新型コロナウイルスに感染したのに自宅待機。娘たちが目にしたのは刻々と弱っていく父親の姿だった。入院できたのは1週間後。「絶対生還する」との約束を果たすことなく、父は逝った。娘たちは言う。「人命軽視の無策に憤りを感じている」。第4波の中、大阪府では10人に1人しか入院できない。自宅療養を余儀なくされる人は1万5000人を超えたままだ。
「元気に帰ってくるものと思っていました」
そう話すのは、次女の真希子さん(47)。三女の桃子さん(43)も「今でも信じられません」と言い、リビングの棚でほほ笑む父の写真に目をやる。
父の塩田一行さんは5月6日、新型コロナで亡くなった。74歳だった。
塩田さんは妻の朝子さん(73)と二人暮らし。1時間のウオーキングと太極拳が朝の日課。持病はなかった。
大阪府の大東市議を7期務め、治安維持法犠牲者国賠同盟大阪府本部の事務局長として活動してきた。感染には気をつけていたが、自宅から事務所へと移動する電車の中で感染したのではないかと、娘たちは想像している。
「いろいろな方の相談などに応じていました。入院する日もかかってきた生活相談に応じ、病院で引き継ぎの電話をしていたほどです」
塩田さんは4月4日ごろから咳が出るようになったという。
2日後の6日、朝子さんが発熱した。PCR検査で陽性が判明。中等症と診断され8日、塩田さんが自家用車で送り、大東市内の病院に入院した。
塩田さんは濃厚接触者として保健所から2週間の自宅待機を求められた。PCR検査は陰性だったが9日に発熱。翌10日、病院で受診した。せき止めと解熱剤を出された。
桃子さんは母が発熱する少し前に両親と食事したことで濃厚接触者と判定され、東大阪市の自宅で待機中だった。父親の症状が母親と同じだったので、コロナだと直感。一日も早く入院させなければ手遅れになると保健所に連絡し続けた。その日は土曜日。「PCR検査は週明けの月曜日に」と指示された。塩田さんの熱は39度近くまで上がり、歩くのもしんどそうだった。
週明けの12日午前、やっとPCR検査を受けることができた。しかし、夜になっても結果の連絡がない。桃子さんが病院に問い合わせると、保健所からの連絡を待つようにとの返事。真希子さんは仕事帰りに保健所に赴いた。業務は終了していたが、室内の電気はついている。裏口から入り担当者に検査結果を尋ね、陽性とわかった。
朝子さんの担当医師は「今なら病室が空いており、もし陽性なら受け入れることができる」と話していた。「レムデシビル」の投与などで母は快方に向かっていた。父にも早く投与してもらいたい。「母の病院へ今からでも入院できるのなら連れていきます」と訴えたが、保健所は「病院側も夜だから受け入れは難しい」と自宅待機を指示した。
「父も39度の高熱とせきに苦しめられて食欲もなく、しかも一人だから心細かったと思います」。感染の恐れがあり、看病できない。せめて父を早く入院させてほしいと、保健所に何度も懇願したが、返事はつれないものだった。
「心苦しいですが、お父さんよりもっと重症の人がいます」。 入院基準は酸素飽和度「95」以下。このころ、計測するたびに塩田さんは「96」だった。
保健所の業務がひっ迫していることに理解を示しながらも、桃子さんは「なんで酸素飽和度だけを基準にして放置するの。父を殺す気かと思いました」。13日、救急搬送を考えた。友人の保健師に相談したが、現状では病院も受け入れられないし、自宅に戻される可能性もあると指摘され、諦めた。
そうこうしているうちに朝子さんの入院先のコロナ病床も満杯になった。「もうこれ以上、父親を一人にしておけない」と、真希子さんは14日、感染の危険を冒して父を訪ねた。
「マスクを三重にし、ゴーグルと手袋、帽子をかぶり、防護服代わりに上下のヤッケを着て。15分以上一緒にいると濃厚接触者と判定されるため、ベランダとの往復を心がけました」と振り返る真希子さん。父は痩せ、処方された解熱剤も服用できなくなっていた。真希子さんは「コロナ症状のある高齢患者が一人で自宅待機するのは無理だ」と痛感したという。
15日、やっと入院できることになった。発熱6日目。酸素飽和度は93、高熱とせき、脱水症状も起こしており、中等症と診断された。真希子さんが入院に必要なものをそろえて再び病院に戻ると、車いすに乗せられて病室に向かう父とばったり会った。
「頑張って」と言うと「わかりました」とにっこり笑った。それが最後の別れになるとは、真希子さんは思いもよらなかったという。
17日には熱も下がり、呼吸障害もなく症状は落ち着いたかに見えた。後に携帯電話の通話履歴を見ると、何件も仕事の引継ぎなどの電話をしているほか、昔の友人と30分ほどしゃべっていたという。しかし、このころ娘たちは医師から「肺に陰影が広がっている。今は薄いけれど、濃くなったら危険です」と告げられていた。
18日には酸素飽和度が70台。20日は60台まで下がった。「必ず生還や」「まかしとき 生還間違いなし」。家族のLINEに送ったのが最後の発信になった。
23日、鼻から酸素を吸入。24日には重症病床に移り、2日後、人工呼吸器が必要となった。30日、家族は医師から「肺に穴が開いています。いつ何が起きても不思議ではありませんので、心の準備をしておいてください」と告げられた。入院22日後の5月6日午前3時34分、塩田さんは息を引き取った。
……
在留外国人の収容などを見直す入管法改正案をめぐり、政府・与党は5月18日、今国会での成立を断念した。一時は強行採決も辞さない構えだったが、入管施設収容中だったスリランカ人女性が死亡した問題について、野党側は真相究明を要求。外国人の人権を無視した入管制度への批判が広がり、多くの市民がノーを突き付けた。
昨年8月から不法滞在で名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ女性、ウィシュマ・サンダマリさんは、今年1月下旬から嘔吐を繰り返し吐血したが、入院などの措置はとられないまま、3月6日に亡くなった。33歳だった。
死因について、出入国在留管理庁は「調査中」としている。
体調不良を訴えていたウィシュマさんに、適切な治療は施されていたのか。ウィシュマさんの施設内での様子などを写した映像の開示などをめぐり、国会で与野党の対立が続いているほか、4月に出入国在留管理庁が調査の中間報告を公表した。しかし、名古屋の支援団体「START」(外国人労働者・難民と共に歩む会)は2月に診察した医師の診察記録と食い違いがあると指摘している。
「中間報告には、2月5日のウィシュマさんの診察の際に『医師から点滴や入院の指示はなかった』と記されているが、その日の診察記録には、医師が点滴や入院を指示する内容が記載されています。まさに虚偽報告です」
姉の死を受けて、妹のワヨミさん(28)とポールニマさん(26)が急きょ来日。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため2週間の自主隔離を経て、5月16日に名古屋市守山区の斎場で支援者の協力を得て姉の葬儀を営んだ。この日、ウィシュマさんの遺体と対面した二人は、変わり果てた姿に「姉でないようだ」と泣き崩れたという。
祭壇の中央に笑顔を浮かべるウィシュマさんの遺影が飾られ、白いひつぎが運び込まれた。葬儀はスリランカの仏式で執り行われ、遺族や支援者ら約80人が参列。スリランカ人僧侶がシンハラ語で読経を上げる中、ウィシュマさんに最後の別れを告げた。
喪主を務めたワヨミさんが「姉のために参列、支援してくださって感謝します。母も来たがっていましたが、来られず残念です。父が亡くなった後、姉は家族の支えでした。33歳の若さで亡くなってしまったことは信じられません」と涙ながらにあいさつした。
「姉が亡くなって2カ月、亡くなった理由について答えは何もない。姉が大好きな国で亡くなるなんて思いもよらなかったでしょう。耐えられなかったと思います。姉のように亡くなる人が二度と出ないようお願いします」
遺族代理人の指宿昭一弁護士は「遺族らはウィシュマさんの死の真相を知りたいと訴え、収容中の様子を撮影した監視カメラの映像を開示するよう求めています。ウィシュマさんがなぜ亡くなったのか第三者機関が真相究明すべきです」と話した。
…
『静かな時限爆弾』(広瀬弘忠著)の被害者対策は一歩前進したが、救済からこぼれ落ちる人がいる。潜伏期間が50年と言われる中皮腫。まだ効果的治療の見つからないアスベスト(石綿)由来の恐ろしい病気の発症者数のピークは2030年頃とされる。「日本史上最大の産業被害」(宮本憲一大阪市立大名誉教授)との戦いは終わらない。
5月17日、最高裁の正門前。全国各地の建設関連労組の幟などが立ち、別門からは雨模様にもかかわらず傍聴券交付に大勢の人が並んだ。
午後3時半、法廷から出てきた3人の若手弁護士が広げた垂れ幕は「最高裁判決 国、建材企業に勝訴」「一人親方も救済」「建材企業の共同不法行為を認定」とあった。
待ちわびた人たちから「よしっ」と声が出たものの大きな拍手などは起きなかった。ある程度予想されていた結果だったこともある。
アスベストを含む建材を扱い、中皮腫や肺がんなどで死亡した労働者の遺族や患者らが国や建材メーカーを相手に損害賠償を求めていた神奈川、東京(埼玉、千葉を含む)、京都、大阪の集団訴訟についてこの日、最高裁第一小法廷で初めての統一判決があった。個別には控訴審までに賠償などを認めており、最高裁の見解が注目されていた。
深山卓也裁判長は国がアスベストに関する規則(特定化学物質等障害予防規則)を改正した1975年10月から、改正労働安全衛生法が施行される直前の2004年9月までの間、国は防塵マスクを指導するなどの規制を怠ったと断罪した。さらに従業員のいない「一人親方」や未提訴の人も救済対象とした。メーカーにも共同不法行為として賠償を命じた。一家で大工仕事をし、夫の金雄さんと息子の誠さんを中皮腫で失った埼玉県の大坂春子さんは「皆さんの支援のおかげ」と感謝した。
しかし、屋外労働については「粉じんが希釈される」などの理由で救済対象から外れた。大阪訴訟の原告で夫の晃三さんを肺がんで失った山本百合子さん(72)は大阪高裁判決から逆転敗訴となってしまった。
「夫は積水ハウス製のスレート瓦を切断する仕事で毎日粉を浴びて体中真っ白でした。アスベストに関係がないはずがない。同じ仕事をしてどうして屋外と屋内を差別するのですか。夫の墓前にどう報告したらいいのか」と悄然としていた。
「責任を痛感し(中略)心よりお詫び申し上げる」
翌18日午前、菅首相は総理官邸を訪れた原告団代表らに深々と頭を下げた。宮島和男原告団長(91)=首都圏訴訟=は直後に参院会館で行われた報告会で「忙しい公務にも総理は一人一人に謝罪して下さった」と感激の様子だった。 この日夜、田村厚労相は宮島団長との間で、最大1300万円の和解金と補償基金創設などを盛った基本合意書に調印した。田村氏も原告団に丁重に謝罪、退室の際も宮島団長に駆け寄って頭を下げた。 小野寺利孝弁護団長は「これまでは敵だった国でしたが今後は共同して被害者を救済することになるはず。立法府も先送りせずに今国会で決める異例のスピードで進めてくれた」と評価した。
大きな成果に違いないが時間がかかりすぎた。08年の初の集団提訴から13年、今年4月時点の原告は約1200人だが、すでに原告団の7割が他界した。宮島さんは「13年は長すぎた。生まれた子が中学生になってしまう歳月です。その間に仲間は次々に死んでいった。5年、いや3年でも早かったらもっと生きている人がいたのに」と悔しがった。
建設アスベスト訴訟は13年かけて第1陣に決着がついただけで、今後も各地で提訴が予定されている。とはいえ、アスベスト対策は今後、司法の場から政治の場に大きく移ったと言ってよい。なぜなら、今回の最高裁の司法判断は「未提訴の人たち」の救済も提示したからである。
高齢者が裁判を起こすのは大変なことだ。これは公害事案などで前例のない英断だろう。
今年結成された与党のプロジェクトチームは被害者1人当たり最大1300万円の和解金を支払うことなどを提案していた。首相面談の前、小野寺弁護士は「建設従事者の命を奪い続けてきたアスベスト問題で国のトップとしてどう対応するかに迫りたい」と話していた。
……
高橋洋一内閣官房参与が5月9日にツイッターで、日本のコロナ感染状況は「さざ波」程度、これで五輪中止など「笑笑」と書き、大阪のABCテレビ『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』でも同趣旨の発言をし、批判を浴びた。加藤官房長官は個人の発言にコメントしないと答え、菅首相は「本人が謝っている」とごまかすが、高橋氏の認識を否定し、参与を辞めてもらうと言わないことを見ると、本音では「さざ波」程度とみているのだろう。だからコロナ対策が泥縄式になるのだ。
時系列で振り返ると泥縄ぶりが歴然、昨年末、また感染拡大し始め、年末年始の人流を止めるため「緊急事態宣言」を発すべきとの指摘があったが、見送った結果、正月休み明けから急激に拡大、1月8日に東京・千葉・埼玉・神奈川を対象に2月8日まで「宣言発出」せざるをえなくなり、拡大は首都圏だけではないとして13日には栃木・愛知・岐阜・京都・大阪・兵庫・福岡にも広げざるをえなくなったが、2月28日、大阪など6府県は抑え込めたと解除。首都圏は3月21日まで再延長したが、この頃、変異型の感染力が指摘され、すでに兵庫で確認されていたが、大阪の吉村・松井氏は楽観的に見ていた。
3月下旬になって大阪で急角度で感染拡大、医療崩壊が懸念されたにもかかわらず「まん延防止重点措置」で乗り切れると判断、4月1日に大阪・兵庫・宮城、9日には東京・京都・沖縄も対象としたが抑えられず、15日には大阪の感染者が1000人を超え、病床使用率も100%を超える医療崩壊事態となったが、菅首相はまだ「まん防」でいけると判断、16日には埼玉・神奈川・千葉・愛知を対象地域に加えたものの「緊急事態宣言」の再々発出は不要と判断していた。
だが、大阪や兵庫は一段と悪化し、東京でも感染が拡大したことから、東京・京都・大阪・兵庫を対象に4月25日から5月11日を期間として3回目の「緊急事態宣言」発出、人流抑制で感染抑制できると考えてのことだったが思惑は外れ、5月1日、大阪の医療は完全に危機的事態に陥り、2日には過去最多の感染者を出し、兵庫も過去最多となった。5月連休の人流を抑えれば歯止めをかけられるとの判断だったが完全に失敗した。 そして7日になって泥縄式に「緊急事態宣言」を31日まで延長、愛知と福岡も対象に加えたが、一向に抑えることができず、16日からはさらに北海道・岡山・広島を宣言対象に加えなければならなくなってしまった。
このような事態に陥ったのは、感染対策の基本である感染者を把握してしかるべき医療を実施するというイロハが行われず、ただただ営業制限・外出自粛・テレワーク・三密回避などといった間接的対策を国民に求めるだけだからである。専門の医師・看護師・技師、病院・病床・医療装置などが足りないのは予算を削り、国公立病院を減らしてきたからである。基本的対策すら実施しない菅首相、タレント気取りでテレビ出演して「大阪ワクチン・うがい薬」などパフォーマンスに終始し、また「二重行政解消」を叫んで病院を減らした結果、医療危機を招いたことに何の反省もないのではどうしようもない。いまや大阪の死者も、10万人あたりの感染者数も、日本で最悪である。
決め手だと言うワクチン接種は河野大臣のパフォーマンスだけ。医療従事者に対する接種は遅れに遅れ、後期高齢者に対する接種もネット予約はあっという間に終了、電話はまったく通じず、そんな中で住民そっちのけで我がちにワクチンを打つ抜け駆け首長たち、二階幹事長のおかげで和歌山だけはスムーズに進んでいるとウワサされるようではどうしようもない。東京・大阪での自衛隊による大規模接種は実は首相がこっそり準備してきた奥の手だとの報道が出ているが、改憲のためのコロナ感染と自衛隊の利用以外の何物でもなく、よこしまさにあきれ返る他ない。
こんな発想でコロナ感染を終息させることは到底できないにもかかわらずオリンピック・パラリンピックだけはしゃにむに開催しようとして、さらに多額の予算を使おうとしている。そんなカネがあるのなら、3度の緊急事態宣言によって失業・雇い止め・倒産などで追いつめられている人たちに生活援助すべきである。学校をやめざるをえない状態の若者や子どもたちを支援すべきである。経済は強くなったというのなら、誰もが満足な食事と住まいが確保されるべきだし、生理用品が買えなくて学校に通えない学生や生徒がいることについて政治の不十分さを恥ずべきではないか。
……
馬毛島は種子島沖合10㌔に浮かぶ無人島。無人島なのに島を十字に切り裂く2本の滑走路が建設されている。実はこの島、70年代に平和相互銀行が「レジャーランドにする」と土地買収を始めたが頓挫。この頃まで島には人が住んでいたが、土地買収が進み80年に無人島になる。その後、この島を買ったのが立石建設。子会社タストンエアポートを立ち上げ、島の森を伐採し、2本の滑走路を作った。そして2011年、日米の2プラス2協議の中で「FCLP(空母艦載機)の着陸訓練場」いわゆるタッチアンドゴー訓練の候補地となった。それから10年。種子島は訓練基地建設反対派と推進派に2分されてしまった。種子島は三つの行政区に分かれており、南部は宇宙ロケット打ち上げで有名な南種子町、中種子町を挟んで北部が西之表市。馬毛島はこの西之表市に所属し、1月には文字通り街を二分する市長選挙が行われ、144票差で基地反対を掲げる八板俊輔市長が再選されたばかりだ。
2月5日、西之表市の繁華街をブラブラ歩く。繁華街といっても高齢化と過疎に悩む島。商店街のシャッターは閉ざされ、コロナで飲食店も四苦八苦している。こんな中、私のような「アベ・スガ大嫌い反体制ジャーナリスト」が現場を取材すると、どうしても賛成派の意見を聞かないままルポを書いてしまう場合が多い。やはりここは賛成派の「苦渋の決断」についても取材するべきだろう。交差点にひときわ大きな「馬毛島の自衛隊誘致を真剣に考えましょう。尖閣と竹島を考えましょう。西之表と種子島の将来を考えましょう」という看板あり。「真剣に考えましょう」という姿勢がいいではないか。「よし、真剣に話を聞いてみよう」。勇んで事務所の扉を開けるもカギがかかっている。中をのぞくとコピー機や机、椅子が散乱している。再び街をさまよっていると市長選挙で配られたチラシを発見。4年前の市長選挙で次点に終わり、今回は途中で立候補を断念した浜上こう十さんの連絡先が書いてある。早速、自宅におじゃました。
浜上さんが基地賛成で選挙に立候補された理由は?
浜上「そりゃもう、基地交付金ですよ。新聞報道によると年間25億円、10年で250億円ですよ。西之表市の年間予算は130億円くらいです。だから25億もあれば、国保料や水道料金などを値下げできるし、道路整備なんかにも」
過疎が進んで、商店街も閑古鳥ですからね。
浜上「交付金に加えて自衛隊の宿舎ができるでしょ。そうなれば200世帯が種子島にやってくる。隊員に妻と子供が1人いたとすれば200×3で600人の人口増。これは誘致しないといけないでしょ?でもこのままだと西之表市に宿舎は建たない、市長が反対してるから。基地賛成の中種子町に持っていかれるんじゃないかな」
4年前の市長選挙は次点、今回は満を持しての立候補でしたね。途中で降りたのはなぜですか?
浜上「上の方から言われたから。私は自民党員で、42年間警視庁に勤務していました。組織がいかに大事か、身に染みて知っています。人事異動の命令を蹴ったら、組織に残れない。苦渋の決断でした」
……
「二度あることは三度ある」ということわざ通り、新型コロナウイルスの感染拡大防止をめぐり、3度目の緊急事態宣言が出された。これが「三度目の正直」となり感染拡大が収束に向かうかと思いきや、中途半端な期間設定が仇となり、延長を余儀なくされて現在に至っている。医療逼迫の状況は深刻で、日によっては150人近い感染者が亡くなり、中にはまともな治療を受ける機会を奪われて命を失った人々もいた。
国内で初めて感染者が確認されてから1年4カ月余りになる。昨年の同時期に発生した第1波から現在の第4波まで、新たな波を迎えるにしたがって被害が拡大してきたのは、変異株だけが原因ではない。感染の波を経験する度に、次に備える多くの教訓を得て対策を講ずる機会があったはずなのに、ワクチン接種のみを頼みに、ひたすら自粛を要請することに終始してきた政治の責任は重大だ。教訓を生かさず、社会的弱者に犠牲を強いながら国を動かすことしかできない現政権は、もはや「政(まつりごと)」を担う資格はない。
教訓を生かせない(生かさない)のは、新型コロナウイルスへの対応だけではない。多大な犠牲を払った福島第一原発事故の教訓もまた、為政者たちにとってはどこ吹く風……のようだ。4月28日、福井県の杉本達治知事は、運転開始から40年を超えた関西電力の美浜原発3号機と高浜原発1、2号機の再稼働に同意すると表明した。これを受けて関電は、美浜3号機を6月下旬に起動し、7月に営業運転を再開する方針だ。
福島第一原発事故後、国内の全原発が停止したが、12年7月の関電の大飯原発3号機を皮切りに、これまでに9基の原発が再稼働された。だが、美浜3号機などの再稼働は、これまでとは意味合いが違う。運転開始から美浜3号機は44年、高浜1号機は46年、同2号機は45年が経過した「老朽原発」なのだ。
12年6月、原子炉等規制法が改正され、以前は明確な定めがなかった運転期間について「発電用原子炉を運転できる期間は、使用前検査に合格した日から起算して40年とする」と明記された。ただし、原子力規制委員会が認めれば、例外として1回に限り、最長20年間の運転延長が可能とされている。40年という原発の「寿命」にはっきりとした科学的根拠はなく、海外でも多くの原発が60年運転を認めていることも事実だ。だが、原子炉が長年の使用によって劣化していることは間違いない。
事故のリスクがより高まった老朽原発を、なぜ「40年ルール」の例外規定を用いてまで再稼働するのだろうか。関電の理由は明白で、老朽化と事故対策を進めて審査に合格するために、美浜原発で2400億円、高浜原発で5400億円余りという巨費を投じているからだ。また、経済の大部分を原発に依存せざるを得ない状況に置かれている美浜町や高浜町は、町の活性化を理由に町議会そして町長が2月までに同意している。
一方、福井県は老朽原発の再稼働には、これまで慎重な姿勢を示していた。再稼働に向けた条件として、使用済み核燃料を県外に搬出するように求め、候補地の提示があってから議論を始めるとしたのだ。関電は実現を約束したものの、結局、昨年末に自力で提示することを断念した。そこで、国が中心となって青森県むつ市の中間貯蔵施設の共同利用案を提示したが、むつ市の宮下宗一郎市長が「受け入れの可能性はゼロ」と断言しているため、実現の見通しは立たないままだ。
同意に向けて事態が急展開したのは4月に入ってからである。杉本知事が6日、老朽化原発を再稼働すれば、国から県に最大50億円の新たな交付金が入ることを、県議会に提示したのだ。県議会は23日、再稼働を前提として国への要望をまとめた意見書を賛成多数で可決し、再稼働を事実上容認する。それを受けて、杉本知事の同意表明に至ったのであった。
同意の理由の一つとして杉本知事は「梶山経産相から、将来的にも原子力を活用すると言い切りの形で表明された」ことを挙げた。国の原子力政策の方向性が示されたことが大きいという。菅首相が、50年までに二酸化炭素を主とする温室効果ガスの排出を実質ゼロにすると宣言して以来、国、特に自民党内では原発推進の動きが活発化している。原発立地地域を支援する原発立地特措法の期限は今年3月末までだったが、直前に自民党の国会議員が中心となって、わずか7時間の審議で10年間の延長が決められている。
既存の原発の再稼働を含め原子力の有効活用を訴える「電力安定供給推進議員連盟」(細田博之会長)は、今年に入って活動を活発化させた。また、4月には原発の新増設や建て替え(リプレース)を求めて新たに「最新型原子力リプレース推進議員連盟」(稲田朋美会長)が発足し、安倍前首相や甘利元経産相を最高顧問に据えて活動を始めている。「懲りない面々」が、コロナ禍に人々の目が奪われている隙にうごめき始めた感じだ。
原子力規制委は、美浜・高浜以外に、日本原子力発電の東海第二原発も運転延長を認めている。このまま「40年ルール」が形骸化していけば、30年には全国で15基の老朽原発が稼働することになる。老朽原発の安全性は未知の部分が多く、事故リスクが高まるというだけではない。運転すれば、使用済み燃料がさらに増えるが、その対応は未定のままだ。何よりも、事故が起こった際の住民避難について、未だに十分な対策が確立していないのである。
新型コロナウイルスの感染状況について、内閣官房参与を務める高橋洋一氏がツイッターに「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」と投稿して大ひんしゅくをかった。そのような感覚で、福島第一原発事故の教訓を置き去りにして、利権を最優先に老朽原発の再稼働を続ければ、必ず近い将来に、笑い事では済まされぬ事態を招くことになる。
「防衛の空白を埋める」などとして政府が南西諸島で進めてきた陸上自衛隊ミサイル部隊配備。一昨年3月、基地が新設された奄美大島と宮古島では、なおも弾薬庫建設工事が続く。同時期に着工した石垣島では、コロナ禍の中、住民たちの反対の声を押し切って造成が進んでいる。
木製の糸車を手回ししながら、繭玉から伸ばした生糸を巻き取っていく。5月上旬、石垣市開南集落の農家を訪ねると、女性3人が座繰りといわれる糸引き作業の最中だった。この家の當銘光子さんは養蚕、製糸、島の草木による染色、織までの全工程を手掛けて30年以上になる。
石垣島はかつて養蚕が盛んな島だった。しかし、1980年代、輸入生糸によって価格暴落。そのあおりを受け、ほとんどの農家が転向を余儀なくされた。當銘さんはパイナップルやサトウキビと兼業しながら年に1回、春蚕を育て、伝統産業を守ってきた。
座繰りは、湯を張った大ぶりのボウルから、白玉のような繭を一つひとつ手で確かめながらの作業だ。生糸に適さないものは選り分けるが、今年はその量が膨大だという。生糸の質も量も不作で、當銘さんたちも落胆を隠せない。「こんなこと初めてです」
蚕は非常にデリケートな生き物だという。餌の桑に少量の農薬がかかったり、タバコや蚊取り線香の煙を吸ったりしただけで死んでしまうこともある。環境の変化で糸を吐くことをやめてしまうという。 因果関係はわからないが、大きな環境の変化といえば造成工事だ。一昨年3月に着工、この1年は、地中から掘り出される巨石を削岩機で砕く作業が行われていて、騒音は10㌔離れた市街地に響くほど。その工事現場の真ん前に當銘さんの家があるのだ。
日曜日のこの日は工事も休み。作業小屋に、糸車が回るカラカラという音が響く。養蚕専業時に建てた作業小屋。蚕が繭をつくるための格子型の「まぶし」もずらりと並んでいた。だが、中には、蚕が糸を吐ききれなかったのか、不完全な繭もある。方向感覚を失ったかのようにうごめく蚕たちが痛々しい。
「静かな場所で、と思ってここでやってきたのですが」と當銘さんと、夫の由彦さんはため息をついた。
……
森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、自殺に追い込まれた近畿財務局職員の赤木俊夫さん(当時54)が改ざんの過程を書き残したとされる「赤木ファイル」について、国が5月6日になって一転、その存在を認め、裁判に提出することを明らかにした。一方で、「黒塗り」などの処理を行うという。なぜ、全面開示しないのか。誰を守ろうとしているのか。疑念はますます広がる。
赤木さんの妻雅子さん(50)が国と佐川宣寿元国税庁長官(62)に損害賠償を求めた裁判で、原告側は赤木さんの精神的苦痛を証明するためにファイルの開示を求めてきたが、国は「争点に関係がない」と主張。これまでファイルの存在さえ明らかにしてこなかった。
しかし、大阪地裁が3月、存在するのなら提出するよう要請。5月6日までに回答するよう促されたことで、国側は対応を一転、初めてファイルの存在を認め、6月23日に開かれる口頭弁論に提出することを書面で伝えてきた。
国の書面によると、ファイルには改ざんについて時系列でまとめた文書や財務省理財局と近畿財務局との間でやりとりされたメール、その添付資料がとじられている。
ただ、提出範囲について、「本件訴訟とは直接の関係が認められない第三者の個人情報も含まれているので、マスキング処理をする」という。その範囲について、国側は「できる限り狭いものとする予定である」と記している。雅子さんの代理人・生越照幸弁護士は記者会見で「文書の存在を認めたことは評価できるが、どの範囲で開示するか注視している」と語った。
そもそも非公開にするかどうかは、国ではなく、裁判所が判断すべきではないのか。
森友問題への国有地売却問題が明るみに出たのは2017年2月8日、大阪府豊中市の木村真市議が国有地の売却価格が明らかにされないことを不審に思い、情報公開を求めて提訴。森友学園が新設する小学校の名誉校長には、安倍首相(当時)の妻昭恵さんが就任していた。
鑑定価格9億円余の国有地が8億円以上値引きされていたことが判明。同年2月17日の国会で、当時の安倍首相は「私や妻が関係していれば、首相も国会議員も辞める」と答弁。1週間後、財務省理財局の佐川局長(当時)は「撤去費用は適正に算定されたもの」などと説明し、森友学園との交渉記録は「廃棄した」と答弁。2日後の26日、改ざんが始まった。
改ざんの経緯について、財務省は18年、調査報告書を公表したが、改ざんは、誰が何のため、具体的にどう指示したか、詳細は不明のままだ。
昨年暮れ、MBSラジオ「ニュースなラヂオ」で雅子さんにインタビューした際、俊夫さんが自ら命を絶った時に救急車でなく、110番した話をしてくれた。それはなぜ、と尋ねた私に「殺されたと思ったから」。誰に?と問いかけると、雅子さんはこう言った。「国に、です」
真相解明には全面開示が必要だ。
1967年10月8日、羽田空港近くの橋でベトナム反戦を訴える学生たちと機動隊が激突、18歳の京大生、山崎博昭さんが命を落とした。その死と「10・8羽田闘争」の全貌に迫ったドキュメンタリー「きみが死んだ後で」が5月下旬から大阪、京都で上映がはじまる。「三里塚に生きる」「三里塚のイカロス」を手掛けた代島治彦監督が、 山崎さんの死を内包して年を重ねた高校の同級生ら14人にインタビュー、「あの時代」とその後を重層的に浮かび上がらせた。
山崎さんは大阪府立大手前高校時代から反戦運動に参加した。学生運動での死亡は60年6月、安保闘争で東大生の樺美智子さん(当時22)以来だった。山崎さんの死は同世代の若者に大きなショックを与え、この闘争をきっかけにして学生運動は激しさを増していった。
2014年、山﨑さんの志を語り継ぎ、60年代から70年代の反戦運動を現代の新たな糧にしたいと、高校や大学の同窓生らが「10・8山崎博昭プロジェクト」を結成、鎮魂碑建設や書籍化などが進められた。映画もその一環だ。
代島監督は58年生まれ。少年時代、ベトナム反戦を訴え革命を目指して戦う「かっこいいお兄さんお姉さん」に憧れたという。「全共闘世代がこの世からいなくなったら、連合赤軍事件の悲劇だけが後世に語り継がれていくのでは」という危機感を抱いていた。 作品は上下巻あわせて200分という長編ドキュメンタリー。山﨑さんの死因をめぐっては、機動隊の装甲車にひかれたのか、頭部を乱打されたのか情報が入り乱れいまに到る。代島監督は家族の証言や当時の映像などを交え、検証を試みた。
5月28日から京都シネマ、29日から大阪・第七劇場。全国でも順次上映。
ハンセン病医療に生涯を捧げた医師・小笠原登の記録映画「一人になる 医師小笠原登とハンセン病強制隔離政策」が6月5日から大阪・シアターセブン、6月12日から神戸・元町映画館で上映される=写真=。
国は1907年に「らい予防に関する件」を制定、ハンセン病患者を強制隔離する政策をとり、それは96年の「らい予防法」廃止まで89年も続いた。小笠原は昭和初期の医師。ハンセン病は強烈な伝染病でなく隔離は必要ないと言い続けてきた、ハンセン病患者や家族が差別と偏見にさらされてきた歴史とともに、「一人になる」ことを恐れず、医師として信じる道を進んだ小笠原の生きざまを描く。
シアターセブンでは6月4日、髙橋一郎監督、ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会会長の宮良政吉さんらのシンポも(緊急事態宣言が延長の場合はシンポは中止)。
地政学 アフガニスタン、バングラデシュ、ブータン、インド、モルディブ、ネパール、パキスタン、スリランカの8カ国です。総面積は448万平方㌔㍍(日本の13倍)。スリランカ、モルディブはインド洋の島国です。総人口は約17億人で、2050年には22億人に急増すると予想されています。面積、人口ともインドが大半を占めています(人口は約8割の13億5000万人、面積は7割の328万平方㌔㍍)
現代史 1947年、英国領インド帝国からインド(ヒンズー教)、パキスタン(イスラム教)、ミャンマー、スリランカなどへ分離・独立し、71年に東パキスタン(イスラム教)がバングラデシュとして建国しました。大きなキーワードは、インドとパキスタンの関係。当初はカシミールの帰属、次にアフガニスタンが絡み、インドとパキスタンは3度の紛争を経験し、今も険悪なままです。ロシアや米国、中国の思惑が入り交じり、複雑な様相になっています。
共通する特徴 英国の影響を受け、インドは議会制民主主義の国ですが、ASEANを含めて大半の国は、軍部を中心とした中央集権の独裁体制です。欧米やASEAN諸国などの資金・技術や投資などを呼び込むため、政治経済の安定は欠かせませんが、民主化とは裏腹の関係にあります。以下は、主要な国々の事情です。
インド 非同盟、中立の姿勢を貫いてきましたが、中国との関係で微妙な立場にあります。食料の自給率が高い農業大国ですが、9割の農民は零細です。石油製品の輸出やオートバイ、自動車、鉄鋼、IT技術に力を入れています。ただしカースト制度が根底にあり、教育も貧しく、女性蔑視や貧富の差など、大きな社会格差があります。また金融も含めて公共インフラが機能していません。核保有国です。
パキスタン 英国の自治領でしたが、軍事クーデターを繰り返し、内部抗争が続いています。78年に隣国のアフガニスタンが社会主義体制に移行。イスラム原理主義の浸透を恐れたソ連が軍事介入し、イスラム義勇兵ムジャーヒディン(後のタリバン)の活動も激しくなり、米国の支援、インドのタリバン支援、対峙する中国の全面的な援助もあり、今では中国と親密な関係に。部族制社会。インドに対抗し核保有国です。
アフガニスタン パキスタンに併合されていましたが、60年に独立運動が始まり、78年に軍事クーデターで社会主義政権へ。長期間のアフガニスタン紛争がやや収束し、2020年、米国とタリバンとの和平合意が成立しましたが、混乱は続きます。
アジアから学ぶ 1868年、明治維新で薩長を中心とした軍部中心の体制に。以来、膨張し続けて第一次、第二次世界大戦につながり、1945年まで76年。米国により軍事体制が解かれ、天皇制を温存して反共国家となり、77年が経過、今日に至っています。隣の韓国や台湾も同様の経緯で、軍事体制から民主国家になりました。長州閥の流れを汲む岸信介、佐藤栄作(弟)、安倍晋三(孫)と保守政権が続く。ジェンダーギャップ世界120位、報道の自由67位。日本の指導者層で最もリベラルな考えの持ち主が今の天皇家。これが我が国の現実です。
全軍労(全沖縄軍労働組合)が結
成されたのは1961年。ピーク時
の69年には組合員22000人に達
する沖縄県下最大の労組となった。
全軍労闘争
全軍労は基地労働者を労働3法の
適用外とする米軍布令第116号撤
廃と大幅賃上げなどを要求して、68
年に初めて10割年休闘争を行うなど
活動を活発化。その後、ストを打つ
ようになっている。
屋宜さんも支援に
「ストのとき、牧港の米軍基地ゲ
ート封鎖に参加した。民間労組から
の支援ということで、1号線(現58
号線)の屋富祖あたりだったと思う。
ゲートの中では米兵が銃剣を構えて
おり、1号線から米兵がジープで屋
宜さんたちに突っ込んできて、急ブ
レーキをかけるなど威嚇を続けた。
全軍労ストは基地機能が止まるの
で、米軍にとってはこわかった。
ベトナム戦争のとき、基地労働者
が米兵の遺体収容に派遣されかけた
が、戦争に巻き込まれると止めたこ
とも。盛り上がった」
……
ちょっと下ネタです。けど、ほんのちょっとだけ。日々奮闘しているお医者さんへの当て付けではないので、お付き合いのほどを。
患者のいない藪医者の家へどういうわけか、江戸八丁堀の伊勢屋という大店から迎えがやってくる。娘が長患いで診てもらいたいと。医者は診て、気うつという病気だという。毎日往診してくれ、だんだん良くなってきた。伊勢屋の主人が娘が良くなったのはなぜかと聞くと、実は娘さんをおかしがらせるため、立膝をしてふんどしの脇から睾丸を半分見せたのだという。聞いた主人、自分もやってみようと、娘の前で睾丸を出した。娘はまさかと思った父親が出したので大笑い。途端にアゴが外れてしまった。「先生大変です」「どうしました」「少したくさん見せたので、娘のアゴが外れました」
「そりゃあ、あまり薬が強すぎました」
こういう一連の噺を破礼噺(バレばなし)といい、あまり高座ではやらない。ごく内密の会や、宴会など酒の入った場所でホン軽く演じられる。中にかなりエッチな噺もあるが、これらこそ滅多に聞けない。
江戸時代の医者はまあええ加減やったみたい。幕府の奥医者などは学問もして研修も積み、しっかりとした見識も備え、また、長崎などで西洋医学を学んだ医者もいたが、数は少なかった。江戸時代初めはひどく、五代綱吉はひいきの能役者を奥医者にしたり、田沼意次は妾の縁類を奥医師に推挙している。が、こんなことは寛政時代にはほぼなくなったという(三田村鳶魚全集)。
……
わが国の活動写真が欧米の作品を上映するだけではなく、自ら映像を作り出した明治43(1910)年。日本を、特に文化人たちを震撼させる出来事が起きた。大逆事件である。思想家でアナキスト、ジャーナリストの幸徳秋水が「明治天皇暗殺」の罪で逮捕。続いて全国各地で社会主義者、無政府主義者ら数百人が検挙された。端緒は長野県明科の職工宮下太吉による爆裂弾製造所持の発覚だった。政府は天皇の暗殺を企図したとフレームアップ。幸徳ら社会主義者らの根絶を計った。法廷は非公開で1人の証人尋問も許さず短期間で終え、幸徳以下24人の死刑、2人の有期刑を判決。うち12人は、わずか6日後に処刑された。以降、社会主義運動は冬の時代を迎える。
事件は森鴎外や夏目漱石ら多くの文化人に深い影響を与えた。石川啄木は『時代閉塞の現状』を著し、反動的・抑圧的潮流によって窒息させられた時代を批判し、そこからの脱出を必死に模索し、「我々青年を囲繞する空気は、いまやもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行亘っている」と述べ、「全精神を明日の考察ーー我々自身の時代に対する組織的な考察に傾注しなければならぬのである」と未来に向けての全力を賭けた考察だった。
大逆事件によって、坂の上に駆け上がろうとした「若い健康な日本」は終わりを告げた。文化人=知識人に大きな影を落とした大逆事件だったが、勃興する活動写真の世界には大きな影響は与えなかった。まだ映画は青春の途上だった。いや、それ以上に映画評論家の岩崎昶が回想するように、「貧しい国であった、日本は。/そしてカツドウシャシンは貧しい国の貧しい芸術だった」(『映画が若かったとき』)と書いたように「貧しい芸術」であったカツドウシャシンには様々な人たちが集った。
放浪芸を始め、もともと日本の芸能の多くは差別されている人に担われてきていた。ヤクザや社会的に差別されている人、学歴のない人など、他の社会より映画界の受容度は広く、むしろ活力源とした。役者たちも桧舞台に立てる人々ではなく、そこからこぼれ落ちている人、地方回りの芝居の人がほとんどだった。
監督たちも同様だ。家が貧しく小学校にもいけなかった、あるいは小学校だけの稲垣浩、溝口健二、新藤兼人。中学中退の内田叶夢。中卒で働いていた黒澤明や伊藤大輔、伊丹万作、山中貞雄。諸事情で進学できなかった衣笠貞之助、成瀬巳喜男、小津安二郎、吉村公三郎、マキノ雅弘、木下恵介など、多くの後の名監督がいた。彼らは大学で西洋文学を学んだことはなかったが、決して無教養ではなかった。「いずれも私塾などで漢文を学び、講談や浄瑠璃や落語を創作した江戸時代の作家たちにつながる伝統的教養を持っていた」(佐藤忠男『日本映画史1』)
それ以上に世間の塵労垢染のなか、生活者たちの暮らしや心情を我が身で体験していた人々だった。
東洋経済の「益子直美さんがミズノの大会に違和感を抱く訳」という記事を興味深く読みました。
元バレーボール選手の益子さんは、指導者は怒ってはいけないというルールのもと「益子カップ小学生バレーボール大会」を開催しています。違反した指導者とは会話を重ねながら、正しい指導法に導いていくというのです。
この大会をまねて、スポーツメーカーのミズノが小学生向けの野球大会「絶対に怒ってはいけない野球大会」(その後大会名を変更)の開催を発表しました。ところが内容は「益子カップ」とは似て非なるものでした。
本家の益子カップは怒らないだけでなく、規模も小さくし、どのチームも同じ数の試合を行うリーグ戦方式にするなど、勝つことが目的にならない工夫がされています。ミズノの大会はトーナメント制の全国大会で、高校野球の小学生版。益子カップとは真逆です。
痛ましい事件を教訓に、スポーツ界から暴力をなくそうという動きは広まっています。ただ実態は、身体的暴力は減ったものの暴言などのパワハラは逆に増えていて、指導者は変わっていないようなのです。
私の息子は小4から選手コースで水泳競技をやっていました。引っ越しで五つのクラブを転々としましたが、社会人になった今でもつながっているのは、選手コースに初めて入ったクラブの仲間やコーチです。
選手コースに誘われたのは小3。練習時間と大好きなアニメ番組が重なり、悩んだ彼は「番組が終わったら入る」と返事しました。コーチは大笑いしながら「最終回まで待ちます」と言ってくれました。みんな入りたくて仕方がない選手コースをアニメを見るために先延ばししたのはうちの子が初めてだったそうです。
選手コースに入ってからも「水泳以外の外遊びや他のスポーツもどんどんやるように」「バランスよく食事を」など、成長期の子どもに配慮した指導に徹していました。お楽しみ会など遊びの会も多かったですし、何より試合後はいつも褒めてくれました。
……
精神病で隔離され
早世した由治伯父
埼玉県 野沢栄一
31年前に亡くなるまで父は一女四男の次男坊と心得ていた。だが相続の都合で戸籍謄本を入手し、一女五男の三男だとわかった。大正10年生まれの伯父の上に「由治」という長男がいたのだ。どうやら精神の病で入院。「昭和18年10月26日午後6時50分に死亡」とある。大正7年3月26日生まれだから25歳7カ月で早世したことになる。
伯父の存在について、父母はもとより父方の親戚からも聞いたことがなかった。5年ほど前、割に気さくに話せる五男の叔父に尋ね、次のような諸事情が判明した。
「母屋の北西の角部屋に便所を設け、中から出られないよう改造して鍵をかけ、外から食事を与えた」「その『座敷牢』に居たり居なかったり。居ない時は精神病院に入院していたかもしれない」「由治兄さんは居室で、当時流行っていた歌をいつも口ずさんでいたのをよく覚えている。おとなしい人だった」「葬儀は身内ですませた」
新聞うずみ火5月号で、精神病者監護法のことを知りました。身につまされる思いで読みました。戦時下、父は甲種合格で陸軍へ。戦後、シベリア抑留からダモイ(帰還)を果たします。由治伯父は「夜明け前のうた」は歌ったものの、ついに夜の明けることはなかったのか、と。
(精神障害者を自宅の一室や敷地内の小屋などで監禁する「私宅監置」が禁止されたのは1950年ですが、半世紀以上たった今も完全には過去のものとはなっていません。病気や症状が落ち着いてからも自宅に戻れず、長期入院せざるをえない「社会的入院」という問題が出ています)
……
パソコンを打つ傍らで、寝息を立てている介助犬ニコル君。パソコンを操作していると、いつの間にかトコトコとテーブルの下に来て丸まって寝る。ベッドでパソコンを用意すると、これまたトコトコとやってきて隣に来て丸まって寝る。別に困ったことがあれば、呼べば来るので、ハウスで休んでいたら良いのにと思うが、傍らにいる温もりを感じているのは悪い気はしない。
介助犬は飼い主といつも一緒であることが原則ではあるが、家の中では割と自由に暮らしている。だから、休んでいる時には、こっそりとテーブルで事務仕事をしたり、Zoomで会議に参加したりしているが、気が付くと足元で寝ている黒い物体がいる。それもイビキをかきながら。そんな姿や行動の一つ一つが愛おしい。
ニコル君を我が家に迎えて6年が過ぎた。9歳になった彼は落ち着いて、おじいちゃんのような犬だった。それが年を重ね本当のおじいちゃんになったが、頑固で甘えん坊のままである。いつの頃からか体のどこかしらくっつけてくるようになった。介助犬は引退の目安が10歳だ。先日、ニコル君の引退後のこと、新しい介助犬を希望するかの話し合いが行われた。何とも言えない複雑な気分の中で、話し合いは行われた。足元にはいつものようにニコル君は丸くなっており、そんな中で未来の話をするのだからせつない。 なぜ10歳で引退かと言えば、ラブラドールレトリバーの寿命が約15年。ギリギリまで仕事をさせる訳にはいかない。元気なうちに引退させて、老後の面倒をみてくれるボランティアの所で過ごすためだ。反論はないが、一緒に暮らした相棒と別れるのは寂しい。引き取ることも可能だが、一人暮らしの自分には老犬となっていくニコル君の面倒を充分にはみてあげられない。
ただ、運の良いことに引退後はニコル君を1歳まで育ててくれたパピーウォーカーさんの家に帰れそうだ。育ての親から飼い主へ、引退後のお家と渡り歩くことが多い中で、子犬の頃に生活をした環境に戻れることは、犬にも負担が少ないのではないだろうか。そうあってほしいと思っている。
残り1年のニコル君と暮らす生活は一つひとつが最終回になる。悔いのないように、日々を当たり前のように暮らし、思い出を作っていき、ケガや病気のないようにして引退する日を迎えたい。
(アテネパラリンピック銀メダリスト・佐藤京子)
4月5日(月)
矢野 夜、MBSラジオ「ニュースなラヂオ」。特集で、新型コロナ禍で進むデジタル改革推進法案について、海渡雄一弁護士に電話で話を聞く。「10分で現在を解説」は上田崇順アナウンサーがミャンマーの現状について留学生にインタビュー。矢野は大阪の広域一元化条例を解説。
4月7日(水)
矢野 夕方、来社した大阪日日新聞編集委員の木下功さんから「大学での講義を持つことになりました」とアドバイスを求められ、関大非常勤講師時代を振り返りつつ、話題は維新政治に。
4月9日(金)
高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。
4月14日(水)
西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ!ラジオ・DE・しょー!」に電話出演。
4月17日(土)
午後、「路上のラジオ」主催の連続講演会が大阪市立天王寺区民センターであり、評論家の佐高信さんが「菅首相の10の大罪」と題して講演。終了後、佐高さんを囲み、西谷、矢野、毎日新聞の亀田早苗記者と打ち上げ。
4月18日(日)
矢野 昼、神戸市長田区で、「ミャンマー関西」代表の楢原信男さんから紹介してもらったミャンマー人留学生3人に話を聞く。クーデター後、家族と連絡が取れない人も。
4月20日(火)
昼前、足立須賀さんが来社。手土産の韓国海苔巻きキンパが昼食に。助かりました。
4月21日(水)
午前、工藤孝志さんが来社。折り込みチラシのセット作業。
4月23日(金)
夕方、新聞うずみ火5月号が届き、発送作業。小泉雄一さん、樋口元義さん、多田一夫さん、康乗真一さん、大村和子さんに加え、金川正明さんが参加。郵便局の回収前に作業完了。お疲れさま。
高橋 朝、和歌山放送ラジオ「ボックス」出演。
4月24日(土)
矢野 午後、大阪市生野区のKCC会館で開かれた阪神教育闘争73周年記念集会「朝鮮学校閉鎖令とは何だったのか」を取材。
4月25日(日)
矢野 午後、大阪市北区のPLP会館で開かれた「とめよう改憲!おおさかネットワーク」主催の憲法講演会「日本学術会議『任命拒否』を問う」を取材。任命拒否された一人、立命館大教授の松宮孝明さんは「菅政権はとんでもないところに手を出してきた」
……
『時代を撃つノンフィクション100』(岩波新書)にも引いたが、佐木隆三が「琉球新報」の記者と一緒に、沖縄で親しくなった娼婦と話していたら、突然、彼女がこう言ったという。
「私もう、ものすごく頭にきたことがあるんだ。『琉球新報』に投書させて」
その記者が「いいよ」と応ずると、彼女は「それで、いくら」と聞く。佐木たちは、原稿料のことかと思って、とまどっていたら、彼女は逆に、いくら出せば載せてくれるのかと尋ねていたのだった。
……
私はジャーナリズムの世界とは関係なく今まで生きてきました。それが、ジャーナリストである父・むのたけじが年老いて面倒を看るようになったとき、父からの一言が状況を変えたように思います。今のジャーナリズムの有様を見て、「たいまつ新聞」を何号か発行して、新聞の本来の姿を示してから死にたいから手伝ってくれと。
私はこの父からの申し出を断りましたが、このことがあったから、今事務局を束ねている武内暁さんから「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の創設の話を頂いたとき、お手伝いすることになったように思います。もし父が目指しているような報道をしている人や団体が見つかったら、それを励ますことで、埋め合わせが出来るのではないかと考えたからです。
……
「黒田清さんを追悼し平和を考えるライブ」を7月31日(土)、大阪府豊中市で開催します。7年連続でコント集団「ザ・ニュースペーパー」結成時のメンバー、松崎菊也さんと石倉直樹さんを招いての風刺トーク&コントライブを心ゆくまでお楽しみください。
【日時】7月31日(土)午後2時開場、2時半開演
【会場】豊中市立会館とよなか男女共同参画推進センター「すてっぷ」ホール(阪急大阪梅田駅から宝塚線急行で10分、豊中駅南口改札から右手、エトレ豊中5階)
【資料代】読者2000円、一般2200円、学生・障害者1000円
なお、当日会場でお配りするパンフレットの広告(1マス3000円~)、またはカンパを募集しています。ぜひ、ご協力ください。