80年前、広島、長崎で原爆に遭った人たちの中には外国人も多く含まれていた。特に朝鮮半島出身者は被爆者総数の1割と推計される。戦後、帰国するなどした被爆者は長く援護の枠外に置かれ、国内の被爆者と同等の支援を受けられるようになったのはわずか10年前。日本に次ぐ被爆者が暮らす韓国で、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川(ハプチョン)郡などを訪ねた。
韓国第二の都市・釜山から車で約2時間。慶尚南道陜川は山あいにある風光明媚な町だ。4月下旬、朝鮮半島の文化を学ぶ神戸の市民サークル「むくげの会」のスタディツアーで訪ねた。
田園風景の一角に、2階建ての陜川原爆資料館があった。出迎えてくれたのは在韓被爆者団体の「韓国原爆被害者協会」陜川支部長の沈鎮泰(シム・ジンテ)さん(82)。「遠いところをありがとうございます」と一行を労い、自己紹介した。
「私は広島で生まれました。当時3歳、日本の満年齢では2歳です。広島、長崎の原爆被害者の10%が韓国・朝鮮人です。特に、この陜川は『韓国のヒロシマ』と呼ばれています」
韓国原爆被害者協会の推計では、広島、長崎で朝鮮半島出身者7万~10万人が被爆。うち4万~5万人が死亡し、2万3000~4万3000人が解放後の祖国に帰ったという。
太平洋戦争末期の広島市、長崎市には、合わせて人口の1割にあたる朝鮮人がいたとされる。
広島市は日本有数の軍事都市。日本統治下で生活基盤を失った朝鮮人が、生きる糧を求め、数多く移り住んだ。1944年になると徴用、徴兵で駆り出され、広島では何千人もの朝鮮人青年が軍需工場で働かされた。長崎市も造船所や兵器工場などが集まる重要都市。三菱長崎造船所だけで約7000人が徴用された。
韓国原爆被害者協会は在韓被爆者の7~8割を陜川出身としている。陜川は「韓国のヒロシマ」と呼ばれ、協会の本部もここにある。なぜ広島に陜川の人々が集住していたのか。初期に移り住んだ出身者が親せきを呼び寄せたり、同郷の人たちが頼ったりして、雪だるま式に増えたという。ま、協会に登録する在韓被爆者は約1600人。240人あまりが陜川で暮らしている。
陜川原爆資料館は2017年、陜川郡が設立した韓国唯一の原爆に関する公的な資料館。1階が展示室、2階は資料室だ。展示室に入ると、原爆投下後の広島市内の様子が再現されていた。ジオラマや写真、映像で原爆の実相を伝える。ガラスケースには通帳などもあった。持ち主は預金を引き出せず、手ぶらでの帰国を余儀なくされたという。
資料室にはカルテや証言など個人のデータ、日本での裁判記録、新聞記事などが収められている。在韓被爆者の苦難の歴史だ。
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自民党の西田昌司参院議員がひめゆりの塔の説明書きを「歴史の書き換え」などと発言し、沖縄県議会が抗議決議を可決するなど批判が高まっている。また、参政党の神谷宗幣代表が「日本軍は県民を殺していない」と発言、沖縄県内からも、中山義隆石垣市長が「集団自決」について「自ら進んでした人もいる」と持論を述べるなど、史実を歪める発言が相次いでいる。沖縄戦を巡っては、教科書記述でも、日本軍の加害行為を隠そうとする動きが繰り返されてきた。20年前には、沖縄戦最大の悲劇とされる「集団自決」が標的となり、沖縄社会を大きく揺るがした。
那覇の西方約40㌔に点在する慶良間諸島。3月26日、座間味島で、28日には渡嘉敷島で、各村が主催する慰霊祭が行われた。座間味島の慰霊祭には県知事として初めて玉城デニー知事が参列。「激しい空襲や艦砲射撃、地上戦、そして島の住民が凄惨な『集団死』に追い込まれるなど、かけがえのない命が奪われた」と追悼の辞を述べていた。
80年前、米軍は沖縄本島上陸に先駆け、慶良間諸島を攻略。1945年3月23日から空襲や艦砲射撃を加え、26日に座間味島など、27日に渡嘉敷島に上陸。26日に座間味島、慶留間島、28日には渡嘉敷島で、家族同士で手をかけ合う「集団自決」が起きた。座間味島で177人、慶留間島で53人、渡嘉敷島で330人が亡くなった。銅山があった屋嘉比島でも2家族が死亡した。
慶良間諸島には44年9月に海上特攻の部隊である陸軍海上挺進戦隊が配備された。島々は秘密基地と化し、軍は住民に米軍への恐怖心を植え付けた。「軍官民共生共死の一体化」の方針のもと、投降を許さず、もしもの時は自決せよと、米軍上陸前には手りゅう弾なども配った。スパイ視された住民の殺害も相次いだ。
20年前の「集団自決」をめぐる激震は、住民が辛い記憶を抱えて生きる慶良間諸島からはじまった。
2005年春、自由主義史観研究会が沖縄戦の「集団自決」につながる軍命を、教科書から削除させる運動を開始した。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」と並ぶ、軍の名誉を傷つけるものと位置づけた。
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第32軍首里撤退後の南部を中心に沖縄戦を考える視点から、近年は地域史編纂の深化と戦争遺跡への注目によって、中部でも新たな視点による平和学習が可能になってきた。今回紹介するのは日本軍が第32軍司令部の前進基地として陣地を構えた宜野湾―中城―西原ラインの東側。米軍が読谷村から上陸後、激しい戦闘が繰り広げられた地域だ。戦局を意識しながら、住民の沖縄戦を考えたい。
現在、私が働く琉球大学千原キャンパス1112万平方㍍は全国屈指の広さだ。西原町にあり中城村(なかぐすくそん)、宜野湾市に接する。かつての姿を留める森や池が残る。標高は131㍍。宜野湾市の向こうに広がる東シナ海、中城村と太平洋が見渡せる風光明媚な場だ。
沖縄島の石川以南に広がる亀甲羅(カーミーグーフ)と呼ばれる丘陵の連なりの一つだ。各地の丘陵に米軍を迎え撃つ日本軍陣地が構築された。
宜野湾市嘉数、中城村、西原町は首里にある第32軍の前進基地となった。中城村は、海岸に面する平野部と中央部の丘陵で形成されている。1945年3月23日、空爆によって中城村役場や学校、集落が炎上。4月2日に米軍は村内に到達した。
中城村が2014年に初めて村文化財に指定した戦争遺跡「161・8高地陣地」は北上原にある。自然の岩に見えるよう偽装して、住民を動員して構築した。元々は奥間集落の拝所「キシマコノ嶽」。その上部に陣地がある。地域の発祥の地として住民が大切にしてきた場所に、陣地が造られたのだ。
沖縄戦時、同陣地には歩兵と無線部隊の将兵140人がいた。「敵情視察」「(米軍の)前進遅滞」、前線部隊の支援を目的とした。米軍は4月6日に同陣地を猛攻撃、日本軍は馬乗り攻撃を受けて多数の兵士が死傷した。残った兵は南西の142高地(イシグスク)へ撤退した。
南上原にいた防衛隊男性は50㍍先に迫った米兵を目がけて部隊が一発撃つと機関銃部隊の総攻撃をうけた。「一時間もたたないうちに、もうほとんどがやられてしまってですね、ちりぢりばらばらになってしまってですね……」(喜屋武美則さん証言『沖縄県史9』)
琉大東側の南上原糸蒲(いとかま)公園。眺望が良く、遊具があるので親子連れに人気だ。糸蒲は同所にあった寺の名前。周辺は松原の続く風光明媚な場所だった。
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在日朝鮮人史研究者の塚崎昌之さんが亡くなってまもなく2年。学習会「塚崎塾」最後のフィールドワークだった大阪城戦跡探訪を5月10日に行った。35人が大阪城公園内に残る戦争遺跡をたどった。
大阪は明治から敗戦時まで「軍都」だった。
1870(明治3)年、官営の兵器製造工場「兵部省造兵司」が大阪城三の丸に創設された。後の大阪砲兵工廠である。明治政府に建言したのは、軍政を統括する兵部省の事実上のトップ大村益次郎。大阪に兵部省の機能を移し、兵学寮(幹部養成学校)、造兵司(軍需工場)の建設を構想した。大村は凶刃に倒れたが、77年の西南戦争で、大阪は政府軍の拠点となる。
その後、日清、日露戦争を経て、大阪砲兵工廠は次第に拡張され、現在の大阪城公園、大阪ビジネスパーク、UR森之宮団地、JR西日本森ノ宮電車区や大阪市営地下鉄森之宮検車場一帯に広がった。巨大な兵器工場が建ち並び、大砲や戦車などが製造された。最盛期には一般工員のほかに動員学徒、女子挺身隊ら6万4000人が働いており、強制連行などで集められた1300人を超える朝鮮人も含まれていたという。
アジア・太平洋戦争末期、大阪への空襲は50回を超え、うち100機以上のB29爆撃機による大空襲は8回を数えた。1945年8月14日午後1時16分から2時1分にかけて145機のB29が次々に来襲。米軍資料の「作戦任務要約」によると、1㌧爆弾と500㌔爆弾の計707㌧を投下し、8割近い650発が命中したという。
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兵庫県の文書問題を審議した百条委員会の委員長だった奥谷謙一県議(自民)とともに、委員の丸尾牧県議(無所属)は3月末から「死ね」という内容の1万件を超える激しいメールの誹謗中傷攻撃を受け、被害届を出した。
−−−−脅迫メールの経緯をお聞かせください
丸尾 三重県で共産党の女性県議が生理用品を各トイレに設置すべきと主張して批判され、3月28日から殺害予告の脅迫メールが1分ごとに来たそうです。同じ頃、斎藤知事を批判的に発信しているジャーナリストにも脅迫メールが届き、彼の発信をある人がリツイートしました。ここで3月30日に私がコメントしたのです。「ジャーナリストに対してであれ、斎藤知事に対してであれ、そういう脅迫は許せない。警察が速やかに動くべきだ」との内容です。
すると翌朝から誹謗中傷メールが届き始めました。「とっとと自殺しろよ、ゴミ野郎」と6通。その後、「お前も県民局長みたいにとっとと自殺しろよ」。これらがタイトル部分で、メッセージ部分は「早く、早く」でした。中傷メールは4月8日までの9日間で合計約1万2400通です。
アドレスはすべて「Saitofan」とあり@以下はどこかの会社のアドレスを乗っ取った感じです(筆者注・NHKの調査では都内の印刷会社)。「斎藤ファン」とはいかにもシンプルですが、自動発信でしょう。私のコメントが犯行動機かなと思いました。
迷惑メールに設定し、目には入らないのですが、すさまじい数でパソコンがパンクしかねない。証拠として残さなくてはならないので完全消去もできず、迷惑メールに移し替える作業が必要でした。パソコンを開くたび「何が来てるんだろう」と心理的負担があった。
……
前号で触れようと思っていたが、締め切りの関係で書けなかったことを書かせていただく。今となってはすべて報道されていることばかりだから、「何だそんなこと」になるが、どうしても書いておきたい。
それはアメリカのトランプ大統領の関税暴走をはじめとする石破首相ら政府関係者、与野党政治家の狼狽ぶりと能天気さについてである。根本的には敗戦後日本の政府、政治家にしみついているアメリカに対する情けないまでの追従、追随、屈従に起因していることである。
トランプ大統領が得意満面で関税政策を打ち出したが、あんなことをすればアメリカ経済も産業も大変なことになり、アメリカ国民が物価高や物不足でひどい目にあうことがわからないのか、表面的にはとんでもない政策を打ち出した、えらいことだという顔をしても、あわてず各国の対応やアメリカ国内の状況推移を見ながらじっくり対応すればいいのに、政府与党だけではなく野党指導者までもが狼狽して大騒ぎした。
直ちにアメリカに人を送って日本が大変なことにならないようトランプ大統領に申し入れるなど交渉すべきだと大騒ぎした。日本経済の中心である自動車輸出に影響が出る。あんな高い関税をかけられないよう働きかけるべきだと叫んだ。それこそ、それ行け、やれ行け状態になった。これこそトランプ大統領の思うつぼではないか。こんなものにはまってどうする。
すべてがいいとは思わないが、なぜアメリカ車が売れずに日本車が売れるのか、それは品質、機能、低燃費、価格などで日本車の方が優れていて、アメリカ国民が買ってくれるからである。他国とも連携を取って、これまで積み重ねてきた世界の貿易ルールを大切にしようではないかと働きかけるべきなのに、トランプ大統領と同様に自国利益だけを前面に押し出して騒ぎまくった。
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4月11日、レバノンの首都ベイルートから峠を越えてベカー高原を走る。わずか2時間のドライブでシリアとの国境。「シリア入国の目的は何だ?」入国審査で尋問される。アサド政権時代のシリアは警察国家で、ジャーナリストの入国に神経を尖らせていた。 「こりゃ長期戦になるな」。数時間は取り調べられるだろうと覚悟していたら、すんなり許可が出る。アサド亡命後の暫定政府は門戸を広げているのだろうか?期待が膨らむ。
10年ぶりのシリア、国道沿いにアサドの似顔絵が描かれていたのだが、全て削り取られている。国境から45分でダマスカスに到着。ベイルートからここまでわずか3時間。
もともとベイルートは古都ダマスカスへ物資を届けるため、地中海に開かれた港町なのだ。この2都市は姉妹関係にある。第1次世界大戦でドイツと組んだオスマントルコが敗北し、勝利した英仏が秘密協定で国境線を引く。仏はキリスト教徒の多い地区をレバノンに、それ以外をシリアに分けた。こうしてベイルートとダマスカスは別の国となったが、「元々は一体」で近いのだ。ちなみにこの時、英国はイラクとヨルダン、そしてパレスチナを奪った。パレスチナに住むアラブ人にも、世界中に散らばって住んでいたユダヤ人にも国家建設を認めた後で、英国は宗主国としての責任を果たさず、パレスチナから逃げ出した。これが現在のガザ戦争につながる原因だ。英仏の責任こそ追及すべきなのだが、そこが(わざと)忘れ去られるような教育と宣伝が行われ、結局「被害者であるアラブとユダヤ」が互いに憎み合い、殺し合うという構図なのだ。
首都ダマスカスはあちこちに銃を担いだ兵士と検問所。13年間も激しい内戦が続いたので武器があふれているのは仕方がないが、早く「刀狩り」をしなければ、何かのきっかけでまた内戦が勃発してしまう。それほど内戦は悲惨だった。人々は復讐心を必死に抑え込んで、今の平和を維持している。では内戦の爪痕を順に見てみよう。
「平和なダマスカス」から北東へ車で小一時間、カブーン地区に入る。甲子園球場が何十個も入る広大な街が全て破壊されている。イラクやアフガニスタン、リビアにスーダン、ソマリアと、さまざまな「瓦礫になった街」を見てきたが、これほどまでに広大で徹底的な破壊は見たことがない。ではなぜこんなことに?
……
4月30日、定期検査中の関西電力高浜原発3号機で、協力会社の男性作業員が原子炉格納容器内の核燃料移送用プールに落下し、腰の骨を折るなどの重傷を負う事故があった。幸いプールには核燃料は入っておらず、男性は放射性物質を含んだ水を浴びたものの、除染後の被ばく線量は身体への影響がないレベルだったという。事故の原因は、プールへの開口部がシートで覆われているだけだったためで、作業員が気づかずに落下した。関電では、2008年にも大飯原発1号機で同様の事故があった。
日本の原発のほとんどは軽水炉だが、大きく分けると沸騰水型(BWR)と加圧水型(PWR)がある。11年に破局的な事故を起こした福島第一原発はBWRだった。事故後、次々と再稼働した原発はPWRである。関電も、保有する全ての原発がPWRだ。
BWRが原子炉の中で発生させた蒸気を直接タービンに送って発電するのに対し、PWRは原子炉の中で発生した高温高圧の水を蒸気発生器に送り、そこで蒸気を発生させてタービンに送り発電する。
BWRは、直接核燃料に触れて放射性物質を含んだ水蒸気でタービンを回す。PWRは、格納容器内の蒸気発生器で水蒸気を発生させて循環させるため、タービンを回す水蒸気には放射性物質が含まれない。大きなメリットである反面、格納容器内に原子炉の他、加圧器や蒸気発生器などを設置するため複雑な構造にならざるを得ない。今回の事故が、そのために起こったとは言えないものの、PWRの場合は、保守・点検が大変なことは事実である。
PWRの主要メーカーである三菱重工は、蒸気発生器で主蒸気系を原子炉冷却系から隔離しているため、津波に襲われても放射性物質を含まない蒸気を大気放出して、自然循環で原子炉を冷却できる耐性があると自負する。そのため福島第一原発事故後、まずPWRから再稼働が認められてきたのだが……。
日本の原発は1970年代から建設、稼働が本格化した。多くの原発は設計時、耐用年数を40年と想定して造られたが、福島第一原発事故以前は、原発の寿命について特に法律の規制はなかった。だが、最初に爆発事故を起こした1号機が運転開始から40年を経た老朽原発だったことを受け、2012年に原子炉等規制法が改正され、原発の運転期間が40年と定められ、1回に限り20年を超えない期間で延長できるとされた。つまり、福島第一原発事故の教訓の一つとして、いわゆる「40年ルール」ができたのであった。
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戦時中、朝鮮半島から動員され、群馬県内の鉱山などで強制労働させられ亡くなった朝鮮人犠牲者を追悼する集会が5月17日、前橋市内で開かれた。市民約100人が花を手向け、壇上には昨年1月、県の代執行で撤去された追悼碑の写真が掲げられた。
追悼碑は「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑」。県の許可を得て2004年、県立公園「群馬の森」に完成したが、12年頃から排外主義を唱える団体からの攻撃が始まり、県は10年ごとの更新申請を不許可とし、自主撤去を求めた。
追悼集会で「強制連行」の文言を用いたことが、許可条件の「政治的行事を行わない」に違反したとの理由で、守る会は不許可処分を不服として提訴。18年の前橋地裁判決は県の不許可を「違法」としたが、21年の東京高裁判決は一転、「適法」。22年、最高裁は守る会の上告を棄却し、東京高裁判決が確定した。
守る会はその後も碑の存続を求めて県との交渉を繰り返したが、県は司法判断をたてに昨年1月29日、行政代執行に踏み切った。
追悼集会は、群馬の森に碑が設置されてから毎年開かれており、今回で21回目。守る会は解散。追悼碑に思いを寄せる市民らが新たな組織に向けて準備委員会をつくり、この日の追悼集会を開いた。
旧守る会共同代表の宮川邦雄さんは「追悼碑が撤去され、失意の中にいたが、全国的に大きな反響があり、そんな中で新たな組織を設立しようと準備会が発足した。それから1年。この追悼集会は新たな組織への橋渡しでもある。追悼集会を継続するだけでなく、戦前戦中、そして戦後を検証していきたい」とあいさつした。
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「学者の国会」とも言われる日本学術会議を国の機関から切り離し、法人化する法案が5月13日、衆院本会議で自民・公明両党と維新の賛成多数で可決、参院に送られた。1月に法人化のための協議中止を求める要請書を石破首相と学術会議の光石衛会長に送った岡山大の野田隆三郎名誉教授は「学術会議が法人化を認めて政府と協議した段階で敗北だった」と語った。
日本学術会議は、日本の科学者を代表する機関として1949年に設立。前身である「学術研究会議」が戦争に協力した反省から政府から独立し、国の政策に対し科学的観点から提言を行う。会員は210人。人文・社会科学系、生命科学系、理学・工学系の3分野で各70人ずつ選ばれ、任期は6年。3年ごとに半数が交代する。学術会議からの推薦に基づき、首相が形式的に任命してきた。
事の発端は2020年10月、当時の菅首相が会員候補6人の任命を拒否。いずれも安保関連法や「共謀罪」法に反対した学者だったことから、「学問の自由の侵害」だと国会で取り上げられたが、政府はいまだに拒否の理由を示していない。
自民党は学術会議の組織見直しの必要を主張。独立性を求める学術界の意向を逆手に取るように、法人化する法案を今国会に提出した
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●映画「桐島です」
連続企業爆破事件で指名手配され、49年間の逃亡生活の末、70歳で死亡した「東アジア反日武装戦線」メンバー、桐島聡を描いた映画「桐島です」(高橋伴明監督)が7月、全国公開される。主演の桐島を、ドラマや映画で注目される若手の毎熊克哉が演じた。
桐島は数十年間、「ウチダ」の偽名で、神奈川県藤沢市内の工務店に住み込みで働いていた。健康保険証を持たず、昨年1月、病院に運び込まれた時にはすでに胃がんの末期。本名を明かした3日後に死亡した。
桐島は1975年4月19日、銀座の「韓国産業経済研究所」ビルに爆弾を仕掛け、爆発させた事件に関与したとして全国に指名手配されていた(被疑者死亡で不起訴処分)。
高橋監督は桐島と同世代。学生運動にも参加した。『夜明けまでバス停で』(2022年)でコンビを組んだ脚本家・梶原阿貴さんと、謎に満ちた桐島の軌跡をシナリオにした。
関西では7月4日からなんばパークスシネマ、京都シネマなど、5日から第七藝術劇場、神戸・元町映画館など。詳しくは公式サイトで。 (栗原佳子)
●OKAは手ぶらでやってくる
東南アジアで「ひとりNGO」として活動した故栗本英世さんのドキュメンタリー映画「OKAは手ぶらでやってくる」(牧田敬祐監督)が5月24日から大阪・シアターセブンで上映される。
栗本さんは人身売買や地雷の危険にさらされた人々を支援、草葺きの寺子屋を立てるなど奔走。2022年に71歳で亡くなった。牧田監督は15年以上の記録映像と、関係者の証言で、その人生を追った。「OKA」はチャンスを意味するカンボジア語。栗本さんが現地でそう呼ばれたという。
関西では京都出町座で6月6日から神戸映画資料館、豊岡劇場でも13日から上映。詳しくは公式サイトで。
●日韓基本条約 10年で声明文
日本の植民地支配への清算や強制動員に対する謝罪と賠償を求める「強制動員問題の解決と過去清算のための共同行動」が戦後80年、日韓基本条約締結60年に際し、声明を出した。
「戦争及び植民地支配で生じた人権問題の象徴の一つが朝鮮人の強制連行・強制労働」とし、「日本政府や企業が人権侵害の事実と責任を認めず、謝罪や賠償をしていないことは極めて深刻」「日本政府は自ら人権を回復するとともに企業に人権回復を働きかけるべき」などとしている。
6月22日まで賛同を募っている。声明文と賛同フォームは「強制動員解決と過去清算のための共同行動」で検索を。
概要 面積は日本の約26倍(約960万平方キロ)。米国よりやや小さい。人口は約14億人。漢民族(92%)と55の少数民族で構成。名目GDPは18兆1000億㌦(IMF推計値/2022年)。1人当たりのGDPは1万2814㌦(同)。貿易額は、輸出3兆5936億㌦、輸入2兆7160億㌦(外務省の資料)。
国の成り立ち 1945年、日本との戦争に勝利。国民党との内戦を克服し、毛沢東の主導で49年10月に建国。当初は多党制の民主主義国家だったが、朝鮮戦争休戦の53年から社会主義国に転換。3度の戦いで軍事力の遅れを痛感、重工業と科学技術の強化に乗り出す。土地改革で、集団による農村の生産力向上(人民公社)を目指すも、2000万人前後の餓死者を出すなど、大きな弊害が。毛沢東に代わり、実務家の劉少奇、鄧小平に再建が託され、市場経済の導入による「改革開放政策」を展開。低廉かつ豊富な人的資源を生かして経済は急成長、2010年に日本を抜いてGNP第2位に。この間、毛沢東による主導権の再奪取を狙った「文化大革命」や「天安門事件(第2次)」が生じ、政治経済が大きく混乱しましたが、落ち着きを取り戻し、現在に至る。習近平総書記は、高級幹部(元副首相)の息子。「四つの原則」を掲げ、政治の民主化、言論の自由化は完全に否定。政治外交で、民族問題(内モンゴル、、ウイグル、チベット、香港)や台湾との抗争、南シナ海の海洋進出など課題は山積。人口抑制のひずみ(一人っ子政策の影響)も、将来に深刻な影響が。
経済 産業構成は、第1次産業(名目GDPの7・3%)、第2次産業(同39・9%)、第3次産業(同52・8%)。
*22年の国家統計。
製造業2025 これまで低廉な労働力を活用し、海外企業が中国に生産過程を移管してきました。昨今は賃金も高騰し、他国への移転も急増。そのため、製造業の生産性向上や付加価値の拡大を目指し、製造強国に導く産業振興政策を展開。製造業のデジタル化や半導体の内製化、先端企業の助成・発展を目論んでいます。
現状の課題 地方政府も含めた財政難からインフラ投資が先細る。石炭、原油、天然ガスなども供給不足。セメント・鉄鋼、非鉄金属など、エネルギーの多消費産業への影響も深刻。化学、鉄鋼、セメント、非鉄金属など、素材産業の電力消費も大きい。マンパワーでは少子高齢化、農村の余剰人口の枯渇、高学歴者の就職難など、労働のミスマッチも目立ちます。債務問題も深刻。世界レベルの金融危機から大きな財政支出が増え、債務残高が急増。不動産業への貸出し総量規制もあり、恒大など大手不動産会社などが経営危機に。
今後の展望 米中の貿易摩擦は18年から。日本(1兆598億㌦)に次ぎ多く保有している米国債(7590億㌦=海外投資家の1割)を、高関税への武器にするのでは、との見方もありますが、難しいかと。中国人民銀行(中央銀行)は、元とドルを連動させ、輸出への影響が少ない為替政策を展開しています。海洋進出という外交と矛盾し、他国への輸出増も困難でしょう。米国の高関税政策は長続きしないと判断し、内需の拡大や財政出動、金融緩和、迂回輸出などで乗り切る方針でしょう。
これから除幕までを共著により、まとめると−−
「国内外からデザイン・アイデアを募集しなさい」と大田知事
比嘉さんたち職員は短期決戦でデザインを決める想定をしていた。しかし国際コンペに勝る手法はない。反論の余地なしであった。
デザイン・アイデア募集が決まった時点で、我々は走り出したと比嘉さん。いかに募集を知らせるかであったが、沖縄には強みがあった。県外に県人会があり、国外にウチナーンチュのネットワークがあった。
沖縄のチームが大賞
その作品は「平和の波永遠なれ」
−−鉄の暴風の波濤が平和の波となって、わだつみに折り返し行くコンセプトの作品だった。刻銘板を波型で構成し、20万余の戦没者の刻銘板が平和の波となって、沖縄から太平洋を越え世界へ平和の波を発信する力強い、美しい作品であった。
比嘉さんは−−
心の中で拍手喝采した。やはり沖縄の心に依拠するデザインであったし、コンセプトが素晴らしかった。
建設場所、建設費について
建設場所は県営平和祈念公園内と決定された。この場所は国際平和創造の杜構想で「平和の礎」が位置付けられていた場所である。
建設費については、県議会で自民党を中心とする野党から反対意見と質問があった。これに対して大田知事は政策実施の信念を繰り返し説明。最終的にふるさと事業の起債事業が導入できることもあり、賛成多数で予算は通過した。
「平和の礎」の除幕式典で参加の県民が等しく感動し、県議会で反対した議員も評価するようになった。
1995年6月23日
除幕式典当日の刻銘者数は−−
沖縄県14万7110人、沖縄県外都道府県7万2907人、米国1万4005人、大韓民国51人、朝鮮民主主義人民共和国82人、台湾28人、刻銘合計数23万4183人。後に英国人戦没者80人を追加刻銘。県内外名簿の修正追加が毎年行われている。
除幕式典後、比嘉さんは−−
式典後は多くの参列者が涙を流しながら、刻銘された名前をなぞるなど感動的な場面に遭遇する。しばらく余韻に浸りながら、いい仕事に巡り合えたと思いつつ、朝鮮半島の刻銘数の問題などの残された課題もあり、この事業に終わりはないと感じていた。(共著54ページ)
国際平和研究所の設置について
共著31ページに比嘉さんは−−−−
大田知事がこだわった地道に沖縄戦を研究し、かつ平和・人間の安全保障を研究する国際平和研究所の設置こそは、最も大事な沖縄県の果たす役割ではないかと感じている。
私はこの共著を読んで、大田昌秀さんは知事在任中の8年間で沖縄県に必要な事業をいくつも成し遂げたことを知った。ただ「平和の礎」と一体の施設として提起していた国際平和研究所は実現できなかった。
戦意高揚のための映画も多く作られた。1941(昭和16)年、対米開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃と、それに続くマレー沖海戦を描いた『ハワイ・マレー沖海戦』は大ヒットとなった。監督はP・C・L(のちの東宝)時代からエノケンの喜劇や女性メロドラマなども撮って、その職人的技術が高く評価されていた山本嘉次郎である。昭和12年に小学生の作文を原作とする『綴り方教室』を作っている。 佐藤忠男は、「私情とユーモアと観照的な眼をもって都市の最下層の人々の日常生活を描いた佳作」(『戦争と日本映画』)と評している。
東北の農村を舞台にした『馬』(41年公開)という作品がある。馬を愛して育てる一人の純真な少女と馬とのふれあいを、セミドキュメンタリー的に描いた。エノケン映画で忙しい山本監督に代わって、農村の四季おりおりの風景や、生活に根差した映像を詩的に撮ったのはチーフ助監督だった黒澤明。その映像は詩的で素晴らしいものだった。 この映画はラスト・シーンが問題だった。少女が苦心して大事に育てた馬が、馬市で陸軍に買い上げられ、少女が心から喜ぶ。陸軍の宣伝そのもののラスト・シーンでしかなく、少女の祈りまで嘘になってしまう。
41年12月8日のハワイ奇襲攻撃成功1年を記念した映画を作るよう、海軍は東宝に要請する。監督に選ばれたのが山本である。映画『ハワイ・マレー沖海戦』は、少年飛行兵の訓練をドキュメント的に撮影した。映画のハイライトは真珠湾攻撃と、2日後のイギリス艦隊とのマレー沖海戦だ。このシーンを担当したのは、『ゴジラ』の生みの親で、後年「特撮の神さま」と呼ばれる円谷英二だ。円谷は飛行機乗りを夢見た少年だったが、玩具会社などを経てカメラマンとして映画の世界に。米映画『キング・コング』を見て衝撃を受け、フィルムを独自に全巻取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究するなど、特撮に興味を持つ。
そして『ハワイ・マレー沖海戦』では撮影所内に1800坪の真珠湾をつくり、ミニチュアの艦船や航空戦で、見事な戦争スペクタルにした。このシーンは、後年「歴史探偵」の異名をとる半藤一利をして「学校総見で観たときの見事な攻撃ぶりの興奮と勝利の感激で(中略)わたくしにとっては最高に位置する傑作であったのである」というほどで観客の大喝采を浴びた。
攻撃シーンは本物そっくりに見えるが、軍隊の訓練シーンは嘘だ。暴力制裁がまったくないからだ。山本監督と円谷特撮のコンビは、続いて『加藤隼戦闘隊』と『電撃隊出動』をつくる。前者は戦闘機乗りの戦い続ける姿と、そして空で散る飛行将校への讃歌だ。後者は米国軍艦に、最初に体当たり攻撃をした飛行機乗りへのレクイエムである。
戦意高揚と言いながら、日本軍には体当たり攻撃しか残っていないまでに、追い詰められた戦線の状況が反映するほど、暗い映画となった。
知人の親戚が30代の若さで急逝しました。遺族が困ったのは、遺影に使う最近の写真が一枚もなかったことです。本人のスマホの中にはあるのでしょうが、開けることができません。家捜しして数枚の年賀状を見つけ、そのうちの1枚に書かれていた電話番号を頼りに連絡を取りました。幸いつながり、おかげで多くの写真も集まったそうです。葬儀にも友人がたくさん駆けつけてくれて、にぎやかに見送れたことが救いになったと話していました。
デジタル機器を使うことが日常になり、スマホやパソコンに保管しているものや、利用しているデジタルサービスがそれぞれに存在します。「私はほとんど使っていない」と言う人でも、よく聞くとスマホを持っていて、何かしらのサービスを利用しています。
Ⅹ(旧ツイッター)やフェイスブック、ラインなどは年配の方でもやっていますし、銀行口座をウェブ通帳に切り替える人、金利や手数料を考えてネット銀行に口座を作る人も増えつつあります。私が所属する研究会では、デジタル機器に入っている情報を、もしもの時に備えて整理する「デジタル終活」を広める活動をしています。
「デジタル終活」の第一歩は、使っているサービスをすべて書き出すことです。そしてそれぞれのID、パスワードもまとめます。今は100円均一の店でアカウントをまとめて記入できるノートも売っているので、そうしたものに書いて、利用しているサービスのアカウント情報をまずは一覧にします。
……
小3の息子連れて
沖縄戦跡ツアーへ
山梨県 金山珠美
6月の沖縄戦跡をめぐるフィールドワークに、小学3年になった息子と参加しようかと思っています。行くとしたら今年しかないとも思うのですが、「社畜」と化した私は、休み過ぎではないかと少しためらっています。
先日、国会図書館で利用者登録しようとした時のこと。18歳未満の入館は許可されないそうです。一人親は家にこもって育児しているしかないのでしょうか。図書館に行くために付き添いのシッターを雇わないといけないのでしょうか。だとしたら、マイノリティーが支払わないといけない「貧乏税」みたいなもの。だからできる限り、当たり前のようにどこにでも子連れで行くことを実践したくなるのです。
ケア責任があるかないかで、機会格差(労働格差も)があることを、なかなか気づいてもらえませんが、ケア責任がなく、何も不自由なく、知的な生活をしている人たちにも、意外な場所で子どもを見かける経験をどんどんしてもらいたいです。
子連れでいろいろなところへ行くことは「社会運動」みたいな側面もあると思っています。というか、ただフルタイムで働いて、一人で子どもの世話をしていることを人に知らせることも、社会運動です。
以前はそういう個人的な事情をおくびにも出さないことが、優秀な労働者の条件だと思っていたのですが、少しでも誰かが我慢する世の中は誰もが息苦しい社会ではないでしょうか。
沖縄いくぞー。仕事も休むし、子どもは学校を休みますが、今しかない(かもしれない)ので行きます。
(うずみ火の沖縄ツアーは子連れ参加も大丈夫ですよ。ぜひ、ご参加ください)
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世の中が11連休だと騒いでいるときに、一大事が起きた。クレジットカードの利用通知が届き、こんな買い物はしていないという明細があった。さらに、もう1枚についても、カード会社から問い合わせの電話があった。2枚のカードが同じような日時で被害に遭っていたことも怖いと思った。
2社から「カードを利用しているか、いないか」との質問があり、身に覚えがないと答えると「カードを停止して新しい番号に切り替えます」。驚いているうちに事務処理は終わった。連休中、手元にクレジットカードがないのは不安だったが、外出することもない。再び使えるようになる連休明けまで待つことにした。これ以上の被害がないことを祈りつつ、通信販売に登録している利用口座の変更手続きをした。折悪く連休が続く。カードは使えなくなっても決済はある。この1回の引き落としができない場合が起こったら、それはそれで恐ろしい。
カードの手続きが終わったので、ほっとひと息のはずだが、新たに困ったことが起きた。日頃は青果店や馬肉店のダイレクトメールが来るぐらいの静かな受信箱がとても忙しく受信し始めた。一晩で200通前後。銀行、証券会社、偽物の買い物などを知っているところなど、偽物からプロでも見分けがつかない。
メールをチェックするのも時間がかかる。タイトルだけでだいたい想像はつく。中身を見ないで削除したが、それすら面倒になってきたので、必要だと思うメールに印をつけて、一括削除した。気が短いと損をする。必要なメールも消してしまったのだ。カード会社のウェブに接続し、手続きをする必要があったのだ。
3日過ぎたころ、封書で対応してもらった。ただ削除だけでどうなるのかと不安が高まってきたのは500通にもなろうとしていた。いつまで続くのだろうか。カード会社と自分以外知らないはずのカードの話なのに、どうしてたくさんの詐欺メールが届く。
「お客様のカードが不正利用されているので」「お名前と生年月日と……」と言い出した。いろいろと裏でつながっているようだ。
(アテネパラ銀メダリスト 佐藤京子)
前号は猫の絵本を紹介しましたが、今回は犬が主人公です。表紙を見て、おや? どこかで見たようなタッチだと気づかれた方もいるでしょう。NHKのテレビアニメ「はなかっぱ」の原作者、あきやまただしさんの作品です。
表紙と裏表紙一面には脚が長く、キリっとした顔立ちの犬がスッと立っています。その後ろには何とも言えない表情で見つめる犬たち。その1匹、ケンは生まれながらの野良犬です。仲間が集まり、話題になるのは新しく来た「あしなが」のこと。脚だけでなく首やシッポまで長く美しい犬ゆえ、いろいろなうわさが付いて回ります。
「おしろみたいなでっかい家にすんでるんだって」「ごちそう毎日たべてるんだって」。野良犬たちは自分たちとは違う世界に住んでいると話し、うらやましがるのです。
「あいつはぼくたちがゴミを食べてたら、後ろに立ってニヤニヤ見てるんだ」「お高くとまってるんだ」
無責任なうわさはどんどん尾ひれがついて、ついには「あしながは生まれたばかりの小犬を誘拐したんだ。それで食べちゃった」。みんなのうわさ話を信じたケンは「そこまでひどいやつだと思わなかった。かっこいいけど最低な奴だ!」と激怒します。
夕方、ケンが晩ごはんを探していると、後ろに気配を感じます。あしながです。初めて対峙する2匹。左右のページにスッと立つあしながと、緊張と焦りに満ちた顔のケンの顔。「何か用か」と震える声で尋ねるケンに、あしながは「ここのごはん、おいしいの?」。その声は野良犬特有のがらがら声。あしながは「とても美味しいご飯のありかを知っているよ」と言って、ケンを案内します。そこもごみ置き場でした。
「き、きみも野良犬なの?」と尋ねるケンに、あしながはうなずき、今までこの場所を教えてあげる友だちがいなかったことを打ち明けます。しかも小犬の面倒まで見ていたのです。次の日も仲間たちはあしながのうわさ話で持ちきり。それを聞いていたケンはハッとして問いかけます。
「それ、だれか見たのかい?」
そして、昨日のごみ捨て場に仲間を案内し、あしながとの話をします。最後の見開きでは、背中に小犬を乗せたあしながとケンたちが向かい合い、ケンがあしながに告げた一言にホッとします。
ユーモアあふれる作品ばかり手にしていた私は、あきやまさんの見えてなかった一面をこの絵本で知りました。
(元小学校教諭 遠田博美)
「窓友新聞」時代、「韓国原爆被害者協会」名誉会長の郭貴勲(カク・キフン)さん(2022年、98歳で死去)の裁判を傍聴した。しかし、休刊になるなどしてその後、取材ができないままで、忸怩たる思いがあった。飛田雄一さんらの「むくげの会」が「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川(ハプチョン)を訪ねると知り、すぐ申し込んだ。映画制作に取り組む高賛侑(コ・チャニュウ)さんもツアーに参加していて、釜山支部の撮影に同行させてもらうことができた。支部などとの橋渡しをしてくれたのは「市民の会」の市場淳子さんだ。90年代、取材でお世話になった市民の会がいまも活動を続け、多くの課題に取り組んでいることにあらためて驚かされた。高さんの映画が完成する日が待ち遠しい。制作費の支援もぜひ。(kochanyu@hotmail.com 高さん)。(栗)
▼「軍隊は住民を守らない」――。沖縄戦に関する多くの証言や研究によって見出された教訓である。だが、侵略戦争を美化する「靖国派」には不都合な真実なようで、その一人、西田昌司参院議員が沖縄戦で犠牲になった女子学徒らを慰霊する「ひめゆりの塔」の展示説明に難癖をつけた。「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆりの隊が死ぬことになった。米国が入ってきて沖縄が解放されたとの文脈で書いている。歴史を書き換えられるとこうなる」。指摘した展示内容は過去も現在も存在しない。明らかに事実誤認に基づく妄言だが、本人は発言の撤回を拒否している。しかも、西田氏が吹いた歴史改ざんの犬笛に応え、参政党の神谷代表は「日本軍が沖縄の人たちを殺したわけではない」と擁護。一面だけをとらえ、すべてを否定する手口だ。現場に答えがある。6月23日は沖縄で迎えることに。 (矢)
4月12日(土)
大阪・関西万博開幕を翌日に控え、シンポジウム「万博のツケはだれが払う」(大阪の未来をつくる市民ネットワーク主催)が午後、大阪私学会館で開かれ、「大阪・関西万博の『失敗』の本質」(ちくま書房)の著者5人が出演。2部で矢野が司会を務める。
栗原 午前、東京。竹内良男さんが主宰する「ヒロシマ講座」学習会が杉並区で開かれ、南西シフトについて話す。夜、帰阪。
4月13日(日)
矢野 午後、平和学習を支える証言DVD「模擬原爆」の取材で、児童文学「パンプキン~模擬原爆の夏」の著者、令丈ヒロ子さんにインタビュー。
4月15日(火)
矢野 午後、大阪暁光高校の5年一貫看護師課程・看護専攻科4年生61人に社会学の講義。能登半島地震の被災地に入り、取材してきた被災者の思いなどを紹介する。
4月17日(木)
矢野 身内に不幸があり、深夜バスで愛媛県大洲市へ。翌日、葬儀を終えて帰阪。
4月24日(木)
午後、多田一夫さん、柳田充啓さん、長谷川伸治さん、大村和子さん、金川正明さん、康乗真一さんが新聞折り込みチラシ4種類のセット作業のあと、樋口元義さんも駆けつけ、新聞うずみ火5月号の発送作業。郵便局の回収までに間に合い、打ち上げビール。
4月25日(金)
夜、事務所で定岡由紀子弁護士を囲んでの「憲法BAR」。
栗原 午前、空路釜山へ。26、27日は神戸の「むくげの会」主催の「釜山、陜川、晋州への旅」に参加。ソウルを経由し、30日に帰阪。
4月26日(土)
矢野 午後、大阪市生野区の「大阪コリアタウン歴史資料館」で、定岡弁護士と鳥取から来阪したご両親と待ち合わせ。資料館スタッフの金順玉(キム・スノク)さんに説明してもらう。
4月30日(水)
午後、事務所で茶話会。「自分の意思で統制できる姿でありたい」と抗がん剤治療を止めた小泉雄一さんが前回に続いて参加、宇治忠さん、堀田直樹さん、遠上行子さん、久しぶりに参加してくれた大矢和枝さんと歓談。「やっぱり茶話会はいいですね」
5月1日(木)
矢野 午後、大阪暁光高校・看護専攻科4年生の社会学講義。大阪大空襲について話す。
5月2日(金)
矢野 夜、マッコリを持って来社したMBS記者の亘佐和子さんと10日の大阪城戦跡探訪の打ち合わせ。
5月4日(日)
今年創刊20年を迎える新聞うずみ火。読者の間で「祝う会」が発足。新井信芳さんの「グランマ号」で打ち合わせを兼ねた飲み会。「自民党を超える政治資金パーティを」との矢野の提案は却下される。
5月5日(祝・月)
矢野、栗原 午後、阿倍野市民学習センターで開催中の「アジアから問われる日本の戦争」展へ。「ノーモア沖縄戦えひめの会」運営委員の高井弘之さんの講演を聞く。
5月6日(祝・火)
矢野 午後、西日本出版社の内山正之さんと打ち合わせ。
栗原 午後、北区民センターで開かれた「沖縄ドローンプロジェクト」の奥間政則さんの講演会へ。
5月8日(木)
矢野 午後、大阪暁光高校看護専攻科の社会学講義。うずみ火制作の証言DVD「語り継ぐ大阪大空襲」を上映。
5月10日(土)
午後、大阪城戦跡探訪。JR京橋駅南口にある爆撃被災者慰霊碑前に集合し、大阪砲兵工廠水門、旧化学分析場などを回る。中国の獅子像について「大阪城狛犬会」の山橋宏和さんが解説。
5月11日(日)
矢野、栗原 午後、大阪市中央区のターネンビルで、昨年12月に亡くなった「中野雅司さんを偲ぶ会」。
5月14日(水)
矢野 午後、滋賀県湖南市で開かれた「第313回びわこ南部地域人権啓発連続講座」で、「戦後80年の今、私たちが受け継ぐもの」と題して講演。西田昌司参院議員の「ひめゆり発言」を斬る。
・6月22日、沖縄フィールドワーク
沖縄戦跡をめぐるフィールドワークは6月22日(日)午後からスタート。今年も沖縄戦・戦後史研究者で琉球大准教授の謝花直美さんの案内で、激戦地の一つ「161.8高地陣地」や「運玉森」(うんたまむい)などを訪ねます(10、11面参照)。
また、中城(ながぐすく)城跡、かつて沖縄を走っていた軽便鉄道の与那原駅舎にも足を延ばす予定で、フィールドワーク後に懇親会を予定しています。翌23日は沖縄慰霊の日。原則自由行動ですが、糸満市の平和祈念公園などの慰霊祭に参列する予定です。
集合時間や場所の連絡、ジャンボタクシーの手配などもありますので、参加希望者は事前にうずみ火事務所までお知らせください。
・8月2日、被爆者の千葉孝子さん講演
広島原爆の日からまもなく80年。3歳の時に被爆した千葉孝子さんを講師に迎え、「核兵器廃絶へ 被爆者として生きて80年」と題して講演してもらいます。千葉さんは、兵庫県原爆被害者団体協議会理事長として被爆者の救済に奔走した母の遺志を受け継ぎ、現在、芦屋市原爆被害者の会会長として国内外の平和運動に参加しています。
【日時】8月2日(土)午後2時半~4時半
【会場】大阪市北区のPLP会館
【資料代】1200円(読者1000円)
・7月26日、黒田清さんを偲ぶ会
コント集団「ザ・ニュースペーパー」結成時のメンバーの松崎菊也さんと石倉直樹さんによる「黒田清さんを偲び、平和を考えるライブ」が7月26日(土)午後2時半~大阪府豊中市の「すてっぷホール」で。2人の風刺トーク&コントを心ゆくまでお楽しみ下さい。
当日会場でお配りするパンフレットの「一言広告」(1マス3000円~)、カンパを募集しています。今月号に郵便振込用紙を同封させていただきました。物価高の時代に心苦しいのですが、無理のない範囲でご協力いただけると幸いです。
菊さんからのメッセージです。
「今年もまたうずみ火読者のみなさんとお会いできる夏がやって来ます。いつの間にか黒田清さんとの思い出を紡ぐ夏から、黒田さんの心を継ぐ矢野さんや栗原さん、豊中のステージのために汗をかいてくださるお仲間との『想いを紡ぐ夏』に変わって来たのを感じます。ゴミを埋めた夢洲を自慢する一部権力の傲慢や横暴を怒り戒める思いを、今年もみなさんと。7月26日が、ああ待ち遠しい!」
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