戦時中、旧満州国(中国東北部)への農業移民として送り出された満蒙開拓団。その数は約27万人に上る。旧ソ連の侵攻と日本の敗戦によって置き去りにされた開拓団員は、苦難の逃避行の末に様々な悲劇に襲われる。兵庫県出石郡高橋村(現豊岡市但東町)から入植した村民の集団入水自決もその一例。来年で戦後80年。悲劇から生き残った山下幸雄さん(91)は自らの体験を語り続けている。
高橋村は兵庫県北東部の但馬地域に位置し、京都府との県境の山村。JR大阪駅から特急こうのとりで約1時間半、福知山駅からレンタカーに乗り換えて40分ほど北上すると、高橋地区のコミュニティセンターに着く。その一室には高橋村開拓団の惨状を伝える資料室があり、山下さんと長男の文生(ふみき)さん(64)が待っていてくれた。
文生さんは10年ほど前から講演に同行し、映像や記録を残している。2024年4月に山下さんが肺炎と心不全を併発してからは、代わりに話をする機会も増えた。11月30日に尼崎市内での講演会も、山下さんは酸素吸入器を付けて登壇、文生さんが隣で支えた。
山下さんは1933年生まれ。両親と兄、妹、弟、祖父母との8人家族だった。
「小さい時は身体が弱くて、当時は貴重な卵と牛乳を毎日与えてくれました」と振り返る。
満蒙開拓団は日本が1932年に建国したかいらい国家・満州国に渡った農業移民で、各地から約27万人が移り住んだ。昭和恐慌により疲弊した農村の土地対策と人減らし、ソ連からの防衛や現地の関東軍への物資供給などが目的だった。
……
元日に発生した能登半島地震からまもなく1年。復旧半ばの9月には記録的な豪雨に見舞われ、ようやく入った仮設住宅から体育館の段ボール生活に戻った人もいる。公費解体が進み、更地が増えているものの今も手つかずの倒壊家屋が残っている。豪雪による「三重被災」も懸念される被災地は再び厳しい冬を迎える。
12月21日早朝、JR大阪駅から特急サンダーバードで敦賀に向かい、北陸新幹線に乗り継いで金沢へ。3月16日に北陸新幹線が金沢駅から敦賀駅まで延伸されたのに伴い、運賃は片道9410円に。大阪から金沢までサンダーバード1本で行けた時と比べ、乗り換え時間を入れても5分ほど短縮されたものの2150円アップ。事実上の運賃値上げで、関西から北陸が一段と遠くなった気がする。
地震発生後、11カ月続けての金沢入り。あいにくの雨で、能登は翌日から雪に変わるとの予報ゆえ、レンタカーではなく北陸鉄道が運行する特急バスで輪島を目指すことにした。
輪島市に近づくにつれ、車窓をたたく雨が次第に激しくなる。茶色く濁った河川に流れ込んだ流木は撤去しきれておらず、豪雨で崩れ落ちた山肌は無残にもむき出しになっている。
2時間40分かかって終点の輪島駅前に到着。駅と言っても鉄道は2001年3月末で廃止となっており、今はその駅跡が「道の駅輪島」として整備されている。
風雨の中、観光名所だった「朝市通り」に足を運ぶと、公費解体が進んで更地が広がっていた。かつて観光客でにぎわいにあふれていたが、地震に伴う大規模火災で約240棟、約4万9000平方メートルが焼失した。その後、半年あまりがれきの山が残っていたが、ようやくがれきが撤去された。
……
沖縄県名護市辺野古の新基地建設は、軟弱地盤が広がる大浦湾での本格工事に入った。2023年12月に国が沖縄県に代わって設計変更申請を承認した「代執行」以降、国は、うるま市の宮城島など沖縄中から土砂を集め、多額の税金を投じ、完成の見通せない難工事を強行している。
那覇市からレンタカーで約1時間半。中部の与勝半島から海中道路で平安座島、さらに宮城島へと渡る。伊計島とを結ぶ橋の手前に、山肌が広範囲にむき出しになった採石場が現れる。ここから土砂の搬出がはじまったのは11月20日。搬出開始を沖縄防衛局が県に伝えたのは、当日の午前中だったという。
5・5平方㌔。人口400人。宮城島は伝統文化が息づく半農半漁の島だ。大型ダンプが向かう先は十数㌔先の中城湾港(沖縄市)だが、幅が狭い山道で、一部は農道だ。
「地元の人だけではなくて観光客も使う道。伊計島にはリゾートホテルもあるし、通学バスも走ってます。昨年の台風による土砂崩れで、農道の一部は片側交互通行のまま。事故が起きないか、地元の人は心配してますよ」
12月5日朝、うるま市の宿で、主人がそう言って見送ってくれた。宮城島での搬出が始まって約2週間。採石場入り口ではダンプの出入りを遅らせようと、地元の「島ぐるみうるまの会」の市民たち数十人が早朝から連日の抗議行動を続けている。辺野古に運び出す中城湾港でも阻止行動が始まっているという。
午前10時ごろ現地に到着すると閑散としていた。市民のX(旧ツイッター)を確認すると、この日は搬出が中止になり、抗議行動の現場である安和と塩川に応援に行ってほしいとの書き込みがあった。
14年7月、辺野古の海に初めて杭が打たれ、ボーリング調査が強行された。米軍キャンプ・シュワブのゲート前での市民の座り込みが始まった。18年12月、土砂投入開始。翌19年3月には新基地建設の是非を問う県民投票が行われ、反対が7割を占めた。しかし工事は止まらず、現在までに浅瀬側の埋め立てはほぼ終了したとされる。埋め立て予定地区全体(約150㌶)の4分の3を大浦湾側が占める。
……
岸田首相の退陣、総選挙での与党過半数割れと政界を揺るがした自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件。日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗の日曜版」のスクープが、優れたジャーナリズム活動を表彰する日本ジャーナリスト会議大賞に輝いた。この特報を受けて会計責任者らを告発した神戸学院大の上脇博之教授が「気が遠くなるような地道な作業」と驚嘆した取材はどのようなものだったのか、編集長の山本豊彦さん(62)に話を聞いた。
山本さんはMBSラジオ「立岩陽一郎のファクトチェックラジオ」(12月29日午後8~9時)収録の後、うずみ火事務所でのインタビューとなった。
しんぶん赤旗の記者は約300人。うち日曜版の記者・編集者は約40人。一連の調査報道は、笹川神由(かみゆ)記者(33)と山田健介デスク(51)の2人が担当したという。
−−−−スクープのきっかけは?
「二つの違和感です。自民党議員がコロナ禍で開いた政治資金パーティーでのこと。感染拡大防止のため飲食抜きのセミナー形式で、会費は2万円のまま。『これはぼったくりではないか』となった。政治資金規正法では、政治資金パーティーについて『対価を徴収して行われる催物』(第8条の2)とあり、1枚2万円のパーティー券に見合った対価性がない。『コロナ禍で飲食店など多くの人が苦境に陥っている中、政治家だけがボロもうけしているならおかしい』との声が記者から上がりました」
−−−−もう一つの違和感とは?
……
後輩検事への性的暴行容疑で逮捕され、公判で罪を認めたはずの大阪地検元検事正(現弁護士)の北川健太郎被告(65)が突然、否認に転じ、被害女性の検事が怒りと涙の会見をした。
「子供を学校に送る時も涙が止まりませんでした」
3時間に及んだ記者会見。過去を語る途中、涙も見せたが女性検事Aさんは検察官らしく、代理人弁護士に任せることなく、気丈に語り続けた。
2018年9月、職場6人での懇親会で泥酔したA検事は、検事正だった北川被告にタクシーで官舎に連れ込まれて凌辱された。6年間、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などに苦しんだAさんは今春、組織上部に打ち明け、同被告は大阪高検に逮捕され、準強制性交罪で起訴された。
10月25日の大阪地裁での初公判で、北川被告は犯行を認め、「被害者に深刻な被害を与え、深く反省し謝罪したい」などと述べた。だが、12月10日に行われた司法三者の協議で、「無罪主張」に転じることを主任弁護人の中村和洋弁護士が伝え、同日会見した。
中村氏は「事件関係者を含め、検察庁に迷惑をかけたくないという思いだったが、その後の一部の事件関係者に生じた情報漏洩などにかかる疑いや検察庁に対する組織批判により、方針が間違っていたのではないかと悩み、自らの記憶と認識に従って主張することにした」との北川被告の考えを公表。さらに「北川さんには、Aさんが抗拒不能(抵抗できない)だった認識はなく、同意があったと思っていた。被告に故意はなかったので無罪です」と説明した。
これを知って仰天したAさんは11日、記者会見し「痛みをこらえながら、自分一人で抱えて我慢すればよかった。そうすれば、家族を苦しめることもなく、検事としてのキャリアを失わずに済んだ。信じていた同僚から裏切られ、元上司らから誹謗中傷され、検事総長から疎まれることもなかった。私は自分の恥をさらしただけで、大切なものを全て失ってしまった」などと声を震わせた。それでも法的な枠組みなどを理路整然と語ったが、代理人の奥村克彦弁護士が、Aさんに寄せられた励ましの言葉を紹介すると涙があふれ、タオルで顔を覆った。
……
韓国の戒厳令騒動を見ていると、自民党・維新・国民民主ら改憲推進派が叫んでいる憲法に「緊急事態宣言」導入の主張の危うさと滑稽さを思わされる。
尹大統領はいろいろ言っているが支持率低下でどうしようもなくなった事態を緊急事態と言って戒厳令で突破しようとした。それを見抜いた国民が民主主義を守ったのである。
世界で戒厳令が敷かれた事例は何例もあるが、権力者が独裁政治をしたいだけのことだとしっかり考えなければならない。緊急事態、戒厳令を憲法に導入するとどんなことになるかを過去と今回の韓国が教えてくれている。自民、維新、国民民主ら戒厳令導入派はしっかり考えろ。我々は絶対反対である。
さて、年も押し詰まって日本漢字能力検定協会が今年の漢字として「金」を選んだが、いま日本を象徴する漢字は「貧」ではないか。なるほど安倍派を中心に自民党の「裏金」が問題化し、岸田首相が政権を投げ出し、石破茂氏が自民党総裁・首相になり、史上最速の解散・総選挙を行い惨敗したから、金だというのもわからないではない。選挙結果でキャスチングボートを握った国民民主党が「103万円の壁」の打破を叫び、他の政党も「壁」を問題にしているが、根本問題は日本の労働者の賃金が30年上がらず、格差と貧困が大問題になっていることであり、その意味で「貧」を選ぶべきだったのではないかと私は思っている。
賃金収入をめぐって国会ではチマチマした話をしているが、政府はロシア、北朝鮮、中国の動きを考えると、国を守る態勢を強化するということで軍備強化、増税を進めようとしているが、メディアはあのホテルではこんな料理が、このホテルではこんなスイーツがなどと脳天気な報道を続けている。日本の経済を現場で支えている労働者が口にできるものではないから、みんなラーメン番組を見ている。もっと国民の厳しい生活の現実を報道すべきではないか。
……
2012年、13年の主な取材場所はレバノンのトリポリだった。「えっ、そこはリビアの首都と違うのか?」。リビアにもトリポリがあるが、レバノンにもある。どちらもトリ(三つの)ポリス(町)が語源。地中海貿易で栄えた9世紀、レバノン北部にシドン、ティール、アラドスという3都市が栄えた。その交易センターがここに置かれたのでトリ・ポリになった。
トリポリのメインストリートは「シリア通り」と呼ばれていた。「シリア難民がたくさん住んでるから?」と通訳に尋ねる。「違う、この通りから山側が親アサドのアラウィー派居住区、海側が反アサドのスンニ派なんだ」。シリア内戦勃発直後だったので、この街に大量の難民が逃げて来ていた。シリア本国の内戦激化に比例して、トリポリでも「海と山の内戦」になっていた。なんと、山から海へ、つまり親アサドが反アサド居住区にロケット弾を撃ち込んで来るのだ。だからトリポリのビルには穴が2種類開いていた。古いのは1980年代内戦時の銃痕、新しいのが今回の紛争で開いた穴だ。
難民たちは反アサド派、海側の貧困地区に住んでいた。難民をかくまう家があり、そこに覆面をした30代の若者がいた。この頃から人々がビデオカメラの前で顔をさらし、実名を名乗ることは厳禁となった。私の動画がYouTubeで流れてしまうと、アサド軍がその人物を特定し、ダマスカスやホムスに残る家族を逮捕、拷問して殺害する例が相次いでいたからだ。モハンマドさん(仮名)も、黒い布を顔に巻いてからの取材となった。
−−−−あなたは秘密警察に捕まって拷問を受けたのですね?
……
12月10日、日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)のノーベル平和賞授賞式がノルウェーの首都オスロで開かれた。被団協は、被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴え続けてきた全国組織で、日本の反核・平和運動の中心的存在だ。ノーベル賞委員会が発表した授賞理由は「核兵器の使用は道徳的に容認できないという国際規範の確立に多大な貢献をした」というものだった。
被団協は、1954年に米国がビキニ環礁で実施した水爆実験で、第五福竜丸をはじめとした多くの漁船が被曝した「ビキニ事件」をきっかけに、被爆者援護や核兵器廃絶の実現を目指して56年8月に結成された。長崎で被爆した被団協代表委員の山口仙二さん(故人)が、82年の国連軍縮特別総会で被爆者として初めて演説した際、焼かれた自身の写真を掲げながら訴えた「ノーモア・ヒバクシャ」は合言葉になっている。
これまで被団協は、国内外で被爆体験の証言活動に積極的に取り組んできた。5年に1度開催される「核拡散防止条約」(NPT)再検討会議には、2005年以降に代表団を派遣し、被爆者自らがスピーチし、原爆被害の実相を訴え続けている。会場の国連本部で原爆展を開き、核兵器の恐ろしさを伝えた。国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」とも運動を展開し、17年に国連で採択された核兵器禁止条約の前文に「ヒバクシャの苦しみに留意する」の文言を盛り込ませた。
こうした被団協の活動を、授賞理由では「何千もの目撃者の言葉を提供し、核軍縮の差し迫った必要性を世界に思い出させてきた」と高く評価している。今回の授賞には、原爆投下から79年が経過した今、被爆者たちが受けた「理解できないほどの痛みや苦悩」への想像力が欠如しているとしか言えない国際社会の現実がある。被団協の授賞は、そうした現実に警鐘を鳴らす意義があるのではないだろうか。
……
兵庫県知事選で再選を果たした斎藤元彦知事が2期目の県政をスタートさせたが、失職に追い込まれる理由となった告発文書問題は終わっていない。真相を究明している県議会の調査特別委員会(百条委員会)は来年2月に最終報告書を発表する方針だが、関係者に脅迫的な抗議が続いている。県議の丸尾牧さん(無所属)は12月14日、大阪市内で開講した「うずみ火講座」で、デマ動画が流され、それを信じて数多くの誹謗中傷が届いている現状を語った。
百条委は6月、元西播磨県民局長(7月に死亡)が作成した告発文書の真相究明と公益通報について検証するために設置された。斎藤氏への証人尋問は8~9月に2回行われたが、「知事と幹部職員との答弁にすれ違いがあった」と丸尾さんは振り返った。
事実関係を調査するための第3者委員会の設置について、元副知事の片山安孝氏が百条委で「総務部長から知事に言った」と証言したが、斎藤氏は「進言はなかった。話は出たかもしれない」とはぐらかした。総務部長が「公益通報の結論を待ってから処分すべき」と進言したことについて、斎藤氏は「私の記憶ではない」と答えている。
道義的責任を問われた斎藤氏は「道義的責任が何かわからない」と開き直った。県議会は知事としての資質に欠けるとして全会一致で不信任を議決、斎藤氏は失職した。
丸尾さんは「9月頃から著名人が斎藤氏擁護をはじめ、急速に拡大していった」と指摘する。「百条委で追及した県議を徹底的に批判。斎藤氏に不利な事実や批判などを書き込むと大量の攻撃的な書き込まれるようになり、選挙前にX(旧ツイッター)上はすでに斎藤擁護派が制圧し、大きなうねりを作っていました」
……
兵庫県知事選で再選を果たした斎藤元彦知事が2期目の県政をスタートさせたが、失職に追い込まれる理由となった告発文書問題は終わっていない。真相を究明している県議会の調査特別委員会(百条委員会)は来年2月に最終報告書を発表する方針だが、関係者に脅迫的な抗議が続いている。県議の丸尾牧さん(無所属)は12月14日、大阪市内で開講した「うずみ火講座」で、デマ動画が流され、それを信じて数多くの誹謗中傷が届いている現状を語った。
百条委は6月、元西播磨県民局長(7月に死亡)が作成した告発文書の真相究明と公益通報について検証するために設置された。斎藤氏への証人尋問は8~9月に2回行われたが、「知事と幹部職員との答弁にすれ違いがあった」と丸尾さんは振り返った。
事実関係を調査するための第3者委員会の設置について、元副知事の片山安孝氏が百条委で「総務部長から知事に言った」と証言したが、斎藤氏は「進言はなかった。話は出たかもしれない」とはぐらかした。総務部長が「公益通報の結論を待ってから処分すべき」と進言したことについて、斎藤氏は「私の記憶ではない」と答えている。
道義的責任を問われた斎藤氏は「道義的責任が何かわからない」と開き直った。県議会は知事としての資質に欠けるとして全会一致で不信任を議決、斎藤氏は失職した。
丸尾さんは「9月頃から著名人が斎藤氏擁護をはじめ、急速に拡大していった」と指摘する。「百条委で追及した県議を徹底的に批判。斎藤氏に不利な事実や批判などを書き込むと大量の攻撃的な書き込まれるようになり、選挙前にX(旧ツイッター)上はすでに斎藤擁護派が制圧し、大きなうねりを作っていました」
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統合失調症の症状があらわれた姉と、その事実を認めず精神科の受診から遠ざけた父と母。弟の藤野知明監督(58)=札幌市=が20年にわたって家族を記録したセルフドキュメンタリー映画「どうすればよかったか?」が公開され反響を集めている。正解のない重い問いかけが、見る者の内面を揺さぶる。 (栗原佳子)藤野監督は札幌在住。研究者らに先祖の遺骨を持ち去られたアイヌの人々の闘いを描いた「とりもどす」(2019年)など、マイノリティに対する人権侵害をテーマとした作品を制作してきた。
「どうすればよかったか?」は初めて家族にカメラを向けたドキュメンタリー。映し出されるのは、社会から隔たれた家の中での藤野監督、8つ上の姉。両親の20年だ。
両親は医師で研究者。姉は成績優秀で、絵もピアノも得意。両親と同じ医学部に進むが、24歳になった1983年春、突然、大声で脈絡のないことを叫び出した。
高校生だった藤野監督は母と119番通報。姉は単身赴任中の父の指示した病院の精神科に搬送された。しかし、翌日、父は姉を退院させた。「全く問題ない」と。
統合失調症が疑われたが、両親は頑なに否定。「正常だが、勉強ばかりさせた両親に復讐するため病気のようにふるまっているだけ」と、説明するようになったという。
両親に説得を試みたが解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。関東で就職したが、映画学校へ入り直し、2001年頃から帰省のたび、ビデオで家族を撮影するようになった。「もしかしたら精神科医が見つかるかもしれない。その時のために証拠として記録しなければ」という思いだったという。
……
2024年10月9日、14時から取材させていただくことになっていたので、ちょっと前に約束の普天間基地爆音訴訟団の事務所に向かっていた。事務所近くの信号に来たとき、信号待ちしようとしたら、比嘉さんが私を陰に呼んでくださった。実は10日ほど前にお会いして、正式に取材のお願いをしていたのであるが、今日、親しく接してくださって、う
れしかった。
この日はかなり日が照っていて、比嘉さんは陰で信号待ち。私も陰に行って、まもなく始まる衆議院選挙のことなど話し合った。
比嘉さんとの出会いを少し
24年8月13日は沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事件から20年。
8月11日に「沖縄国際大学ヘリ墜落から20年を振り返るパネルディスカッション」が沖国大で開かれ、参加。ヘリ墜落当時、宜野湾市の基地政策部長をしていた比嘉さんがパネ
リストとして発言された。ずっと前に比嘉さんのお話を沖縄タイムスの 記事で読ませていただ いたような記憶があっ て、閉会後、後日、お話を聞かせてくださいとお願いした。
……
北京郊外で盧溝橋事件が勃発し、日中が全面戦争に突入した1937(昭和12)年。芸能界を揺るがす事件が起きた。稀代の美男スターとして一世を風靡していた林長二郎(本名・長谷川一夫=当時30歳)が、顔を切られたのだ。
鋭利な剃刀でつけられた傷は2カ所あって、左目の下から上唇にかけて長さ12㌢。もう一筋は左耳下から鼻下にかけて斜めに、長さ10㌢、深さ2㌢、骨髄に達する重症だった。同年11月13日付の東京朝日新聞の見出しは「〝生命の顔〟に大傷 長二郎斬られる 暴漢、撮影所に待ち伏せ」と報じた。
当時、京都は日本のハリウッドといわれていた。日活と松竹の2大撮影所を中心に、弱小プロダクションもしのぎを削っていた。1908(明治41)年京都生まれの林長二郎は、5歳で歌舞伎の子役に出て大好評。大正7年に上方歌舞伎の大御所、初代中村鴈治郎の門に入り、長男・林長三郎の弟子となった。鴈治郎の了承を得て、19歳で不振の松竹時代劇の救世主として映画界デビュー。林長二郎の芸名を得て、第一作の『稚児の剣法』は大ヒットした。以後、金融恐慌下の昭和2年に17本、翌3年は15本の主演、全部ヒットして松竹のドル箱となった。
……
兵庫県知事選まっただ中、私が所属する研究会の定例会がありました。メンバーのAさんが「兵庫県民ではないけれど、ネットを見て混乱しています。皆さんどうですか?」と投げかけました。Bさんは「何が真実かわからなくなってきた」といい、Cさんに至っては「演説を見に行って斎藤元彦さんと写真も撮ってきた。物腰柔らかくて、こんな人がパワハラするかなと思った」と語りました。
研究会のメンバーは複眼的にものを見るタイプの人たちだけに、「こういう人たちも揺さぶられている」と危機感を持ちました。とはいえ、ここで終わってはいけないと、不信任決議までの流れを改めて話しましたが、ネットで得た情報をもとに、真実は他にあるのではとAさんに反論されました。選挙後、Bさんが「斎藤知事が当選するなんてショックだった」とメッセージをくれて、冷静になってくれた人もいたことに少し救われました。
ネット問題と長く向き合ってきたものの、地元の身近な選挙が県外の人間におもちゃにされる日がこうも早くやってくるとは思いませんでした。まずはどんな情報に反応したのかを知る必要があると、地元の人と話すたびにそれとなく聞いてみました。「アンケートだけで知事を責めるのはどうか」「県議会が全会一致なのも妙だ」「立花孝志候補の言動で迷い出した」などなど。特に告発者である元県民局長の、プライベート情報の暴露(立花氏の一方的な主張)で、「亡くなったのは自分の秘密が知られたからで知事のせいではなかった」と思い込み、「マスコミ憎し」「頑張れ斎藤」につながっていく流れを感じました。
……
103万円の壁よりも
非正規雇用の待遇改善
千葉県 白井政幸
私の職場は「ブラックフライデー」というアメリカからの押しつけ、感謝祭の翌日金曜日から安売りというわけのわからない行事に振り回され、12月に入るとスーパーセールが4~12日あり、そのままクリスマスと年末年始の繁忙期を迎えます。
しかし、倉庫内にある商品の中から出荷指示のあったものを集める「ピッキング」と梱包、仕分けの仕事に従事する人員が常に不足しています。理由としては、「軽作業」と募集しているのに大きくて重い商品を扱うなど、作業のほとんどが重労働であること、定時に仕事は終わるはずが、倉庫に商品を預ける店舗(業者)の都合で届くのが大幅に遅れ、その分現場の負担が重くなることです。気がつけば、働いているのは高齢者や女性、外国人だけになりました。
長時間働いて手取りを増やしたくても、キツイ作業に耐えられず、体も心もおかしくなるとの理由で、当日欠勤が増えています。職場がまともに回らなくなり、他の派遣会社からのスポット応援に頼らざるを得ないのが実情です。
国会では、手取りを増やすとか言って「103万円の壁」を動かすと言っていますが、学生がアルバイトとして昔ならやっていた倉庫作業は今では誰も選びません。産業構造の変化で体を動かさなくても頭で稼げる仕事がいくらでもあるからです。もっとも頭を使うことが苦手な若者が闇バイトに引きずり込まれることもありますが。
今では店舗に行かなくても物が買える便利な社会になりましたが、支えているのは何かということをもっと考えてほしいです。
(物流センター倉庫内での過酷な就労環境はしばしば問題視されています。ネットで検索すると、「立ったままの作業で体力的にきつい」「スマホの持ち込みが禁止されるなどセキリュティーチェックが厳しい」「リーダーに見張られていて怖い」「私語は禁止」「基本的に勤務時間を選ぶことができない」などと出てきます。白井君の心が折れないか、心配です。くれぐれも無理しないで)
……
いよいよ年末の雰囲気がしてきました。皆様にとってこの1年間はどのような日々でしたでしょうか。
一つひとつの出来事を振り返ると、その瞬間はしんどいなあ、これは大変だなあと不安を覚えても、どうにか乗り越えられたこともあれば、何とかなると思っていたのにうまくいかなかったこともあった。年齢的にも、そんなに体力が持続できなくなってきた。 そうなると、くじけることも少なくなかったように思う。まあ、そんな時にはまず素直に落ち込むことに限る。大きな失敗をしたのなら原因があるのだから、それが何なのかと探すには冷静に考える時間が必要だ。だから、落ち込むこと自体、悪いこととは思わない。
しんどいなあと感じた時、皆さんはどのように解決していますか。人にもよるでしょうが、案外ストレス発散をしようと、飲食や飲酒、カラオケなどでしょうか。気持ちを外に向けて発散した方がスッキリとさせることができるでしょうから。
世の中は、何となく薄暗さを感じる時代ですが、何か誰かに話したくなるようなことはありましたか。どんなに小さいことでも、ホッとしてニコリとすることってなかなかないですよね。もしかすると気がつかないで見過ごしてしまったかもしれません。
……
今年は、私の大好きな絵本作家が次々に天に召されました。中川李枝子さん、せなけいこさん、そして谷川俊太郎さん。イラストレーターNoritakeさんと手がけた絵本が『へいわとせんそう』。谷川さん87歳の時の作品です。
表紙に描かれているのは、真っすぐ口を結んだ少年の顔。ページを開くと、見開き12ページまでは、左のページに「へいわの○○」、右のページに「せんそうの○○」と対比して描かれています。○○は「ボク」「ワタシ」「チチ(父)」「ハハ(母)」「かぞく(家族)」「どうぐ(道具)」「ぎょうれつ(行列)」「き(木)」「うみ(海)」「まち(町)」「よる(夜)」「くも(雲)」と続きます。 手に取る前に、それらをNoritakeさんがどのように描いているのか想像してみてください。私は、せんそうの「チチ」と「ハハ」の描き方の違いが興味深かったです。道具も行列もへいわとせんそうとして比べると、こう描かれるのかと感心します。 雲の次からは、左右の比較ではなく、「みかたのかお」と「てきのかお」は左に言葉、右に絵です。ここから画家のイメージが一気に絵本の後半を読み手に引き寄せていきます。「あさ(朝)」、そして最後は「あかちゃん」です。「てきの赤ちゃん」と「みかたの赤ちゃん」って? と最後のページまで吸い寄せられるように絵本のページをめくっていきます。象徴的な状況をシンプルに提示しているだけなのに、くみ取れるものは限りなく深いです。
……
「能登のムラは死なない」(藤井満・著) 藤井さんは元朝日新聞記者。輪島支局に駐在した2011~15年、奥能登の農山漁村を訪ね歩いて住民の生業や文化を丹念に取材した。元日の地震から40日後に再訪し、月一回、かつて取材した人たちに再会し、被災した様子や避難所生活の不安などに耳を傾けてきた。復旧半ばの9月には豪雨に見舞われた。ムラは復活できるのか、との問いかけに、藤井さんはこう書いている。「能登のムラには『逆境でも生き抜く粘り強さをともなうやさしさ』がある」
(農山漁村文化協会 1980円)
「自民党〝裏金〟事件 刑事告発は続く」(上脇博之・著)
政党交付金の導入と引き換えに廃止されたはずの企業・団体献金。政治資金パーティーも「抜け穴」の一つだった。「しんぶん赤旗日曜版」のスクープを契機に、派閥の政治団体と所属議員を告発した上脇さんの新作。政治の独裁化に対する「抵抗運動」の記録であり、裏金づくりをなくすための政治改革も提案している。副題の「民主主義をあきらめない」。上脇さんの原動力だ。巻末に事件の発端となった告発状も掲載されている。
(日本機関紙出版センター 1650円)
駆け足の沖縄取材。12月7日にはキャンプシュワブ前で毎月第1土曜日に行われる「辺野古大行動」に参加した。46回目だという。小雨模様だが、キャンプ・シュワブ前はのぼりや横断幕、そして人、人、人。各地から700人が集まったという。沖縄選出の野党議員でつくる「うりずんの会」の5人も全員参加、玉城デニー知事のメッセージも読み上げられた。テント前の看板の数字は「3807日」。辺野古の海でボーリング調査がはじまり、座り込みが始まってからの日数だ▼キャンプシュワブ前に来たのは一昨年10月の「ひろゆき」発言以来だった。夕方、テントに人がいない時間帯にわざわざ訪れた彼は、抗議行動を揶揄する書き込みをSNSに投降。ピースするその傍らに写っていた看板には「3011日」とカウントされていた。ここでは連日、座り込みの市民が機動隊にごぼう抜きされている。そんな中、この10月にも、漫画「社外取締役 島耕作」で、抗議の市民がアルバイトで日当をもらっている、と、使い古されたフェイクがまことしやかに再生産された。お金など出るわけがない。みな自腹だ▼「辺野古大行動」は県庁前発着の「辺野古バス」で往復した。17年から抗議行動の市民を運び続け、辺野古、名護市安和、本部町塩川へも向かう。貸し切りバスの料金が値上がりし、毎日の運行が厳しくなったとも聞いていたが、特に高齢の市民にとっては貴重な足。車内ではカンパ袋が回る。一時期より参加人数が減る一方で、抗議の現場にはうるま市の宮城島、中城湾港も加わっている。来年は辺野古新基地建設問題の取材も続けなければと思う。最後になりましたが、良いお年を。(栗)
11月13日(水)
矢野 午後、「びわこ南部地域商工関係団体同和対策・啓発推進協議会」主催の研修会で「差別の現状と差別用語」について講演。大阪駅から草津駅で草津線に乗り換え栗東市役所へ向かうが、人身事故で遅刻。後日、「もっと話を聞きたかった」との感想が。
栗原 兵庫県知事選の取材で、阪神御影駅前で斎藤元彦候補と立花孝志候補の街宣に。
11月14日(木)
矢野 前日に続いて滋賀県へ。午後、県立膳所高2年生360人対象の人権学習。10年連続で今回は「沖縄戦を取材して」と題して講演。嬉野公人校長から「来年もお願いします」。
11月15日(金)
矢野 夜、兵庫県知事選の取材で、JR尼崎駅前で稲村和美候補の街宣に。偶然会った丸尾牧県議に情勢を聞く。
11月16日(土)
午後、大阪市北区のPLP会館で与那国島在住の山田和幸さんを講師に迎えて「うずみ火講座」。演題は「与那国島で何が起きているのか」
11月18日(月)
……
2025年4月に開幕予定の「大阪・関西万博」の費用が、また増額されました。チケットの売り上げで賄う「運営費」も思うように売れず、赤字の懸念も出てきました。では、誰がそのつけを払うのか……。
新年のスタートを飾る「うずみ火講座」は2月8日(土)、「大阪・関西万博『失敗』の本質」(ちくま新書)の編者でノンフィクション作家の松本創(はじむ)さんを講師に迎え、大阪市北区のPLP会館で開講します。
松本さんは「誰が『橋下徹』をつくったか―大阪都構想とメディアの迷走」で日本ジャーナリスト会議賞、「軌道―福知山線脱線事故JR西日本を変えた闘い」で講談社本田靖春ノンフィクション賞、井植文化賞を受賞しています。
元大阪日日新聞記者の木下功さんら4人の共著で出版した「大阪・関西万博『失敗』の本質」は、政治・建築・メディア・経済・都市の五つのテーマごとに大阪万博が抱える問題点を洗い出し、検証しています。松本さんは「都市」を担当し、大阪の都市政策の成功と失敗、カジノ問題についても深く切り込んでいます。
【日時】2月8日(土)午後2時半~4時半 ※懇親会あり
【会場】大阪市北区のPLP会館4階(JR環状線「天満駅」から南へ徒歩4分、地下鉄「扇町駅」から徒歩3分)
【資料代】1200円(読者1000円)
3月のうずみ火講座は8日(土)午後2時半~同じくPLP会館で開きます。講師は未定ですが、「大阪大空襲から80年」について考えたいと思います。
まだ先ですが、4月5日は恒例のお花見集い。場所は大阪城公園の教育塔辺りを考えていますが、「ここが穴場ですよ」「ご一緒しませんか」などの情報や提案があればお寄せください。次号でさらに詳しくお伝えしますが、今から予定に入れておいてください。