新聞うずみ火 最新号

2020年5月号(NO.187)

  • 1面~5面 大阪 すでに医療崩壊 緩和と場当たり 感染拡大(うずみ火編集部)

    新型コロナウイルスが猛威を振るう大阪。「まん延防止等重点措置」が適用されて2週間、吉村洋文府知事は4月20日、「医療が極めてひっ迫している」と政府に3度目の緊急事態宣言発令を要請した。大阪の1日当たりの新規感染者数は連日1000人超。重症病床はあふれ返り、医療現場からは「すでに医療崩壊だ」と悲鳴が上がる。

    「ひっ迫なんてものではなく、大阪の医療はすでに崩壊しています」

    大阪市西淀川区にある西淀病院の大島民旗(たみき)副院長はそう強調する。

    4月21日の府内の新規感染者数は1242人と過去最多を更新した。死者は20人。重症患者数は317人。府内の重症病床259床では足りず、実質的な病床使用率は122・4%となった。重症患者60人は軽症・中等症病床で治療を受けており、その軽症・中等症病床数の使用率も8割に迫っている。

    大島副院長は大阪民主医療機関連合会(大阪民医連)の会長。加盟する西淀病院など府内4病院と連名で15日、吉村知事と松井一郎・大阪市長に「過去最悪の感染状況を直視し、速やかに感染抑制に全力を挙げてほしい」と緊急声明を出した。

    「大阪のコロナ患者の死亡率は2%で、1日1000人の感染者が発生することはのちに1日20人の命が奪われることを意味しており、治療可能なベッドがなければ、死亡率は比較にならないほど上昇する。19日まで判断を待つことはピークを遅らせることでしかない」     

    大阪では変異株の影響もあり重症者が急増している。

    しかし吉村知事は「19日からの週の様子を見てから」と緊急事態宣言についての態度を保留、20日になって政府に発令を要請した。菅首相の判断は23日で、期間は26日~5月9日までが有力だという。危機感を強めた大島副院長らは21日付で「医療体制は限界を超えている」とする異例のメッセージを発した。

    「医療の現場はすでに第3波の時とは比べ物にならない最悪の状況。調子が悪ければ病院にかかれる、動けないほどしんどくなれば救急車が運んでくれる当たり前の医療が保障できなくなっている」「変異株はより早く重症化しやすく年齢層も若い傾向があり、30代で人工呼吸管理になる人もいる。お父さんお母さん世代の何人かがこのウイルスによって命を奪われる」

    そして感染者増加に歯止めをかけるために「普段一緒に住んでいる人以外との会食は時間帯に関係なく避けてほしい」「マスクを外した状態では人と話をしないでほしい」「手指消毒を徹底して」と挙げ、事業所には在宅ワークの推進を呼びかけた。切迫した状況を映す現場からの「自衛」の警告だった。

    西淀病院は218床中規模病院で「2次救急医療機関」。府の要請を受けて2月からコロナ病床を1床設けた。しかし3人の陽性患者が入院し、1人は重症。コロナ患者の受け入れ先を調整する府の「入院フォローアップセンター」に転院先を探すよう依頼しているが、めどが立たないという。発熱外来も設置しているが、1日12~20人の枠を超える患者に対応せざるを得ず、PCR検査の陽性率も20%を超えている。
     
    声明に名を連ねた他の病院も綱渡りが続く。耳原総合病院(堺市堺区)は386床のうち5床でコロナ患者を受け入れているが、4月14日現在で陽性患者5人、コロナと疑われる患者6人が入院している。うち1人は重症化しているが、転送先は見つからない。コープおおさか病院(大阪市鶴見区)は166床の小規模病院だが、発熱患者が連日押し寄せ、陽性者も数多く確認されている。コロナ受け入れ病院ではないにもかかわらず救急隊から陽性患者の受け入れ要請があるという。東大阪生協病院(東大阪市)では発熱外来の4月の陽性率が21%に。99床の小規模病院で、汚染されている区域と汚染されていない区域の区分けも困難だが、中等症患者の転院先がなかなか見つからず保健所から受け入れを強く要請されたという。
     
    各病院の状況は日々深刻化、「肺炎で入院治療が必要な人が自宅待機となり意識がなくなる寸前になった」「搬送先がなく消防署で一夜を過ごす」という事態も起きているという。
     
    大阪は昨年秋から冬にかけての第3波で死者が突出。1月13日に緊急事態宣言が発令されたが、感染者数が減少してくると吉村知事は「緊急事態宣言は短期に集中してやるべきだ。だらだら続けるものじゃない」と主張。宣言の解除を要請するため独自の基準を設定した。「新規感染者数の直近1週間平均が300人以下か、重症病床使用率60%未満」のいずれかという低いハードル。結果的に1週間早めて2月28日に解除され、府全域での時短営業要請を大阪市だけに絞った。
     
    大島副院長は当時、「火事がまだ燃えているところに油を注ぐようなものだ」と反対、解除基準の見直しを求めてインターネット署名を実施した。不十分な感染抑制での解除は短期間でさらなる感染爆発を分の食料が届いた。
     
    患者と確定され既往症や治療歴、喫煙の有無などの聞き取りを受けた。その後毎日、電話で病状確認があった。咳や倦怠感、息切れの有無、睡眠の状態などを聞かれ、体温と血中酸素飽和度を確認するというものだった。不安なのは、急変する可能性があるにもかかわらず、医師の診察を受けられないことだったという。「コロナ患者に主治医はつきません。自助なんです。コロナが広がって1年も経っているのに」

    岡本さんは友人の医師や教え子の看護師らに数値を日々報告、アドバイスに助けられたという。とにかく特効薬もない。玉ねぎスライスを枕元に置くと咳に効くとも教えられ、実践したこともあった。
     
    いまは自宅で静養中。気がかりは後遺症だ。肺の状態を確認しなければリハビリもできないため、診断書をもらおうと病院に問い合わせると、陰性確認の検査に4万4千円かかる施設もあった。療養終了時のPCR検査はない。
     
    大阪では3月以降、自宅療養者や入院待機者が少なくとも8人亡くなったという。
    ……
          

  • 6面~7面 ミャンマー人留学生の困窮(矢野宏)

    新型コロナウイルスの影響で、外国人留学生の困窮が続いている。在留資格で許されたアルバイトが見つからず、日々の食べ物にも事欠く人も。とりわけ、ミャンマー人留学生に追い打ちをかけたのが母国でのクーデター。家族との連絡も取れなくなり、仕送りが途絶えて経済的に追い詰められる留学生も少なくない。 

    「コロナで、生活とても大変です」

    神戸市の日本語学校に通う留学生ミュウさん(26、仮名)が切り出した。
     
    ミャンマー最大都市ヤンゴンでIT関係の仕事をしていたが、より高い技術を習得するため、現地で日本語を学んで日本語検定3級を取得し、昨年11月に来日した。
     
    彼女の留学のために家族が肩代わりした借金は約80万円。日本語学校の半期分の授業料や往復の飛行機代、入国後2週間の隔離生活の費用5万円が含まれていた。
     
    それでも、「ミャンマーで仕事ありません。将来のため、日本にはチャンスあると思いました」
     
    夢と希望を胸に降り立った日本はコロナ禍の真っただ中だった。国と国の行き来ができず、飲食店などが時短営業のあおりを受けて、アルバイト収入が半減した留学生も少なくない。ミュウさん自身、ミャンマー人の先輩らを頼ってアルバイトを探したが、なかなか見つからなかった。
     
    留学生は週28時間までの就労が認められている。1カ月で十数万円のバイト代から学費や家賃、食費、携帯電話代などをまかなう。中には食事を切り詰め、家族に送金する留学生もいる。
     
    ミュウさんの住まいは長田区にあるアパートの一室。ワンフロアに2段ベッドが4台あるだけ。日本語学校に通うミャンマー人留学生7人とシェアして出費を抑えているが、1人2万8000円。ミュウさんは、家族からの仕送りや友人らに借金して急場をしのいだという。
     
    友人に携帯電話の工場を紹介されたのは年が改まってから。黙々と部品を組み立てる単純作業で、労働者のほとんどが外国人留学生だった。ミュウさんは少しでも時給が高い方をと夜勤を希望する。週に3日ほど、午後8時から翌朝5時半まで働いて時給は1250円。片道1時間かけてのバス通勤もきついという。
     
    「仕事を終えて帰り、3時間ほど寝て学校へ行きます。とても眠いです。他の仕事に代わりたいけど、コロナで仕事ない」
     
    食事を切り詰め、1日2食。コンビニのおにぎりやカップ麺が多いという。
     
    長田区を拠点に在日ミャンマー人を支援するボランティア団体「ミャンマー関西」には、ミュウさんと同じような境遇の留学生からの相談が相次いでいる。代表の楢原信男さん(69)には忘れられない出来事がある。
     
    昨年4月末、神戸在住のミャンマー人から連絡が入った。「18人のミャンマー青年が日本語学校に留学するために来日したが、食べる物にも困っている。助けてほしい」
     
    18人もの支援が可能だろうか……一瞬不安がよぎったが、見捨てるわけにはいかない。
     
    食糧支援を呼びかけたところ、淡路島の農家が米300㌔の米と食材をトラックに積んで駆けつけてくれた。カンパもたくさん集まり、企業や団体からも食料や緊急援助が寄せられた。集まった食材やカンパをミャンマー人留学生らに配り、アルバイト探しにも奔走した。18人全員の仕事が決まったのは8月末だったという。
     
    「このコロナ不況でいつバイトがなくなるかわかりません。それに真っ先にクビを切られるのは彼らですから。日々の食事にも事欠く留学生も増えています」
     
    楢原さんはため息をつく。
     
    コロナ不況に加え、ミャンマー人留学生に追い打ちをかけたのが2月1日にミャンマーで起きたクーデターだ。「ミャンマー民主化の象徴」とされたアウン・サン・スー・チー氏らが拘束され、釈放を求めるデモ隊と治安部隊との間で激しい衝突が起きている。治安部隊が抑え込みを強め、発砲などで700人以上(4月15日現在)が死亡したと報じられている。
     
    こうした事態に心を痛める日本で暮らすミャンマー人たちから母国を案じる声が上がっている。
     
    クーデターから1カ月後、西日本の各地に住むミャンマー人ら400人が神戸市中央区の公園に集まり、抗議集会を開いた。参加者は独裁への抵抗を意味する三本指を突き出すポーズを取り、「独裁をゆるさないぞ」「アウン・サン・スー・チー氏を釈放しろ」とシュプレヒコールを上げた。
     
    その中にミュウさんの姿もあった。「ミャンマーの人たちが殺されています。軍隊は悪い。許せなかった」
     
    国軍は戒厳令を出し、携帯電話のデータ通信を遮断。ミュウさんもミャンマーで暮らす家族と連絡が取りにくくなっているという。
    ……

  • 8面~9面 袴田事件支援集会 55年前の取調室の肉声(粟野仁雄)

    1966年6月30日未明に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で起きた味噌会社の専務一家4人が殺されたいわゆる「袴田事件」。強盗殺人容疑で逮捕された当時30歳の袴田巌さん(85)が静岡県警清水署に取り調べられた際の肉声が4月16日、浜松市で開かれた毎月恒例の「袴田事件がわかる会」で公開され、約30人が「密室」の留置場の真実に聞き入った。
     
    釈放後の「死刑囚」袴田さんが姉の秀子さん(88)と暮らす家のすぐ近くだが、大雨で秀子さんだけが参加した。講演者の浜田寿美男氏(奈良女子大名誉教授)が再審請求審で弁護団に依頼されて鑑定した録音テープである。
     
    袴田さんの取り調べは同年の8月18日から始まる。虚偽自白させるまで20日間に及ぶ取り調べ時間は連日12時間以上という過酷さだ。この時点で警察が証拠としていたものは「犯行時に着ていたパジャマに本人のものではない血がついていた」だけである。実は、科警研の鑑定では血痕が微量すぎて鑑定不可能だったのを無理やり静岡県警の鑑定で「他人の血がついていた」にしてしまった。放火された専務宅近くの寮に住んでいた袴田さんは消火作業中に屋根から落ちて怪我をしていたから少し血がついていた可能性はあった。
     
    主に取り調べたのは松本久次郎警部。袴田さんは「それじゃ、俺がやったって誰が言うの? あんたがただけじゃないの」「あんたがたね、すごい自信もって言ってるけどね」などと言い返していた。しかし、取調官らは「パジャマに他人の血がついている」を錦の御旗に攻める。袴田さんは元プロボクサー。「リングに上がって、な、あの勝ち名乗りを受けた時の気持ちになりなさい」と松本警部。「な、男だろ、鑑定書に書いてあれば、お前さんの負け、書いてなけりゃ俺の負けだ」。袴田さんは「はい」と答えるだけ。刑事らは鑑定書を持っているのに賭けごとにしてしまう。
     
    「もうな、謝罪しなさい。な、やってしまった以上、しょうがない。そしてな、自分の頭の中、整理しといて……」
     
    この間、袴田さんはほとんど話していない。取調官の説教話ばかりが延々と続く。
     
    9月4日、取り調べ18日目。袴田さんは疲労困憊だ。深夜になって袴田さんが「すいません。小便行きたいですけどね」という。松本警部は「行きゃいいが」と言いながら行かせようとしない。しばらくして部下が「トイレ行ってきます」というと松本は「便器もってこい」という。部屋に持ち込む音までする。そのうち袴田さんは「出なくなっちゃった」と言い、松本は部下に「ふたしとけ」と言っている。 9月5日には「袴田、泣いてみろ、すっとするぞ」「申し訳なかったと。俺は聞きたいよ」「わかったか、袴田 わかるな 袴田、わかるか、わかるな、言ってることわかるな……」などとくどくなる。
     
    そして9月6日。「自白した」ことになっている20日目だ。午前11時過ぎ、「思い違いしていることもあるんだ。な? よくその甚吉触ったこと思い出してみ。お前さん、な、甚吉触ったことを思い出す。な」。袴田さんは「手ぬぐい」とだけ言い、「うん?」と聞き返す。袴田さんは「確かにあった」。甚吉袋というのは腰からぶら下げて使う分厚い布地の袋。殺された専務は甚吉に小袋で小分けしていたお金を保管していた。松本は「それも話をせにゃ駄目だぞ」などと迫るが、自分から先に甚吉袋と言っておいて「甚吉ってどこで覚えた」としらばっくれる。
     
    しかし取り調べ側も矛盾だらけで、「犯行動機」とされたものはころころ変わった。殺された専務の妻が家を建て直したいので、強盗殺人を装って袴田さんに強盗と放火を持ちかけたということになっていた。甚吉袋は示し合わせていた奥さんが投げてよこしたことになっていた。
     
    それなら、頼まれたはずの奥さんまでなぜ殺してしまうのか。松本警部の「それじゃ、姉さん、おまえ、殺さんでもええじゃないか」に袴田さんは「かあーっとしちゃったんです」と答えているだけだ。これで自白したということにしてしまう。
    ……

  • 10面~11面 ヤマケンのどないなっとんねん 菅・吉村氏の目くらまし(山本健治)

    いよいよ衆議院の解散・総選挙が現実味をおびてきて、国会議員の捨てポスターも目立つようになってきた。普通、自民党議員なら総理・総裁である菅首相とペアのポスターを張り出すものだが、私の地元の議員は河野太郎とのペアポスターを貼っている。菅首相の人気は自民党の中でも落ちているようである。
     
    こういう人気のない首相が人気回復のためにやることは古今東西変わらない。領土紛争を取り上げてナショナリズムをあおったり、外国首脳との会談をセットして国際的に力のある政治家だと思わせようとしたり、ビッグイベントを実施してお祭り騒ぎを演出することである。
     
    安倍前首相は強い日本を取り戻すと叫んで中国・韓国・北朝鮮を敵視する一方で、「地球儀俯瞰外交」と称して120を超える国を訪問し、何兆円もの血税をばらまいてきた。北方領土を取り戻すと叫び、プーチン大統領と仲良くしたものの経済援助をさせられただけで何の成果も上げられなかった。トランプ大統領にへつらって仲の良さを演出し、世界の有力指導者であると演出しようとするなど様々な策を弄したが、すべて失敗。森友・加計・桜を見る会疑惑など政治を私物化し、矜恃を忘れた忖度官僚がそれらの疑惑をごまかす究極の腐敗が誰の目にも明らかになったため、持病の悪化を口実に退陣を余儀なくされたことは周知の通りである。
     
    後を継いだ菅首相は、無派閥・地方出身・苦労人政治家を演出しようとしたものの、コロナ感染防止対策は中途半端で拡大は抑えられないどころか、急拡大し、決め手と言ってきたワクチン確保も遅れ、窮地に陥っている人たちを助ける施策も不十分で、日銀を使って株価をつり上げ、いかにも経済がいい方向に向かっているかのように偽装しているだけで、就任直後はご祝儀相場で高めの支持率だったが、あっという間に急落。総務相を務めていた際に息子を大臣秘書官にし、その息子が辞めた後に就職した衛星放送関係会社をめぐる疑惑や、総務相時に重用していた官僚を内閣広報官に抜擢したが、接待にどっぷりつかっていたことが明らかになるなど、野党が強ければとっくに首相の座を追われ、政権は崩壊していたはずである。
     
    そんな中で何とか支持率を回復させようと、コロナ感染が非常事態と言ってもいいような状況に陥っていて、外国に行っている時かと批判があったにもかかわらず、4月16日にバイデン米大統領と会談するために訪米したが、同大統領が最初に直接会う外国首脳であり、「最初に直接会う」を強調することによって、菅首相がさも重要視されているかのように国民にアピールしようとしているのだが、とにかく支持率を上げたいがための、さもしいパフォーマンスでしかない。
     
    尖閣諸島をめぐって中国を牽制するため、バイデン大統領も日米安保条約第5条を確認したと強調し、中国海警が武器使用を決めたことに対しても対抗するとし、北朝鮮のミサイル発射には敵基地攻撃、先制攻撃も可能だとする流れをつくり、改憲の流れを加速するため、公明、維新、国民民主までまきこんで、今国会で国民投票法改正案を通そうとしているが、新型コロナ感染拡大のどさくさに、安倍前首相の保守強硬路線を進め、政権基盤の強化を図ろうとする以外の何ものでもない。全世代型社会保障改革と称する高齢者の医療費を引き上げも、どさくさまぎれで許しがたい。
     
    発言後、釈明会見をしてうやむやにしたものの、菅政権を支えるはずの二階自民党幹事長もがコロナ感染の急拡大を考えると、東京オリンピック・パラリンピックの中止を決断することも選択肢の一つだと言わざるをえなくなっているにもかかわらず、開催すれば間違いなく最大の感染の場になると指摘されているにもかかわらず、何が何でも開催しようとするのはお祭り騒ぎをつくりだし、国民の目がそちらに向いている間に政権が抱える疑惑と問題をごまかすためであることが明らかになっただろう。
    ……

  • 12面~13面 世界で平和を考える 馬毛島取材報告①(西谷文和)

    2月3日、鹿児島県種子島に飛んだ。鹿児島空港まではジェット機、そこからはプロペラ機で種子島空港まで行くのだが、大阪・伊丹空港はがらんとした体育館の様相。掲示板には「欠航」の文字が並ぶ。「これはひどい。JALもANAも潰れるかも」。思わず出たつぶやきとともに、アベ・スガ政治の失政の数々を思い出す。貧弱なコロナ対策のまま「観光業を救う」=「実際は二階俊博幹事長の利権」で、Go To トラベルにこだわった結果、感染者が急拡大。国民も医療、旅行業界もみんな苦しむという図式。アベスガならぬスカスカ飛行機を降りると「馬毛島への米軍施設に反対する市民・団体連絡会」会長の三宅公人さんが待っていてくれた。
     
    馬毛島は種子島の西10㌔に浮かぶ無人島。ここに米軍のFCLP(タッチアンドゴー)訓練施設が建設されようとしている。現在、米軍の戦闘機は岩国基地から1400㌔離れた硫黄島で訓練を行っているが、「もっと近いところで」という米軍の要望に応えた日本政府が、岩国から400㌔の馬毛島に目をつけた。かつては人が住んでいたが、利権の匂いを嗅ぎつけた立石建設が島を購入。タストンエアポートという子会社を作り、木々を伐採して2本の滑走路を建設。島は「日本版スペースシャトルの着陸場」や「核燃料廃棄物の最終処分地」などの候補になるが、いずれも頓挫。最終的にタッチアンドゴー訓練施設となり、政府が購入してしまったのだ。
     
    「2011年6月、日米安全保障協議委員会、いわゆる2プラス2で馬毛島が正式に候補地になったんです。私たちは市民の3分の2を超える反対署名を集めました。でも防衛省はあきらめなかった。タストン社と極秘に買収交渉を進めながら、基地交付金というアメをちらつかせて住民を切り崩していきました。19年4月、2プラス2で馬毛島は候補地から建設地になり、私たち反対派も危機感を強めて『米軍施設に反対する市民・団体連絡会』を再結成し、30万筆を超える反対署名を集めて防衛省に提出しました」。三宅さんが最近の動向について解説してくれる。
     
    反対派の日高薫さんは馬毛島生まれ。今は無人島になったが、廃屋となった自宅、島で学んだ学校、釣りをした港、泳いだ海は日高さんの故郷だ。明日、漁船里美丸で馬毛島まで行ってくれるという。
     
    翌4日午前10時、種子島漁港を出発した里美丸は真っ直ぐ西へと進路を取った。「今日は波が静かです。この時期は荒れることが多くて。西谷さんの貸切みたいな海ですね」
     
    赤い宇宙ロケット型の灯台を超えると外海。「あれが馬毛島ですよ」。大海原に赤いビルのような建物が見える。昨年12月21日、反対住民の声を押し切って防衛省は海底の地質調査を始めた。
     
    約50分の船旅で馬毛島に到着。無人島なのにマンションのようなビルが建っている。「タストン社が建てたんです。滑走路建設の作業員用として。それが今や反対派住民を追い払う見張り小屋になっています」。清水さんの言葉通り、ビルから2名の作業員が出てきて、こちらをじっと見ている。1人は携帯で話し始めた。彼らはタストン本社と防衛省に通告し、私たちを蹴散らす旨の報告をしていたのだろう。大きなボーリング調査船の横をすり抜けて馬毛島に上陸。
     
    「そがんことすんなよ!ボーリング調査」「馬毛島は漁業の島、宝の島」などの看板の中に「ここは塰泊浦の共有入会地です」という看板が立っている。「あまどまりうら、と読みます。馬毛島の99%はタストン社の私有地だったのですが、1%だけ、この場所だけが漁師の入会地なんです」。だから彼らはこの看板を取り外せないのだ。タストン社の見張りがこちらをにらんでいる。「ご苦労さま。今日はいい天気ねー」。三宅さんの妻悦子さんが愛想よく見張りたちに声をかけるが、返答なし。
    見張りに構わず、島の内部を目指して歩き出すと、「そこから先は私有地です。入れませんよ」。見張りが飛んでくる。見張りを無視して中に入れば「不法侵入罪」で訴えてくるだろう。仕方ない、滑走路の撮影はあきらめよう。
     
    入会地の背後に巨大な重機が放置されている。立石建設と大書された文字に赤茶けて錆びついた巨大重機。森林伐採の後に、このブルドーザーで整地作業をしたのだ。ビデオカメラを回しながら重機に近づいていくと、さっきの見張りが血相変えて飛んでくる。「ダメダメ、入っちゃダメ」。両手を広げて撮影妨害。「あのビルに住んでいるのですか?電気も水道もなくて大変でしょう?」。撮影しながら声をかけるが、タバコをふかすだけ。

    日高さんの好意で、帰りは馬毛島を一周してから種子島漁港へという航路になった。海からの馬毛島は緑と黄色のツートンカラー。タストン社が違法に森林伐採を繰り返し、滑走路にした土地が黄色。その他はマゲシカが棲む豊かな森。大量の木々を根っこから切り倒し、汚れた土砂が海中に流れたため、漁場が荒れてしまった。日高さんら漁師はその補償を求めてタストン社と裁判中である。 (次号に続く)

  • 14面~15面 フクシマ後の原子力 海洋放出は風評被害か(高橋宏)

    2013年9月、安倍晋三首相(当時)は東京五輪招致に向けた国際オリンピック委員会(IOC)総会の場で、福島第一原発の状況は「アンダーコントロール」と語った。その後、誘致に成功した東京五輪は、新型コロナウイルスの影響で1年延期となったものの、3月25日に聖火リレーが福島県をスタートし、7月に予定通り開催されようとしている。新型コロナウイルスの猛威は衰えることがなく、4月に入ってから「第4波」と言える感染爆発状態となり、頼みの綱であるワクチン接種も思うように進まない中で、開催を強行するつもりなのだろうか。
     
    誰もが開催を不安視しているはずだが、4月13日に菅義偉政権はとんでもない方針を発表した。福島第一原発の敷地内にたまり続ける放射能汚染水について、海洋放出することを決めたのだ。タンク内の汚染水を再び浄化処理し、海水で薄めて海に流すという。菅首相は「アンダーコントロール」と矛盾しないと強弁するが、海洋放出はもはや事故処理をコントロールできなくなったと公言しているに等しい。
     
    福島第一原発では事故後、溶け落ちた核燃料(デブリ)を冷却しているが、高濃度の放射性物質を含む水に地下水などが加わり、汚染水は現在でも1日平均170㌧のペースで増え続けている。それを汲み上げ、多核種除去設備(ALPS)で処理し、敷地内のタンクに貯蔵してきた。この10年で1000基余りのタンクが設けられてきたが、東京電力によると23年初頭までにいっぱいとなる見通しだという。
     
    政府や多くのマスメディアは汚染水を「処理水」と呼んでいる。ALPSで大方の放射性物質は取り除けるとされるが、トリチウムだけは残るため汚染水を「トリチウム水」と呼ぶ場合もある。だが実際は、処理能力よりも処理量を優先して稼働させてきた結果、タンク内の水の7割で、トリチウム以外の放射性物質の濃度が「国の放出基準」を超えているのだ。海洋放出されようとしているものは、処理水でもトリチウム水でもなく、紛れもない「汚染水」であることを、私たちは認識しておく必要がある。
     
    実は汚染水の海洋放出は、事故直後から検討されていた「既定路線」だった。しかし、海洋放出で真っ先に影響を受ける漁業者の猛反対があって、結論は先送りされ続けてきた。海洋放出の方針決定前の4月7日、菅首相は全国漁業協同組合連合会(全漁連)の岸宏会長と会談し理解を求めている。だが、岸会長は「放出に反対という姿勢は変わらない」と伝えていた。その約1週間後に、海洋放出を決定したのだ。
     
    原発事故直後から、特に福島県の漁業者は苦難の連続だった。津波で多くの施設が破壊された上に、放射能汚染との闘いを余儀なくされてきたからである。魚価が下落し、常に汚染の不安にさいなまれながら、水揚げ量を制限しモニタリングを徹底する試験操業を続けてきた。事故後10年をかけて魚価の水準を上げ、この3月にようやく本格操業に向けて動き出した矢先であった。
     
    東電は15年、汚染水の処分をめぐり福島県漁連と「関係者へ丁寧に説明し、理解なしにはいかなる処分もしない」と約束していた。しかし、これまでに丁寧な説明は一度もされず、当然理解も得られてはいなかったのだ。にもかかわらず、海洋放出を決定した政府と東電が漁業者に発したメッセージは「風評被害対策を徹底する」のみである。
     
    しかし、海洋放出で再び漁業が打撃を受けるのは「風評被害」なのであろうか。風評被害の意味は「根拠のない噂のために受ける被害」である。原発事故をめぐって頻繁に「風評被害」という言葉が使われるが、その程度にかかわらず放射能汚染は間違いなく実害だ。国や電力会社によれば、安全性が確認されているものを危険視することが「根拠のない噂」ということになる。だが、安全性の拠り所とする国際原子力機関(IAEA)の基準値は、あくまでも「原発を稼働させるため」に定められたものであることを忘れてはならない。
     
    原発をはじめとした原子力施設は、運転すればどうしても環境中に放射性物質を放出せざるを得ない。トリチウムも、ほとんどの原発は海や大気に放出して運転を続けてきたのだ。海洋放出にあたって「国が定めた放出基準の40分の1を下回るように薄める」とされており、問題がないと受け止める人が多いかもしれない。海洋放出について韓国が強い懸念を示すと「韓国の主要原発である月城原発は16年に液体約17兆ベクレル、気体約119兆ベクレルのトリチウムを放出した」といった情報が強調される。
     
    通常運転で大量の放射性物質を放出せざるを得ない原発そのものの是非も、もちろん問われなければならない。だが、放出を「コントロール」できる汚染水を、どこの原発でも出していて、基準をさらに厳しくしているのだから問題ないとするのは大きな誤りだ。どんなに薄めようが、最終的な総量は変わらないことにも、私たちは注意を払わねばならない。
     
    菅首相は海洋放出を「福島の復興に避けて通れない、先送りできない課題だ」とした。だが、漁業の復興はどうなるのだろうか。10年間の努力を振り出しに戻すような決定について、国は漁業者の理解を求めるとしているが、その内容は明らかではない。海洋放出の開始は2年後というが、来年度に貯蔵タンクが満杯になるはずではなかったか。その矛盾についても明確な説明はない。「海洋放出が現実的」というが、それ以外の選択肢は本当にないのか。
     
    私には、海洋放出ありきの「既定路線」に沿って、ゴリ押ししているようにしか見えない。それは、新型コロナウイルスに人々があえぐ中で、開催ありきの前提を改めない東京五輪にもぴったり重なる。為政者の暴走こそ「アンダーコントロール」されるべきであろう。

  • 16面 こちらうずみ火編集部 デジタル化法案(矢野宏)

    政府・与党が重要法案の一つと位置づける「デジタル改革関連法案」が衆院を通過し、4月14日から参院で審議入りした。菅首相は参院本会議で「誰もが恩恵を最大限受けることができる世界に遜色のないデジタル社会を実現する」と意義を強調したが、国の監視が強まるのではないかとの懸念はぬぐえない。 

  • 17面 こちらうずみ火編集部 関西生コン事件(栗原佳子)

    セメントやコンクリート業界の労働者でつくる「全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」(以下、関生支部)の組合員ら延べ89人が相次いで威力業務妨害や恐喝容疑などで逮捕された「関西生コン事件」。組合運動を理由とする戦後最大規模の刑事事件を検証しようと、弁護士らでつくる「関西地区生コン支部への不当弾圧に対する闘いを支援する会」(関西生コンを支援する会)が4月18日、大阪市内でシンポジウムを開いた。  

  • 18面 こちらうずみ火編集部 BC級戦犯・李さん死去(栗原佳子)

    第2次世界大戦中、日本軍属として捕虜監視業務に従事し、BC級戦犯として裁かれた在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さんが3月28日、東京都内の病院で死去した。96歳。日本政府に救済と名誉回復を求め続けたが、生きて解決を見る日は来なかった。

  • 19面 こちらうずみ火編集部 映画「夜明け前のうた」(栗原佳子)

    かつて精神障害者を小屋などに隔離した「私宅監置」をテーマにしたドキュメンタリー映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」が大阪、京都、神戸で公開されている。国内では戦後廃止されたが、米占領下の沖縄では本土復帰まで残った。沖縄在住の原義和監督は「国が制度として行った重大な人権侵害。なかったことにせず、社会の問題として向き合ってほしい」と願う。

  • 20面 こちらうずみ火編集部 激戦地土砂(栗原佳子)

    沖縄県名護市辺野古の新基地建設をめぐり、国が激戦地の南部から埋め立て用の土砂調達を計画している問題で、玉城デニー知事は4月16日、開発を計画する業者に対し、自然公園法に基づく「措置命令」を出すと発表した。業者の弁明を聞いたうえで5月14日までに正式決定するという。 この問題では戦没者遺骨収集を続ける市民団体ガマフヤーの具志堅隆松さん(67)が3月にハンストを決行。新基地建設賛成の自民県連、公明県本部も防衛局に抗議、県議会が遺骨が混入した土砂を使わないよう国に求める意見書を全会一致で可決するなど反対の県民世論が高まっている。 そもそもは昨年4月、海域で軟弱地盤の存在が明るみになり、沖縄防衛局が県に設計変更を申請したのが始まり。県外から8割近くを調達してきた土砂を「県内で全量調達可能」とする内容で、7割を糸満市、八重瀬町の「南部地区」から調達するとしている。
     
    業者が開発を計画しているのは糸満市米須の丘陵。「魂魄の塔」に隣接し、一帯は沖縄戦跡国定公園の指定地域。3月18日、業者の開発届を県が受理、知事には30日以内に自然公園法第32条2項に基づく中止命令を出す権限があり、4月16日が期限だった。 

    玉城知事はハンスト中の具志堅さんを激励し、議会でも「県民の心を深く傷つけるもの」と答弁した。しかし、結果は関係機関と遺骨の有無を確認したうえで土砂採取を始めるとする「措置命令」。これが「最大限取りうる行政行為」 で、中止命令は「法制度上の限界がある」とした。  
     
    「賛否以前に人道上の問題だと広く訴えたい」という具志堅さん。6月23日の慰霊の日、糸満市摩文仁でハンストを計画している。

  • 21面 経済ニュースの裏側 ASEAN(羽世田鉱四郎)

    近くて遠いアジアの隣人たち。情報の少ない東南アジアと南アジアの動向に触れてみます。「入門 東南アジア近現代史」(岩崎育夫・講談社現代新書)を参考にしました。
     
    地政学から 大陸部はベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール。島国はインドネシア、フィリピン、ブルネイ、東ティモール。計11カ国。ベトナム、ラオス、ミャンマーは中国に隣接しています。多民族で構成され、言語も様々。インドや中国、交易の影響からラテン文字系なども。宗教も仏教、イスラム教、キリスト教など多彩です。国土の面積は、インドネシアが最大で191万平方㌔、最少はシンガポールの700平方㌔。インドネシア、ミャンマー、タイは、日本(38万平方㌔)より大きく、シンガポールは東京23区に近い面積です。マレーシアから分離した華人の国です。全体の総人口は6億5000万人です(2018年)。
     
    歴史 農業などの土着国家が、欧州の侵略を受け植民地となりました。第2次大戦で日本の侵略を受け、植民地から解放され、自立・混乱に。経済開発を主眼に、軍部主体の独裁国家が多くを占め、今日に至っています。
     
    ASEAN 東南アジア諸国連合の地域共同体です。当初はタイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィ
    リピンの5カ国で構成された反共同盟でした。1975年にベトナム戦争が終結し、ラオス、カンボジア、ベトナムが社会主義体制に。78年にベトナムがカンボジアに侵攻、親中国のポル・ポト政権を倒しました。中国に敵対し、国内の約30万人の華人を追放、カンボジアは自由主義国に。84年にブルネイが独立してASEANに参加、95年ベトナム、97年にミャンマーとラオス、99年はカンボジアが加盟し、現在の枠組みになりました。東ティモールはオブザーバー。独立戦争や内戦が長引いて出遅れたベトナムですが、89年にラオス、カンボジアから撤退し、91年に中国、95年に米国と国交を回復。中国の鄧小平の「改革と解放」にならい、共産党支配のまま、資本主義型の経済開発を目指しています(ドイモイ政策)。先発のASEAN諸国とも協調し、安い労働力を武器に、欧米や東南アジアの先進国から投資を呼び込み、新たな雇用を生み出す目的で工業化を図っています。ミャンマーも社会主義を捨て、中国寄りから欧米との緊密姿勢に転換。いずれも資金や技術を持ち合わせていないことが最大の要因です。
     
    政治は対立・経済は緊密 中国は南シナ海の領有権を主張し、強引な実行支配を強めています。2016年、フィリピンの提訴で、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は中国の主張に国際法上の根拠なしと裁定しました。が、大動脈「海のシルクロード」を生かすため、280の島や岩礁を一方的に「三沙市」と命名し、行政統治化を強行しています。またミャンマー国内で、中国とインド洋を結ぶパイプライン(天然ガス・原油)も開設済みで、高速道路や鉄道の計画もあります。ASEANは政治・安全保障、経済、社会・文化の共同体構築を目指しており、お互いに内政不干渉です。内部で微妙な立場に分かれています。

  • 22面 会えてよかった 屋宜光徳さん⑯(上田康平)

    屋宜さんは「ゼネストの動きは盛
    り上がった。屋良朝苗さんは日本政
    府からゼネストをおさめてくれと説
    得されていたが、(労働組合側の事
    情もあり)屋良さんだけに責任を押
    し付けるのは疑問」

  • 23面 落語でラララ 天災(さとう裕)

    第3波が終わったと思ったら、もう第4波だ。まさに未曽有の大天災。世界中に蔓延した新型コロナウイルス。いったい、いつになったら収束の兆しが見えてくるのか。不安とともに怒りがふつふつ。けど、今回の怒りは厄介だ、持って行き場がない。そんな時に有効(?)なのが「天災」という噺。昔の人の知恵だが、これ参考になるのか、聞いて怒りが収まるか、火に油状態になるか、責任は一切負いませんが、ま、お付き合いを。
     
    ご隠居の家へある男が飛び込んでくる。聞けば、仕事から帰ってきた家で嫁の態度が気に入らんと嫁に手をかけ、仲裁に入った実の母親にも手を上げたという。それに対して一向に反省の色を見せない男に、隠居は紅羅坊(べにらぼう)名丸(なまる)先生のところへ行って話を聞いて来いという。この先生は心学の先生だ。「心学」というのは、今はすたれてしまったが、江戸時代かなり流行った学問だった。
     
    儒学の陽明学も心学と呼ぶ場合があり、区別して石門心学と呼んだが、これは石田梅岩(1685~1744)が京都で始めた。儒教と仏教と神道の教えをミックスして、庶民の生き方を分かり易く説いたもの。
     
    さて、くだんの男、先生の家へ。先生は辛抱、堪忍の心を説くが男は納得しない。そこでたとえ話をして聞く。道を歩いていて丁稚のまく水がかかったらどうする。男、丁稚をなぐる。では、道を歩いていて屋根から瓦が落ちて来て頭にあたったら、どうする。その家へ怒鳴り込む。空き家ならどうだ。家主の家へ怒鳴り込む。では、広い野原を歩いていて、夕立が降ってきたら、どうする。天道に降りて来いと怒鳴る。ほほう、天道は降りてくるかな。相手が天なら仕方ない。そうじゃ。人間あきらめが肝心。丁稚が水をかけたと思うから腹が立つ、天道にかけられたと思えば腹も立たない。
     
    ま、こんな風に短気な男を戒めた。何でも仕方がない、少々のことは諦めろという教えは、江戸時代のお上に逆らえない庶民にとっては、ある種仕方なかっただろうし、一種の処世訓として成り立ったわけだが、現代社会ではどうだろう。相手が人間なら交渉のしようもあるが、相手は疫病だ。だからといって手をこまねいていてよいわけはない。その上、政府の対策もあまりにブザマだ。アベノマスクにGOTOトラベル、頓珍漢な対策を織り交ぜながらそれでもオリパラはやる。聖火リレーも走っている。庶民の自粛疲れもピーク。医療の最前線にいる医療者の方々の疲れは、想像を絶する。飲食関係の自粛要請も、補償がちぐはぐ。
     
    このコロナ、世界中でパンデミックだし、政府の打つ手も限られる。ある程度の自粛、我慢は仕方ないのだろうが、それにしても無能なトップの下で我慢を強いられるのは限界だ。
     
    人間、我慢できることと出来ないことがある。ワクチンを打ってもらうのもお上任せ。それでも、ただただ辛抱しかないのだろうか。

  • 24面 極私的 日本映画興亡史(三谷俊之)

    興行としての活動写真が盛んになると、各地に常設館が設けられた。まず河浦謙一率いる吉沢商店が1903(明治36)年に浅草で見世物小屋「電気館」を改造し、最初の専門映画館とした。その後、大繁盛で館を大きくし、浅草に次々と洋館の映画館をつくっている。一方の横田永之助も大阪に「千日前電気館」を建て、続いて京都の新京極の南と北に両電気館を設けた。ただ、常設館が主要都市に建っても、まだまだ映画興行の主流は巡回上映が続いた。
     欧米のフィルム上映だけではなく、自分たちの手で映画を作りたいという意欲が高くなる。すでに明治33年に「義和団の乱」が起きた時、吉沢商店が柴田常吉を中国に派遣していた。これが海外取材の最初のニュース映画といえる。
     欧米の映画会社にとっても世界各地で勃発する戦争はなによりの素材であり、競って特派員を送った。20世紀は、戦争の世紀であるとともに、映像の世紀でもあった。
     その絶好の対象が明治37年に起きた日露戦争だ。戦争が始まると映画は活気づき、世界のカメラマンが中国東北の戦場に投入された。特に日本人にとっては自国の戦争である。国民の関心は半端ではない。吉沢商店はカメラマンを特派。横田永之助は横田商会の社員を総動員して『戦争活動写真会』を結成。当初は海外映画社のフィルムを入手して興行したが、自らの撮影班を組織し前線に派遣した。戦争の実写フィルムを持って、各地の学校や軍隊などで無料公開し、どこも大盛況だった。
     後ろ盾に軍部があった。プロパガンダとしての映像である。このことによって横田は全国の軍隊を顧客にできた。「日活の社史と現勢」にはこう書かれている。「国家の興廃に係る大戦を深く憂い、自ら率先して国難に応ずべく」「全国民の士気振興と軍事思想普及の徹底」この国士的姿勢もあって、横田は大きな財を成した。
     明治41年、大韓帝国の李垠(イ・ウン)皇太子が韓国統監だった伊藤博文に伴われて来日した。韓国併合の2年前のことだ。韓国内では激しい抵抗があった。皇太子はいわば人質で、殺害されるのではないかと騒然となっていた。その13年前、駐韓公使が軍人や壮士らとともに王宮に侵入、王妃閔妃を惨殺した暴挙の記憶も拭えていなかった。
     伊藤は吉沢商店に、韓国皇太子が日本旅行を楽しんでいる光景を韓国民に見せるために映画製作を要請。次いで横田商会には、伊藤と李王殿下が韓国内を一緒に旅行する記録映画『韓国一周』を依頼している。
     大部の労作『日本映画史』を著した佐藤忠男は、同書のなかで悲憤を抑えながら、次のように記している。
     「日本映画史上、政治権力者が意図的に映画を政治目的に利用した最初の試みである。その後の日本の韓国支配の悲惨さを考えるならば、映画がまず、こんなかたちで政治に利用されたことは極めて残念なことであるといわなければならない」と。

  • 25面 坂崎優子がつぶやく 姓を変えた苦悩

    「坂崎」は旧姓です。結婚して姓が変わりましたが、仕事ではそのまま旧姓を使い続けています。
     
    選択的夫婦別姓は国民の多くが賛成しているにもかかわらず、なかなか導入に至りません。通称の利用範囲を広げればいいという人もいますが、それは根本的な解決にはならないのです。
     
    仕事での通称使用を認める企業も増えてはきましたが、本名が必要な場面がなくなったわけではありません。私は仕事で旧姓を使い続け、通称はあくまでも通称だと思い知らされてきました。資格や免許、保険や年金など公的なものは通称を使用できないからです。
     
    私も事務所に所属している時はまだしも、独立してからは不都合が増えました。取引の相手先に口座を知らせるたびに「本名は○○です」と伝えなければいけません。郵便物も特別な手続きをしなければ、坂崎宛は送り返されてしまいます。
     
    そういうことに嫌気が差して、大学での仕事は本名に戻しました。すると、今度は大学関係者と名刺交換する時など「名前が違うのは……」と説明が必要に。メールもそうです。今は仕事用のアドレスがありますが、かつては本名のものだけだったため、よく「誰からのメールかわからなかった」と言われました。通称を使っても、結局二つの名前を行ったり来たりすることを強いられるのです。
     
    内面的な違和感もあります。結婚当初は新しい名字を呼ばれるたび「誰のこと?」と思いました。好きな人の姓になれたと嬉しく思う人もいますが、私は30年近く経った今でも、旧姓に愛着があります。仕事先で「坂崎」でいられることでバランスが取れました。ある日突然、慣れ親しんだ姓と切り離されるのですから、違和感があるのは当然です。
     
    反対派の意見には「家族の絆や一体感が壊れる」というものもあります。それなら家族が一緒に暮らせない「単身赴任」という働き方の方が問題じゃない? と思います。「子どもの心に悪影響」など子どもを理由にする意見もありますが、いったいどんな悪影響があるのでしょう。子どもの心配をするのなら、姓よりも貧困に目を向けてほしいものです。

    そのほか、「日本の伝統が失われる」というものも。そう思う人はどうぞ同姓を選択して守ってください。この制度はあくまでも選択できるようにするものなのですから。「姓の変更で不都合がある人がいるのだから制度を変える」は至極まっとうな流れです。
     
    結局、反対意見はどれも「夫婦同姓は日本の良さなんだから変えてはいけない」という単なる精神論に思えてきます。そしてそれを、多様な人が生きやすい世の中にするのが仕事である政治家が主導しているという。さらに、反対の立場を表明している人が、男女共同参画大臣というおまけつきです。政治の機能不全は深刻です。
     
    選択的夫婦別姓とどう向き合っているかで、その政治家の資質が見えてきます。困っている国民に目を向けない政治家は必要ありません。そういう面で夫婦別姓は、今後の投票の一つの指針になると思っています。

  • 26面~29面 読者からのお手紙&メール(文責・矢野宏)

    福島県の宝鏡寺で
    まさかのすれ違い

    大阪市 酒徳溢子
     
    新聞うずみ火4月号を読んで、「あら~、矢野さん宝鏡寺にいらしてたんだ」と声が出てしまいました。実は、3月11日の午前中、私も宝鏡寺にいたのです。
     
    2012年から3月11日の前後には福島ツアーに参加しています。東京の「たびせん つなぐ」という小さな旅行会社の企画で、宝鏡寺での「非核の火」の点火式は今回の旅の目玉だったのです。しかし直前になり、予想外の参加者数になるとのことで、私たちツアーの33人は急きょオンラインでの参加ということになったのです。涙をのんでレストランでのZoomによる視聴になりました。
     
    前日には、早川篤雄住職と安斎育郎さんの対談が予定通りに行われました。11日は午前中に非核の火や伝言館を見て、夜からは安斎さんもツアーに合流され、12日の講演会も予定通り。お話はいっぱい聞けました。
     
    しかし、残念だったなぁ。久しくお会いしていない矢野さんに会えたかもしれなかったのに。残念すぎて、メールしてしまいました。
     
    (私が宝鏡寺を最初に訪ねた10日午後、お寺の駐車場に観光バスが止まっており、「早川住職は講演中」とうかがいました。酒徳さんらのツアーのみなさんだったのですね。翌11日は昼過ぎにお寺に入りました。すれ違いでしたね、私も残念)

  • 28面 車イスから思う事 高齢者接種の裏で(佐藤京子)

    2月下旬に「新型コロナウイルスの予防接種についての承諾書」が母の入所する特養ホームから届いた。ようやく高齢者へのワクチン接種が始まるのかと、希望日に丸をつけて返送した。テレビのニュースでは接種の順番が話題になっていた。医療従事者に続き、高齢者や高齢者施設職員になったようだ。通院している病院でまず接種が行われたようで、テレビに何回も流れていた。職員に聞くと、「まず独立行政法人系病院で接種し、データを構築して一般病院へと広げていかないと、もし何か起こった時に問題になるからだろうから、一番も良し悪しなのかなぁ」と言っていた。
     
    それにしても、輸入ワクチンの量が少ない。担当大臣は当初、高齢者や基礎疾患のある人に順番がすぐに回って来るようなことを言っていたが、会見のたびに尻すぼみになってきた。そして、「EUから承認が出なくて輸入出来ないのだから仕方がない」などと話していた。
     
    高齢者向けのワクチンが入荷されたのは、八王子市と世田谷区。八王子市はパソコンでの予約は30分で、電話受け付けは1時間で終了となった。電話がつながったと思ったら予定数に達していた人がたくさんいたことだろう。世田谷区は4月5日に975人分が密かに入荷されて、高齢者施設用として接種が行われたようだが、詳細を公表していない。よくよくメディアを見ると、医療従事者がまだ接種できていない状態で、高齢者向けに接種を行っているということだ。
     
    注射をする側が未接種ということは、万が一コロナに感染していたら拡散させてしまうではないか。高齢者に早く接種しているとアピールする裏にこんなカラクリが隠れているとは思ってもみなかった。なぜ、医療従事者が未接種なのか。高齢者の前にするべきだろう。インタビューを受けている医師は「自分がもし感染していたらと思うと気が気ではない」と不安げだった。
     
    この国の偉い人は、視察で整った環境を見たら満足で、困っている現場には目を向けない。広告費をかけてワクチン接種の啓発をしている。そんなにあおるほど準備は整っていない。きっと、東京オリンピック・パラリンピックに間に合わせたかったのだろう。それが絶望的になって、開き直ったとしか考えられない。国民の命を考えて政治をしてほしいものだ。

  • 30面 うもれ火日誌(矢野宏)

    3月10日(水)
     矢野 朝の新幹線で東京、常磐線に乗り継いで福島県いわき市に入る。東京電力福島第一原発事故で避難を余儀なくされたいわき市民とともに東電と国を訴えた「いわき市の原発避難訴訟」原告団長の伊東達也さんに話を聞く。
     西谷 昼過ぎ、ラジオ関西「ばんばひろふみ・ラジオ・DE・しょ!」に電話出演。
    ……

  • 31面 高槻市民「憲法講演会」(矢野宏)

    本紙連載「ヤマケンのどないなってんねん」の著者、山本健治さんが世話人の「憲法をかってにさせない会」から講演会のお知らせです。「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」(小学館発刊)の著者で11歳の時に広島で被爆した米澤鐵志さん=写真=を講師に迎え、憲法公布75年の5月3日、高槻市で開催します。
     広島に原爆が投下された1945年8月6日。小学5年生だった米澤さんは、爆心から750㍍の路面電車内で母親と一緒に被爆。母は9月に亡くなり、1歳の妹も10月に亡くなります。米澤さんは生死の境をさまよいながらも奇跡的に回復。87歳の今も被爆体験を語るとともに反戦・反核・反原発を訴えています。
     
    ヤマケンさんは「改憲の動きを阻止するためにも米澤さんの被爆体験と不屈の闘いを聞き、改めて決意を強めたいと思います」と呼びかけています。
    【日時】5月3日(月・祝)午後1時半~4時
    【場所】クロスパル高槻5階の視聴覚室(JR高槻駅から徒歩4分)
    【資料代】500円
    【連絡先】051106kenpou-takatsuki@jcom.zaq.ne.jp
     なお、新聞うずみ火では当日、YouTubeでのライブ配信を行います。希望される方は「うずみ火ニュース」のホームページをご覧ください。 http://uzumibinews.com/

  • 32面 特別寄稿 鎌田慧さん ジャーナリズムの抵抗精神脈々と

    縁は不思議、というけれど、「むのたけじ賞」の選考委員、というのをやっていた縁で、大阪で発行されている「新聞うずみ火」の存在を知ることができた。「埋み火」は雪国育ちのわたしにとって、郷愁誘う言葉だ。朝になって、囲炉裏の灰のなかから、貴重な火種を掘り起こす生活は身近なものだった。雌伏10年と言うべきか、春を待つこころ、と言うか。
    ……

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