「戦争は始めるより終わらせる方が難しい」。

敗戦を翌日に控えた1945年8月14日、終戦前日の大阪大空襲で多くの乗客が犠牲になった「京橋駅空襲」。惨劇から78年になる今年も慰霊塔に手を合わせ、その思いを強くした。3年8カ月に及ぶ戦闘で、犠牲者が急増したのは戦争末期。連合国相手に勝敗はすでに決していたにもかかわらず、もっと早く戦争を終えることができなかったのか。

避けられた空襲を政府自ら引き寄せた二つのターニングポイントがあったと言われている。一つは、44年夏のサイパン島陥落。日本までの距離は2500㌔。主要都市のほとんどがB29爆撃機の行動範囲内となり、焼け野原となった。

二つ目は45年2月の近衛文麿元首相の上奏文。「敗戦はもはや必至。この上は一日も早く戦争を終結すべき」との意見を、昭和天皇は「もう一度、戦果をあげてからでなければ難しい」と受け入れなかった。戦果を求めた戦場は沖縄だった。歴史を語るのに「たら」「れば」は禁句とはいえ、この時、停戦すべく交渉を始めていれば空襲はもちろん、沖縄戦、原爆投下、中国残留孤児などの悲劇は回避されたはずだった。

2025年大阪・関西万博の開幕まで600日を切ったが、建設工事は進んでいない。会場が夢洲だからこそ、資材を運ぶのもアクセス不足で軟弱地盤の難工事になっているため。しかも万博工事は間に合わないと違約金を請求される恐れもあるというからなおさらのこと。維新の松井一郎知事(当時)の思いで万博誘致を決め、会場を夢洲にしたのが原因。立ち止まることも引き返すこともせず、このまま突き進むのか。