縄民謡と愛楽園
仲松さんの著書の「復帰の喜び」
についての記述がきっかけで、艶子
さん、鈴木さん、仲村さんにお話を
聞くことができた。
沖縄民謡を歌っていたお二人は、
園のみなさんが喜んでくださったと
いい、園のみなさんが民謡を楽しみ
にされていたことがわかったし、そ
の思いに民謡をされていた方々が応
えて慰問に出かけた。園の方の詞に
曲をつけた歌を発表もしている。
お話を聞いて、60年代にすでに民
謡のみなさんは園のみなさんと交流
をしておられたんやなぁ(だなぁ)
と思ったのである。 (続く)
大正12(1923)年9月1日正午前、マグニチュード7・9の大地震が関東を襲った。関東大震災である。死者約10万人に及び、首都東京は壊滅状態となった。この自然災害に人災が加わった。朝鮮人暴動の流言が発生すると、警察庁はこれを事実とし厳戒を命じ、内務省は朝鮮人蜂起を全国に報じ、東京市と府下5郡に戒厳令を発した。在郷軍人会・消防団を中心に自警団をつくらせ、刀剣などで武装し、朝鮮人を捕らえ、暴行を加え虐殺した。軍や警察も社会主義者や労働運動家を危険視し、摘発や虐殺が相次いだ。無政府主義者の大杉栄と妻・伊藤野枝、甥の橘宗一が憲兵大尉甘粕正彦によって東京憲兵隊本部で殺害された。この時、警視庁官房主事として社会主義者への警戒・取締りを指揮し、朝鮮人暴動説を新聞記者を通じて流布させたのが、後に読売新聞社主となる正力松太郎であった。
震災は地を揺るがせただけではなく、大正という時代精神を揺るがせた。日本の国家権力がいかに粗暴極まりないか。同時にわが国の民衆がいかに排外主義に侵されているか。それから大正リベラリズムが底の浅いものであったかを露呈した。天災がもたらした被害は、ようやく芽生えようとしていた大衆社会的文化に大打撃を与えた。大正時代に始まった労働運動、軍縮論、婦人解放、教育を政府から民間に取り戻す運動などの動きを苦々しく思っていた勢力が、大震災を千載一遇のチャンスとして巻き返しを始めた。また、伝統的な文化や風俗が壊されていった。
新型コロナの第6波で、入院中の義父が院内感染したことは以前書きました。すぐに治療し回復したものの、その後は急激に弱ってあっけなく亡くなりました。高齢者などリスクの高い人にとってコロナ感染は命取りになります。
義父の直接の死因は誤えん性肺炎でしたが、死亡診断書にはコロナに感染したことも書かれていて、葬儀をお願いした業者から「コロナは治癒したと書いてもらう必要があります」と言われました。「コロナ」の文字が入っていると、普通の火葬ルートに乗せられない可能性があるからです。
コロナによって亡くなると、病院から直接火葬場に運ばれます。家族は最期のお別れもできないまま駐車場で待機し、お骨だけを受け取るというのです。それは避けたいと、担当医に「治癒した」という文言を付け加えてもらうようお願いし、何とか家族で見送ることができました。
お見舞いも最期のお別れもできず、無念だったご家族はたくさんおられたことでしょう。もっとやり方があるのではと思います。余談ですが、義父の入院費用の請求書が5カ月経っても届きません。公費部分の計算が遅れに遅れているからです。6波でこれですから、7波ではどうなっていくのでしょう。
さて、親が亡くなると悲しむ間もなく手続きに追われます。まずは口座の凍結。そもそもどこにどれだけあるのかすら、たいていの子どもは把握していません。
義父の場合、義母が健在でしっかり資産管理もしていたので助かりましたが、それでも凍結手続きは大変でした。必要書類が金融機関ごとに異なり、書類を受け取るだけでも手間がかかります。役所で発行してもらう書類も多く、実家が遠いとその往復も負担になってきます。
口座だけでなく、見つけにくい財産または債務がどこかに眠っている可能性もあります。何も聞かされていなければ、家をひっくり返して洗い出さなければなりません。私の親世代はデジタルとは無縁で、通帳など見える形のものが中心でしたが、今後はデジタル遺品も加わり、残された者はさらに苦労します。
そのためエンディングノートなどにまとめる人も増えてきました。とはいえ実際に書いてみると、今度はそれをいつ誰にどのように託すかという問題にも突き当たります。
私が所属する研究会では、昨年からデジタル遺品についての研究を始めました。まずは「デジタル生活の見直しチェックリスト」を作るため、内部でテストアンケートを行いました。「アカウントはいくつあるか」「ID・パスワードはどのように管理しているか」利用状況を探るつもりでした。ところが「アカウントって何?」「IDって?」」と。質問の意味がわからないという声が多く寄せられ、計画を見直すことになります。
まずはかみ砕いた用語集が必要だと、昨年『ほぼほぼわかるデジタル用語集』のデジタル版を、そして今年は紙で見たい人のために冊子を発行しました。デジタル終活に行き着くまでの道のりは長そうです。(フリーアナウンサー・消費生活アドバイザー)
祖母に届いた
息子の「辞世」
熊本県八代市 横林政美
終戦の日が巡って来ると、祖母は「戦争はしてはならない。若者が死んだりけがしたりするだけだ」と言っていました。
先日、分厚い一冊の本を見つけました。熊本県遺族連合会が1973(昭和48)年に刊行した「ひのくに殉国乃面影」。先の戦争で亡くなられた県内の1万数百柱の遺影、戦病死年齢などが記されていました。戦死者数の約85%が20歳代の青年で、私の叔父もその一人です。叔父は40年、21歳で出征し、朝鮮・龍山(ヨンサン)で待機。42年末、叔父の「辞世」の手紙が両親に届いていました。一部、原文のまま紹介します。
「三年間にして待ちに待った日来足り。非常に嬉しく、安心して一心奉公奮闘いたす。何時でも靖国の御魂となるも嬉しく待つ日なり。この体が、粉になるまで奮闘いたします」
43年にニューギニア戦線へ。44年3月7日に戦死。25歳でした。戦死の公報が一枚届き、遺骨は返ってきませんでした。
祖母は「辞世」の手紙が届き、「覚悟はしていたが、心の中でいろんなことが渦巻き、眠れぬ夜が続いた。息子を戦地に送ったすべての母親が、私と同じ気持ちだったのでは……。あの時代は本当の気持ちは言えなかった」と生前語っていました。
(息子の戦死を伝えられても母は涙を流してはいけない時代。もの言えぬ時代を再び招いてはいけませんね)
連日の猛暑。ここ数年、特に厳しくなっているようだ。外出する際には飲み物を持って出るのだが、足りなくなることがある。車いすで入れるトイレを探す手間を考えると、飲みたいだけ飲むわけにもいかないが、それでも喉は乾く。当初、自動販売機の前で立ちすくむことが多かった。かろうじてお金は投入できるのだが、商品を選ぶボタンに手が届かない。最初の2、3回はあきらめていたが、どうしても冷たいお茶が飲みたくなり、財布を縦長に持ってボタンを押したら思っていたより簡単に購入できた。悩むより試してみることが大切だと思い知らされた。
とはいえ、好事魔多し。両手の握力がほとんどないため、ペットボトルのキャップが開けられない。まあ、こんな時は受付の人に頼もうとお願いすると、大抵の場合、けげんな顔して一瞬固まる。それでも再度頼むと、快く開けてくれるのだが、キャップを開けてもらうことを恥ずかしいことだと感じる時もある。キャップも開けられないことを思い知らされるからだ。
そもそも、できないことは誰かに頼めばいいと言われるが、すべてを依頼するのはどうしてもためらってしまう。
まず、自分が頑張れば、周りの人に迷惑がかからないと家族に言われてきた。リハビリや車いすでの陸上競技の世界では、「頑張る」が美徳とされていた。こんなことが心の片隅に残っているのだろう。本来、頼みベタなのだ。
逆に、人の厚意は時として頭を抱えてしまうことになりかねない。先日もスーパーでアイスクリームを探していたら、見知らぬ人が「ちょっとどいて、取ってあげるから」と言いながらケースの前に立ち、4本ぐらいを買い物かごへ入れ、「これでいいでしょ」と去っていった。かごを見ると、どれも食べたいものではない。商品を落とさないように、ゆっくりとケースに戻し、好みのアイスクリームを手に取った。
世の中には手伝ってあげたいと考えている人がいる。ありがたいが、素直に喜ぶべきかどうか。自分の頭でわかっているが、気持ちが付いていかないことがある。
(アテネパラリンピック銀メダリスト・佐藤京子)
画家として絵本の挿絵も描いた俳優、米倉斉加年さんが戦争中の体験を絵本にした一冊です。作中の「ぼく」は米倉さん。国民学校4年生のぼくに弟が生まれます。父は出征しており、家族は祖母と妹も入れて5人です。食料難で、弟の大切な食べ物はわずかに配給されるミルク一缶。食べ盛りのぼくにとって欲しくてたまらない物でした。ぼくは何回もミルクを盗み飲みしてしまいます。やがて空襲がひどくなり、一家は山の中の親切な人に頼み込んで疎開します。母は辛いことがあっても、必死で家族を守ろうとします。やがて、弟は具合が悪くなり入院、ついに亡くなります。「母とぼくに見守られて、弟は死にました。病名はありません。栄養失調です……」。
若い頃、ぼくの気持ちに寄り添って読み進めましたが、娘が生まれてようやく気づき始めました。家族を一人で守り抜く強さ、どんな困難にも涙を見せない強さ。しかし、亡くなったわが子が栄養失調にもかかわらず小さな棺に入りきれず、「大きくなっていたんだね」と膝を曲げて入れた時に初めて泣いたこと。米倉さんは母親の様々な姿を愛情深く丁寧に表現しています。母の姿を通して親の愛情の深さに気づいてからは、この作品を最後まで読むのがつらくなりました。
弟が亡くなったのは終戦の半月前のこと。戦争のため、日本のあちこちで大人になれなかった弟たちがいました。しかし、米倉さんは「戦争は悲惨なものだ」として終わらせていません。あとがきで、「弟が死んだ太平洋戦争は、日本が始めた戦争なのです。朝鮮、韓国、中国、東南アジアや南方諸島の人たちを私達以上に苦しめたことを忘れてはなりません。そのことを忘れて、私達の平和は守られません」と結んでいます。この言葉までを私たちは共有していかねばならないと思います。(元小学校教諭 遠田博美)
栗原記者も懺悔の原稿を書いていますが、思いもよらぬ「うずみ火クラスター」でした。黒田さんを偲ぶ会のあとの懇親会。参加しますと手を挙げたのは11人だったのに、西九条の居酒屋に集まったのはその倍。案の定、翌日には参加者の一人から「今朝から身体がおかしいので検査キットで調べたら陽性でした」との連絡が入りました。▼濃厚接触者と思われる方々に連絡を入れましたが、時すでに遅し。2日後には家族を含めて10人近いコロナ感染が判明したのです。私も咳とのどの痛みに悩まされましたが、それぞれ症状には濃淡があるようです。▼3週間過ぎた今でも発熱と咳、倦怠感に苦しめられている人がおり、申し訳ない気持ちでいっぱいです。今回、感染させてしまった方々はもちろん、昼夜を問わず対応に追われている医療関係者や保健師さんに、心よりお詫び申し上げます。▼初めての感染で、新聞うずみ火も隔離から解放される13日まで手つかず状態。大幅に遅れるかもしれないと覚悟を決めた矢先、時事通信社解説委員の山田惠資さんからお見舞いがてら「吉田元首相の国葬の裏事情に詳しい人がいるよ」との連絡が。元参院議員の平野貞夫さんを紹介していただき、18日に千葉県柏市まで日帰り取材を敢行。今月号で紹介させていただきました。「閣議決定によって国葬を行うなど、言語道断。国会に事前の説明もなく、憲法を冒涜した行為だ」。平野さんの怒りが今も心に残っています。▼さて、新聞うずみ火の発送作業以外でお手伝いしていただける方を募集しています。宛名のラベル張りと新聞に折り込むチラシのセット作業。コロナ禍で恐縮ですが、お力添えください。 (矢)
7月6日(水)
矢野 午後、大阪市住吉区の市立東安孫子中学1年生の平和教育学習で講演「語り継ぐ大阪大空襲」。
7月7日(木)
矢野 午後、JR東海労働組合新幹線関西地方本部の「第28回定期地本大会」に、定岡由紀子弁護士と出席、来賓あいさつ。
7月8日(金)
矢野 枚方市立楠葉中学校の平和学習。新型コロナの感染防止のため、一つのクラスで行った講演を他の教室と結んだオンライン授業。午前は1年に「大阪大空襲について」、午後から2年に「沖縄戦について」、3年に「世界紛争について」話す。講演中に安倍元首相が銃撃されたとの一報が入る。
7月9日(土)
矢野、栗原 翌日の参院選投開票に向け、注目選挙区の一つ京都市内で取材。
7月10日(日)
安倍元首相が銃撃され死亡する衝撃の中で行われた参院選は自民党の圧勝。改憲勢力が3分の2を超える結果に。
7月11日(月)
矢野 午前、豊中市立第七中学3年に平和学習「大阪大空襲」。視聴覚室とオンラインで結んだ他の教室の担任から「うちの子どもたちにも一言お願いします」と言われ、各教室を回ることに。
7月12日(火)
矢野、栗原 午前、安倍元首相が銃撃死した現場を取材。5分ほど歩くと「世界平和統一家庭連合」の支部が…。
7月14日(木)
矢野、栗原 午後、関西学院大法学部の冨田宏冶教授に参院選について話を聞く。「野党共闘に期待した人が失望した結果」
次回のうずみ火講座は9月3日(土)午後2時半~大阪市中央区谷町のターネンビルNO.2の2階会議室で開講します。講師は「NO!大阪IRカジノ」の呼びかけ人の一人で前堺市議の野村友昭さん。演題は「大阪カジノ誘致を止めるために」(仮題)です。
大阪府と市が進めるカジノを含む統合型リゾート(IR)をめぐり、誘致の是非を問う住民投票を求めた直接請求は7月29日の臨時府議会で大阪維新の会と公明党が反対し、否決されました。吉村知事は住民投票条例案を提出する際に「住民投票を実施することには意義がない」との意見を添え、21万筆を超える民意がわずか半日で門前払い同然に退けられたのです。
これであきらめるわけにはいきません。大阪府・市が提出した区域整備計画を、政府が認可しないためにどう訴えていけばいいのか、まさに正念場です。あらためて、カジノ誘致によってもたらされる問題点を浮き彫りにし、次の一手を考えていきたいと思います。
資料代1000円(読者700円)。会場は地下鉄谷町線「谷町4丁目駅」から北へ徒歩2分です。