74年前の6月、大阪は4回の大空襲に見舞われ、街は焼け野原になった。大空襲とは米軍が誇る当時最大の爆撃機B29100機以上来襲した空襲のことで、大阪は8回を数える。特に激しい無差別爆撃だったのが67日の第3次大阪大空襲だった。

午前119分から1時間20分にわたり、来襲した409機のB29が大阪市北東部の都島区や旭区、淀川区、東淀川区、福島区、北区、豊中市などに1㌧爆弾と焼夷弾を投下し、当時世界最強と言われた戦闘機P51ムスタング138機が硫黄島から飛来し逃げ惑う市民を機関銃で狙い撃ちした。この日の死者2759人、重傷者は6682人に上る。

毎年、旭区の城北公園北側にある「千人塚」の前で慰霊法要が行われているが、この日は雨。公園近くの常宣寺で慰霊法要が営まれ、体験者や遺族ら70人が参列した。

黙とうの後、会長の東浦栄一さん(90)が当時の様子を振り返った。

「城北公園に逃げ込んだ人たちも狙い撃ちされ、犠牲者の中には徳島県から軍需工場に学徒動員された女学生もいました。米軍機は低空飛行で木の下に隠れている人を機銃掃射するので、頭を打ち抜かれた人、手足を飛ばされた人など、地獄絵図でした」

放置された身元不明の遺体は千数百体あまり。淀川堤防に運ばれて荼毘に付された。

東浦さんの父親が自宅の庭石に「千人つか」と刻み、敗戦の翌年から慰霊法要を営んだ。父親の死後は、遺志を受け継いだ東浦さんが私財を投じて続けている。

「私も90歳になり、例年通りの慰霊法要を執り行うことがいつまでできるかわかりません」と東浦さんは語り、こう言い添えた。「それでも命ある限り、大阪で起きた戦争の悲劇を後世に人たちに伝えていきたいと思っています」(矢野宏)