3回以上の難民認定申請者を原則強制送還の対象とする改正入管管理法が6月9日、成立した。その夜、大阪市内で抗議行動する市民の中に、マイクを握るアウン・ミャッ・ウィンさん(49)がいた。「日本が批准した国際難民条約では申請中の強制送還は禁止。回数も設けていない。明らかに条約違反。日本政府は考え直してほしい」。迫害を逃れて日本へたどり着いたミャンマー難民。入管施設に長期収容され、強制送還の不安におびえた経験者だ。ウィンさんの歩んできた苦難の道のりは、「共生社会」の現在地を映し出す。(うずみ火編集部)
南海高野線沢ノ町駅から徒歩3分。「ミャンマービレッジ」は大阪市住吉区にある東南アジア料理店だ。ウィンさんが7年前に開き、自身が腕をふるう。介護事業所も切り盛りし、在日ミャンマー人の支援にも全国を駆け回る。「このあと東京に行き、難民申請の付き添いをします」。明日は名古屋で、軍に親を殺された女性の難民申請を手伝うという。一昨年、サッカーのW杯予選の試合前に「三本指」を掲げ抗議したミャンマー代表選手の保護・難民申請に尽力したのも彼だ。
首都ヤンゴンで、極真空手の学校を経営する父、高校教師の母のもとで生まれ育った。姉が一人。父方、母方どちらも裕福な家庭だったが、軍事クーデターを起こした国軍に「国有化」名目で土地や財産を奪われた。父は車まで没収された。「小さい頃から祖父母の話を聞いて育ち、国軍に対する恨みが募っていきました」。1988年からの民主化運動に14歳で参加、同級生の釈放を訴え逮捕された。激しい拷問も受けた。
ヤンゴン大学に進学、95年に自宅軟禁から解放されたアウンサン・スーチーさんの演説ビデオをダビングして海外などに送ったとして2度目の逮捕をされた。
次に捕まったら長期収容は免れない。身の危険を感じ、ブローカーにお金を払い、外国航路の船員となり、国外に出た。期間は2年。「その間に軍政は倒れると考えたからです。でも甘かった」
行先はどこでもよかったが、残された寄港地はスリランカと日本だけ。スリランカでは内戦に巻き込まれる恐れがあった。日本に知り合いは一人もおらず、祖父母からは戦時中の日本軍が何をしたかも聞かされている。だが、他に選択肢はなかった。船が広島港に接岸した瞬間、地上に飛び降り、全力で走った。
……
6月9日は、生涯忘れられない「国恥の日」になった。2週間前に仮放免になり、品川の東京出入国在留管理局で仮放免更新の手続きに同行していた日系ペルー人のチネン・ニルトンさん(39)が僕の目の前で再収容されたのだ。 参院本会議で改悪入管法が強行採決され、成立する数分前の出来事だった。(通信社OB記者、福島尚文)
チネンさんは10代の時、家族と一緒にペルーから来日した。祖母は沖縄出身、母が日系人で一家は群馬で暮らしている。
チネンさんは在留資格を喪失して東京入管に収容中の4月19日、別の収容者との口論から入管職員に「制圧」の暴行を受けた。うつ伏せにされ、馬乗りになって膝を痛めつけたという。5月に面会した時は松葉杖姿だった。骨折が疑われたため、外部病院で検査した。幸い骨折ではなかったが、松葉杖なしでは歩けなかった。
また、慢性中耳炎の持病があり、頭痛を繰り返し訴え、膿が出ていた。その後、仮放免となり、日系人の母が暮らす群馬県内の病院で検査・治療を受け、診断書を入管に持参。次回通院の予約も入っていたのに認められず、再収容となったのだ。
再収容された日の午後、チネンさんと面会した。かなり落ち込んでいた。というより、何でこんなことになっているのかわからず、混乱した表情だった。まさか収容されると思っておらず、着のみ着のまま拘束され、「着替えなども必要、お金もない」と訴えていた。
僕はプラスチックの窓越しに思わず叫んだ。「負けずに待っていてくれ」
……
10万5000人を超す死者・行方不明者を出した関東大震災から100年。未曽有の災害は、朝鮮人や中国人らが虐殺される「人災」の側面も大きかった。「井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマと虐殺は関東一円に拡大。そのデマを公式に打電し全国に広げたのは千葉にある海軍の無線送信所だった。その千葉では、軍隊が直接手を下したり、保護した朝鮮人を自警団に虐殺させたりした事例も数多く判明している。半世紀にわたり真相究明を続けてきた「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の平形千恵子さん(82)の案内で6月11日、現地をフィールドワークした。(栗原佳子)
1923年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源とするM7・9の大地震が発生、東京、神奈川を中心に甚大な被害をもたらした。通信や交通手段が壊滅的な被害を受ける中、政府は2日、東京市に戒厳令を施行。3日には東京府全域、神奈川県、4日には千葉県、埼玉県にも拡大した。
一方、千葉県に向かう主要な街道、復旧した国鉄には避難民が殺到。同時に流言も拡散されていく。千葉県では船橋を中心に習志野、市川、八千代、浦安などで多数の朝鮮人が軍や警察、自警団などに虐殺された。合わせて三百数十人が犠牲になったといわれる。検見川(現在の千葉市花見川区)や福田村(現在の野田市)などでは日本人も虐殺された。
フィールドワークは100年の今年、虐殺現場を歩いて考える連続企画の一環(ヒロシマ講座主催)。この日は、最も犠牲者を多く出した船橋を起点に、習志野、八千代の一帯をバスで回った。
JR船橋駅北口からほど近い天沼弁天池公園。家族連れの憩うこの場所で38人の朝鮮人が自警団に虐殺された。
……
「あたいはやっちょらん」
病気で声を失った老女の病床からの訴えは実らなかった。
1979年に義弟を殺害したとされた原口アヤ子さん(96)が無実を訴えている鹿児島県の「大崎事件」。即時抗告審を審理していた福岡高裁宮崎支部(矢数昌雄裁判長)で再審可否の決定が出ると聞き、高速バスを乗り次いで駆け付けた。
神戸からの直行はなく、前日に宮崎で1泊した。6月5日は午前10時前から、曇天の下、支援者らが集まっている。懐かしい顔があった。「志布志事件」の取材でお世話になった鹿児島県志布志市のホテル経営、川畑幸夫さん(77)だ。 2003年春の統一地方選で鹿児島県警が選挙違反事件を捏造した「志布志事件」では、取り調べ中に刑事が川畑さんの足首をつかんで親や祖父、孫の名を書いた紙を踏ませた「踏み字事件」の被害者としても知られた。
大崎事件では、3度も再審開始決定が棄却される異例の経緯をたどっている。高裁宮崎支部は過去に開始決定があった縁起のいい裁判所であった。昨年6月に鹿児島地裁が出していた請求棄却を覆すか。期待の中、弁護団の森雅美団長、鴨志田祐美事務局長らが庁舎内に消えていった。
11時過ぎ、弁護団が門まで走ってこない。「駄目だったのでは」の予感通り、若手の男性弁護士が「不当決定」の垂れ幕を掲げた。高裁は地裁の決定を支持し、再び棄却した。
正午から宮崎弁護士会館で記者会見が始まった。原口さんの長女京子さんは「残念で、残念でたまりません。母は『死ぬまで頑張る』と言っています」と話した。しかし心労ですぐに退席した。
……
「やめろ! 水抜きボーリング」
2月22日、静岡市葵区のJR東海静岡管理局の前に、プラカードを持った市民らが集まり、声を上げた。JR東海が静岡県との合意がないまま、山梨側からリニアトンネル掘削に先立つ高速先進ボーリングを始めたことへの抗議行動だ。その一人、静岡県地方自治研究所事務局長の林克(はやし・かつし)さん(68)は昨年11月、東京地裁の原告側証人陳述に立った。水抜きボーリングとは何か? 静岡県とJR東海はリニア工事をめぐって、何を争ってきたのか。
リニア中央新幹線は静岡市の北端3000㍍級の山々が連なる南アルプスの地中深くを横切る。距離にして10・7㌔のトンネルだ。
静岡工区をめぐる問題の発端は10年前に遡る。2013年9月、JR東海のリニア工事に伴う環境影響評価準備書で、「大井川の水量が毎秒2㌧減る」という予測が示された。「ルートが決まってからの後出しジャンケン。県民の多くが驚いた」と林さん。14年10月、リニア工事の認可にあたり国交相は「地元の理解と協力が不可欠である」とした。環境相も「精度の高い予測」と「水系への影響の回避」を行うべきだとし、静岡県とJRの対策協議が始まった。
大井川は流域62万人の水源。飲料水のほか、農業用水としても利用され、地下水は下流域の工場などに幅広く使われている。江戸時代には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれたように豊富な流量を誇っていたが、明治以降、上流に水力発電用のダムや堰堤が相次いでつくられたことから、下流域の川床が干上がる事態が発生。1988年には官民協働による「水返せ」運動が起こり、中部電力に通年毎秒3㌧の放流を義務づける形で水利権が更新された。だが、今も3年に2回のペースで渇水が起き、水が減ることへの住民の抵抗感は根強い。
「トンネル湧水の全量戻し」を求める静岡県に対し、JR東海は「導水路トンネル」と「ポンプアップ」で湧水を戻すことを提案した。一見、川を流れる水は減らないように見えるが、源流にあたる南アルプスの地下水が工事によって吹き出し、「突発湧水」となって抜けてしまえば、将来の水枯れにつながりかねない。
……
前号で書いたように、広島の路面電車に乗車中、原爆を浴び、火炎と放射能地獄を逃げ回り、生死の境をさまよったものの奇跡的に生き残って、二度とこんな惨劇を繰り返させてはならないと、生涯を通して被爆体験を語り、反戦平和・核兵器廃絶・原発廃棄を訴え続け、ロシアによるウクライナ侵攻で、核兵器使用や原発破壊の懸念が高まる中、昨年11月に亡くなった米澤鐡志さんの叫びと行動を伝えるため、5月下旬から6月初めまでドイツのハノーファーとベルリンに出かけた。
久しぶりに日本を外から見て、いよいよ衰退の坂を転がり落ち、すべて周回遅れになっていると感じた。経済の基礎的指標はすべて低下しているのに、株価だけが上がって3万2000円台を超え、バブル時代の最高値1989年12月29日の3万8915円に向かっていると喜ぶ能天気ぶりに危機感を持った。
34年前だから忘れている人もいるし、そもそも知らない人が多くなっているが、最高値と喜んだのも束の間、年明けから株価は下がって「失われた10年」が20年になり、そして30年を越えた。ガタガタになっているのに外国人投資家が弄ぶように買っているだけだと気づかず、ようやく低迷停滞から成長軌道に乗ったかのように錯覚しているが、実体のない上昇はバブルの再来である。
一方、中国や北朝鮮の動向、ロシアによるウクライナ侵略、それに対する米欧の対抗で、世界が新ブロック冷戦に入る中で、日本は財源もなく、いずれは増税で返ってくるのに軍事費を増やして軍国の道を歩み、他産業が空洞化する中で軍事産業を振興させて活路を開こうとしているが、うまくいくわけがない。
……
5月6日、ポーランドの首都ワルシャワに到着。ここからウクライナを目指す。ウクライナ上空は飛行機が飛ばないため、鉄道か夜行バス。鉄道は1カ月先まで満席。戦況が落ち着いて来たので、難民たちがキーウへと戻り始めているのだ。夜9時発のバスで翌朝キーウ着を選ぶ。夜に着くと、夜間外出令が出ているため、バス停で野宿だ。乗客はポーランドからウクライナにへの帰還民で、すべて女性と子ども。ゼレンスキー大統領が成年男性の出国を禁じたからだ。5月8日午前11時、キーウ着。安アパートにチェックインした。
翌9日早朝5時半、ドーンドーンという轟音で叩き起こされる。「空襲警報、鳴らんかったなー。ここにはシェルターもないし、逃げようがないやん」。グチりながらベランダへ出て外を見る。あわてて叫ぶ人もいなければ、シェルターに走り込む人もいない。後でわかったのだが、ロシアのミサイル18発をウクライナの防空システムが迎撃したのだ。この日はロシアの対独戦勝記念日で、プーチンがモスクワで演説する予定だった。世界に成果を強調したかったのだろう、迎撃したミサイルの破片が民家に落ちて2人が亡くなった。キーウでは空襲警報が鳴っても逃げないし、大きなニュースにもならない。戦争が日常化している。
午前10時、9年前の革命の舞台になった独立広場へ。ここに学生や労働者が集まり、ヤヌコビッチ大統領の退陣を求めた。多大な犠牲を出しながらデモ隊が勝利。広場は現地語でマイダンなので、マイダン革命と呼ばれた。革命後、ウクライナが西側に行くのを止めるべくプーチンがクリミア半島を奪い、東部ドンバスで戦闘が勃発。現在の戦争に至るのは周知の通り。
広場から地下鉄に乗る。地下へ向かってエスカレーターで降りていく。旧ソ連時代に建設された地下鉄は核戦争に備えたもので、世界最深の地底を走る。昨年2月、ロシアが侵攻して来た時、この駅が避難所になった。終点のアカデミステチコ駅でブチャ行きのバスに乗り換え。ウクライナ軍の装甲車がバスを追い抜いていく。車窓から写真を撮ろうとしたら、乗客がカメラを遮る。撮影不可だった。国道沿いに破壊された民家が現れ、イルピン川を渡る。戦争初期にウクライナ軍がこの橋を破壊し、キーウを守った。今は仮設の橋が架かって通行は可能だ。ブチャに到着。銃弾を撃ち込まれたマクドナルドは営業しており、人々は何事もなかったかのようにハンバーガーを頬張っている。スーパー前にナターシャとセルゲイ。ブチャの生き残りで「あの日の語り部」である。
……
5月21日、先進7カ国首脳会議(G7サミット)は首脳声明に加えて「核軍縮に関する広島ビジョン」を取りまとめて、3日間の日程を終えた。核兵器保有国である米、英、仏を含むG7サミットが、被爆地で開催されたのは初めてのことであった。広島市を開催地に決めた理由について、広島県選出の国会議員でもある岸田文雄首相は「広島ほど平和への関与を示すのにふさわしい場所はない」と理由を説明していた。閉幕後の記者会見でも「G7首脳と『核兵器のない世界』に向けて取り組む決意を共有した」と述べ「広島ビジョン」の歴史的意義を強調していたが、果たしてそうなのだろうか。
19日、開幕に先立ってG7首脳はそろって原爆資料館を訪問した。見学時間は約40分だったという。7年前、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問したオバマ氏の原爆資料館滞在時間は10分間だけで、目にしたのは収蔵品の一部だった。それに比べれば長いかもしれないが、40分間でどこまで展示を見ることができたのだろうか。岸田首相が案内役を務め、展示品について説明をしたというが、その詳細は明らかにされていない。
また首脳たちは、8歳の時に被爆し英語で海外に向けて証言を続けている小倉桂子さんとも面会した。小倉さんは自らの体験と「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんを巡るエピソードを紹介したという。小倉さんの話を聞いた首脳たちの反応なども、詳細は伝えられていない。見学と面会を終えた首脳たちは、そろって原爆慰霊碑に献花をした後、記念撮影に臨んだが、私たちが目することはできたのは、そのシーンだけであった。
確かに、G7首脳がそろって原爆資料館を訪問し、被爆者の訴えに直接耳を傾ける機会は史上初であるし、それなりの意義はあっただろう。核兵器廃絶に向けた一歩と捉えることも、できるかもしれない。だが、岸田首相がよく口にする「被爆の実相」を、首脳たちがどこまで知り得たのか、肝心な点が明らかではない。そして、「広島ビジョン」の内容を見る限り、広島を政治利用したに過ぎなかったのではないかと思えてならないのだ。
……
東京都が設置した人権啓発のための拠点施設「都人権プラザ」(港区)で昨年、関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れた映像作品が、都の介入で中止される問題が起きた。作品はアーティスト、飯山由貴さんの「In‐Mates」(26分)。飯山さんらは「朝鮮人犠牲者の追悼式典に追悼文を送らなくなった小池百合子知事への忖度があるのではないか。作品の検閲だ」として、知事らに対し、検閲を繰り返さず、改めて作品を上映することなどを求め署名活動を続けている。(栗原佳子)
作品は戦前期、都内の精神科病院に入院していた朝鮮人患者の診療記録を基に、ラッパーで詩人の在日韓国人FUNIさんが現在の在日韓国人の苦悩などを表現している。
都の外郭団体「東京都人権啓発センター」の人権企画展(昨年8月~11月)で飯山さんは作品を上映し、トークイベントも実施予定だった。だが突然中止になった。
人権企画展の目的は精神障害者の理解促進を図るというもの。その趣旨にそぐわないという理由だった。しかしその後、事前に都人権部の職員が、プラザを運営する都の外郭団体「人権啓発センター」に対し、上映に難色を示すメールを送っていたことがわかった。作品中、在日朝鮮人史などが専門の外村大・東京大教授から「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」と説明を受ける場面があることが問題視された。職員は「都ではこの歴史認識について言及していない」と指摘、追悼式典に知事が追悼文を送っていないことを示し「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と伝えていたという。
……
三味線を伴奏に独特の節で物語を表現する浪曲。落語、講談とともに日本三大話芸の一つで、最盛期には約3千人の浪曲師が活躍した。最近では若手の活躍で客席にも若い世代が戻っているという。
「絶唱浪曲ストーリー」はそんな浪曲の世界に飛び込んだ港家小そめが主人公。伝説の浪曲師・港家小柳にほれ込み弟子入りし、お披露目を迎えるまでの物語だ。
制作・撮影・監督は同じく小柳に魅了された川上アチカ。8年かけて完成させた。迫力満点の口演場面も見どころ。大阪・第七芸術劇場で7月8日公開。
旧日本軍に徴用され戦死した朝鮮半島出身の軍人・軍属の遺族27人が、靖国神社に無断で合祀されたとして国と神社に合祀取り消しなどを求めた訴訟の控訴審判決が5月26日、東京高裁であった。村上正敏裁判長は原告全面敗訴の一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告の遺児たちは80歳前後。上告し、「父の尊厳のため、人生をかけて闘う」という。(栗原佳子)
韓国の遺族による「靖国合祀取り消し訴訟」は2001年に国を相手取り提訴した第一次訴訟からはじまる。07年には国と靖国神社を被告として第2次訴訟に臨んだが、いずれも原告側の敗訴が確定した。現在の訴訟は13年に提訴した第三次訴訟。「強制動員で命まで奪われ、侵略戦争の協力者として祀られ、被害を受けた民族の人格権を侵害している」として合祀の取り消しと、無断合祀への謝罪、慰謝料などを求めている。
19年の東京地裁は「合祀によって原告らの民族的、宗教的人格権や思想良心の自由を侵害するとはいえない」などと原告側の訴えを退けた。東京高裁もそれを踏襲。原告の李熙子(イ・ヒジャ)さん(80)=太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表、朴南順(パク・ナムスン)さん(81)は45秒で終わった言い渡しに呆然としていた。
……
横浜カジノ阻止に向け、最高権力者に挑んだ横浜港の荷役業者と市民の共闘を追ったドキュメンタリー映画「ハマのドン」(松原文枝監督)。大阪市淀川区十三のシアターセブンで6月18日、トークイベントが開かれ、本作に出演している米ニューヨーク在住のカジノ設計者、村尾武洋さんがオンラインで参加、2029年開業で政府の認定を受けた大阪IRについて「米国ではカジノに行政はお金を一切出さない」と断言した。 (矢野宏)
「大阪カジノ構想を徹底解剖する」と題した特別イベント。松原監督がコーディネーターを務め、村尾さんのほか、元経産官僚の古賀茂明さんがオンラインで出演、矢野は会場から大阪カジノの実態を説明した。
村尾さんは建築デザイナーで、これまでに30あまりのカジノを設計してきた。
「カジノは賭博場。事業者は儲かり、客はスるようにつくってある」と打ち明け、「カジノを大都市につくるのは間違いだ」と言い切った。
「カジノは宿泊して旅行に行くところ。都心につくると、給料をもらったらすぐに行ってしまい、すぐにスってしまうから」
カジノ誘致を巡り、大阪市は会場となる人工島・夢洲の土壌汚染や液状化などの土地課題対策費として約790億円を投入する。
……
1997年の建築基準法改正により、日照権や容積率が大幅に緩和され、超高層マンション(タワマン)の建設ラッシュに。その現状と課題を探ってみます。
第1号 76年に建てられた「与野ハウス」(さいたま市)です。高さ66㍍、21階建て、総戸数463戸で、住友不動産が建設。現在の最高層タワマンは「虎ノ門ヒルズレジデンス」(東京都港区)。オフィスと同居していますが、高さは255㍍、172戸。高さ200㍍以上のタワマンは他に4棟あります。
鉄筋コンクリートの寿命 一般論です。新築当時、コンクリートはアルカリ性ですが、空気中の二酸化炭素に触れてアルカリ性が中性になり、コンクリートの強度が弱まってきます。さらに空気や水が浸透しやすくなり、鉄筋部分まで水が浸透すると、錆の発生やコンクリートの膨張につながり、メンテナンスが必要です。欧米では寿命が100年?と称されています。我が国では、鉄筋コンクリート造りの建築物(RC)の法定耐用年数は47年。耐震基準の改正(81年)により、震度7でも倒壊を免れる造りが必須になりました。塩害も懸念されています。
……
久高さんのお母さんは、もともと
石川の人。つれあいも石川で、戦前、
フィリピンのミンダナオに移民した。
農業だったと思う。だから、自分は
開拓移民と言っている。
移民前に生まれていた長男は跡取
りだからと親(祖父母)に言われて、
石川に残し、夫婦のみで行った。
1944年から45年にかけて、フ
ィリピン奪回をめざす連合国軍と日
本軍の戦いがあり、巻き込まれて現
地で生まれた男の子一人と女の子一
人を亡くしている。戦後の戸籍には
載せてないが、平和の礎には刻銘し
ているという。
……
わが国のバブル経済が破綻して間もない1994(平成6)年夏。京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の墓地で一人の漢(おとこ)が拳銃で自らの左胸を撃った。先祖の墓前で自殺したのは、会津小鉄の最高幹部で荒虎千本組4代目三神忠組長だ。87(昭和62)年、竹下登元首相が日本皇民党という右翼団体に「ほめ殺し」で追い詰められた「皇民党事件」を覚えているだろうか。三神組長は、稲川会会長から依頼され、(つまり背景には竹下元首相がいた)日本皇民党総裁に中止の橋渡しを担った人物だ。この組は博打をやらず、覚せい剤などに関わらないことで知られていた。三神はすでに死語であった「侠客」とも呼ばれた。それ故、バブル崩壊後、経済的に追い詰められ、その果ての自殺といわれた。
元来、千本組は映画界と深い付き合いがあった。マキノ省三の妻・知世子の実家は新選組で有名な壬生の界隈を本拠にして、禁裏御用を務めた材木問屋の石橋利兵衛という旧家。知世子の父虎之助は、当時から侠客として有名だった荒虎三左衛門と兄弟分の間柄だった。マキノ雅弘は自伝『映画渡世・天の巻』で「荒虎親分の千本組はバクチというものを知らないやくざだった。保津川を下って来る材木を、荷車に積んで二条の駅まで運ぶ仕事を、千本組が引き受けていた」と書いている。
……
20代の頃、男性アーティストとFM番組をやっていました。週1回30分の録音番組で、収録は2週間に1度。音楽番組なので曲が流れている間はいろいろな話をします。
お互い気心が知れてきた頃、彼が突然過去の話を始めました。10代の頃ジャニーズからデビューすることになっていたというのです。スカウトされ、その後はトントン拍子にデビューが決まり、九州の実家からあわただしく上京したのだとか。そして明日デビューという日の夜、それは起こりました。自分が寝ているベッドにジャニー喜多川さんが潜り込んできたのです。
この頃すでにジャニーズ事務所の噂は、私の耳にも入っていましたが、当事者の口から語られた話はまるで別の話のようで、返す言葉を失いました。
10代の彼はあまりのショックに部屋を飛び出し、そのまま郷里に帰ってしまいます。実家にどのようにしてたどりついたのかも覚えていないそうです。その後、事務所のスタッフが実家にやってきます。記者会見などデビュー後の予定もすでに組まれていたため「ともかく戻れ」と説得され、さらに事情を知らない親からも「無責任過ぎる」と責め立てられます。少年の彼はただひたすら心を閉ざし続けたそうです。
……
佐賀空港にオスプレイ
今月にも駐屯地建設へ
山口県和木町 湯谷邦彦
陸上自衛隊の輸送機オスプレイの佐賀空港への配備をめぐり、防衛省は5月18日、土地名義人の佐賀県有明海漁協と売買契約を結んだ。6月にも着工する予定だ。
防衛省が駐屯地建設を予定しているのは空港西側の約33ヘクタールの土地。オスプレイ17機とヘリコプター50機を配備する。長崎県佐世保市の陸自相浦(あいのうら)駐屯地所属の「水陸機動団」と一体運用し、南西諸島防衛を強化するためだ。
佐賀空港へのオスプレイ配備計画が明らかになってから、地元の有明海漁協南川副(かわぞえ)支所ではノリ漁業者らが「佐賀空港へのオスプレイ等配備反対地域住民の会」(代表・古賀初治さん)を立ち上げ、「金は一時、海は万年」などと反対してきた。佐賀空港が開港した1998年、漁協が県と結んだ公害防止協定に「自衛隊使用を認めない」との覚書が用地買収の歯止めになっていた。
オスプレイは千葉県の陸自木更津駐屯地に2025年7月までの約束で暫定配備されている。期限切れが迫り、防衛省は現地事務所を置き、アンケートなどで漁師の意向を分析。買収額をつり上げるなどしてノリ漁業者らの分断が図られた。
昨年11月、県と漁協は公害防止協定を見直し、「自衛隊と共用できる」とする確認書に署名したことで、事態は一気に進展する。
駐屯地の予定地は県有明海漁協の共有地。地権者254人の同意が必要なはずだが、古賀さんは「漁協幹部らが『総代会』をでっち上げ、用地買収を決定した」と憤る。
ここ数年、有明海では海中の「栄養塩」が不足し、ノリが不漁。ムツゴロウやワラスボ、キビナゴも取れなくなっているという。建設が始まると、排水汚染の懸念は消えない。こうした将来不安も、用地買収に応じた背景にある。
5月20日、「住民の会」が企画した現地フィールドワークに参加した。広大な干潟が眼前に広がる予定地に立ち、古賀さんは「幼い頃、地元の海童神社に刻まれた戦死者の碑に伯父の名前を見つけ、戦争を起こしてはいけないと目覚めた」という。「理不尽なやり方で負けた。金で若手まで引っ張り込まれた」と語るが、「まだ諦めない。住民の会で運動を盛り上げたい」と力強く語った。
この日、石川県河内灘村(現内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動「内灘闘争」の歴史を伝える「風と砂の館」元館長で内灘町議の西尾雄二さんも参加。内灘の闘いの歴史を振り返り、「岸田政権は、ロシアによるウクライナ侵攻を追い風に危機感をあおり、『やるなら今だ』と際限のない防衛強化をしている。内灘の闘いは人々の共感を得た。正しいことにスクラムを組み闘うことが大事だ」と激励した。
ノリ漁業者らは「宝の海」を失うのか。自衛隊基地ができれば攻撃対象になるのは間違いない。国は基地の町をつくることで、いったい誰を守ろうというのか。
(案の定、防衛省は6月12日に駐屯地工事に着手しました。湯谷さんに連絡を入れると、「怒り爆発です」との返信がありました。「まだできることがあると思います。未来への礎を築かなければなりません」)
……
ある朝起きたらスマートホンの電源が落ちていた。あらら、困ったもんだ。再起動を繰り返したが、回復しない。あらら、なんてのんきなことを言っている場合ではない。この日は朝から東京スカイツリーで補助犬3種類の啓発活動があり、連絡は携帯電話のラインですることになっていた。自宅の固定電話からかけようと思ったが、相手の番号は携帯電話の中。暗記していない。何てこった。ガッカリしながら、仕方ないので電源の入らない携帯電話を持って家を出た。
普段、どれだけ依存しているかがわかる。何か落ち着かない、不安であり、取り残されたような気分である。
東京スカイツリーに到着し、イベントの主催者へ挨拶に行ったら騒動になっていた。「連絡が取れない」と知り合いが顔をつき合わせていた。携帯電話にかけてもラインしても返答がない。「もしかして、家で倒れているのではないか」と、話が広がっていたらしい。そこに何も知らずにトコトコとやって来たものだから、みなびっくり。無事にイベントが終わり、携帯電話の修理をと思っても営業時間に間に合わない。電話で予約もできないので、翌日まで「つながらない不安」を抱えて過ごすことになった。
……
表紙には眉がキリっと上がり、口を真一文字に結んだ元気良さそうな少年が9人描かれています。そっくりですが、微妙に違います。
このお話は、中国の少数民族イ族に伝わる話を君島久子氏が訳し、赤羽末吉氏が絵を描いています。
昔々の話。イ族の子どものいない貧乏な老夫婦が、神様にお願いして9人の子どもを授かるところから物語は始まる。神様は9人の兄弟に「ちからもち」「くいしんぼう」「はらいっぱい」「ぶってくれ」「ながすね」「さむがりや」「あつがりや」「切ってくれ」「みずくぐり」との名前を授けた。9人は、みんなよく似ていて、それぞれに不思議な力を持っていた。
子ども達が大きくなった時、王様の宮殿で竜の形をした柱が倒れた。王様は「柱を元通りにできたら望みのほうびをとらせる」とお触れを出す。それを聞いた兄弟は相談して、ちからもちが宮殿に出向き、柱を元に戻す。しかし、王様は褒美を与えるどころか無理難題を言いつける。「そのような力持ちなら大飯が食えよう。できねば牢屋に入れろ」。そこで兄弟は、くいしんぼうを宮殿に行かせる。兄弟はよく似ているので気づかれない。事もなげにご飯を食べつくし、朝を迎える。
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先日、東京都立川市の竹内良男さんが主宰する「ヒロシマ講座」の学習会フィールドワーク「虐殺100年の現在地ー歩いて考える関東大震災」に参加し、地道に聞き取りを重ねてきた一般社団法人「ほうせんか」理事の西崎雅夫さんに100年前の虐殺現場を案内してもらった。墨田区八広の四ツ木橋付近では、震災発生の翌9月2日に起きた惨状を目の当たりにした俳優がいた。「バンジュン」こと、伴淳三郎さん(1908~81)。その貴重な証言が残っていた。「朝鮮の人と思われる死体が地面にずらーっと転がっている。その死体の頭へ、コノヤロー、コノヤローと石をぶっつけて、めちゃめちゃにこわしている。生きた朝鮮の人を捕らえると、背中から白刃を切りつける。男はどさりと倒れる。最初、白身のように見えた切り口から、しばらくして、ピャーッと血が吹くんだ……」▼当時の政府がデマを拡散した結果、朝鮮人、中国人らが官憲や軍隊、自警団の市民に虐殺された。新聞もデマの流布に一役買っている。9月3日付の東京日日新聞にはこのような見出しが躍っていた。「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」「鮮人いたる所めったぎりを働く 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」「横浜を荒し本社を襲ふ 鮮人のために東京派のろひの世界……。こうした流言に踊らされ、一般市民は狂気の徒となった▼関東大震災から100年、この国の排外主義の根は深い。今国会で成立した改正入管法では、難民申請中であろうと強制送還できる規定を導入した。まさに難民条約違反である。入管施設に2年間収容されたミャンマー難民のウィンさんはこう訴える。「僕ら外国人を人間として見てほしい」。改正入管法の施行は1年後、まだ時間はある。(矢)
5月12日(金)
矢野 夕方、八尾市文化会館で信田政博さんが出演した劇団大阪シニア演劇大学の公演「楽園終着駅」を観劇。
栗原 午後、「群馬の森」の朝鮮人犠牲者追悼碑が撤去の危機にある問題で、市民団体「追悼碑を守る会」が県に設置・管理の再申請。県庁での記者会見を取材。夜、国会前の入管法改悪反対集会へ。
5月13日(土)
矢野 午前、阪急宝塚駅前で「憲法九条の会・関西」の岩部始さん、石毛玉枝さんらと待ち合わせ、車に乗せてもらって兵庫県豊岡市出石町へ。出石そばを食べ、「出石いのちと平和の会」の講演会で「ジャーナリストに訊く 戦争をしないはずの日本」と題して講演。
5月14日(日)
矢野 午前、大阪朝鮮中高級学校の創立70周年記念同胞大祝典へ。生徒たちの見事な舞踊などに感動、拍手。
5月18日(木)
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「黒田さんを偲び、平和を考えるライブ」は7月29日(土)午後2時半~大阪府豊中市の「すてっぷホール」で開催します。今年も黒田さんが好きだったコント集団「ザ・ニュースペーパー」結成時のメンバー、松崎菊也さんと石倉直樹さんを招いての風刺トーク&コントライブです。
なお、当日会場でお配りするパンフレットの「一声広告」(メッセージを入れて1口3000円~)を募集しています。ご協力いただいた方には当日の招待券をお贈りします。コロナ禍、さらには物価高騰などにより何かと大変だとは思いますが、カンパも含め、ご無理のない範囲でご協力いただけると幸いです。
【日時】7月29日(土)午後2時開場、2時半開演
【会場】豊中市立とよなか男女共同参画推進センターすてっぷホール
【交通】阪急宝塚線「豊中駅」南口改札の右手、エトレ豊中5階
【資料代】読者2000円、一般2200円、学生・障害者1500円
次回の「うずみ火講座」は8月12日(土)午後2時~大阪市北区のPLP会館4階で開催します。
ロシアによるウクライナ侵攻は1年半が過ぎても、一向に収まる気配がない。5月5日から2週間、ウクライナに入ったフリージャーナリスト西谷文和さんはロシア国境近くの町や村を取材、紛争地の現実を目の当たりにした。ウクライナの現状を、映像を交えながら報告してもらいます。
会場には、地下鉄堺筋線「扇町駅」④出口から徒歩3分、またはJR環状線「天満駅」から南へ徒歩5分。
資料代は読者1000円。